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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

木造校舎と田園風景 半田中学校:愛知県半田市

2012-07-02 12:14:09 | 思いでの写真館

 ブルマをはいた女子中学生が見事に走り高跳びのバーをクリアーしている。かって学んだ頃の学校では遠足、学芸会、展覧会そして運動会が4大行事といえた。もちろんとっておきは修学旅行だが・・・。この画像で何を語ろうとしているのか??古い画像記録から“時の旅人”を気取ってみた。

 昭和28年の秋(の筈。中学校では春の記録会、秋の総合運動会と2度開催されていた記憶があるから)まだ戦後の故かハイジャンプのバーはなんと竹竿そのまま、飛び方も前跳びであってロールオーバーは少なかった。この画像で語るのは背後の校舎である。木造瓦葺き平屋建て、中渡り廊下で串刺しされた並列型であった。同じ中学校の最近のホームページ表紙の写真を借りてきた。運動場の正面同じ場所に建つ立派な校舎であった。


 念のためGoogleの3D画像で写真と同じ方向で眺めてみた。・・・便利な世の中だ!



 校舎内の画像はそんなに保存していなかったが、その後3年間夢中になって打ち込んだ放送部の「送別会」(翌年度末であろうか)の模様があった。畳の部屋だから教室と同じ造りではあるが家庭科室のようだ。当時の教室内では特異な雰囲気だが、木質サッシや“黒板”が当時を物語っている。



 運動会に戻るが、男子生徒おそらく3年生だった記憶があるが「組み立て体操」の画像である。多勢なのだが一学年400名全校で1200名、今ならさしずめマンモス校だが、当時は当たり前の人数だった。



 この画像が語るのは背後の煙突の煙の右端の屋根にとんがり屋根が乗った建物についてである。4階ほどの高さのレンガ造りの建物は「カブトビール」の醸造工場として建設され、戦争中は中島飛行機の部品工場として使用されていたため壁に米軍機から放たれて機銃掃射の弾痕があった・・・(現在は市の文化財として保存されている)・・・朝晩通学時に眺めていた。当時は学校は田んぼに囲まれていたので見通せたが、現在は住宅が密集しているので、何処まで見えるかは確認していない。

 もう一枚は女子生徒のダンスの画像だった。今だったらおそらく派手な色彩のミニスカートにボンボン持ってホップに踊るのであろうが、当時では紺のプリーツ入りのスカートにセーラー服が制服だったので、白いブラウスを組み合わせてそろいのスタイルで踊っている。曲目などは記録にない!



 背後の学校周辺の模様が写っているが、階段上の田んぼの上段には画像でははっきりしないが名鉄電車の線路があり、2~30分に1本程度の電車が走っていた。(現在では倍以上の運行本数になっている)その線路の向こう側、写真では右端の連棟の建物は精神病院であったか伝染病隔離病院であったかどちらかの記憶は曖昧だが、そんな施設が置かれる程の郊外であった。現在では病院も移転し町中心部から移転してきた役所(裁判所などの公的な)や、住宅に埋め尽くされているようだ。田舎といえども田園風景は遠のいているようだ。

追記:保存状態の悪いアルバムのモノクロ写真、変色やシミ取り階調を整えるのに手間取っているが、デジタルでなければそんな作業も不可能だ。だが修正出来るのも程があり、しばらく“あれた”画像が続く・・・!


遊園地も今は無い! 犬山遊園地・木曽川:愛知県犬山市

2012-06-28 11:40:13 | 思いでの写真館



 無邪気にメリーや回転ブランコで遊んでいるのは中学一年生、「犬山遊園地」への遠足の一コマだ。現代の豪華設備のコースターなど充実したテーマパークと異なり電気自動車や回転木馬など、今では幼児しか興味を示さない遊具が中心だったと記憶している。何しろ昭和28年の秋、終戦後8年しか経っていないのだから・・・。「おとぎの城」の中に何があったかも記憶にない。



 名鉄犬山線、犬山遊園駅のすぐ傍であったことは間違いないが“犬山・テーマパーク”で検索をかけても「モンキーセンター・明治村」が現れるだけ!それでもかって訪れた記念すべき遊園地の来歴など少しは記録がないものかと・・・断片的にいくつかの事実は知ることが出来た。
 駅名は当初犬山橋駅であったが犬山遊園駅に改称されたのは、駅近くに作られた「犬山遊園地」に因むのであろう事は想像出来る。が、それを裏付ける資料が見あたらない。しかも開設の時期や廃止の時期・事情も定かでない。・・・資料を見つけられない。それでも現在の名鉄犬山ホテルの広い敷地の一部が遊園地跡地らしいことを知ることが出来た。

