精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

『心理療法としての仏教』

2008-09-15 10:41:15 | 瞑想
心理療法としての仏教―禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ

仏教および瞑想、禅などを心理学や心理療法の観点から捉えなおすという試みは、欧米諸国では盛んになされ、私自身も深い関心をもってそうした視点から人間性心理学やトランスパーソナル心理学を学んできた。

この本は、理論面で新たな貢献がある分けではないが、日本の研究者によるその数少ない取り組みとして貴重であり、後半部で瞑想と心理療法を実践的な視点から比較し、両者の実践上の問題を議論する部分から学ぶところが多かった。

もちろん著者は、瞑想が通常の心理的な治療を超えた深さをもつゆえに適用を間違えば深刻な問題を引き起こす場合もあることを指摘する。その上で「瞑想的実践や現代心理療法に現代人の強い関心が集まっているのは、私たちが集合的規模でここの内面の探求を行い、それをただ自身の治癒に役立てようとするだでけではなく、訪れてきた大きな時代の波を乗り切り、その先の時代を歩むために心を成長させる必要性を強く感じているかからではないだろうか」というような広い視野からの考察も行っている。

『覚醒へのネットワーク』上田紀行(講談社1997年)(3)

2007-08-15 20:35:28 | 瞑想
国家という暴力、自然破壊の暴力はそれだけで存在しているのではなく、私たちが「殻をかぶった自我」であり、集団としても同様の「殻」をかぶって、他を排除する構造を維持していることの必然的な帰結なのだという。ある集団で問題が起これば、その暴力を放出する別通路を作ろうとする。集団内で生じた対立や暴力をひとつ上のレベルに棚上げし、もっと大きな敵を作ることでそれを正当化して、切り抜ける。「愛国心」によってその場しのぎをするわけである。そして今度は「愛国心」相互の対立が生まれる。

「核兵器」も私たちの外にあるのではなく、「殻をかぶった」私たちのあり方のシンボルだという。大きな国家的な暴力の根源が私たちの中にある。しかし、逆に私たちがその構造に気づき、それに対して行動するならばそこに解決の方向が見えてくる。「殻をかぶった個」やそれに根ざす「殻をかぶった共同性」の排他性を解き放つ方向こそが求められている。

いままでは、現実の社会状況を変革する「社会運動」と自分の内面を見つめ、内面的な成長をめざす「精神世界」は、むしろ対立するものと考えられてきた。しかし、一方には「社会運動」にのめりこみながら、自分の内面の暴力性に気づかずに独善的になっていく「運動病」がある。そして他方には、「精神世界」にのめりこんでそこからなかなか出てこれないとう「セラピー中毒」がある。本当に必要とされるのは、両方の流れを深いところで結びつけ「覚醒のネットワーク」を築いていくことであると筆者はいう。

「学校でのいじめを解決する運動は、私たちのからだを考える医療の運動とも、世界の貧困をなくしていく世界平和の運動とも深くつながっています。『いま、個々で』暴力を止めていく運動は、世界のいたるところで同時に起りつつあります。そして『いのち』のネットワークは、地球上のすべての生きとし生けるものの癒しをいま生み出しつつあるのです。」p237

この本は、筆者が大学院生の時に書き始められ、1989年に出版されたという。この本でやさしい言葉で語りかけられたような、魂の目覚めと社会的な変革とを深く結びつけてネットワークを築いていこうとする動きは、徐々にではあるが日本の社会にも広がっているかに見える。しかし、その動きは、まだまだ大きなうねりにはなっていない。

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『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』03

2007-04-22 17:15:19 | 瞑想
岸田がヨーロッパ史を見る眼の根底には、なぜヨーロッパがかくも残忍な迫害と略奪の歴史を繰り返してきたのか、という問いがある。これに対する岸田の仮説は主に二つの点が考えられる。一つには、ヨーロッパの白人自身が、かつてアフリカから追われたアルビノ(白子)の子孫だからということ。二つにはキリスト教がヨーロッパに広がる過程での抑圧の問題である。

ここでは、二つ目の仮説に触れてみたい。岸田によれば、ローマ帝国によって支配されたヨーロッパ人たちは、それぞれがもっていた固有の宗教を捨ててキリスト教に改宗していった。しかし、それはローマ帝国の支配に対する屈服の結果であり、彼らはその屈服に関して怒りを抑圧する。

その怒りは、巨大なローマ帝国や自分たち自身に向けることはできないので、「キリストを処刑した」ユダヤ人に向けられるのである。さらに「ユダヤ教徒は伝統的に反ローマ的であったが、そしてイエスも反ローマ的であったが、キリスト教徒は、ユダヤ教の反ローマ的側面をすっかり洗い流し、さらにその一神教的側面をいくらか削ぎ落とし、ローマ人とって無難な新しい形の一神教をつくって、一神教に対するローマ人の敵意と嫌悪をもっぱら一神教の原則に固執するユダヤ教に向けさせて、自らは難を逃れようとしたのではないか。」(続く)