三国ヶ丘便り

旅行、釣り、周辺の自然について、書き綴りました

2008/4/12

2008-04-12 22:11:06 | Weblog
フィリピン滞在4日目。
今朝も心地よい目覚めである。
昨日のマニラ空港事件の疲れからか、昨夜の全身マッサージのお陰かグッスリ眠れた。
私たちが泊っているここセブ島「ゴールデン. ピースホテル」は海岸から1Km程度離れている。
カーテンを開けると、まばゆいほどの朝日が飛び込んでくる。
15Fのこの部屋から外を眺めると、霞の中に青い海が広がっている。
今日もいい天気。
つつがない一日でありますように。

 今日は午後からのフォーラムであるから、午前中はゆっくりできる。
下に降りていきみんなと朝食をとる。
昨夜みんな食べ過ぎたのかあまり食欲がない。
K女史は降りてきたがジュースだけ。
今夜は、フォーラム終了後、セブ島有数の豪華レストランで大学主催の懇親会が予定されているそうだ。
お昼は抜きにしようと衆議一決。
みな食い喰(じき)はつよい。
私はビールがあれば満足。

 ところがフィリピン人はビールはあまり飲まない。
ビールというよりアルコール類をあまり飲まない。
いきなりライスが出てきてびっくりする。
先日の大学の懇親会も料理は豪華絢爛で大変おいしかったがビールが出ない。
料理と一緒に、ライスが出てきた。
私は、冷静をよそっていたが寂しかった。
パーティーでビールがないのは、物足りなくて不完全燃焼したみたいで寝付かれない。
日本人は呑み助でなのだろう。

 今日は、11時ころホテルを出発することになっている。
ロビーに降りて行くと、先日フィリピン大学でお会いした超大物教授といわれているC教授が待っておられた。
一昨日(25日)のフォーラム後の晩さん会で、この教授から「フィリピン大学創立100周年記念の写真」をいただいていた。
Mr、Mrs Nakamuraへと教授のサイン入りであった。

そのことへのお礼を述べ挨拶をしたら、「朝食は済まされましたか?」とイングリッシュでお尋ねになった。
「ハイ!1時間ほど前に、ここで済ましました」と緊張しながらも、イングリッシュで答えた。
教授は「???」と変な顔。
私は先ほどの自分のイングリッシュを反芻してみた。
いけない!

1時間前(One hour ago)と言ったつもりが[I took the breakfast one year ago.]
とやってしまっていた。
「ハイ!1年前に、食べました。」である。あわてて[No No !  One hour One hour!]
と訂正した。
「そうでしょう。そうでしょう。One hourでしょう。
1年前では死んでしまいますよね」と教授。
二人顔を合せて笑った。
所詮私のイングリッシュはこの程度なのだ。
のちのちまで、このことを思い出しては一人で吹き出していた。(続く)

2008/4/11

2008-04-11 22:06:31 | Weblog
セブ空港までは1時間30分で到着。
小さくて素朴な空港である。
別便で来るK女史とS女史を待つ。
それまで暇であり、本来であれば好奇心から空港建物内をあちこち歩きまわるのだが、どうもおかしい。
ドカンと椅子に座って動こうとしない。
先ほどのマニラ空港での余韻が効いてるらしい。

 1時間ほどして2人が降りてきた。
2人の顔を見るとホッとする。
何しろK女史はフィリピン人である。 
龍谷大教授で博士号(doctor)を持つ。
S女史は35歳前後の岩手県出身の日本人(同社大学教授で博士号を持つ)極めて流暢なうっとりするような英語で話される。
南アフリカの労働問題を研究されていて南アに長期滞在されている。
最近スペイン人と結婚した新婚さん。
セブキャンパスで、明日の私のスピーチを同時通訳していただくことになっている。
 