 引率の教師が射的に興じているが、今の時代この写真がモンスターペアレンツの目にとまったらおそらく引責問題に発展しかねないが、写真がアルバムに残されている“良き時代”であった。



 別のサイトで調べてみてやっと「犬山遊園地」の文字を見つけることが出来た。『大正~戦後にかけて活躍した画家吉田初三郎は、各地の都市や名所、鉄道沿線を独自のパノラマ手法で描いた鳥瞰図が有名です。初三郎は大正12年、後援者の名鉄の社長の好意で犬山に本拠を移し、当時「日本ライン」として売り出し中だった犬山周辺を題材にした作品を次々に発表し、犬山観光のPRに大きく貢献しました。』『昭和15年に発表された日本ライン図絵には当時の犬山の様子が手に取るように精緻に描かれています。犬山城の下を流れる木曽川には帆船が行きかい、現存する犬山橋のほか洋館の犬山ホテルや和風の彩雲閣、犬山遊園地、城山荘、後藤別荘など、今はなき当時の建物の姿が鮮明に描かれています。』

 その日本ライン・木曽川は犬山遊園のすぐ脇を流れていて、遊園地の後は川原で憩っていたようだった。対岸は岐阜県各務原市であり、このころは道路併用の鉄道橋犬山橋を越えると名鉄犬山線の終点鵜沼駅がある。



 この時が犬山遊園へは初めてであったかは定かでないが、犬山城の画像もなく記憶が取り戻せないでいる。その後も実家家族と鵜飼いに行ったり、子供たちを引き連れた家族旅行の折も含めてこの地にはずいぶん多い回数訪れているはずだから、いずれ白亭城(犬山城)なども見られそうだ。それにしても世の中の変遷・流行りものの変化は予測を超え、遊園地などは今や機械化されたテーマパークが主流になり、夢とロマンをコンセプトにした「多摩川園」「向ヶ丘遊園」「二子玉川園」「横浜ドリームランド」など子供たちと遊んだ施設はすでに消え去っている!!


弘法大師は今はいない? 聚楽園大仏:愛知県東海市

2012-06-22 14:32:04 | 思いでの写真館



 聚楽園の大仏様、愛知県東海市、名鉄河和線・常滑線の聚楽園駅から見上げる丘の上から顔を出している。昭和28年(1953)中学一年入学最初の遠足で行った時のようだ。その画像が今?何故?

 6月は雨が多い。そして祝日がないから臨時休業としてしか休めない。肩身が狭い!8月も祝日はないが盆休み、夏休みと称して公然と休みが取れるから祝日が無くても問題ない。ということで6月から7月前半にかけては出かけることも少なく、旅の記録は少ない。今後7月の連休まで予定が立て込んでいて出かけることも出来ないので新ネタも得られない。そこで色々考察してみた結果この画像となった。

 以前このblog内で北海道から九州・沖縄まで1道1都2府43県の内、足を土に着けていない徳島県と沖縄県を除いて41県の内掲載していない所が数カ所あった。その後を穴埋めをしていってほぼ網羅したつもりだったが、大分県と熊本県が欠けていることが分かった。いずれも高校の修学旅行で周遊しているので写真は撮っている。多分しまい込んだアルバムに貼り付けてあるはずだが、肝心のアルバムの所在が家の建て替え以後不明になっている。が、中学時代から高校入学辺りまでを見つけることが出来た。集合・記念写真が多いので、紀行としての記述が出来るかは???だが、少し整理してみた。

 愛知県知多地方に生活すると「聚楽園の大仏」は当然のように日常にとけ込んでいる。中心都市名古屋との往復の電車の窓から自然に目に飛び込んでくる。軽い遠足の目的地にもなる。縁起を調べてみると
『愛知県東海市の聚楽園公園にある大仏であり東海市文化財指定。1916年(大正5年)、名古屋市等中京地方で活躍していた実業家山田才吉が、聚楽園を開園する。その園内に「大正天皇御大典記念事業」として大仏建立を考え、一般の寄附を求める。しかし資金は集まらず、山田才吉が私費を投じ、「天皇陛下(昭和天皇)御成婚記念事業」として1923年(大正12年)着工。1927年(昭和2年)5月21日に開眼供養。』

『1938年には競売に出され所有者が変わり、1983年(昭和58年)に曹洞宗大仏寺の所有となる。1997年(平成9年)、聚楽園公園周辺は、しあわせ村として東海市が整備する。東海市教育委員会によると座身長18・79メートル、台座高2・58メートル、台座直径23・63メートル。重量は推定約1800トン。コンクリート製。』

 同じページにもう一枚の画像、こちらは「弘法大師」像、手の上に乗った同級生からかなりの大きさがあることが分かる。



 弘法大師像は大正15年(1926)荒尾町小島琇吉さんが先祖供養にと、大仏の南100mの地に建てたのだが平成2年(1990)に、大仏建立に合わせ建てられ聚楽園の名の由来となった大旅館は平成3年(1991)に共に撤去され、「しあわせ村」となった。と聞いただけ、次回帰省した折りに立ち寄らねば・・・!


