精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

『99・9%は仮説』

2007-04-29 14:11:26 | 科学と精神世界の接点
◆『99・9%は仮説』竹内薫(光文社2006年)
去年ベストセラーになっただけのことはある。常識を覆す見方を提示する。固定観念を覆し、科学といえども結局はいつ反証されるかも知れない仮説の集合にすぎないことを分かりやすく説く。このような斬新な見方を、大きめの活字で、気軽に読める親しみやすい語り口で示す。読み終わって「なるほどそうだったのか」と大切なことを学んだという思いを深くする。

取り上げられている事例がまた面白い。次から次へと出てくる。飛行機がなぜ飛ぶのか科学は説明できない。悪名高きロボトミー手術は、当初ノーベル賞まで授与された評価の高い医療技術だった。その評価がいっきに覆るいきさつ。日本人学者のノーベル賞がうわさされていたペンタクォークの発見が疑問視されていく経緯。進化論と知的設計説との関係等、読んでいてあきない。

しかも副題に「思い込みで判断しないための考え方」とあるように、人生や社会を見る態度においても、すべてを仮説としてとらえることがいかに大切か、というとことろまで読者に語りかける。

私自身は、気や臨死体験など、科学の枠組みでは捉えきれない現象に興味をもち、探求してたので、近代科学の枠組みでは説明できない現象には目を閉ざす、ないしは頭から否定するという「常識的」な態度にはつねに不満をもってきた。本書では「大仮説」という考え方も提示し、宇宙を創造する「知的設計者」を仮定する説が真剣な科学論争になっていることも紹介している。

科学にたいしてこのように柔軟な見方が広まれば、精神世界の探求もよりオープンな形で進んでいくだろう。精神世界に関心をもつものも是非読んでおきたい一冊だ。

☆精神世界と心理学に関するこれまでのレビューは、サイト臨死体験・気功・瞑想の「本の世界の旅」をご覧ください。

☆また、Noboruの精神世界書店もご覧ください。

『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』03

2007-04-22 17:15:19 | 瞑想
岸田がヨーロッパ史を見る眼の根底には、なぜヨーロッパがかくも残忍な迫害と略奪の歴史を繰り返してきたのか、という問いがある。これに対する岸田の仮説は主に二つの点が考えられる。一つには、ヨーロッパの白人自身が、かつてアフリカから追われたアルビノ(白子)の子孫だからということ。二つにはキリスト教がヨーロッパに広がる過程での抑圧の問題である。

ここでは、二つ目の仮説に触れてみたい。岸田によれば、ローマ帝国によって支配されたヨーロッパ人たちは、それぞれがもっていた固有の宗教を捨ててキリスト教に改宗していった。しかし、それはローマ帝国の支配に対する屈服の結果であり、彼らはその屈服に関して怒りを抑圧する。

その怒りは、巨大なローマ帝国や自分たち自身に向けることはできないので、「キリストを処刑した」ユダヤ人に向けられるのである。さらに「ユダヤ教徒は伝統的に反ローマ的であったが、そしてイエスも反ローマ的であったが、キリスト教徒は、ユダヤ教の反ローマ的側面をすっかり洗い流し、さらにその一神教的側面をいくらか削ぎ落とし、ローマ人とって無難な新しい形の一神教をつくって、一神教に対するローマ人の敵意と嫌悪をもっぱら一神教の原則に固執するユダヤ教に向けさせて、自らは難を逃れようとしたのではないか。」(続く)

『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』02

2007-04-14 21:50:50 | 心理学全般
この本の中心になるのは、ユダヤ人歴史学者マーティン・バナールの、古代エジプト文明の担い手が黒人であったことを論じた話題の書『黒いアテナ』をめぐる論争である。バナールは、近代において古代ギリシアに対するエジプトとフェニキアの影響が無視されるようになったのは、人種差別主義と反ユダヤ主義のせいだという。ヨーロッパの学者は、四大文明のひとつであるエジプト文明が黒人によって担われていたことを認めたくなく、ましてギリシャ文明に多大な影響を与えたことも認めたくない。ここにすでに根深い偏見があるのだが、バナールは、この偏見を鋭い論証によって切り崩していく。しかし、それに対してヨーロッパの学者から、かなりの反論があり、いまだにその論争は続いている。

