三国ヶ丘便り

旅行、釣り、周辺の自然について、書き綴りました

2008/4/30

2008-04-30 22:20:51 | Weblog
皆さん、久しぶりです。
4/27に第5期ヘルパー講座のオリエンテーションを行いました。
今回は16~17名の受講生となりそうです。
5/9からいよいよスタートです。
その準備に追われています。
また卒業生の就職先を求めて、介護施設を走りまわっています。
4月はそのほかに決算や国、県 .市への確定申告、人材会社としての国への事業報告、などなど多忙を極めています。

 そのため「philippine report」は、朝5時ころ起きて書いていましたがここ2~3日
くたびれていました。

それではphilippine report no.22をお送りします。

「振り込め詐欺」ならぬ「横取り詐欺」、いや「ネコババ詐欺」はたまた「なりすまし詐欺」にしてやられたかと不安におそわれていた。
電話のやり取りを聞いていた妻が、確かにホテルのカウンターで、サインをしたという。
私もその様子を見ていた。
だから「領収書をいただきたい」と申しでたのであった。
あれが支払の伝票であったかどうか自信がなくなってきたという。
でもチェックアウトが完了したから、荷物を搬出してくれたのである。
K女史に再度電話。すると、サインしているのは、部屋の冷蔵庫の支払伝票のみだという。
「ドキッ」
こちらはチェックアウトのおり、ルームキーを差し出し支払いを申し出た。
そこで伝票を提示され「ここにサインを」といわれ署名した。
だから、支払いは済ませたつもりであった。
向こうが本伝票を差し出すのを、忘れていたのではないのか?
または、今回の幹事K女史が、まだ部屋にいたので、ホテルマンは、K女史が払うものと考えたのかもしれない。

今回はホテルマンを好意的に考えることとしよう。
「ネコババ詐欺」はたまた「なりすまし詐欺」ではなくてよかった。
こちらが「ぬけがけ詐欺、無賃宿泊逃亡犯」となるところであった。
危ない危ない。
語学力がないと、とんでもない誤解が生じる。
お互い、自分の都合のよい方へと理解してしまうから注意が必要だ。
私たちに未払い分は、K女史に立て替えていただくことで一件落着。
(K女史、M女史、G女史は、帰国後の5/10、11日、私のオリジナル教材「介護のための日本語」などについて取材のため我が家へ来訪予定。)
私たちを乗せたクルーザーは、さらに上流に向かって進んでいく。
船上の私たちのテーブルにも和やかさが戻っていた。
私はフィリピンスタイルで、ビールの小瓶をラッパ飲みしていた。(続く)

2008/4/25の2

2008-04-26 00:14:13 | Weblog
船はゆっくりと音もなく緑の奥へと進んでいく。
その時 T教授へ誰からか携帯電話の音。
「中村さん、K女史さんからです」と受話器を受け取ると彼女の声。
私たちはボホール行きのため、彼女たちより一足早くホテルを出ていた。
彼女たちは、今チェックアウトしているようだ。
「中村さん。今朝、ホテルの支払いは済まされました?」
「はい、チェックアウトの時に済ませています。」
「ホテルは、いただいていないと言っていますよ」

「ええ!!??。チェックアウトの時、ルームキーを渡して、払いましたよ。」
「伝票にもサインして確かに済ませています。」
「誰に払いましたか?ホテルの人に払いましたか?」
「ええ!??ホテルの人?誰にといわれても、名前までは???」
「私が払った人は、ホテルマンではない?」
 K女史はホテルマンとやり取りしながら話している様子。
「分かりました。もう一度こちらで調べてもらいます。」とK女史。

 K女史も、中に入って困っている様子。
いったん電話は切れた。
確か、2人で2泊分を4400ペソと言われ支払いは済ませている。
 T教授ご夫妻も、ことの深刻さに心配顔である。
この中村ご夫妻、「無賃宿泊」「抜けがけ屋さん」?
これまで至福の真っただ中を漂っていたところに、この電話。
いきなり頭をハンマーで殴られたようだ。
これまでの心地よいビールの酔いが、船酔いと悪酔いをミックスしたように絡まってきた。

