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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

時代考証している訳では?? お吉の墓&・・・:静岡県下田市・南伊豆町

2010-07-13 16:23:19 | 思いでの写真館

 昭和61年秋と言うことはおよそ半世紀前、石廊崎の灯台そのものは変化がありませんが、周りの建造物はすっかり変わっていました。それでも海の景色は変わりはないのですが、この海蝕洞、波蝕洞窟と呼ぶのでしょうか?の所在地・名前が分かりません。



 下田から石廊崎への移動中のバスの中から撮影しています。「竜宮窟」とも思われ参考写真を探し出しましたが、位置からも雰囲気からも断定は出来ませんでした。観光地伊豆でこれだけ見事な海蝕洞に名を付けない訳はないと考え、洞窟で検索しましたが分かりません。近年伊豆地方は頻発地震で大揺れしてきましたから崩壊も考えられますが、ニュースで報じられたことも記憶になく、今も存在しているのでしょう。とにかくこの旅行、かすかに断片的に思い出しつつありますが、まだまだ霧の中です。

 次の海岸線がフィルムの最初にありました。当時は「伊豆急」は存在しませんから国鉄伊東駅から「東海バス」に乗っています。下田までの国道は海沿いを走っていますから(何時の頃からか順次バイパスが開通しかなり山中を通っている部分もあるようですが)車窓からの眺めは素晴らしいものがありました。近景がブレているので移動中に撮っています。



 下田では証拠写真が数多く存在していました。「日米下田条約議定地」と大書された碑が!ここは了仙寺の筈ですがお寺は撮していません。若き日の姿ですが、その頃koba3は透明人間でした?!?



 この碑は今でも存在するのでしょうか?了仙寺のサイトには、何処にも画像がありませんでした。次に「唐人お吉の墓」にお参り?見物に行っています。宝福寺のサイトでは「唐人お吉記念館」の中にあって、お吉の各種の資料と共に有料拝観となっていますが、当時はどんな有様だったかが分かりません。記念館はいつ頃出来たのでしょうか??墓は先代の「水谷八重子」らの寄進で建立されたとありますが、写真では真新しいので直近の撮影だったようです。現在ネット上で見られる画像では、苔に包まれ貫禄が出ています。

 

 そして「平滑の獄」の模型があったようですが、手づくりの素朴なものですが何処に飾られていたのか分かりません。



 「下田開国博物館」が詳しく紹介しているとありましたが、50年前に存在していたかは???それでも「平滑の獄」の由来を調べてみました。『ペリー艦隊に便乗して海外渡航の企てに失敗した吉田松陰、金子重輔は柿崎村名主の平右衛門に自首した。二人は下田長命寺(のち廃寺)に一時拘禁されて取り調べを受け、さらに平滑の獄に移された。』そして「平滑の獄」の跡地に「下田開国博物館」が建てられているとは・・・皮肉なのか???

 坂下の駐車場にバスを残し坂を登っていますが、何処へ向かっているのでしょう??学生の分際ですがジャケット・スーツにネクタイ姿です。物見遊山の旅ですから現代ではジーパンかチノパンにブルゾンかセーター・カジュアルシャツ姿でしょうから、時代の変化が考察されます。



 開けた海、断崖が続いて次に灯台が現れたから、石廊崎へ向かっていたのでした。



 長フィルムで連続していたので行程が判断出来ていますが、紙焼きで整理されていなかったら、おそらく旅行記を書くことは想像すら出来なかったでしょう!!!


