精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ)

2010-05-01 11:00:03 | 瞑想
◆『チベット密教の瞑想法』(法蔵館)

日本語で書かれた最初の本格的なゾクチェンに関する口伝の書だという。ゾクチェンとは、「もともとの始まりから純粋で、清らかで、同時に自然状態で完成している原初の境地」。この境地の中にあることをゾクチェン、すなわち大いなる完成と呼ぶ。

この根源的な土台は、無限に溢れる知恵の光に満ちている。それは、もともといっさいの意識現象、いっさいの現象によって歪めらも、汚されもしない純粋で空性だが、単なる空っぽの空虚ではない。この原初的な光の場から、外側から何の力を加えられることもなく、あらゆる方向にむかって無限の力が光となって、絶え間なくあふれだし、また一切の精神現象が生まれてくるのだという。

私自身が強い関心を持つ臨死体験の光の解釈についてもヒントを与えてくれる。死後にあらわれてくる強烈な音や光のヴィジョンは、意識の根源的土台からあらわれてきたものであって、外部の対象ではないという。  

心に実体はない。心の本性=明知は空であるが、そこにはすべての現象を映し出すことのできる潜在状態のポテンシャルが内蔵されているという。

そのもっとも原初的レベルは、純粋波動としての音、そこから派生する「光」、それが5色にすぺスペクトル分光した「光線」の三つのアスペクトを持つ「原初の潜在ポテンシャル」としてあらわれる。  これは、具体的なかたちをもった報身の神々として現出する以前の存在レベルにあたるという。

臨死体験者や覚醒者が出会う光の根源は、ここにあるのかも知れない。「原初的な光の場から無限の力が光となって、絶え間なくあふれだし、また一切の精神現象が生まれてくる」という光の哲学は、私にはとても魅力的である。

さとりへの道―上座仏教の瞑想体験(鈴木一生)

2010-04-30 10:31:37 | 瞑想
◆『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験』(春秋社)

鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味尽きない。

瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。

これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になる。  

この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の、段階的に非常に体系化された修行法が、著者の修行の深まりとともに具体的に描写されている。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。

ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門(ウィリアム・ハート)

2010-04-28 23:15:40 | 瞑想
◆『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』(春秋社)

ヴィパッサナー瞑想が深まることで体験的にどのようなことが起こり、どのようにして解脱に至るのかが、具体的な表現もちりばめて説得力をもって語られている。瞑想をすすめる上で実に参考になる言葉が多かった。何かが腑に落ちた感じ。なぜ、感覚にサティを続けるのか、感覚の観察が、どうして自己の本質を知ることにつながるのか、得心した。

瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と智恵(パンニャー)の訓練が含まれる。精神集中は、「平静さの育成」(サマタ瞑想)とも呼ばれ、智恵の訓練は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー瞑想)とも呼ばれる。

興味深かったのは、サマーディによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られると指摘していることだ。サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はないという。集中は、他の思いや感情を打ち消して何かに集中するのだから、打ち消されたものが押し込まれるのは当然だろう。

私自身が、精神集中は心の抑圧につながる面があるのではないかと、ずっと疑問をもち続けていた。ヴィパッサナー瞑想は抑圧されたものに気付きをもたらす方法だと知って強い共感を抱いていた。 だからゴエンカ氏のこうしう指摘には、やっぱりという感じで共感する。

「真理の正体を見きわめるには、感覚の観察を欠くことができない。‥‥感覚は心とからだの交差点である。‥‥もしも感覚に気づくことがなければ、自己の真実を追求しても不完全で浅薄なものになるだろう。‥‥自己の本質を知り、それに正しく対処するためには、ふだんほとんど感じる取れないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」(P128)

感覚への気づきが深まれば深まるほど、その変化の激しさに気づくようになり、それが徹底すると、おそらく現実は日常的な意識で捉えているのとは全く別の様相を示しはじめるのだ。瞑想でなぜ感覚に注意を集中する必要があるのか。

「からだの各部に生じているさまざなな感覚を観察していると、あるとき、全身に非常に微細で均一な感覚が起こり、それが生まれては消えてゆくのに気づくようになる。その感覚の誕生と生滅はあまりにも速く、まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように感じるだろう。からだのどの部分に注意を向けても、均一で微細な感覚がものすごいスピードで生まれては消えてゆく。一つの考えが心のなかに浮かぶと、それにともなう感覚がからだにも起こる。その感覚が連続として生まれては消える。いまや、心とからだの見かけの堅固さは粉々に打ち砕かれ、物と、心と、心の形成物の、究極の真理を体得することになる。究極の真理、それは超高速で去来する波動、微粒子の振動、それ以上のなにものでもない。」(P170)  