 わたしは領収書をもらっておくべきと思ったので、そういえばあの時「領収書をください」と言ったら、「待ってくれ、あとで。」と言われ結局、もらっていなかった。
「しまった!やられたか?」「はめられたか?」
「2度あることは3度ある」が現実となってきた。
今度は、「振り込め詐欺」ならぬ「横取り詐欺」、いや「ネコババ詐欺」はたまた「なりすまし詐欺」に遭遇したか。してやられた。

「横取り詐欺」「ネコババ詐欺」「なりすまし詐欺」そんなのいるの?
私は、酔いもさめ今までの至福の世界から転げ落ちていた。(続く)


2008/4/25

2008-04-25 00:06:49 | Weblog
いよいよ、T教授ご夫妻の生まれ故郷、ボホール島に上陸。
空は晴れわたり快晴である。
先ほどのスコールのせいか、湿気が多くで蒸し暑い。
道路にできた水たまりに、太陽が浮かんでいる。

 T教授から事前に聞いていたが、鈴木さんという60前後の日本人男性が迎えに来て下さる。
彼は、若い頃、青年海外協力隊でボホール島に来て以来、T教授の両親との交流が始まり、その後、丸紅商社マンとして、フィリピン(マニラ)に赴任後も、暇を見つけてはT教授のご両親ご夫妻を訪ね、親子以上の絆で結ばれていたという。
丸紅を定年前にリタイア、現在ここに一人で住んでいる。
T教授も彼のことを「アキさん、アキさん」と呼んで兄弟扱いである。
彼はビール大好きの日本人で、ボホールでは彼の恩恵でビールを十分に堪能できた。

 T教授の父親は、大統領の側近(弁護士でブレーン)として活躍されていた。
母親は医者の娘で教師だったという。
今はどちらも故人となられている。
ついでにT教授の姉さん(マニラ在住)の自宅には、日本の皇族(紀子さま)もおいでになられるとのこと。
T教授ご一家は、フィリピンでも名門中の名門と思われる。

 これから、ボホール島で昼食をとりながらのクルージングだ。
大型の屋形船のようでもあり、南国情緒あふれる船に乗り込んだ。


甲板は広く、食事用のテーブルがあちこちにセットされている。
平日のためであろうか、乗船客は少ない。
船上では、ギターを持った若い男性の歌い手がムードを盛り上げてくれる。
船は静かに、ゆっくりと川を上っていく。
戦時中、この川底に船が沈められ今も残っているそうだ。
日本軍が上陸した際、この川を上って侵攻していくのを阻止するためだっとという。
しかし、そんなことを微塵も感じさせない平和で静かな美しい景観である。
みどり一色に染められた自然の中を、時間が静かに流れていく。
両岸にはバナナ、パパイヤ、マンゴウの木が生い茂り、葉の緑が川の色と見事に調和している。
これまでのハプニングの数々も吹っ飛んでいた。
緑の大自然に囲まれ、その景色の素晴らしさの中で、私たちはおいしいビールと、食事をいただきながら、ギターの生演奏を聴き最高の気分である。
これぞクルージングなりと至福の時間を過ごしていた。

「中村さんのおかげで故郷に来れた」とTご夫妻も久しぶりの里帰りで、心なごんでおられる様子。
「ああ~!なんとビールのおいしいこと」「万歳」と叫びたい気分になっていた。
ところがこの後、再び心凍る出来事が起きようとは?(続く)




2008/4/24

2008-04-24 00:03:07 | Weblog
昨夜は怖い思いをさせられたが、無事に帰ることができた。
待たされた3人組も大変心配されていたようで申し訳なかった。
新聞記事にも、ならなくてよかった。