潮騒が聞こえる 石廊埼灯台:静岡県南伊豆町

2010-07-09 17:02:31 | 思いでの写真館

 東京では盆は7月15日ということがなかなか身に付かなくて、子供の頃から旧盆8月の習慣なので未だにぴんと来ません。ということで後1ヶ月後に盆休みがやってきます。纏まっての休みはなかなか取れないので、こんな機会はこの年(どの年?)になっても心躍るのです。夏休みの計画はいつも土壇場になってしまうのですが、ボチボチネット検索で空き宿を探し始めました。昨年に比べ、かなり速い速度で満室表示が多くなっています。定宿のビジネスホテルも近年家族連れも増え、閑散日(期)の日曜・休日でもかなり込むようになりました。

 「山か海か!そこが問題だ」など大仰に構えなくとも良いのですが、近場の伊豆半島なども魅力があるのですが、日にちに余裕が有ればやはり遠い所となってしまいます。日帰りでは下田あたりまでは思い付きで行ってしまいますが、さすがに先端までは泊まりを加えないと楽しめません。その伊豆半島先端石廊崎の灯台の画像です。



 南伊豆町のホームページでは「石廊埼灯台」と表記されていました。“さき”の字は数種類あるので、個人名の時は失礼があってはいけないので戸惑います。そのサイトにある写真はもっとすっきりしています。灯台だけで、この画像にある木造の建物は存在していません。おそらく「灯台守」の宿舎なのでしょう。「悲しみも喜びも・・・」の映画にあった灯台守の生活があったのでしょうが多くの灯台がそうであるように、遠隔操作の無人施設になっているのでしょう。それでも海は変わりなくそこにあります。



 この画像は昭和36年(1961)9月、大学のクラス旅行の時のもののようでした。これ以後下田までは仲間や家族と何度も行っていますが、石廊崎まで行ったのは後一度あったでしょうか、写真がないので確かめられません。観覧用の双眼鏡は、灯台の近くにあったのかもっと先なのか記憶にありません。石廊埼灯台の先にある石室神社か更に先にある熊野神社にあったような???

 

 断崖の続くのは奥石廊のようですが、僅かな砂浜にも船泊はあったようです。



 しかしこの旅行、行程も宿泊場所も殆ど記憶にないのが不思議です。ネガを見つけても、スキャンして画像をクローズアップしても、まだ記憶の片鱗も出て来ません。オリンパスペン使用でハーフサイズ、70枚以上有ります。順次整理して眺めている内に記憶がよみがえってくることを期待したいのですが・・・。身を乗り出して、波の動きを捉えているのですから!!

 


青春の思い出ですが 三ツ峠:山梨県西桂町

2010-04-24 13:05:43 | 思いでの写真館

 明日は日曜日、来週週末からはいよいよ待望のGWスタート、遠出したいのですが先立つものが・・・!不足!!それでも何とか節約してト・・・4月はひっそりとこもりっきり、おかげで過去記事ばかりとなりはてました。それでは更にト!過去を遡ってみました。

 時は春、春と言えば青春???とこじつけ、大学生活最後の年、昭和39年(1964)春五月、現代では“合コン”ですが当時は“合ハイ(ハイキング)”全盛の時代、級友から員数合わせに誘われて3+3人で行ったのは、富士の見える三ツ峠でした。



 新宿から河口湖行きの直通電車、何と夜行列車でした。3時間程コンコースに行列で並び、乗り込んだのがベンチシートの国電通勤用車両、当然座席数は少なく、やっと確保した座席は女性軍に譲り男性群は床に新聞紙、何しろ男性は山男ばかり、4等寝台(夜行列車の床で眠る移動を当時はこんな呼び方をして、当然の事態でした)は慣れたもの、青春真っ只中、翌朝の登山にはいささかの疲れも感じない時代でした。

 

 リーダーは山岳部の猛者、軽い夜行日帰りのハイキングには不似合いの重装備のキスリングを担いで、おかげで簡易テントからラジュース・コッフェル迄揃い、豪華なランチでした。



 以来三つ峠には縁がありませんが、広々とした大地に青空に聳える富士山、眼下には河口湖が広がり、今でも人気の山なのです。



 榊原淳さんのblog「山とランニングの日記」にはしばしば三つ峠が出て来ますが、写真のような穏やかな草原ではなく、切り立った岩壁で、ザイルを使った登攀の訓練の場の画像が随所にあります。硬軟両端を備えた人気の山であることが分かりました。

