私見でしかないんだが、自分が考える真義の日蓮教学を述べてみたい。結論から云うと富士門流を核とし、隆門の教学を枠組みしたものではなかろうか?と。・・・そういう意味で江戸期における勝劣派合同の檀林形態は真義に近いものであったと思う。次に法流を考えた日蓮義復興案を述べる前に主軸となる各派を検証したい。まず富士門流だが、寺院として大石寺・北山本門寺・西山本門寺・要法寺・妙本寺などが有名である。
特に西山本門寺、妙本寺、大石寺の法脈が気になるところである。その中で教学的には大石寺に伝わる石山教学は削ぎ落としたい。何故なら、愚にもつかん板御本尊論や法主至上主義、カルト主義が蔓延している。
板御本尊論に関して云えば、石山はよくもまあ、これだけ嘘八百並べ立てていると思うよ。この寺はもう駄目だな。創価学会にも見限られているしね。まともな人材も育成されて無いようだ。法脈で云えば、西山本門寺や妙本寺に期待を寄せるしかないだろう。
ちなみに創価学会が学会員を三宝のうちの僧宝とするウルトラ説を俺は断固拒絶する。学会員は僧侶ではない!故に僧宝に非ず。仏法の道理に反した曲解、歪曲は日蓮仏法を破壊する。増上慢も大概にせい!どうせ池田大作仏法曲解論の産物なのだろうが、まさに知るべし、この人の後生はほんと良くないであろう。
妙本寺の保田教学も種勝脱劣日蓮本仏論で石山と五十歩百歩であるが、まだ板御本尊論や法主至上主義がないだけましだろう。望みはまだあると思われる。富士教学はとどのつまり「種勝脱劣」から脱却しなければ、教線の拡大はもはや困難であるように思われる。
ついでに本尊論でいうと「種脱一双下種日蓮本尊論」とするべきだろう。脱仏の仏宝は久遠の釈尊、下種仏の仏宝は日蓮大聖人で、末法下種を尊重する我ら日蓮門下は下段に日蓮と認められた大聖人ご図顕の大御本尊を本尊としますと規定すればいいと思う。
日蓮仏法に一つの仏宝、一つの三宝で論を進めることは度台無理な話なのである。御書を読んで非常に難しく二律背反的な説明や論旨が多いのはこのためなのである。脱と種の両方を認めなくてはならない。これは大聖人が図顕された御本尊の描き方や意味においても云えることである。どうして今まで改編しなかったのか不思議なくらいである。話が脱線してしまった。本論に戻ろう。
つまり昔の細草檀林の如く、勝劣派を中心とした教団運営の連帯を最初に目指し、西山や妙本寺を本山に富士門流信徒が檀家として所属。これを核として、八品派を取り込み、日蓮宗の合同を目指すのが理想的である。・・・・
なんて、夢物語を語っているんだが、貴重な教えである日蓮さんの教えが個々の名誉心や金銭欲で庶民に普及出来ないなんて、ほんと嘆かわしい時代、事態になったよな。
特に西山本門寺、妙本寺、大石寺の法脈が気になるところである。その中で教学的には大石寺に伝わる石山教学は削ぎ落としたい。何故なら、愚にもつかん板御本尊論や法主至上主義、カルト主義が蔓延している。
板御本尊論に関して云えば、石山はよくもまあ、これだけ嘘八百並べ立てていると思うよ。この寺はもう駄目だな。創価学会にも見限られているしね。まともな人材も育成されて無いようだ。法脈で云えば、西山本門寺や妙本寺に期待を寄せるしかないだろう。
ちなみに創価学会が学会員を三宝のうちの僧宝とするウルトラ説を俺は断固拒絶する。学会員は僧侶ではない!故に僧宝に非ず。仏法の道理に反した曲解、歪曲は日蓮仏法を破壊する。増上慢も大概にせい!どうせ池田大作仏法曲解論の産物なのだろうが、まさに知るべし、この人の後生はほんと良くないであろう。
妙本寺の保田教学も種勝脱劣日蓮本仏論で石山と五十歩百歩であるが、まだ板御本尊論や法主至上主義がないだけましだろう。望みはまだあると思われる。富士教学はとどのつまり「種勝脱劣」から脱却しなければ、教線の拡大はもはや困難であるように思われる。
ついでに本尊論でいうと「種脱一双下種日蓮本尊論」とするべきだろう。脱仏の仏宝は久遠の釈尊、下種仏の仏宝は日蓮大聖人で、末法下種を尊重する我ら日蓮門下は下段に日蓮と認められた大聖人ご図顕の大御本尊を本尊としますと規定すればいいと思う。
日蓮仏法に一つの仏宝、一つの三宝で論を進めることは度台無理な話なのである。御書を読んで非常に難しく二律背反的な説明や論旨が多いのはこのためなのである。脱と種の両方を認めなくてはならない。これは大聖人が図顕された御本尊の描き方や意味においても云えることである。どうして今まで改編しなかったのか不思議なくらいである。話が脱線してしまった。本論に戻ろう。
つまり昔の細草檀林の如く、勝劣派を中心とした教団運営の連帯を最初に目指し、西山や妙本寺を本山に富士門流信徒が檀家として所属。これを核として、八品派を取り込み、日蓮宗の合同を目指すのが理想的である。・・・・
なんて、夢物語を語っているんだが、貴重な教えである日蓮さんの教えが個々の名誉心や金銭欲で庶民に普及出来ないなんて、ほんと嘆かわしい時代、事態になったよな。
深層の奥底まで届く観法でないと、名字即位の獲得すら出来ないのかも知れません。此処等当たり、本当に理解出来ているか、出来ていないかが仏法理解の分かれ目かと考えます。大半の人は其れが解っていません。→一つ言うと、人間は仏性はあるが仏種が簡単に根付くようには創られていないと云うことです。それを理解していたのが日蓮だったと云う話ですね。