二度あることは3度あるというが、もうコリゴリ。
これ以上勘弁願いたい。
でも何が起こるか分からない一寸先は闇の今回の旅。
今日からは、みなんと別れ、T教授夫妻と一緒にボホール島への観光である。
ホテルにご夫妻のお迎えを受け、港へ向かう。
T教授のハズバンド「Mrオリー」は、昨日まで顔はひげだらけの仙人スタイルであったが、
今日は剃り落としてさっぱりしている。

 このご夫婦の仲のいいこと、新婚さんみたいに睦まじい。
「ね~パパ!」「ネ~ママ!」とお互い、とても甘い調子で会話される。
ご夫妻の会話を聞いていると、お互いの相手へ労りが見て取れ、言いようのないほのぼのとした温かい雰囲気を感じる。
子ども二人は成人しておられるが、二人が、抱擁して頬ずりしている姿を度々見せられた。
これほど睦まじい夫婦は見たことがない。
妻も羨ましい思いで感心していた。
「おれたちもTご夫妻のまねをするか?」と言ったら「とても無理でしょう」とあっさり断られた。

港に着くと、ボホール行きの客で混雑していた。
出発までには、少し時間があった。
私たちは待合室で待つことにする。
T教授はパソコンを出して、仕事を始められた。
本来であればオフィスですべき仕事を、今日は私たちの案内で出来ない。
新聞の社説を週2回、担当しておられるそうだ。
今日のテーマは「深刻化するコメ不足」について書いているとのこと。

 フィリピンのコメ不足は相当厳しいようで、米価も恐ろしい勢いで上昇しているそうだ。
政府議員は業者と結託して米を隠し価格を吊り上げているようだ?
rice=lie「政府はうそをつくな」と書いているとのことであった。
コメ不足は国際的な問題になっているとのことを、先日、「クローズアップ現代」(NHK)で取り上げ、特にフィリピンが深刻で、米騒動が起きていることを伝えていた。
日本の政治家も今では、3流といわれているが、この国の政治家はもっとひどいようである。
先生はパソコンを打つ手が早い。
A4版2ページあろうかという社説をあっという間に書きあげておられた。
 セブ島をひょろ長いサツマイモに例えれば、ボホール島はさしずめ丸いジャガイモである。
ボホール行きの船は大きく300名を超える乗船客でいっぱいだ。
幸い、日本人は見かけない。
海は青く澄み渡りとても奇麗だ。
遠くに緑の島々が浮かんで見える。
船は、青い海を引き裂くように白い航跡を残して進んでいる。先ほどまで晴れ渡っていた空から突然スコールの襲来。
セブ島が遠くにかすんで見える。
やがて、スコールも止みボホール島が見えてきた。(続く)



2008/4/22

2008-04-22 21:50:35 | Weblog
  まさか まさか 私たち夫婦が、事件に遭遇するなど、そんなことにはになるまいと考えてしまうが、現実は私たちを乗せたタクシーは、真夜中に地獄の底に向かってひた走りに走っている。
そのように思えた。
二人で話すこともできず、言いようもない不安と緊張の時間が過ぎていく。
とにかく明るい町中に出てほしい。そうすれば、なんとかなりそうである。
こんな人気のないところを走っていては、生きた心地もしない。
ミラーを通して、運転手の顔をそっと窺うが、険しい目をして無表情である。
もう我慢が出来なくなったので、私はルームキーを取り出そうとポケットを探った。
するとその時、車は急に明るい通りに出ていた。
大通りである。
車は少なく、人気もないがとにかく街灯が明るく照らしている。
ひとまずホットする。
あとは一刻も早くくホテルに着いてほしい。
相当走ったようである。
それからもしばらく走る。
またもや暗い道に入り込みはしないかと、ヒヤヒヤである。
私は車の中から、辺りを見渡す。
すると車は停車した。車の中からは私たちが泊っているゴールデンピークホテルなのかわからない。
どこでもいいから、この怖いタクシーからは一刻も早く降りたかった。

