◆『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験
』(春秋社)
鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味尽きない。
瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。
これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になる。
この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の、段階的に非常に体系化された修行法が、著者の修行の深まりとともに具体的に描写されている。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。
鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味尽きない。
瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。
これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になる。
この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の、段階的に非常に体系化された修行法が、著者の修行の深まりとともに具体的に描写されている。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。