「まるでは波動の流れのように、全身を電気が流れるように」という表現は、気の感覚の表現にも似ているが、一切がそう感じられるのだから非常に徹底したものなのだろう。 微粒子が瞬時に生まれては消えるレベルまで感覚を研ぎ澄ませた時、すべてが変化することをまざまざと実感し、それが実感された時、固定化された自我への幻想も消えるのだろう。感覚のサティの先の方にはこういうレベルがあり、そこでは「自我」という幻想にしがみつくことなど、ありえない。感覚へのサティが、どのようにして悟りにつがなるのか、得心がいったのは、この部分を読んでだった。

ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法(マハーシ長老)

2010-04-27 08:38:26 | 瞑想
◆『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』(国際語学社)

ヴィパッサナー瞑想は、ブッダ以来続けられた原始仏教の瞑想システムで、その技法は完 成しきったものと言われる。ヴィパッサナーとは、あらゆる現象をありのままに観るという意味である。細かいテクニックや強調点の違いから、いくつかの流派があるが、著者であるミャンマーのマハーシ長老は、ヴィパッサナー瞑想を学ぶのに初心者に最適といわれるマハーシ・システムを世界中に広めた。本書は、このマハーシ・システムへの格好の入門書である。

しかし、入門書であると同時にマハーシ長老自身の体験に基づいて非常に高度なレベルま でも見通せるような構成になっており、ヴィパッサナー瞑想の修行書として貴重である。

ところで、『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』でエックハルト・トールは、「大いなる存在」につながる入口を4つ挙げている。

1)インナーボディのエネルギー(気)を感じること。
2)強烈に「いまに在る」こと。
3)思考を止めること。
4)すべてをあるがままに受け入れること。 

トール自身もこの4つを実践するための方法をあげてはいるが、しかし、これはなかなか 難しいことだ。どうすれば寸分のすきもない今に在ることができるか、思考を止めることが できるのか、具体的なとっかかりがないと途方にくれてしまう。  

上の4つのうちの2)3)4)については、ヴィパッサナー瞑想が初心者にも非常に入り やすいとっかかりを提示していると思う。この瞑想法は、日本でも急速に広がりはじめている。

心を開く瞑想レッスン(井上ウィマラ)

2010-04-25 10:25:30 | 瞑想
◆『心を開く瞑想レッスン』(大法輪閣)

ヴィパッサナー瞑想と心理療法の融合。ヴィパッサナー瞑想の側から心理療法的な方法との接点を「瞑想レッスン」として実践する本は初めて読んだ。瞑想は、一人で行う瞑想ばかりでなく、二人で、三人で、あるいはグループで、その関係性を気づきの対象として、関係性を鏡のように気づきの反射として、サポートし合ったり、共鳴しあったりして瞑想をすることが可能だという視点は新鮮だ。

ここに紹介されている瞑想(あるいはワーク)の多くは、著者が西洋人に瞑想を指導するなかでサイコセラピーに出会い、それに刺激されながら考案されたという。また、著者がなぜ曹洞禅で出家し、どのようにしてテーラヴァーダ仏教に出会ったのか、ヴィパッサナー瞑想をどのように修行したのか等、体験が具体的に語られたところは、心に触れてくるものがあった。

微笑みを生きる―「気づき」の瞑想と実践(ティク・ナット・ハン)

2010-04-24 08:05:11 | 瞑想
◆『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』(春秋社)

ティク・ナット・ハンは現代ベトナムが生んだ代表的な仏教指導者である。戦火のベトナムで反戦と被災者救済活動にも力を尽くした実践家でもある。欧米にも敬愛するものが多いという。 

この本の教えの中心は、意識的な呼吸で、呼吸を意識しつつ、日々の生活のひとつひとつの動作に気づいてゆくこと。「吸う」、「吐く」と言いながら、入息を入息として、出息を出息として気づいてゆく。意識的な呼吸は、瞑想室だけではなく、会社でも、家庭でも、電車の中でも、一日中いつでもできる。意識的な呼吸によって思考が減り、体全体がくつろぐという。

「微笑みながら息の観察をします。何をしていてもちょっと仕事をやめて、呼吸を味わいます」と著者はいう。日常活動のなかで意識的な呼吸に戻れば、そのつど、ある心の静けさへと戻る。

瞑想とユング心理学(V・W・オダージンク)

2010-04-09 10:26:16 | 瞑想
◆『瞑想とユング心理学』(創元社)

ユング心理学の立場から禅を中心に瞑想を論じた本だ。瞑想について心理学の立場からこれほど深く追求した本はあまりないだろう。また東洋の瞑想とユング心理学とをきわめて深いレベルで比較考察しているので、瞑想という視点からのユング心理学への道案内にもなっている。

瞑想とは何か、瞑想の深まりの結果導かれる悟りとは何かが、ユング心理学の用語、考え方を通して浮き彫りにされる。 さらに、瞑想・悟りをめぐる根源的な問題が、ユング心理学の立場から論じられている。

