昭和61年秋と言うことはおよそ半世紀前、石廊崎の灯台そのものは変化がありませんが、周りの建造物はすっかり変わっていました。それでも海の景色は変わりはないのですが、この海蝕洞、波蝕洞窟と呼ぶのでしょうか?の所在地・名前が分かりません。
下田から石廊崎への移動中のバスの中から撮影しています。「竜宮窟」とも思われ参考写真を探し出しましたが、位置からも雰囲気からも断定は出来ませんでした。観光地伊豆でこれだけ見事な海蝕洞に名を付けない訳はないと考え、洞窟で検索しましたが分かりません。近年伊豆地方は頻発地震で大揺れしてきましたから崩壊も考えられますが、ニュースで報じられたことも記憶になく、今も存在しているのでしょう。とにかくこの旅行、かすかに断片的に思い出しつつありますが、まだまだ霧の中です。
次の海岸線がフィルムの最初にありました。当時は「伊豆急」は存在しませんから国鉄伊東駅から「東海バス」に乗っています。下田までの国道は海沿いを走っていますから(何時の頃からか順次バイパスが開通しかなり山中を通っている部分もあるようですが)車窓からの眺めは素晴らしいものがありました。近景がブレているので移動中に撮っています。
下田では証拠写真が数多く存在していました。「日米下田条約議定地」と大書された碑が!ここは了仙寺の筈ですがお寺は撮していません。若き日の姿ですが、その頃koba3は透明人間でした?!?
この碑は今でも存在するのでしょうか?了仙寺のサイトには、何処にも画像がありませんでした。次に「唐人お吉の墓」にお参り?見物に行っています。宝福寺のサイトでは「唐人お吉記念館」の中にあって、お吉の各種の資料と共に有料拝観となっていますが、当時はどんな有様だったかが分かりません。記念館はいつ頃出来たのでしょうか??墓は先代の「水谷八重子」らの寄進で建立されたとありますが、写真では真新しいので直近の撮影だったようです。現在ネット上で見られる画像では、苔に包まれ貫禄が出ています。
そして「平滑の獄」の模型があったようですが、手づくりの素朴なものですが何処に飾られていたのか分かりません。
「下田開国博物館」が詳しく紹介しているとありましたが、50年前に存在していたかは???それでも「平滑の獄」の由来を調べてみました。『ペリー艦隊に便乗して海外渡航の企てに失敗した吉田松陰、金子重輔は柿崎村名主の平右衛門に自首した。二人は下田長命寺(のち廃寺)に一時拘禁されて取り調べを受け、さらに平滑の獄に移された。』そして「平滑の獄」の跡地に「下田開国博物館」が建てられているとは・・・皮肉なのか???
坂下の駐車場にバスを残し坂を登っていますが、何処へ向かっているのでしょう??学生の分際ですがジャケット・スーツにネクタイ姿です。物見遊山の旅ですから現代ではジーパンかチノパンにブルゾンかセーター・カジュアルシャツ姿でしょうから、時代の変化が考察されます。
開けた海、断崖が続いて次に灯台が現れたから、石廊崎へ向かっていたのでした。
長フィルムで連続していたので行程が判断出来ていますが、紙焼きで整理されていなかったら、おそらく旅行記を書くことは想像すら出来なかったでしょう!!!