 タクシーでホテルへと向かう。
フィリピンのタクシーは怖いとのこと。
特に日本人は危ないそうだ。
夜のタクシーはさらに危険なので日本人だけでは絶対利用してはいけないと注意を受けた。
心しておこう。
ホテルにはホテルお抱えの専用タクシーがあるという。
割高であるが、外国人は、これを利用するのが安全とのこと。
そう言えば、大阪のG女史、N女史は大学に来るとき、ホテルに帰るときこのホテルの専用車を利用しておられた。

 セブは、マニラとは違い、バナナの木やマンゴウの木が生い茂り緑が多くリゾート地の雰囲気である。
今日は何も予定がない。
みんなゆっくりとショッピングを楽しみに行くという。
ホテルに着いてから、アウトレット.モールのような大きなショッピングセンターに行った。
とにかく豪華で広大である。
店内は大勢の人であふれている。
この中にフィリピンスタイル、マッサージがあり、1時間300ペソ(900円相当)。女性群は、行きたいという。
仕方なく私も付き合うことに。
夜はホテルでのフィリピンバイキング料理を堪能。
(続く)


2008/4/10

2008-04-10 23:31:49 | Weblog
連行される?

 私は解放されたわけではなかった。
まだ彼の管理下に置かれていた。
妻たち3人は、いつまでも姿を見せない私をさがして不安そうに辺りをきょろきょろしている。
でも気づいてくれない。
私は職員の制止も聞かず再び大声で[SAYOKO,SAYOKO」と声を限りに叫んだ。
するとG女史が気づいてくれ、私の方を指差して妻に教えている。
駆け寄ってくる妻。
「いったいどうしたんですか?」説明する暇はない。
「パスポート、パスポート、パスポートを出してくれ」

そばで見張っている白い制服の職員に私のパスポートを提示した。
これで地獄から完全に解放され、一件落着かと思った。
 ところがパスポートは見ようともしない。
(判別、識別能力がないのであろうか?)
だめだという。
写真を撮るからと、再び私を連行していく。
自分に課せられた職責に一途なのであろうか?
妻は何が何だか理解ができない様子だが一緒についてきた。
「ここで君の写真を撮るから待つように」
そこは私が最初に眼鏡を尋ねた[DEPARTURE INFORMATION」カウンターの前であった。
取り次いでくれた彼女がまだいた。
ここが地獄の入り口だったと彼女が「不幸の魔女神」に見えた。

彼は、わたしが逃亡しないか不安なしぐさで、「ここで待つように」と言ってカメラを取りにオフィスに消えていった。
この間、妻に事の次第を説明した。
「パスポートはどこであれ、携帯していなければいけないのですね。」と妻、いい勉強になった。
反省しきりであった。

 CEBU行きの飛行機にはまだ時間があるそうな。2時間の余裕が幸いした。
ところが、彼はなかなかオフィスから出てこない。
連行されても既にパスポートはあるし、心に余裕が出てきた。
先ほどまで沸騰していた血圧も落ち着いているようだ。

 やっと現れた彼は、カメラではなく、あろうことか左手にコーラの紙コップ、右手をストローに添えコーラを飲みながらいたってのんびりムードで出てきた。
こちらに来るかと思いきや、私たちを見るでもなく背を丸めてストローをくわえながら立ち去って行った。
一体どういうこと。
私たちのこと忘れてしまったの?!
こちらにとっては好都合。唖然とする私たち。
妻と私は、立ち上がって彼が人ごみの中へ消えていくのを見送っていた。
自由の身を確認した瞬間でもあったが、それにしても、なんとも締まりのない結末であった。

マニラ航空職員、相当タガが緩んでいる。
全員集めてもう一度再教育をしなければいけなのでは?と痛感。

 無事に、CEBU行きの飛行機に乗り、先ほどまでの地獄の出来事の数々が思い出された。
安堵感と解放感からか放心状態であった。
うつろな目で機内の窓から外見つめていた。
疲れがどっと出てきた。
やがて飛行機は騒音を響かせてcebuに向かって飛び立って行った。
それにしても許せない航空職員たちだと、再び腹の虫が騒ぎ出していた。

