―名も知れぬ兵士の善行―
イギリスからアメリカへスカウト運動が伝わったきっかけは、名も知れぬ一人のスカウトの小さな善行でした。
しかし、日本でも同じような美しい話があります。
ボーイスカウト精神を表す『三指』から生まれた日本兵とアメリカ兵の物語です。
太平洋戦争の末期、南洋の島々で日本軍とアメリカ軍の激しい戦いが繰り返されていたころの話です。
南洋のある島で、一人のアメリカ兵が日本軍と戦闘を交えた際に負傷し、気を失い、倒れてしまいました。彼が気がついたときには、すでに友軍は引き上げた後で、彼の周囲には誰も残っていませんでした。
そのときです。銃剣を手に恐ろしい顔つきで突撃してくる日本兵の姿が彼の目に映りました。地面に横たわっている自分の喉元へ、日本兵の銃剣がせまるのを見たとき、そのアメリカ兵は再び気が遠くなってしまいました。
しばらくして、そのアメリカ兵は、気が付きました。
生きていた!… しかも、自分の傷には手当てが施されていました。
しかし、あたりには誰もいません。
怪訝に思いながら、起き上がり辺りを見わたすと、かたわらの木の小枝にぶら下がっている小さな紙片が目に付きました。
広げてみると英語でこう書かれていました。
『私が君に近づいたとき、君は三指の敬礼をした。
自分もかつては日本のボーイスカウトだった。
ボーイスカウトは、世界の人すべてが兄弟だ。
三つのちかいをあらわす三指を見てスカウトとしての気持ちがよみがえり、兄弟であり、かつ、傷ついている君を殺すことはできなかった。
手当てをしておいた。一日も早く回復してほしい。グッドラック!』
幼いときからボーイスカウトで活動していたこのアメリカ兵は、気を失う瞬間、無意識のうちにボーイスカウトの敬礼-三指の敬礼-をしていたのです。
のちに負傷したこのアメリカ兵は本国に送り返されました。スカウト本部を訪ね、自分の体験したことを話をしました。
手当てをした日本兵の方は?…多くの人で捜しましたが見つかりませんでした。おそらく戦死したのだと思われます。
しかし、この無名のスカウト戦士の話は長く伝えられ、これこそ真の兄弟愛であると多くの人に感銘を与えています。
横浜の「こどもの国」には、この名も知れぬスカウト兵士の記念碑が建てられています。
「こどもの国」は第二次世界大戦中「東京陸軍兵器補給廠 田名部隊と呼ばれ、園内の森には高射砲や手りゅう弾などの砲弾を作る工場とたくさんの弾薬庫がありました。
その弾薬庫の一つに記念碑が建立されています。
『戦闘力のないものを殺してはならぬ。これは日本の武士道の精神である。日露戦争のとき、私は中学生だったが、当時の日本の軍隊にはこの精神が徹底していたように聞いていた。この話を米国BS本部から伝えられたことは全く嬉しい事である。この日米2人の無名スカウト戦士を記念するために記念碑を建てたいと、ボーイスカウトの富士野営場で話をした。其両三日後この話に打たれたとて、一日も早く記念碑を建てて下さいと、若干の為替を入れた手紙が私の家に届いた。私はこれに鞭打たれたような気がした。これが動機となってBSの寄付金が、すでに30数万円集まった。原型は横江嘉純先生が2年も前に、すすんでモデルになってくれた米兵、その当時の日本兵の服装は今村元大将のご指示を得て作ってくださった。それをもとに鋳造(山内春造氏)してもらいまして、これをこどもの国に贈呈することになりました。』(第5代総長 久留島秀三郎)
この夏、太平洋戦争終結から60年を迎えます。
戦争ほど悲惨なことはありません。平和がいちばんです。
<< 参考HP >>
http://yosimura.vis.ne.jp/heiwa/heiwa012.html
http://www.scout-yokohama.org/contents/unknown_soldier.html