たとえば、自我をどう捉えるかという問題。東洋の瞑想は、何の困難もなく自我なしの意識を考えるが、自我があってはじめて心的要素を意識できるのではないかという観点からの考察。 また瞑想によって無意識の中心領域に接近すると、時間と空間が相対化されて「広がりなき偏在」と呼ばれる領域が存在するようになるということが、自己性(セルフ)との関係で論じられる。

さらに臨死体験や瞑想、死に関する夢のなかでも頻出する「光」の体験についても、 ユング心理学の関係で論じられていて興味深い。それは「心が身体を完全に『非実体化』する前の‥‥最後の移行現象」と考えられている。

またユングが、「ある種の東洋的瞑想に匹敵する適切な西洋的技法」として能動的想像の方法を考えていたとし、あまり知られないその方法がある程度詳しく紹介されているのも参考になる。

全体に、ユングの東洋とのかかわりがいかに深かったか、また彼の心理学が、東洋の瞑想法との出会い、葛藤の中でそのように形成されていったもわかり興味深い。

最後に、元型についてのK・ウィルバーの誤解を指摘し、また彼の理論が「高度に抽象的、構造的で、直線的、階層的思考」という西洋的偏向があると批判しているが、これも参考になった。

ぜひもう一度読み直したいと思っている。

『呼吸による癒し』

2008-09-16 09:06:58 | 瞑想
呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想

著者はハーバード大学などで社会心理学などを教えた博士で、クリシュナムルティ、ヴェーダンタ、禅、そしてヴィパッサナー瞑想を30年修行をしたという。

この本は「出息入息に関する気づきの経」(アーナーパーナサティ・スートラ)に基づいて教えるという形をとっている。

あれこれ迷いなが瞑想している今の私にとっては、とてもとても参考になる本だ。本当にことこまかに親切に手取り足取り瞑想を教えてくれている。しかも、たんなるノウハウの本ではない。瞑想を説くことがそのまま深い深い求道の精神と説くことにつながっている。あるいは、瞑想の在り方を説くことが、そのまま生き方へ洞察に繋がっている。

その珠玉の言葉をいくつか拾ってみよう。

「私たちは記憶やさまざまな理想から自分自身についての概念を創造し、そのイメージを保持しようとして疲れ果ててしまいます。最後にその理想のイメージを手放すことができたとき、それは大変な救いとなります。そして私たちはこれまでとは別なことをする豊かなエネルギーを得ます。」(P82)

「『……私以外の全員が集中できている。この心さえさ迷い出さなければ、修行できるのになあ』と自分を責め始めます。でも、そのさ迷ってしまった心を見るのが修行なのです。(中略)ですから優雅に戻ってくることを学ぶのがとても大切になります。格闘するのではなくて、舞うように」(P52)

「恐怖、恐怖から自由になりたいという熱望、心と身体、それらを観察している気づき、その気づきを増進させる意識的な呼吸。私たちはそれらのすべてと共に座ります。  恐怖のような強い感情に関しては、まず最初は自分がどうやって逃げ出そうしているかを観察するのがせいぜいでしょう。それも価値あることです。否認したり、抑圧したり、説明したり、逃げ出したり、空想している自分を観察するのです。これらのことを巻き込まれることなく繰り返し見つめているうちに、心の方が疲れてしまいます。やがてある日――無理にそうすることはできませんが――恐怖が生じても、注意がそれをサッと出迎えて、ひとつになり、恐怖がその花を開くに任せられるようになります。それこそが恐怖が長い間ずっと待ち望んでいたことだったのです。」(P106)

瞑想に迷う時、何回か読むことになるだろう、いや読みたいと思えるような本だ。

『さとりへの道』

2008-09-16 01:37:19 | 瞑想
さとりへの道―上座仏教の瞑想体験

鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味つきない。

瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。

これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になる。この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。段階的に非常に体系化されたヴィパッサナー瞑想の修行法がわかって面白い。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。 

『呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』

2008-09-15 15:59:12 | 瞑想
呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解

パーリ経典・中部に収められている「呼吸による気づきの教え」の解説書。精神分析や心理学、量子力学などの知識とも比較しながら解説することで、ブッダの教えの可能性を現代に甦らせたいとの意図があるという。随所に、心理療法的な視点も織り交ぜながら解説る。

テーラヴァーダ仏教やヴィパッサナー瞑想への入門書が少ないなか、この本は、テーラヴァーダ仏教の初歩的な解説にもなっていて、参考になる。ただ、随所に精神分析や心理療法の知見を参照しながらの論述は、どこまでがテーラヴァーダ仏教の伝統的な教えで、どこからが著者の見解かが、判断しにくいところもあった。テーラヴァーダ仏教やヴィパッサナー瞑想の正統的な考え方を学びたいのなら、不満が残るかもしれない。