 これから向かうセブでは4日間の滞在である。
セブキャンパスでもフォーラむが予定され私も30分のスピーチがある。
あとは、教授たちと一緒に行動を共にした観光がメイン。
セブはフィリピン最大の観光地。
日本でも有名なリゾート地だ。
これからの旅に期待しよう。 
ところがcebuで再び、心凍る出来事が襲ってくるとは露とも知らなかった。(続く)





2008/4/8

2008-04-08 23:24:33 | Weblog
いずれの国であろうと、国際空港の職員たるもの、旅行客の安全と安心を第一に心得るべきではないのか。
困窮している旅行者がいれば、ヘルプするのが使命ではないのか。
それが、言葉もままならぬ外国人を陥れ、楽しんでいるかのごとき態度にこの国はいったいどうなっているのかと憤懣やるかたない思いであるが解決にはならない。

ゲート強行突破!!

私は外へと走りだしていた。
心は凍りついていた。
すると、首から身分証をさげてこちらに向かってくる女性職員がいた。
この女性ならば頼りになりそう。そこで、私が彼女に何を言ったか覚えていない。すると彼女は両手を広げて「Oh NO!」。
絶望感に襲われる。
もう駄目かもしれない。
一体どうすればいいのか。
こうなったら逮捕覚悟のゲートでの強行突破しかない。

 最初にゲートインした場所を捜した。
私は走った。走った。100m以上走ったであろうか。
先ほどゲートインした場所へとたどり着いた。
そっと中の様子をのぞく。
白い制服を着た職員が大勢いる。
一人ひとりパスポートをチェックしている。
これでは侵入できない。
突然背後から流暢な日本語。
振り向くと白い制服の航空職員。
強行突破のチャンスを窺っていたものだから「ドキリ!」 
「どうされたのですか?」

挙動不審の私を見て近づいてきたのだ。
ここでも彼に、どう説明したか定かでない。
でも流暢な日本語に安心した。
すると彼は、中の職員を手招きして呼んだ。
そして何か話している。
そして私は中の職員に引き渡された。
そこで再びボディチェックとセンサーを通された。
中には入れた。
ホッとした。

 そこは私たちがいたところである。
ふと妻はと捜すと30mほど離れた所に3人の姿が見えた。
「おおーい!SAYOKO」
「おおーい!SAYOKO」
「おおーい!SAYOKO」と大声で呼ぶが届かない。
彼は、「静かにしろ」と私の叫びを遮る。
「あそこにワイフがいる」と訴えるが聞いてくれない。
大きな柱の前で立ち止まり、今からここで君の写真を撮るという。
私は解放されたわけではなく、まだ彼の支配下にあったのである
(続く)

2008/4/6

2008-04-05 23:20:29 | Weblog
 私はやっと見つけた命綱の腕をつかんで離さない。
とにかく時間がない。
「元の所へ連れて行ってほしい」と言いたいが興奮していてうまく英語で話せない。
もともと英会話に自信なく、こうなると全くのお手上げ「英会話の実践はクソくらえ!」
私は顔面蒼白、眼な血走りサル眼(マナコ)、血圧は200を超えて、はや沸騰状態。
日本語でまくしたてる私に、彼は動こうとしなかった。
「あんたとは関係ない」の態度。
何たる無責任!

周りの航空職員等が、「おい!君のジャパンの友達がまたやってきたよ」とはやしたてる。
無慈悲で無責任な職員たち。
それでもお前ら、マニラ国際空港の職員か?
私が、これほど困窮し追い詰められての、彼との必死のやり取りをニヤニヤしながら笑って聞いている。
怒り心頭に達した私は、命綱の彼をビル方向へと強引に引きずり始めた。
ほとんど暴力に近かった。
ポリスが見ていたら公務執行妨害で逮捕されると思った。