ロビーに行くと、カルロス女史ら3人が心配そうに迎えてくれた。
 自分たちより先に出たのに到着していない。
部屋にもいない。
マッサージの店からホテルまでは10分足らずだという。
30分待っても来ない。
S氏がいたので大丈夫と思っていたが、電話もできず大変心配されていたとのこと。
こちらはS氏からとっくに放り出されていたのである。
マッサージ店から私たちのホテルへは東方向に行くべきなのに、S氏は全く反対の西方向へ連れ行ったのだ。
翌朝マップで調べてみたら、ゴールデンキャッスルホテルは、はるか遠い西の地点にあった。
運転手は近道をして、戻ってくれていたのである。
道理で寂しいところを通って行ったのであった。殺人犯にして申し訳なかった。
昨夜ゴールデンキャッスルホテル下ろされたとき、40ペソだったので私たちが支払ったが、帰りは100ペソかかっていた。
だから相当遠かったのである。
それにしても真夜中の恐怖の体験は心臓に悪かった。

 明日はT教授ご夫妻の故郷、ボホール島へのお招きを受けている。
セブ島から船で3時間、スキューバダイビングで有名な美しい海に囲まれた島である。
チョコレートヒルへのドライブやクルージングが待っている。
楽しそうだ。(続く)

2008/4/19

2008-04-19 21:46:34 | Weblog
 フィリピンに来て、一体どうしてこんなに怖い目に会うのだろうか?
私はこの国に何も恨まれるようなことはしていない。
戦時中、確かに日本軍はフィリピンに上陸、それも空挺師団がここセブ島に降下している。
日本軍がフィリピンで最初に占拠した地がセブ島なのだ。
住民を殺害、婦女を暴行、物品略奪し甚大な損害を与えている。
日本兵に腕を切り落とされた住民が、今でもこのセブ島に住んでいるそうだ。
然しながら、フィリピンは中国や韓国ほど反日感情は強くない。
むしろ友好的でさえある。
それはこの国が遠い昔から、数々の侵略の歴史で重ねられているからだとも言う。

 大航海時代、セビリアを5隻の船で出発したマゼランは、このセブ島の南にあるボホール島に1521年到着し条約を結んでいる。
その時の模様がボホール島に銅像のモニュメントとして残されている。
マゼランはのちに地元の紛争に加わり酋長から殺されたそうだ。
侵略者への怒りは強かったと思われる。
そのように侵略の歴に翻弄されながらも、フィリピン人としての誇りとプライドは今でも持っているに違いない。
地域によっては旧日本軍への怒りと反日感情が強くとても怖いと聞く。
セブがどの程度かわからない。

 私の父はフィリピンには来ていない。セブにも来ていない。
インドネシア領ボルネオ島(ミンダナオ島の南隣の島)の山中で5年間も逃げ回っていた。
父を含めた少数の日本兵が敗戦も知らず食糧を求めてジャングルの中を彷徨い、潜んでいたのである。
真夜中に、こっそり村里へ忍び込みニワトリなどをせしめていたようだ。
だからここで悪いことはしていない。
先祖への恨み、たたりもないはず。
でも私は日本人。
戦争の傷跡は今も痛々しい。
そんな話を聞くと胸が痛む。
そんなことが脳裏をかすめていたが、私たちがのっているクルマはゴールデンピークホテルに到着しない。

 車は走り続けている。
来るときは10分程度であったが、もうずいぶん走った。
すでにその倍以上経過していると思う。
一体どこへ向かって走っているのか。
ホテルマンは「ゴールデンピークホテル」と正しく伝えたのだろうか。
「またもや聞き違い?!」急に不安になってきた。
行けども行けども明るい街は見えてこない。
山中に連れて行かれてるのではあるまいか??Uターンしてもらい街へ引き返したい衝動に襲われていた。(続く)