 帰路は河口湖バスターミナルから新宿直行のバスが予約してあり、時間まで河口湖で水遊びをしています。貧乏学生にしては珍しく、モーターボートをチャーターして水面を飛ばしていました。



 中央道はまだ出来ていない時代ですから帰りのバスは、往復2車線の曲がりくねった甲州街道を走ります。余談ですが、バスセンターへ行った時乗る筈のバスの姿はなかったのでした。時間ぎりぎりだったので出発してしまったと思ったのでしたが、しばらくしてバスが現れました。運転手さんによれば、時間間際でも我々が現れないので、湖畔に経由停留所があり、そちらでの乗車かもしれないと廻ったが姿が無く、6名ものお客を置き去りにする訳にもいかず戻ってきたとのことでした。古き良き時代でした。

 余談の余談ですが、3名の女性の中の約1名が、今も我が家に居座っている妻なのでした。


日本寺には観音像も 鋸山&笠森観音:千葉県鋸南町・長南町

2010-04-21 16:10:37 | 思いでの写真館

 鋸山日本寺の大仏の写真を掲載して、思い出は他にもあり少し纏めてみようと作業を始めました。昭和50年代始めから10年程は子供達も幼く、夏の海水浴もよく行きました。湘南は混む上、その頃は海も汚れが激しく大腸菌検査ではいつもぎりぎりの状態だったと記憶しています。広々として砂浜の綺麗な外房へ行くようになっていました。その行き帰り、鋸山や大多喜城などアチコチ立ち寄っていました。写真の保管場所ははっきりしているのですが、未整理状態で容易に取り出せない状態なのです。いずれ整理と思いながら数十年が経ちました!?!ヤレヤレ!?!

 鋸山には最初は30年程前に家族で行っていますが、これは2度目に渋谷の地区会の有志で行った時の写真です。昭和55年(1980)9月であったことが、フィルムに書き込まれていました。日本寺の百尺観音像の前の記念撮影です。



 一つの行事で1本のフィルムを撮りきることにしていますが、何故か端の四コマのみ他の写真の間に入っていました???その内の一枚です。

 房総半島は東京から比較的近くて海もあり、鋸山のように高くはないけれど軽いハイキングの出来る山もあります。日帰りも出来るし宿泊しても楽しめます。何しろ、現地で食べる魚類の種類の豊富さと味の良さは堪えられません。最近では、朝思い立って通行料の安くなったアクアラインで保田の“ばんや”へ魚を食べに行ったりしましたが、通常使用する京葉道路の慢性的な渋滞を考えると、つい億劫になってしまいます。

 この時は同行4人車一台、内房から入って鋸山散策、館山で昼食をして白浜経由で外房へ、鯛ノ浦の遊覧船と行川アイランドのフラミンゴショー、その頃の定番コースでした。koba3以外はゴルフには来ていても房総の観光は初めてでした。鴨川グランドホテル宿泊で少し贅沢をして、翌日は大多喜城などに寄り道して帰路につきましたが、締めは通称:笠森観音(長南町笠森寺)に立ち寄りました。長南町は勝浦街道(大多喜街道)と茂原街道の間にあって、やや狭い地方道を行かなければならず、訪問者は少ないようでした。



 清水寺の舞台を小振りにしたように感じましたが、独特の「四方懸造」の観音堂とガイドにはありました。舞台を支えるやぐらを含めかなりの量の画像をカメラに納めました・・・筈、いずれ掲載出来るでしょう・・・??