 すると、見かねたのか2人の職員が立ち上がってきた。
「相談窓口(オフィス)に行こう。
パスポートの紛失届をしなければならない。金は持っているか?○○ペソ必要だ」とそんなことを聞いてくる。
「そんなことではないだろう。それでは間に合わない」と絶望感に襲われた。
でも、きちんと話を聞いて早急に打開してくれる人がほしかった。
私は掴んでいた命綱の腕を放した。
そして2人の後について行くことにした。
オフィスに連れていくと「ここだ」と言って係員に取り次ぐでもなく彼らは去って行った。

 そこにはすでに3人の外国人が順番を待っている。 
もう時間がない。
時間も相当経過している。
妻たちは一向に帰ってこない私に、いったい何がおきたのか。
空港内で拉致された?」と心配しているに違いない。
連れてこられたこのオフィスは、出入国を拒否されたり、不審人物リスト者であったりの、もともとややこしい人が連行されて来るトラブル窓口(オフィス)なのだろか。
いらいらして待つが一向に進まない。
自分が事情を説明しても、「とりあえず身柄を拘束します。ではお縄頂戴 ガチャン」と不法入国で逮捕されかねない。
「ここはいかん!」私は再び外へと飛び出し(逃げ出し)ていた。
そこには既に職員らの姿はなかった。
(続く)


2008/4/5

2008-04-05 00:19:19 | Weblog
ここマニラ空港では、彼女たちを追いかけて日本から一人でやって来てうろつく中年のおじさんや、またマニラ空港界隈で逢瀬を重ね腑抜けになって焦点の定まらぬ目つきで彷徨する「イカレニッポンおじさん」たちも多いとか。 
私もその類とみられているのか。親身になって聞いてくれない。

 白い制服を着た航空職員は外でもみかける。
私は手あたり次第に助けを求める。
すると両手の親指と人差し指でパスポート大の□(四角)をつくり、「パスポートは?」である。
事情を説明したいが、眼鏡のことから話せば、とても長い。
また事の顛末を納得させるには相当の語学力が必要。
落ち着いて話す余裕など今の私にはなかった。
また動転して、英語が全く出てこない。
日本語で、「パスポートはワイフがワイフが....」と説明にもならぬ日本語で口アワ立ててただただ訴えていた。

 私は今来たルートを戻ることとした。
彼と出たビルの入り口へと走った。
そこで彼らに説明すれば入れてくれるはず。
入口を見つけた。
「あ!ここだったとひと安心。
これでやっと建物の中に入れる」救われた気持であった。 
ところがである。ドアーは開かない。
閉まっている。いない、先ほどまでいた2人の航空職員がいない。
中をのぞくが人の気配もない。
救いの扉が地獄の扉に変わった。頭の中が真白、白になった。

 とにかく急がねばならぬ。
私は 最初に降りたタクシー乗り場をさがした。
小走りで辺りをキョロキョロ。
すると白い制服の集団が階段でたむろしている。
先ほどの若い航空職員たちである。
その中に私から逃亡した彼を見つけた。
「命綱発見」今度こそ逃してなるものかと駆け寄っていった。(続く)


2008/4/4

2008-04-04 22:02:04 | Weblog
レポートの続編を届けします。

上司から指名された彼は、30歳前後であろうか、友好的ではなかった。
挨拶しても素気ない。
半ば強制的な命令を受け腹立たしく思っているのであろう。
「迷惑な日本人め!何で眼鏡を落とすのだ。メガネはかけておくものだ?」と。(でも妻は、5万円の大枚をはたいて買った眼鏡というし....。)
そんなことを考えながら彼についていくしかなかった。
インターナショナルの建物は別棟のようで、いったん外へ出ることになった。
彼は出入り口の空港職員に一言二言、話しかけていた。私も許可を得て建物の外へと出た。
一瞬、不安がよぎったが航空職員が同行していることから、彼の後に続いた。