イギリスからアメリカへスカウト運動が伝わったきっかけは、名も知れぬ一人のスカウトの小さな善行でした。
しかし、日本でも同じような美しい話があります。
ボーイスカウト精神を表す『三指』から生まれた日本兵とアメリカ兵の物語です。
太平洋戦争の末期、南洋の島々で日本軍とアメリカ軍の激しい戦いが繰り返されていたころの話です。
南洋のある島で、一人のアメリカ兵が日本軍と戦闘を交えた際に負傷し、気を失い、倒れてしまいました。彼が気がついたときには、すでに友軍は引き上げた後で、彼の周囲には誰も残っていませんでした。
そのときです。銃剣を手に恐ろしい顔つきで突撃してくる日本兵の姿が彼の目に映りました。地面に横たわっている自分の喉元へ、日本兵の銃剣がせまるのを見たとき、そのアメリカ兵は再び気が遠くなってしまいました。
しばらくして、そのアメリカ兵は、気が付きました。
生きていた!… しかも、自分の傷には手当てが施されていました。
しかし、あたりには誰もいません。
怪訝に思いながら、起き上がり辺りを見わたすと、かたわらの木の小枝にぶら下がっている小さな紙片が目に付きました。
広げてみると英語でこう書かれていました。
『私が君に近づいたとき、君は三指の敬礼をした。
自分もかつては日本のボーイスカウトだった。
ボーイスカウトは、世界の人すべてが兄弟だ。
三つのちかいをあらわす三指を見てスカウトとしての気持ちがよみがえり、兄弟であり、かつ、傷ついている君を殺すことはできなかった。
手当てをしておいた。一日も早く回復してほしい。グッドラック!』
幼いときからボーイスカウトで活動していたこのアメリカ兵は、気を失う瞬間、無意識のうちにボーイスカウトの敬礼-三指の敬礼-をしていたのです。
のちに負傷したこのアメリカ兵は本国に送り返されました。スカウト本部を訪ね、自分の体験したことを話をしました。
手当てをした日本兵の方は?…多くの人で捜しましたが見つかりませんでした。おそらく戦死したのだと思われます。
しかし、この無名のスカウト戦士の話は長く伝えられ、これこそ真の兄弟愛であると多くの人に感銘を与えています。
横浜の「こどもの国」には、この名も知れぬスカウト兵士の記念碑が建てられています。
「こどもの国」は第二次世界大戦中「東京陸軍兵器補給廠 田名部隊と呼ばれ、園内の森には高射砲や手りゅう弾などの砲弾を作る工場とたくさんの弾薬庫がありました。
その弾薬庫の一つに記念碑が建立されています。
『戦闘力のないものを殺してはならぬ。これは日本の武士道の精神である。日露戦争のとき、私は中学生だったが、当時の日本の軍隊にはこの精神が徹底していたように聞いていた。この話を米国BS本部から伝えられたことは全く嬉しい事である。この日米2人の無名スカウト戦士を記念するために記念碑を建てたいと、ボーイスカウトの富士野営場で話をした。其両三日後この話に打たれたとて、一日も早く記念碑を建てて下さいと、若干の為替を入れた手紙が私の家に届いた。私はこれに鞭打たれたような気がした。これが動機となってBSの寄付金が、すでに30数万円集まった。原型は横江嘉純先生が2年も前に、すすんでモデルになってくれた米兵、その当時の日本兵の服装は今村元大将のご指示を得て作ってくださった。それをもとに鋳造(山内春造氏)してもらいまして、これをこどもの国に贈呈することになりました。』(第5代総長 久留島秀三郎)
この夏、太平洋戦争終結から60年を迎えます。
戦争ほど悲惨なことはありません。平和がいちばんです。
<< 参考HP >>
http://yosimura.vis.ne.jp/heiwa/heiwa012.html
http://www.scout-yokohama.org/contents/unknown_soldier.html