顔を隠すには・・・? 日本寺大仏:千葉県鋸南町

2010-04-19 17:05:11 | 思いでの写真館

 個人情報保護法なるものが施行されて、色々困惑しています。学生新聞に関わっていた関係で、専門家にはお呼びもつかないのですが、多少の印刷や紙面構成に関心と素人なりの知識があったので、社会人になってからも機関誌紙や記念誌のお手伝いをしてきました。プライバシーへの配慮は当然考えの範囲内でしたが、マイナスの事項はともかく、プラスのイメージに繋がる事柄は本人の名誉ともなることですから、断りもなく掲載するのも当然とされていました。

  しかし、個人情報保護法後は、あらゆる個人に関する情報・データは本人の許諾が必要と思われるようになりました。その為同窓会名簿などの名簿類、学校の連絡用電話網なども作ることも出来なく、作っても掲載拒否された個人データは空欄となる事態になりました。現在携わっている同窓会会報には、各地区やクラス会の記念集合写真が掲載されています。全員に掲載の承諾を得るのは、作業上不可能に近いのです。「写真に写るためにそこに並んだのが許諾」などと詭弁は労するつもりはありませんが、慣例として掲載を続けていますが、いつまで許されるかは・・・??デス。

 この問題を取り上げたのは、昭和40年代から平成に入る頃までは、家族旅行や、色々な会や仲間の団体旅行が多かったので、名所旧跡・絶景ポイントのメインとなる風景の前では、必ずと言っていい程大勢の人物の記念写真かスナップとなっていました。景色だけの画像は極端に少なく、そして手詰まりになったのです。それでも数ある写真を、多少の加工でプライバシー保護を試みてみました。2005年5月の末、房総の鋸山、日本寺の大仏です。



 幼なじみ、小中学校の同級生で関東在住者の有志が、年に数回飲み会で集まったり、たまに旅行をするのですが、その時の一枚です。顔にモザイクを入れたり目をつぶすのも興ざめですから、全体を横にぼかしてみました。この場合は景色も崩れず、一見成功のようです。顔部分のみを選択的に画像の雰囲気を壊さない程度にごまかせる手法が有れば・・・そんな「ソフト」有りや?無しや?イラストレーターの応用に有り??乞うご助言!!

 人気スポットの人混みも苦労します。避けたつもりが真っ正面に人の顔、他人様をあからさまに掲載する訳にもいかず、トリミングして中途半端な焦点の定まらない画像となりはてます。「新緑」をテーマに画像を探していて、人の立ち入らない場所がありました。2005年の5月半ば、京都上加茂神社、葵祭の当日は人波が溢れていましたが(過去記事はこちら)、翌日は静かになりました。それでも参道には参詣客が切れ目無く現れましたが、立ち入る事の出来ない場所の画像です・・・?静寂を感じる??変哲もない!?!



 同じ新緑でも公園や神社仏閣は造形の美があります。池の中には人はいないので人影を避けて撮影した東京ミドタウンに隣接する檜町公園の池です。2008年のGWでした。



 そして今一つの手法は、ごく当たり前の遠景にしてしまうことです。同じ日檜町公園から地下鉄千代田線で一本で行かれるツツジの根津神社、拝殿から山門まで続く行列を避けて、遠くから参拝しています。もっとも、ツツジ祭りの只中にツツジの写っていない写真は???



 集合写真の人物の顔だけモザイクのような不自然な細工ではなくほのかにぼかし、背景を生かす工夫何とかなりそうで、試行錯誤してみる価値はありそうです。成功すれば、紹介出来る旅先はまだまだあります。


お城に桜 似合います 名古屋城:愛知県

2010-04-09 13:58:45 | 思いでの写真館

 今年はお花見らしいお花見には行かれませんでした。過去の桜の画像もほぼ掲載してしまっていて、残っているのは家族の記念写真のバックになっているような構図のものが大部分です。それでも掲載出来そうな画像を探ってみました。

 平成6年3月の終わり、家族と一緒に実家へ帰っていました。大学生の次女と高校生の長男は同行していましたが、既に社会人となっていた長女が欠けることが多くなっていました。この時何の目的で実家へ帰っていたか朧気ですが、日付から見ると母の七回忌のようでした。法事といえどもせっかくの帰郷、素直に帰ることはしません。たまのふる里もいつも慌ただしく、子供達を愛知県下を連れ回した記憶も少ないのです。名古屋市内で初めての場所、それが名古屋城でした。