 外に出ると、そこはタクシー乗り場、バス停などがあり、右前方にインターナショナルの建物があった。
朝降りたタクシー降り場とは違っていた。
しばらく進むと5~6人の白い制服の空港職員が仕事を終えたのか談笑しながら近づいてきた。
彼の仲間らしく、親しく語り合っている。
そして彼はインタナショナルの建物を指差し、あろうことか、「ここからはそこの階段を昇って一人で行け」という。
「よく分らないから一緒にきてくれ」と押し問答を始めた。
自分も同僚と一緒に帰るという。
他の職員たちはニヤニヤしながら、私たちのやりとりを眺めている。
「上司からも案内するように言われたではないか」という趣旨の英語を発した。
NO.NOを連発。
埒が明かない。
最初からすると時間も随分と経過していた。
セブ行きの時間も迫っている。

 私は焦った。
彼は彼らと一緒に帰りだした。
私は追いかけて行き彼の腕を掴んで、連れ戻そうとするがまたもやNO,NOを連発、振りほどかされた。
「メガネはギブアップし引き返さねば」と思った。
周りの職員に「あの建物に戻りたい」と説明すると「パスポートは?」とのこと。パスポートと搭乗券は妻に預けていた。
あのビル内にいる妻が持ってると説明。
「パスポートを持っていなれば入れない」という。

 彼が事情を知っているからと言いたいが、焦って説明できない。
気がつくと、同行してきた彼はもうそこにはいなかった。
他の職員も私の必死の説明に対し、パスポートがなければ入れないと両腕で×字を作り門答無用の態度。
何と無責任な航空職員なのかと怒りがわいてきたが後の祭り。
彼らも私と話しても埒があかぬと思ったのか立ち去ってしまった。

何とか帰らねばと焦るが時間だけが過ぎて行った。
かれこれ1時間以上経過したことだろう。
妻たちも心配しているに違いない。
セブ行の飛行機の時間も迫っているだろう。
時計もない。
財布も、携帯電話も空港内の手荷物の中、パスポートも搭乗券もない。
挙動不審で連行されれば、不法侵入者、密入国者扱いにされかねない。
丸裸で空港の外に放り出されしまっている現実に愕然とするしかなかった。
(続く)

2008/4/3

2008-04-03 23:22:05 | Weblog
 26日、フィリピン滞在3日目、朝6;00  緑深い大学ゲストハウスで心地よい目覚め。
天気は快晴、外では小鳥の鳴き声、今日も暑くなりそう。
セブへの飛行機は11:25。
日本のメンバー6人(龍谷大K女史、同志社大S女史、同H女史、大阪人文大のG女史そして私たち、私以外はすべて女性))はタクシー2台に分乗して8:00マニラ空港に向かう。
車の渋滞を考慮し早めに出発。

 今回の旅の一切を引き受けて下さっているK女史とS女史は、別の空港から(12;30発)でセブに向かうとことになっている。
だが心もとない私たち4人のために、早起きしてマニラ空港まで同行、手荷物預けまでヘルプしていただく予定。
感謝、感謝。
30分でマニラ空港到着。
予想外に早い。タクシー代350ペソ(900円)と安い。
お二人のサポートによって手荷物を預け、彼女たちと別れる。
4人に不安がよぎる。
心細くなっている私たち。
パスポート提示無事ゲートイン。
唯一の男性である私への期待と責任を感じる。
でも手荷物検査も終えゲートイン済。
これで一安心。
あとは私たちを飛行機がセブへと運んでくれる。
何にも案ずることもないと心に余裕と安心感が漂う。
搭乗まで時間がある。
暇ではある私の心にチャレンジ精神がムクムク。
そこで英会話の実践の機会と捉え、妻がマニラに向かう機内で失くした眼鏡を探すこととした。
案内カウンターで、「フクオカーマニラ」のフライトチケットの半きれを示しその旨伝えると、担当者を呼んでくれた。
別な場所に案内された。
彼は手当たり次第ノートをめくっていた。
やがて奥に引っ込んでなかなか出てこない。
探し出してくれたのかと期待する。
やっと現れ「ない」とのこと。
わたしが、ここは「DEPARTURE」だから[ARRAIVAL」カウンターで探すべきではないのかと言うと、「あそうか!」といった感じで「OK」とうなずき、そこへの道順を教えてくれた。