2008/4/18

2008-04-18 21:42:36 | Weblog
 
 真夜中の街頭に思案にくれて立ち尽くしている日本人旅行客夫婦の姿がある。
この状態を、獲物に狙われたらひとたまりもない。
そういえば最近セブ島刑務所から9人が脱獄、6人がまだ逃走中と新聞で読んだ。
3人は家族と会ってから刑務所へ帰って行ったという。
危険を感じた私たちは、先ほどのホテルに引き返した。
ロビーでルームキーを見せ「ゴールデンピークホテルへ帰りたい」とお願いした。
するとホテルマンは、「OK!」と外へ出て停車中のタクシーに「この二人をゴールデンピークホテルへ」と告げているようだ。
 しかしこのタクシーは、ホテル専用のタクシーではない。
単に客待ちしているタクシーである。
ホテルマンは「プリーズ」と車のドアーを開けて待っている。
大丈夫かな?と思いながら乗り込んだ。
 オレンジ色した街灯がこうこうと深夜の街を照らしている。
しかし、真夜中の1時近くになると人通りは全くなく森閑としている。
次第に不安になって来た。
どうしてまた、こんなことになってしまったのか。
一難去ってまた一難。
先ほどもみほぐしてもらった肩はガチガチに固まっていた。
 リスク管理は人当てにできない。
自分で確認しなければならない、と反省するがこれまた後の祭り。
 車は、大通りから突然、静かな小道へと入っていく。
「あれ!」来るときはこんな小さな道は通っていない。
すべて賑やかな大通りを来たではないか。
なぜこんな小さな道を行くのかと疑念がわいてきた。
「大丈夫か?」と言いようもない不安が襲いかかってきた。

 でも、運転手とうかつに話しもできない。
「日本人だな」と見破らてしまう。
したがって妻とも会話ができない。
いや、すでに敵さん、感づいているかもしれない。
そういえば、この運転手、時々ミラーで私たちを睨む。
人相も悪い。
口ひげをはやし、眼光も険しい。
脱獄囚が運転手に化けているやも?
気持ち悪いことこの上なし。
車内に異常な緊張が走る。
沈黙のまま車は走る。
私の目も再びサル眼で血走る。
マニラ空港での恐怖が頭を走る。
(続く)


2008/4/17

2008-04-17 22:42:52 | Weblog
チェリーご夫妻を残して、5人がS氏行きつけのフィリピンマッサージへタクシーに分乗して向かう。
夜のタクシーは怖いとのこと。
特に日本人旅行者は夜のタクシーは絶対に避けるべきとのことだが、今回は、地元に明るいS氏をはじめフィリピン人のK女史も同行されているので安心だ。
店は先日とは全く違い、豪華でこぎれいな雰囲気である。
妻はバンコクでタイ式マッサージをして、胸を強く圧迫されて痛い目にあ遭い、以来、全身マッサージは苦手である。
私が係りの人に「彼女にはソフト、ソフトでお願いします」と念を押したので、妻も仕方なく諦めたようである。
2時間コース(600ペソ=1500円)と1時間(300ペソ=800円)コースがある。
時はすでに10時を回っていたがみんな2時間コースを選んだので私たちも従った。

一人ずつ個室に通され着替えをする。
最後のパンツをさして「これも?」と言うと「そうだ!」とのこと。
すべて脱いでパンツをはき替える。
私は与えられたパンツをはきながら、開口部分を反対にはく、例の大腸検査を思い出していた。

 全身に油のようなものを塗りつけていくが、とても気持ちがいい。
いつの間にか眠っていた。
気がついたら時間とのこと。
ぐっすり眠ったようで体が軽くなった感じがした。
次々と眠気け眼で皆が出てくる。
みんな眠っていたのであろう。
心配していた妻も出てきた。
「どうだった?」と聞くと「もう病み付きになりそう。とても気持ちがよかった」とのことで安心した。
常連のS氏が交渉していたらしく600ペソが480ペソで済んだ。
時計を見ると12時を回っていた。
この後事件が。