 再建された天守閣には昭和30年代、屋根に上げられる前の金鯱が公開されていた?のを見に行った記憶があり、その時登ったはずだが定かではありません。何しろ、城には各地で出会い訪れているのですが、うんちくもなくただ見上げて“ウ~~~ん!見事!!”と感心してオシマイ、登楼することはまれなのです。家族の背景に桜は沢山撮影されていましたが、桜並木はこれ一枚でした。西之丸か二之丸辺りと想像出来ますが、マッタク記憶にないのです。



 城の外に廻って外堀周辺を散策した所までは記憶が帰ってきましたが、その後帰京はどうしたのか??新幹線でなければ車の筈、真っ直ぐ帰ったのか??寄り道したのか???写真が途切れているので定かでない!!定かでないことだらけですが、思い出す努力をしなければ!!!ボケないために!!!

 それにしても、カラー写真の退色が予想以上に進んでいます。依頼したラボによって随分差がありますが・・・。


カラーでないので桜の花も??? 保津峡・京都嵐山:京都府京都市

2010-02-03 12:54:30 | 思いでの写真館

 保津峡下りの船は、現在ではJR亀岡駅近くの乗船場から、嵐山渡月橋まで運行されていますが、写真の1960年当時の乗船はどこからであったかは記憶していません。とにかく西陣会館和服ショーから定期観光バスで拉致されていったのですから・・・。乗船場近くの画像でしょうか、陸揚げされた舟越しに川面を行く舟影を撮っていました。



 舟の類別を探ってみましたが、屋根はあっても周りは素通しで屋形船とは言えないので、高瀬舟の分類に入るのでしょうか・・・。峡谷のどの辺りかは定かではありませんが、川面に浮かぶ姿は何となく“風流”を感じさせます。



 保津川が再び桂川と名前を戻す嵐山地区にはいると、川幅も広くながれも穏やかになります。嵐山公園の一部ではありますが、亀山天皇を含む3天皇に由来する塚があるため、亀山公園と名付けられた辺りには茶屋も多く設けられ、桜の花も咲き始めていました。



 崖の中腹には茶店なのでしょうか茅葺きの建物が見受けられます。更に遠くには多宝塔でしょうか、それらしき姿が木の陰に見えていました。亀山公園の奥の高台には常寂光寺が有りますが、かなり離れているはずで舟の上からかろうじて見えたのでしょう、多宝塔の先端部分が木の上に覗いていました。



 この項を纏めている時に、偶然「志村さんのブログ」で「写真教室」が始まっていました。長年映像をプロの仕事として扱ってきた志村さんの解説には、なるほどそうか、と、今更ながら肯かされました。それでも若い頃は写真を撮るために旅をしていましたから、ある程度纏まった映像が残っていますが、家庭を持ってからは旅のついでに写真を撮ると立場が逆になってしまい、映像だけでは全てを語ることが出来ず、冗漫な解説文で逃げざるを得なくなっています。

 世の中カラー写真が安価になり手軽になり広く浸透した後も、モノクロ写真に拘っていました。色を活用するという意識より、色に惑わされて真の表情を見失うと信じていたからですが・・・。モノクロの世界では、コントラストが重要なポイントとなるのですが、逆光などで全体が黒くつぶれてしまい、焼き込みや覆い焼きなど暗室作業で、かろうじて表現の修整を加えたりしていました。

 bulogをはじめて以来、ネガをスキャンしてデジタル化してPC上で作業すると、没に近い画像でも見るに堪えられる程度には復活させられることを知りました。保津川峡船下り、アップで撮った船頭さんは空をバックに完全な逆光で真っ黒も、表情が分かる程になりました。この船頭さん、存命でしたら優に百歳を越えているでしょう。



