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光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 永観律師に帰依し奉ります。

他力の菩提心

2023-03-18 15:39:29 | 日蓮・富士門流
聖道門、浄土門、難行、易行と八万四千の法門を二つに分けても帰する処は菩提心の有無なんですね。菩提心の無い法門は仏法では無いんです。
菩提心には自力と他力の二つが在ります。浄土を説くお祖師さん等、派祖さん等は他力の菩提心こそが真実の菩提心だとしています。自力の菩提心はふらふらした煩悩多き自身の心が基になっているんで本物では無いとしているんですね。

では他力の菩提心とは何か?と云えば回向発願心なんですね。浄土の教えにある三心に至誠心、深心、回向発願心が在りますが、回向発願心が他力の菩提心なんです。→つまり化他の心です。伝教大師も己を忘れ他を利するは慈悲の極みなりと云われていますが、化他の精神こそ大乗仏教の魂なんです。しかし、自力聖道門では拙い初門の仏道者では虚仮の道心になり真実の菩提心足り得ない。故に他力浄土門の菩提心を以て根本としているんですね。 

戒体とは何か?と云えば、此の菩提心です。法然上人や親鸞聖人が苦悩されたのは自力の菩提心と自己奥底にある心相との乖離だったはずです。しかし、此の課題を克服しない限り前に進めないんです。実際真正直に此の難問と対峙して解決出来るのは聖人しかいませんからね。此れを解決した教えが浄土門だったんですね。阿弥陀仏へ信を獲ることにより仏法者としての本懐を遂げることが出来たんですね。自身が抱いていた葛藤が晴れたんです。

普通の人間なら自身の心を深く洞察せずに型通りの戒法を受け、仏道修業を淡々とこなして安心を獲る処、此等浄土を志向した高徳の師等は自力の菩提心と自身の心との大きなギャップに気付き、其れを埋める法門が無い限り満足出来なかったんですね。故に本当の念仏と云うのは菩提心を伴う念仏なんですね。自身のみが浄土に往生したいと願う念仏は念仏では無いと云うことです。
戒体とは菩提心であり、四弘誓願の心、三聚浄戒なんです。

日蓮義は相対種を以て乗種とし、一念三千の総体である南無妙法蓮華経を戒体とし成仏の根本としています。しかし、此れって仏智、悟りの智慧・証覚から出たものです。何かおかしくないですか?戒体は最初に挙げましたが菩提心が根本なんですね。菩提心が戒で、修業(定)して、智慧(慧)を獲るわけでして。恵心流なんかは授戒の義を軽んじて、一心三観中に戒体ありとしますが、日蓮義は恵心流とあまり変らない宗義が根本にあると思いますね。

浄土門は衆生済度の方便として称名での極楽浄土を強調して説きますが、其の本質は真実の菩提心への探求です。結果、自力は虚仮で真の菩提心は他力に置きます。
日蓮義は仏の智慧・証覚→つまり理屈から成仏を説いているんですね。順番が逆だと私なんかは思います。真性の菩提心は他力であり、他力から自力に進展し、相対種を含めた一心三観、一念三千観が本来あるべき心の軌跡だと思うんですね。

実際、南無阿弥陀仏には此の心の軌跡通りの法門が全て含まれているから不思議です。別に日蓮義に頼らなくても浄土義に天台義を重ねれば全てまかなえるんですね。
能証の事である浄土教の魂と法華で説く所証の理、此の二つが念仏三昧の極理です。初門名字即から観行即まで即断出来る法門なんですね。然しながら此れを理解するには浄土経典が法華経だと識らなくてはなりません。同じく浄土教の魂である能証の事は法華であることも理解しないといけないんですね。
コメント (122)
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