只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

幻想から“真実”に目覚めるのが生きてきた目的です。

2017-09-24 10:12:31 | 日記

こうなっていくと思いながら(妄想しながら)、
先を予測してやると間違いが起ってくるのです。

私(思考)も多分に漏れず間違いの道でしたね。

仕事は商売をやっているのですから、勿論儲けなければ
経営していけません。

20~30年前は、儲けるために経営学のあらゆる勉強もし、
アメリカまで何かいい情報がないかと探しにまで行きました。(笑)

その頃から、ご存知の童話の「青い鳥」の物語になって
しまいました。(笑)

つまり儲けるためには何かいい方法は、
アイデアはどこかにないかと探すわけです。

ですが、そんなのどこを探してもないのです。

それは探すのが幻想の「思考自我」だからです。

事実には儲けるは“無い”からです。
勿論、儲けないもありません。

「青い鳥」の物語の主人公、チルチルとミチルは「青い鳥」が
どこかにいるはずと、夢の中で一生懸命に探したんですね。

そうして夢から目覚めたら、探さなくても鳥籠の中に
いたという話です。

一生を、幻想の「思考自我」との二人三脚から遠く離れて、
目覚める”ことがお気楽に生きることです。

同じく、幻想から目覚めて“真実”に生きるということですね。


何も“無い”のに、思考すればすべて在る世界ですね。

2017-09-23 10:48:58 | 日記

問題の発生源は自己の念を発生させることです。

ただの何も無い念が、自己をもち出すことにより疑念となり
悪知悪覚と混同し苦悩へと突き進むのです。

これは、例えば何も入ってないダンボールの箱が閉じて
あるとします。

箱の横面には「過去のあの時の思い」が描いてあるのです。

私(思考)は、すぐ箱の蓋を開けて何も無いのに
「過去のあの時の思い」に取り付くのです。

「過去のあの時の思い」は幻想とわからないのです。

そして次々と空箱は流れて来て、私(思考)は「何か在る!」として
箱の蓋を毎回開けるのですね。

それが頭の中で勝手に妄想する「思考癖」になるのです。

空から浮かんで来る思いは、「思い込み」という幻想で
あって何も“無い”のです。

しかし「思い込み」という幻想があるかぎり、
空から浮かんで来るようになっているのです。

繰り返し述べていますが、見れば見たものに囚われる、
聞けば聞いたものに囚われるということです。

それに悪いとか善いとかは無く、そのようになっていると
いうことです。

ですから、私と言う「思考自我」を忘れ切るしかないのです。

私(自我)の“無い”世界が、仏教で言う涅槃寂静といい、
穏やかな安らぎの境地であるのです。

もちろん、何と言ってもいいし、言わなくてもいいのです。

そこに還り着けば光輝く“永遠の命”ということですね。

ぜひとも生きているうちに還り着くよう、弛まぬ
只なる実践”の持続ということです。

本来はいつも晴天で、その下で雲が変化しています。

2017-09-22 08:54:24 | 日記

頭の中で勝手に妄想する「思考癖」を落とすのが、
“只なる実践”の持続です。

“只なる実践”は、繰り返し述べていますが
“見て見ない、聞いて聞かない”のです。

同じことですが“只見る、只聞く”のです。
“只、やる!”ということです。
 
空から浮かんだ念に取り付かない、相手にしない、
無視するということです。

これらは「知能」に繋がないということですから、
努力しない“只の努力”ということで、すべては“本能”に
お任せするということです。

人間は血の縁で大昔から繋がって来ているので、血の無い
人は存在しませんね。

その“血縁”の中に出来た「思い込みという幻想」は、
幼少の頃から自分という幻を創り上げたのです。

それはそれでいのですが、創作は「思いで何かを創る」ということですから、
幻想がゆえに心配、迷い、不安、苦悩、恐れまでも創りだしたのです。

そして、創りだしたその「思う心」は疲れ果ててしまうのですね。

ですから、「もう止めましょう!」と立ち上がったのが、
真理を解明する“真心”ということです。

“真心”は一心とも無心ともいい、創作することはしません。
思い考えることも一切しません。

自分の中の“真心”にすべてをお任せしていくのです。

しかし、そこに還っていくのに「思考自我」が邪間をすると
いうか、私(自我)の存在が無くなっていく恐怖を創るので、
強烈な抵抗が出てくるのですね。

その抵抗を和らげて除々に「思考自我」を落していくのが、
弛まぬ“只なる実践”の持続ということです。

“今”しかないのが事実ですね。

2017-09-21 09:23:13 | 日記

「良くなろう!」と日々努力するのは私(思考)です。

残念ながらいつまでたっても「良くはならない…」です。

ですから「良くなろう!」と思わず、日々淡々と
やっていくだけです。

「それじゃ面白くない…」というのが私(自我)で、更なる
努力をしたつもりになるのです。

でも良くならない…(笑)

なぜこんな現象が起こるのでしょうか?
それは簡単で「努力をしたつもり」の幻想だからです。

「良くなろう!」も良くなったときの、描いた幻想だからです。

ですから只、やっただけということになります。
もちろん、やらなければやらなかっただけということに
なります。

こんな事を言うと、私(思考)は「それは違う?」になって、
頭の中をグルグルと探し始めるのです。(笑)

しかし、探し始めても正解は“無い”とわからないから、
頭の中がパニックになってくるのです。

“只なる実践”が進んでいる人は、間違いも正解も
“無い”とわかっていますから思考はしないのですね。

ですから、事実には良くも悪くも何もありませんから
今、今、今とやることがあれば只、淡々とやるだけです。
もちろん、やることが無ければやらないということです。

弛まぬ“只なる実践”の持続で、お気楽人生にしていきましょう。


信じると間違いが起こるから、実践です。

2017-09-20 09:36:15 | 日記

自分の知らない私(自我)が自分の中にいるのです。

これは「知能」という人間に与えられたすごく便利なもの
です。

しかしご承知のとおり、これは目には見えないため
「在る」のか解らないのですね。 

でも、この「知能」が自分に成りきって人生を支配して
いるのです。

それはそれで問題が無ければいいのですが、心配、迷い、不安、
苦悩、恐れは“無い”のに、創作して「苦の世界」にして
いるのです。

その創作している「苦の世界」は、人間が迷い苦悩
する世界です。

それは「知能」が、約0,01秒で着手するからわからない
のです。所謂目にも止まらぬ速さということですね。

“只なる実践”は、「知能」が約0,01秒で着手するところを
寸断無き“見極める行”です。

簡単に言えば、「出たな!」消える…、「出たな!」消える…、
「出たな!」消える…の実践の見極めで、次第に出て
来なくなるのです。

それが“今に目覚める”ということです。

何も無い“只の世界”という、穏やかな安らぎの境地へ
生きているうちに没入してください。