 最近では年のせいか、長時間にわたる暗室作業に耐えられなくなり、現像引き伸ばしの要らないデジカメ画像使用でカラー写真の表現の良さを見直し、モノクロの世界からは遠のいています。しかし、カラー写真では彩色に手を加えることは、撮影のときの思い入れと被写体の本質を見失う気がして、逆光で細部がつぶれてしまった時以外修整は控えるようにしています。

 現在主流の一眼レフカメラとズームレンズの組み合わせは、対象を切り取るという写真の本質を自由に操れて、より良い画像が得られます。しかし、撮影条件によっては思うような構図が取れないことも多いのです。そこで写真の持つ便利さでもある「トリミング」の作業が重要になります。この作業により、主張を更に強調することが出来ます。幸いPC上では自由に何度でもトリミングが試すことが出来、ベタ焼き上に何本ものラインを入れ試行錯誤していた頃が、遠い過去の思い出となりました。


今も昔も変わりません 渡月橋・京都嵐山:京都府京都市

2010-02-01 09:59:26 | 思いでの写真館

 昭和35年=1960年ですから丁度50年前、京都の定期観光バスに乗車していました。この時の旅、どんなきっかけで出かけたかの記憶はありません。西陣織会館の着物ショー以外、写真を辿っても何も思い出せないのです。中学、高校時代の修学旅行や、合宿などは鮮明に記憶している・・・のに、何故かこの時の思い出は途切れているのです。

 フィルムには、嵐山の渡月橋が残っていました。橋の姿と周囲の風景は今も昔も変わりがないので、昨日撮影したと行っても区別は付きません。



 バブル後は多少減ったと云われますが、修学旅行のメッカと言われる嵐山には、近年タレントショップ、キャラクターショップが沢山居並んだと聞きますが、もちろんこの頃は普通の土産店、飲食店しか無かった・・・もっとも、今も昔も観光地でのお土産は殆ど買ったことがないので、そちらも記憶がないのですが・・・。

 バスの出発までのひととき、記念撮影や河原の散策をしている画像も残されていましたので、乗客一同短時間の同行で、かなり親しくなっていたようです。



 桂川沿いの散策路の松、京都観光案内にも映っているので、由緒ある松なのでしょうか。



 桂川、上流は保津川と呼ばれ保津峡の川下りがありますが、バスは上流で客を船に引き渡して、嵐山まで船下りをした模様・・・画像が残っていましたが・・・。


記憶がはっきりしない旅 京都御所:京都府京都市

2010-01-29 14:06:25 | 思いでの写真館

 毎年のことですが、冬の間は「旅のブログ」は端境期になります。スキーを除いては、というよりスキー最優先ですから、手持ち資金と時間はスキーに費やしてしまいますから旅はほとんど割愛してしまいます。雪山は体力も気力も続きませんし、未知の世界ですから耳学問ですが、冬山は晴天の日は少なく吹き荒れれば寒さで凍え、何のために登るのかが未だ理解出来ていません。その上遭難が怖くて実行したことがありません。ということでこのブログも更新が途絶えがちになります。それではならじとネガホルダーを探ってみても、収穫は少ないのです。それでも3月の終わりから4月始めにかけて学生時代は期末休暇でしたから、スキーから帰った後(スキーは贅沢として年間の回数を制限されていて、小遣い不足に陥って)時たま学割利用(当時学割は料金半額で、普通夜行列車が学生の定番!)夜行列車の安旅に出ていたようです。

 1960年ですから、大学入学して一年終えた4月初旬のネガがありました。もちろんモノクロですが、一枚目に和服の女性が舞台でポーズを取っていました。



 記憶を辿ってみると、京都西陣織会館でのファッションショーのようです。夜行列車で京都入りして定期観光バスに乗車、最初が西陣でした・・・とやっと思い出してきました。和服の女性とネクタイスーツ姿で観光、今とは随分違っています。そしてこのコースに乗った目的は京都御所にありました。当時も今と同じ事前に参観の手続きなどが必要なのかははっきり記憶していませんが、観光バスなら無条件で入場出来ました。京都は中学の修学旅行で行ったきりだったので、大して多くを観覧していた訳でもなく、何処へ行っても殆ど未知の場所だったのです。京都御所の紫宸殿がフィルムに保存されていました。