 時間はすでに12時を過ぎていたが、先ほどのマッサージで体も頭もすっきり。全員、ホテルへ帰ることにした。
S氏以外は全員ゴールデンピークホテルであったが、S氏のホテルもすぐ近くとのこと。
妻と私はS氏と同乗し、残り4人はべつのタクシーで帰ることに。
私たちが先にタクシーをつかまえホテルに向かった。
12時過ぎとはいえ町は明るく車の往来も多い。
15分ほどで私たちのホテル前に到着。
S氏は先に私たちを降ろして帰って行った。
ホテルのロビーに行くと、どうも様子がおかしい。
ロビーやカウンターが違っている。
ホテルマンも全く違う。
私たちのホテルの名前を告げると、ここは「ゴールデンキャッスルホテル」とのこと。
あろうことか、まさかと思ったが、全く別のホテルであった。
夜中の12時過ぎに私たち二人は、放り出されていたのである。
S氏のタクシーすでには走り去っていた。どうしようか?
 K女史にSOSの連絡をしたいが手段がなかった。 
こんな,時のためにと、インターナショナル携帯電話を日本から持参していた。
これが初日から調子が悪かった。
マニラでも役立たずであった。
昨日、K女史やS女史ともテスト通信を試みたが通じなかった。
チェリー先生にも私の携帯番号を教えていたが全く通じなかったと聞いていた。
それゆえ不携帯にしていたのである。
 日本に帰国してドコモにクレームしたら、フィリピン以外でも電波が不安定で時々そのようなことがあるとのこと。
その場合は電波局を変更する必要があるので、ドコモへ連絡してもらわねばならないと謝罪された。
そんなこと事前に教えてもらいたいと文句を言ったが後の祭り。

 夜のタクシーは最も危険であることは、さんざん聞かされている。
日本人旅行客であることは見え見えである。
S氏は早合点したのであろうか。
私はタクシーに乗ってからも、ホテルのルームキーをS氏に見せていた。
運転手にも示しておられた。
「そこはキャッスルホテルとも言う」と運転手が言っているとのこと。
S氏を信じていたので別に不安は感じなかった。
呆然として深夜の町中に佇む妻と私。(続く)

2008/4/16

2008-04-16 22:36:09 | Weblog
 セブ有数のレストラン「LAGUNA」は大学近くにあった。
辺りはすっかり暗くなっていた。
レストランのゴウジャスな照明が印象的だ。
中に入ると、お客が多い。
でも日本人観光客は見当たらない。
海外旅行で日本人が周りに多いとウンザリする。
このレストランにはツアー旅行客は来ないのであろう。
私たちの席だけがキープされていて、ずらりと並んだ白いナプキン、クラス、フォークが印象的だ。
ハイレベルのレストランなのに平日にどうしてこんなに多いのだろう。
とチェリー先生に聞いてみた。
フィリピンも、ちょうど学校の卒業シーズンで、卒業祝いにリッチな家族が来ているとのこと。
フィリピン社会を見ていると、日本の格差社会云々は問題外を痛感。

 パーティは料理も素晴らしかった。
そして何よりビールが飲めたのがありがたい。
また食事しながら日本語が話せたこともよかった。
チェリーご夫妻は日本語が堪能である。
日本で開催されるこの手の国際シンポの懇親会は、日本人同士もすべてイングリッシュである。
日本なのにと驚くことが度々である。
私は、このような時はひたすら飲んで、食べるしか術がなかった。
うかつに話しかけようものなら、機関銃のようにイングリッシュが飛んでくる。
弾を避け、料理をついばんではさっと隅に引っ込む。
ビールを注いでは右に左に弾をかわして逃げまわる。
語学力をつけるには特攻精神、いや私の場合は、自爆精神が必要であるが、イングリッシュでの会話となれば、ビールを飲んでいるのかワインを飲んでいるのか、魚を食べているのか、お肉を食べているのか分らなくなってしまう。
折角の御馳走がもったいない。

