n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

旧日本軍捕虜の埋葬地を確認作業

2012-06-04 07:48:56 | 情報

   ロシア各地の都市や村で自分の家族の歴史を少しずつ収集しようとしている日本人がいる。先日、日本人捕虜の遺骨を収集し祖国へと持ち帰る事業を行っている日本の代表団が、沿海地方のパルチザンスクを訪れ、軍事捕虜の埋葬地と推定される場所の土壌サンプルを持ち帰った。

     この土壌サンプルを遺伝子分析にかけ、ポジティブだと判明すれば、代表団は再び同地を訪れ、埋葬場所を掘り返す予定だ。60年以上も経過した今、戦没捕虜の遺骨を回収することは可能なのか?

     60万人以上の日本人捕虜のうち約57万7千人が帰国したものの、約6万7千人は戦没捕虜となった。さらに、日本人捕虜の埋葬地は、極東からシベリア、中央ロシアさらにはウズベキスタンやキルギスタンのような旧ソ連の共和国にいたるまで700ヵ所に散らばっている。

     パルチザンスク当局は、遺骨の収集が遺族にとりいかに大切かということに理解を示し、日本の代表団に全面的に協力している。パルチザンスク市の広報部長をつとめるリュドミーラ・ショコレンコさんが「ロシアの声」のインタビューに答え、説明をした。

   「日本の代表団の活動には理解を示しています。ロシアの歴史においても悲劇的なことは多くあったので同情しています。パルチザンスクからほど近いチグロヴォエ村とメリニキ村に軍事捕虜のラーゲリがありました。日本の代表団が、初めて遺骨を収集にやってきたのは80年代末のことです。代表団に協力するためにロシア側も社会団体「サクラ」を創設しました。社会団体「サクラ」を率いるのはパルチザンスクの最高齢の住民、アレクサンドル・エルキンさんです。エルキンさんは、記憶をたどり、埋葬地の場所を特定し、日本の代表団とともに地図と照合し、古文書の情報を探しました。そうした努力が実り、今年までに600名分の日本の軍事捕虜の遺骨が発見され再埋葬されるために祖国へと戻りました。でも、まだ200名分の遺体は見つかっていません。」

     遺骨の探索が困難なのは、日本人捕虜の埋葬地の情報があまりにも大雑把だからだ。それに加えて、遺体が折り重なって埋葬されている二重埋葬とよばれるものも多く存在する。しかし、当時の出来事に関する何らかの情報は、パルチザンスクの博物館で保管されている。古文書を利用した捜索も継続される予定。

   今年の3月にも同じく遺骨の発見を目的とする日本の代表団が、モスクワから200キロ離れた場所にあるウラジーミルを訪問した。ウラジーミルには戦後、18人の日本兵が留まり、そのうちの3人は同地を終の棲家とした。この3人は、2人の将校と1人の警察官だった。地元の教会墓地にはその3人を外国の代表者として記憶するための記念碑が立てられている。しかし、軍事捕虜たちがどこに眠っているのかを知る人はどこにもいない。埋葬を目撃しているのは刑務所の塀にある古ぼけた木戸だけだ。

   日本人の遺族たちは、遺骨を発見することができなくてもこの地に眠っている祖先の正確な名前だけでも知りたいと考えている。全ロシア的組織の「軍事メモリアル協力協会」が、遺骨の捜索を支援する。「軍事メモリアル協力協会」は、古文書の情報及び埋葬地の捜索活動において緊密に外国と提携している。

 ソース ロシアの声   サハリンマン

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オランダとの友好を強く  ... | トップ | ロシア知事選挙再開   »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

情報」カテゴリの最新記事