「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ジュウドウー

2006-10-08 10:35:45 | Weblog
 作業に行くとよく英兵から「ユー、ジュウドウー?」と聞かれた。最初は「ノー、ノー。」と答えていたが、話によれば埠頭で海軍の人が何か英兵に殴られそうになったとき、背負い投げで見事にコンクリート道に叩きつけたそうだ。それで英兵は柔道に恐れをなして聞くのだと分かった。
 それからは
 「イエス、イエス」と答えるようにした。それまでは若い英兵達はボクシングの構えで拳を固めて「カーマン」なんて言っていたのが止んだ。

腐っても鯛

2006-10-07 22:09:28 | Weblog
 この頃だったか本部から
 「作業所で過酷な取り扱いを受けている所は申し出よ」の通達があった。
 私達は早速、現在行っている道路作業所の状況を報告して「何とか改善して欲しい」と訴えた。この作業所は現地人が監督して、ひっきりなしにコンクリート作業を、ろくすっぽ休憩もさせずに、何か日本軍人に対して憎しみを持っているのか、次から次えとへとへとになるまでこき使った
 「どうしてあいつは、こんなにこき使うのか?」
 「あいつは我々をこき使って成績を上げ、英軍に取り入ろうとしているんだ」なんて話し合った。それから1日位経った午前中、ライトの横に小さな三角旗を付けたカーキ色の自動車が1台停まって、3人の元日本軍将校と見える人が事務所に入っていった。そして4,5分してから出てきて私たちの作業ぶりを見て再び自動車で帰って行った。
 それから2,3分したら監督が来て
 「今日は仕事はこれまで。帰ってよい」と言った。「どうしてだ」
 「今、お前達の偉い人が来て、話があったので帰ってよい」さてはこの間の申し入れが効いたかなあ と帰ったことがあったが、その次の日から作業が非常に楽になった。
 事務所に入って行った態度は実に堂々たるもので、勿論、丸腰ではあったが頼もしかった。英軍の司令部に南方総司令官の綾部中将が行った時、英軍の衛兵が直立不動、捧げ銃をしたそうだが私達は
 「腐っても鯛だ」と話し合った。

憲法改正

2006-10-06 19:38:12 | Weblog
 4月の末頃、日本の憲法が変わり、軍隊はなくなるということだったが、それでは俺達はどうなるのかという事が問題になってきた。作業隊内でも新憲法についての講演会が開かれたり、解説した文書が廻されたりした。軍隊がなくなったのだから我々は将校も兵隊もない。みんな平等だから中隊もただ1つの集団となり、統率者即ち長は選挙で決めるべきだという話もあちこちの幕舎で討議されているようで、何か重苦しい空気が流れた。
 ある幕舎では、選挙に立候補したいと言う者が票集めに煙草を配って運動しているとの噂もあった。
 そんな時、野村中隊長が私を呼んだ。
 「斉藤、憲法改正で、軍隊がなくなったので後の中隊の長を選挙で決めようという動きがあるが、お前はどう思うか?」 真剣な顔つきであった。
 「そんな動きがあると聞いておりますが、変な奴等が出てこの団結を乱したら困ります。彼等にこの大きな集団を統率する能力がどこにありますか。貴方がたは統率と指揮について教育を受けて居られるのだから、非常に御苦労を掛けると思いますが、是非貴方が今まで通り長となって指揮を取ってください」
 「実は明晩、中隊の幹部会があるのだが、お前の言う事はよく分かった。明晩の幹部会でそう言おう」と言われた。
 その明くる晩、私のところの幕舎で幹部会が開かれた。私達は幕舎の外に出て、成り行きを聞いていたが、話しの末、野村隊長がはっきり皆の前で
 「今後も、この野村がこの中隊の指揮をとる」と、宣言された。そして会議は終わり、散会となった。これで無駄な混乱もなく、集団の結束が保たれたのである。
 この事があってから、野村隊長とは、打ち解けていろいろ階級を超えて話をするようになった。

マレーからの帰還者

2006-10-05 18:27:17 | Weblog
 この頃からだったかマレー半島から内地帰還者が乗船のため集まって来た。一晩幕舎に泊まって出て行くのだ。3回目位から
 「我々は宿屋ではないから泊めることには反対だ」との声が出た。羨ましさから出た言葉だが、、何とも割り切れぬ気持ちだった。 「さっき(先ほど)、マンデー場で将校に気合いを入れてやった」
 「どうした」
 「マンデーに行ったら、うちのドラム缶から水を盗って浴びてる奴がいたから気合いを入れてやった。そいつは素直に〔すみません〕と謝った。
 「きっと、外から来た奴だろう」
 「それがさア、服を着たのを見たら、お前、中佐だった」
 「ヘエー、中佐に気合いを入れたのはお前だけだろう」
 「きっと、マレーから下がってきた部隊だろう」
 いろいろトラブルがあったらしい。それで、宿を貸す事はなくなった。
 あれ達はああして帰って行くのに、俺達はいつ帰れるか分からず、毎日毎日クルジャー(労働)しなければならないんだ。作業隊員は優先的に帰還させる約束ではなかったのか。との声がみんなの口から出た。

