奈良のむし探検

奈良に引っ越しました。これまでの「廊下のむし探検」に倣って「奈良のむし探検」としましたが、動物・植物なんでも調べます。

垂仁天皇陵を見に行く

2023-08-31 21:26:40 | 神社・寺・古墳など
奈良散策 第907弾


8月26日の午前中、暑い中を垂仁天皇陵に行ってみました。垂仁天皇陵は近鉄郡山駅から3つ目の尼ケ辻駅のすぐ近くにあります。折角近くにあるのだから一度行ってみようということで行ってみました。



尼ケ辻駅の横には立派な碑が建っていました。「菅原(天満宮、喜光寺)道(從是四町餘)北」と書かれています。カッコ内は小さな字で書いてある部分です。この辺りは古くは菅原という地名で、土師氏という埴輪を作る氏族が住んでいたところです。北西方向に菅原天満宮と喜光寺があります。Google Mapで測ってみると、直線距離で650mほどでした。1町は109mなので、4町は436m。当たらずといえども遠からずというところです。



駅から西へ歩くと、こんな道標がありました。「垂仁天皇陵南二丁」と書かれています。丁は町と同じなので、2丁は218mというところです。





先ほどの道標から南に向かうと左側に「垂仁天皇陵飛地ほ号」という立札がありました。これらは陪塚で、副葬品などを埋納している場所のようです。調べてみると、垂仁天皇陵周辺にはい号からへ号までの6基の陪塚がありました。





ほどなく大きな垂仁天皇陵が見えてきました。





御陵にはダイサギコサギなどが集まっていました。すぐに鳥を撮ってしまいますね。



お濠のすぐ脇に「垂仁天皇菅原・・・」と書かれた石柱が立っていました。「從是西」と書かれているので、お濠の土手の境界を表しているのでしょう。







お濠の中にぽつっと小さな島がありました。これは田道間守(たじまもり)の塚です。田道間守は天日槍(あめのひほこ)の4代目の子孫にあたり、垂仁天皇から「常世(とこよ)の国」から「非時の香果(ときじくのかぐのみ)」を持ってくるように命じられます。「常世の国」は海のかなたの国という意味で、「非時の香果」は橘を指します。しかし、苦労をして手に入れた橘をもって帰ってみると、天皇はすでにお亡くなりになっていました。田道間守は天皇陵にお参りし、泣き叫んで死んでしまいました。それで、田道間守を祀るために塚を作ったようです。



濠の中にも関わらず、塚の前に先ほどと同じ石柱が立っていました。おそらく、先ほどの石柱と結んだ線上に本来の土手があったのでしょう。確かに、垂仁天皇陵のお濠は隅が鍵型に出っ張っています。





お濠の中にホシハジロがいました。渡りそこなったのかもしれません。



お濠のそばには田道間守を偲んで橘が植えられていました。





これがその案内板です。「なら橘プロジェクト」というようです。橘以外にも、ユズ、スダチ、シークワーサー、カラマンシー、フクレみかんなどが植えられているようです。



ほとんど花が咲いていなかったのですが、中に満開になっている木もありました。たいがいは5月ごろに花が咲くのですが、カラマンシーは四季橘と言われて、一年中花が咲き結実するので、それかもしれません。







花と実を撮っておきました。





これはフヨウの花です。



これは拝所への入り口です。





拝所越しに見た垂仁天皇陵です。



この石柱には「垂仁天皇菅原伏見東陵」と書かれていました。



拝所の向かって右側の木は桜でした。



もう一度、垂仁天皇陵を撮ってみました。雲の形が面白いですね。





帰る途中で見つけた花です。Googleレンズで調べると、ナス科のオオセンナリが似ている感じです。



最後はツマグロヒョウモンでした。

雑談)お濠の中に建っている石柱が気になって、帰ってから調べてみました。すると、幕末に文久の修陵という大規模な御陵の修復がなされ、垂仁天皇陵もお濠も大幅に修復されたようです。そのときに拝所などもできたようですが、驚いたことに前方後円墳自体もだいぶ形が変わってしまったようです。これは公武合体で天皇陵を見直す機運が高まったのが原因で、全国的に天皇陵の比定が行われ、大幅な修復がされたようです。考古学的な立場でなく、立派な天皇陵を作ろうということを目指したようで、例えば、円墳だった第9代開化天皇陵が修復により前方後円墳になったりと驚くようなことが行われたようです。(追記2023/09/04:図書館から、外池ほか、「文久山稜図」(新人物往来社、2005)を借りてきました。その中の「山稜考」によると、開化天皇の「春日率川坂上陵」は前円部に加え後方部もあり、以前は東側には堀もあったということが書かれていました


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