[ARRAIVAL」カウンターはエレベーターで1Fへ降り100米ほど奥へ行かねばならなかった。
そこで説明したら、さらに別の場所に「落し物一時預かりオフィス」がある模様で、さらにエスカレーターで中二階へ行くようにとのこと。
この辺りは薄暗く人通りもなく時々航空職員はみかけるが無気味。
道順がよくわからないし心細くなってきた。
近くにいた航空職員にそこまで同行してもらうことにした。
彼がドアーをノックし、中年女性職員に取り次いでくれた。
この人は頼りになりそうな雰囲気。
チケットの半きれを見せると、「フクオカーマニラ」だから、インターナショナル空港窓口に行くべきだとのこと。
「エーー??Oh My God!」私がどう行くべきか分らない、誰か同行してもらいたいと告げると、彼女は事務所内を見渡し、ショルダーをかけて立っていた若い男性職員に向かって指示した。
白い制服を着たその彼はいやなそぶりで「NO」と拒否。
彼女の再度の強い命令にシブシブついてきた。私はサンキューとお礼を言ってインターナショナル空港窓口へと向かった。(続く)

2008/4/2

2008-04-02 23:16:44 | Weblog
レポート第2弾
話を初日に戻そう。
24日、マニラ到着、ソフィア婦人宅(フィリピンGAP、縫製工場従業員200名のオーナー)お抱え運転手さんが空港に迎えに来てくれる。
今夜はメイドさんが5人いる豪華邸宅での宿泊。
夕食は親戚も集まっての歓迎パーティ。
フィリピン大学医学部2年生の娘さんも帰ってきてくれる。
感謝感謝。
昨年ここでイングリッシュでスピーチし汗だくになったことをおもいだす。
みんなが揃ったところで、ソフィア夫人より、「では中村さん、スピーチをどうぞ」と意地悪。
今回は遠慮する。
妻が飛行機の中に眼鏡を忘れてきたことに気づく。
このことが後で私たちにとんだ災難を巻き起こすとは知る由もなかった。

翌日7時、エマ、コルデロさん(プロ歌手で社会奉仕活動家。日本でいえば宮城まり子さんのような方)の甥子さんが迎えにきてくれる。
フィリピン大学まで1時間。
フィリピンは、大学構内であっても拉致されたりするから油断できないとソフィア夫人より脅かされる。
無事大学到着。
構内の広いこと。
バスが走っている。
カルロス教授が迎えてくれてひと安心。

フォーラムは、英語の雨、嵐の長い一日、くそ度胸で、冒頭部分を英語でしゃべったと昨日、述べましたが、途中 「Is this ok?」と反応をうかがったら会場から 「OK」と温かいエールの大合唱。
ここで気を良くしてイントロ部分とは言え、続けることができたのでした。
私も無事にスピーチを終え6時からは、大学構内クラブハウスで情報交換を兼ねた懇親会。
わたしの正面にはフィリピン大学教授(東大卒)、その右隣は,同大名誉教授(超大物とのこと)、左となりは神戸国際大学遠藤学長。
妻も学長さんやフィリピン教授たちと談笑している。
青春時代の楽しい思い出話に花が咲いている。
気さくな方々である。
木立に囲まれた露店のテーブルでのパーティーは、メンバーの豪華さにたじろぎながらもおいしい料理をいただき、先生方から貴重なお話も聞けて有意義で楽しいひと時であった。
今夜は、大学のゲストハウスでの宿泊である。(宿泊費は大学負担)
翌日マニラ空港で、地獄のドラマが待ち受けていることもつゆ知らず、ゲストハウスで心地よい眠りについた。(続く)