宮本桂三君・吉田義信君

2006-10-04 10:01:46 | Weblog
 一度、熊本県出身者名簿が作られた。見ると同じ鏡村の宮本桂三君の名があったので、暇を作って早速、尋ねて行ってみた。宮本君は私たちより古いらしくアタップ葺きの高い宿舎にいた。
 非常に喜んでパンをご馳走してくれた。ここは午後になるとパンの値段が半分くらい安くなるそうで、夕方はまだ安くなるとの事。それで夕方近くになってから、境界の金網越しに取引するのだそうだ。
 宮本君は
 「食糧には非常に困って、靴の皮を煮て食ってみたが硬くて食えなかった。豚の皮だから煮たら食えるだろうとの発想だったが、とにかく食えそうなものは何でも手当たり次第食ってみたよ」 約30分位話をして再会を約して帰った。
 いつか幕舎で留守番をしていたら、海軍の作業服の人が私を訪ねてきた。
 「吉田です。」と言うからよく見たら教法寺の上の吉田義信君だった。ここに糧秣受領のことで来たと言った。今、セレター軍港にいるとの事。10分間くらい立ち話をして帰って行った。

幕舎留守番

2006-10-04 09:37:14 | Weblog
 ここには約3週間位居て(この時のはぎっくり腰だったか?)又、リババレーの作業隊に戻り、第一幕舎に入れられた。ここは宮原中隊長が病気で内地帰還になった後を引き継がれた野村 明中尉の幕舎だった。
 「斉藤、よいところに来た。お前作業に出なくてよいから、幕舎の留守番をしてくれ」と言われて留守番役をさせられた。
 全員作業に出て幕舎を留守にすると、泥棒が入るのだそうだ。私達一般の者は何も盗まれるような品物は持ってはいなかったが、それでも帰還用に大切にしまっている軍服を盗られでもしたら、それこそ一大事である。兵隊の中には英兵や支那人から貰った物やら、盗品交換で得た物などを溜め込んだのもいたからそれが狙われたのかもしれない。

チャンギー保養所 2

2006-10-03 18:08:10 | Weblog
 1週間ほどしたら大分よくなって、体の自由もきくようになってきたので、自活作業の農場に出たが、農場と言っても十アール位の畑で、出来た野菜は自家用にするほか、チャンギー刑務所の死刑囚に持って行って食べさせるのだそうだ。自家用といっても炊事場に出すほか、自分達で適当に鰯や鰹の缶詰で副食物を作るとき、カンコン(空心采)やその他の野菜を使っていた。
 ここからはチャンギーの刑務所が見えた。
 「あそこに明かりがついている階があるだろう。あそこの階が日本軍の死刑囚が入れられている所だ。刑務所から野菜の請求があってから、2日位後、窓の明かりが1つ消えているんだ。死刑が執行されたんだねえー。次、次と次第に消えて行った暗い窓を見るとたまらないねえー。それで俺達は、最後に内地の野菜の味をと思って、一生懸命に栽培しているんだよ」
 しみじみと宿舎の人は語った。それで野菜はいろいろの種類が栽培されていたが、どれも良く出来ていた。
 死刑になる戦犯にも、本当に悪いことをした者もいたろうけれども、人違いされて、現地人から
 「アイツだ」なんて指さされて捕まれば、弁護なんか聞かれず軍法会議に廻されて、死刑の宣告を受けた者もいるという噂があった。実際、作業に行って捕まった者もいたそうで、本当に悪いことをしたのは終戦前にどこか外の所に移動して行って、私達の部隊のように戦闘なんかしたことのない部隊が残されてしまったのだとも言っていた。

チャンギー保養所 1

2006-10-02 19:19:58 | Weblog
 それから1週間位して、朝起きて便所に行こうとしたら、腰が立たない。ようやく這うようにして用を済ませ、この事を幕舎の者に言うと
 「お前、休んで医務室に行けよ」とみんなが心配してくれた。医務室で診察を受けると、「よく分からないが、脊椎カリエスの疑いがあるから、保養所に行け」と軍医が言う。
 早速手続きをしてくれたので、行くことにしたが、荷物といっても雑嚢と飯盒位持って、トラックでチャンギー刑務所からチョット先のゴム林の中のアタップ葺きの長屋みたいな保養所に入った。
 ここは準入院といった格好で、毎日軍医が診察して注射などを打ってくれるが作業は無し。それでも自活の農場があって野菜作りに経過の良い者は、時たまに出されることがあった。
 注射はよく打ってくれたので、左右の腕の第2関節の上のところは皮膚が硬くなって後では衛生兵が苦労するようになった。聞けば薬がないので、椰子の水を注射しているのだとも言っていた。
 ここに入ってから、よく眠った。3日間位昼も夜も飯上げ当番に出る以外は眠っていた。同室の者が
 「斉藤、お前よく眠るなあ。お前のように眠る奴、見たことがない」と言うほど眠った。きっと今までの疲れが出てきたのだろう。

軍歴表

2006-10-02 18:41:29 | Weblog
          軍歴表 

  命  昭和20年9月1日付   陸軍上等兵
  命  昭和21年3月1日付   陸軍兵長
      昭和22年4月1日付   兵精勤賞付与
   
        賞詞
     「リババレー」作業隊
           陸軍兵長 斉藤 永松
  右者作業隊編入以来1年間
  無事故無欠勤ヲ以テ任務ヲ遂行セリ
  依而茲(よってここ)ニ之ヲ賞ス
   昭和22年4月1日
      新嘉圾(シンガポール)部隊司令官陸軍中将
      従三位勲二等功三級 綾部橘樹印
 
 これは病院の処方用紙の裏面に謄写印刷したものである。
 この時、手拭いか何かを貰ったような気がするがはっきりしない。