 最初ネガをスキャンしても、そこが何処かは判断出来ませんでした。二条城かと考えwebサイトで見比べても合致しません。記憶を辿って西陣織会館周辺での観光場所を探ってみて、画像の橋の形が「御池庭」のそれと一致して、やっと京都御所であることが分かりました。



 松の向こうに建物が見えていますが、塀の外の京都御苑なのか御所内なのか分かりません。それ程記憶が薄れてしまいました。



 一昨年春の京都旅行で京都御所の特別公開と出会い、事前手続き無しに入場出来ると知り勇んで門前まで辿り着いたものの、時間に間に合わず残念な思いをしました。今一度と考えていたのですが、50年前に既に実現していたとは!!西陣のファッションショー以外記憶が途切れ途切れなのは何故???


昔・山奥のダムへ向かいました 大井川鉄道井川線:静岡県

2009-06-29 14:55:31 | 思いでの写真館

 久しぶりに鉄道の本を買って眺めてみました。学生時代や独身時代、国鉄とバスを乗り継ぎ、ごくまれに地方の私鉄(路線は案外少なかったと記憶していますが)も利用して“貧乏旅行”をしていました。雑誌の付録の「昭和35年の鉄道路線図」を眺めていると、廃線や第3セクターへの移行などかなりの変化が認められます。秘境の地などと旅行雑誌に紹介されていて勇んで出かけた路線も、随分無くなっています。逆にその年代ではひっそりと運行しており廃線も取りざたされていた路線が、何かのきっかけで脚光を浴び息を吹き返している場合もあります。蒸気機関車の運行で観光客を集めている「大井川鉄道」もその代表格に当たるでしょう。

 昭和42年(1967)、寸又峡へ行くため東海道線金谷から千頭まで、大井川鉄道の蒸気機関車で曳かれていた列車に乗りました。翌日千頭より先の井川線、(森林鉄道ではなくれっきとした鉄道ですが、)ディーゼル車牽引の列車で井川ダム、草薙ダム方面へ向かっています。



 途中渓谷に沿って遡上し、ダムに到達していました。(写真は、草薙第一ダムと井川ダムが混在しています。)

 

 

 帰路は静岡へ直接バスで向かっていますが、その辺り、風景がどうだったかは記憶が欠けています。ダムサイトで出発を待っているバス、“オールド”の雰囲気たっぷりです。



 写真を整理していて、目的地の風景写真は数多く写していますが、車内から沿線を写した写真は意外に少ないことに気が付きました。列車やバスに乗ると、居眠りの間を惜しんで窓外に流れて行く景色を食い入る様に眺めていました。記憶に留めるのに夢中で、写真は眼中になかったようです。
 「鉄道マニア?全国の鉄道ファンのみなさまへ 」のサイトに、鉄道ファンの分類が乗っていましたので、簡略して紹介します
・「乗り鉄」:列車に乗ることを趣味とする人
・「撮り鉄」:列車の撮影を趣味とする人
・「録り鉄」:走行音または発車メロディなどを録音する人
・「葬式鉄」:廃止直前の路線や廃車間近の車両を趣味の対象とする人
・女性の鉄道ファンを「鉄子」と呼ぶ習慣もできつつある

 koba3、かっては「乗り鉄」であったようです。現在は車移動が主でそれも叶わず、おまけに新幹線は遮音壁とトンネルが多く、絶景とされる場所ほど景色が寸断され、「乗り鉄」には受難の乗り物となっています。それにしても、北から南まで国鉄は縦貫乗車していますが、車窓風景は殆ど残っていないのです、ハテサテ!?!・・・。