岸田は、この論争を取り上げ、両方の意見を紹介しならがどちらに分があるかを、彼の唯幻史観にも触れながら論じていく。私にとっては岸田がこの論争と関連させながら、世界史のいくつかの局面を唯幻史観によって論じているところの方が面白かった。

たとえば第4章の「唯幻史観と『黒いアテナ』」では、東京裁判史観批判は、ヨーロッパ中心史観を批判した『黒いアテナ』のバナールの思想に相通じるとし、ユダヤ民族の運命とキリスト教の成立、ローマ帝国におけるキリスト教の国教化、ユダヤ人差別の深層心理、などを論じている。

最近私は、ユダヤ人問題がヨーロッパ史の影の部分、抑圧された無意識の部分と深く重なり合うらしいことをますます感じるようになっている。したがって岸田のこの辺りの分析は、すでの他でも論じられてはいたが、すこぶる興味深かった。次回詳しく紹介したい。

『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』01

2007-04-08 22:21:14 | 宗教一般
◆岸田秀『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』(新書館、2007年)
岸田秀の唯幻論が、自我は己や己が作りあげた幻想から目覚め得ないということをその理論の前提としていることは、昨日にも書いた。人間は幻想から目覚めることによって成長し、覚醒するいう立場に立つ私としては、この前提に対しては徹底的に批判していきたい。

しかし、精神分析の手法を個々の社会的な問題、集団の心理、歴史の分析に応用した考察は、きわめて興味深く、これまでも彼の多くの本を読み、書評でも取り上げてきた。この本もやはり面白い。

なぜ、面白いのか。著者は彼の「史的唯幻論」を次のよう説明する。「‥‥史的唯物論のように経済的要因とかで歴史が決定されるのではなく、民族や国家などの集団的自我のぶつかり合い――集団的自我を支えるプライドやアイデンティティ、プライドが傷つけられた屈辱、その屈辱を雪ぐ試み、アイデンティティが揺るがされた不安、その不安からの回復など――が歴史の動きを左右する重要な要因であると見なす歴史観である。」

要するに民族や国家を動かす最強の動機は屈辱の克服であるという。それがすべてではないにせよ、確かにそういう面が根深く存在するのは確かであろう。民族や国家を精神分析できるというのである。私は個人的に精神分析や深層心理に関心があり、また歴史も教える立場にあるので、岸田の仮説には強い興味をもつ。

一般的にいっても、民族や国家間の対立の背後に、優越意識やプライドをめぐる心理、劣等意識や屈辱をめぐる怨念などが存在するのは確かだろう。日中、日韓の関係などを考えれば、そういう集団心理の問題が根深く存在するのは容易に想像がつく。そうした集団心理を精神分析的な手法で考察し、歴史を読み解こうとする試みが興味深くないはずはないだろう。

しかもテーマは、ヨーロッパ人の劣等感や屈辱、それと裏腹の優越意識という視点から、ヨーロッパ製の世界史の歪みを明らかにしていこうというものである。そこに近代日本の歴史問題もからめて考察されている。

一神教vs多神教(岸田秀)

2007-04-07 23:11:32 | 宗教一般
◆『一神教vs多神教』(新書館、2002年)

この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。 ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これをユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。

もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出す ことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にでてくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。(かつての小論は、以下を参照のこと→真の「自己」の幸福論

しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明 の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分 だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをともなうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。  

一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ 教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だったために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに 率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。

一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い 者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を 慰める。  

多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し 付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。

ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献 への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。

岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾 にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。 さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服されたヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。

岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気である という。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるというである。だとすれば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいという。

私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり 方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 自我や宗教は必要悪だが、どうせなら多様を許容しうる多神教やそれに基づく自我の方がましだ、というのだ。幻想から目覚める可能性を認めないのが岸田の限界のあのである。