パーティーの後、またもやフィリピンマッサージに行くことになった。
大阪人文科学大のN女史曰く「私はこのために働いているようなもの」と
日本人S氏(在フィリピン、日本商工会会長)行きつけの場所があるという。
S氏の奥さまはフィリピン人で、在日フィリピン人介護士協会の会長である。
3年前に設立されている。
東京、六本木に事務所があるという。
S氏は顧問の立場であるが、実質の経営者である。

 彼は、すでにここセブにおいて、日系2.3世を集めて(福祉専門学校⇒大きな学校であった⇒カルロス教授から途中来るときに教えていただく)日本語学校を開催しているという。
卒業後日本へ連れてきて、ヘルパー(2級)資格をとらせ介護施設につなげるそうだ。
大手病院(京都、十全会病院)をスポンサーにそのプロジェクトを進めているのであった。
在日、フィリピン人向けの通信教育によるヘルパー講座も手掛けているという。
2つとも実は私が抱いていた構想なのだ。
S氏はすでに実現していたのである。
この事実に正直驚かされた。
セブの会場で私が差し出した名刺を見て、「あなたが、九州 FUKUOKAの あの中村さんですか?」と驚いていた。
私のことを詳細に知っていたのである。
でも彼はわたしを警戒したのか、名刺をくれなかった。
今夜彼が、私と妻の恐怖への道案内人になるとは知る由もなかった。(続く)

2008/4/15

2008-04-15 22:16:24 | Weblog
私たち一行は、ホテルを出てフィリピン大学セブキャンパスへ向かう。

フィリピンには電車、バス、汽車といったような公共交通機関がない。
もちろん地下鉄もない。
一般的な乗り物としてはジプニーがある。
小型バスのようで後部が開いていてドアーがない。
乗客は後ろから飛び乗る。
どこでも止まってお客を乗せる。
またバイクの横に荷台を取り付けたトラシケルといった乗り物もある。
したがって、みんなバイク、自転車、ジプニー、トラシケルやマイカーを利用するからラッシュ時期は大混雑。
通常であれば10分で着く所が1時間なんて当たり前。
したがって目的地への到着時間が全く予測できない。
非効率極まりない。
通常30分で行ける空港でも3時間前の出発ということになる。

キャンパスまでは、歩いて20分で行けるそうだが、このジプニーに乗ることとした。
C名誉教授も一緒に乗車された。
料金は10ペソ(30円)程度であろうか、乗車賃は都度乗客がバケツリレーのようにして運転手の所へ行く仕組み。

セブキャンパスでは、チェリー教授たちが出迎えてくださった。
彼女とはフィリピンスタイル「抱擁」での挨拶。
3/8、福岡のシンポジュームであったばかりだが懐かしい。
構内は大きな木々に囲まれて、緑多い清閑なたたずまい。
ケソン市の本校よりは小さいと聞いていたが、広大である。
正門前には、本日のフォーラム開催の横断幕が掲示され私たちを迎えていた。
会場には、大学の研究者、病院の看護婦さん、看護業界の代表などであった。
(フィリピンに介護施設はないから介護協会もない。あるのは看護協会のみ)
チェリー先生がコメンテイターとして会議を司会されている。

私も紹介され、いよいよスピーチの時がきた。
当初、本校でのスピーチと同じ原稿を予定していたが、同じ原稿を2度しゃべるのに抵抗を感じ、昨夜ホテルでほとんど書き換えていた。
同時通訳を含め、30分程度要したであろうか?
スピーチが終わってから、会場から感謝の言葉をたくさんいただいた。
私はこのスピーチの中で、途中少しだけ原稿なしのぶっつけ本番のイングリッシュでトライした。
わが人生での初体験であった。
心配だったので、後でチェリー先生にこっそり聞いてみた。
「ちゃんと理解できました。very goodでしたよ。
発音も very wellでした!」たぶんお世辞と思うが嬉しかった。
記念写真を撮って、フォーラムは定刻に終了。
これから豪華レストランでの晩さん会である。
ビールが飲みたい。(続く)