季節はずれの“山”写真ですが 奥穂高岳にて:長野県松本市

2012-04-21 11:23:23 | 思いでの写真館

 いよいよGW直前です。今年は寒さが長引き行く先の選定に大いに迷いました。西吾妻山や浅草岳登山以来丘歩きくらいで山らしい山には登っていません。そろそろと思ってwebサイトのライブカメラをあちこち覗いても、残雪が多い様に思われます。「やまちゃん」みたいにアイゼン付けてまでの勇気が無く、(というよりアイゼンも数度の引っ越しで行方しれずになっていて、あったとしても使い物になるはずもなく)山行きは見送りました。といっても未練は残り、せめて上高地散策が出来たらなどと調査開始、天下の上高地、大混雑で帰りのバス待ちが例年大変との情報有り、行列大嫌いのkoba3ですからGWを避けることとして取りやめ??延期に!!!

 上高地ついでにネガ箱をひっくり返してみた所、数枚の画像が見つかりました。が、まともな画像がないのです。カッパ橋、梓川、徳沢、そして穂高の山々何もないのです、写していることは間違いないのですが・・・(どこかにあるはず!いずれ探し出して・・・)。奥穂高岳登山2日目の朝、穂高岳山荘を出発した後奥穂高岳山頂を制覇し、パーティーを尾根に残しリーダーと二人でジャンダルムへ往復した折りの画像のようです。



 この時1961年(昭和36年)7月夏休みで帰省した折、小中学校の時の同級生に誘われて男女混成6人で夜行列車で松本へ、その先松本電鉄だったかバス直行だったかも記憶になく、マイカー規制のない時代でもかなり手間取ってカッパ橋へ、そのまま一泊したか歩き出したかも定かでない、何しろお膳立てされていた所へ急遽参加したので、只ついて行くだけ記憶が曖昧なのです。ジャンダルム(地図からは途中の馬の背ではなさそう)からのケルンの向こうは西穂?前穂?



 これも定かでないが雲海の影になっている山ははどの方向??西穂高岳方向??山が雲海に隠れて形が見えないので???



 此方は彼方に槍ヶ岳が霞んでいるので南岳であろうか?7月でも残雪があることがモノクロでもはっきり分かります。



 記憶が曖昧でも行程だけははっきり覚えています。カッパ橋―明神池―徳沢―横尾―涸沢―穂高岳山荘(泊)。翌日は  奥穂岳山頂―吊尾根―前穂(重太郎新道)―岳沢―上高地、調子に乗って重太郎新道の急坂岩だらけの道を飛ぶように駆け下り、翌日全員膝を触っても飛び上がる様な目にあったことまで鮮明に覚えているのです。

 この写真はブローニーフィルムをセミ板として写しているので、当時35mmカメラを手に入れる前ですから「コニカシックス」使用でしょう。ネガフィルムのまま保存していたから、手持ちの35mm専用スキャナーではスキャン出来ません。シャーカステンの上にフィルムを載せてデジカメで撮影する、前から色々試していたけれど、影が映ったり表面が反射したりなかなかうまくいかなかったのです。

 かって銀塩フィルムしかなかった時代では、研究会の発表などではスライドを使用していました。文献を複写してスライドを作る作業を日常的にしていました。両サイドからレフランプを当てての撮影のため乱反射を防ぐ工夫が必要で、無反射ガラスを原稿の上に載せていたことを思い出しました。幸いガラス板は複写台を兼ねた引き延ばし機の箱の中に保存されていたので、それを使い撮影しPC上でネガポジ反転、階調を整えた物が今回の画像です。

 50年以上前の撮影ですから、当時のフィルムの質やフィルムの劣化もあり、複写撮影時のノイズやコントラストなど課題も残り、今後試行錯誤しながら画質の向上を考えなければなりませんが、眠っている「思い出の写真館」が復活出来そうです。


続・G.Wのおさらい 2010~2006年:北から南から

2011-05-02 17:06:28 | 思いでの写真館

三浦半島・羊山・信濃川・安曇野・知多ミツカン:神奈川県・埼玉県・新潟県・長野県・愛知県

 2008年GWは中日に会の休日当番が入って分断されてしまいました。しかも午後担当!!当然遠出は出来ず近場の日帰りです。4日日曜日はお天気はやや芳しくなかったのですがしばらく行っていなかった三浦半島先端まで、「横・横(横浜-横須賀)道路」のおかげでスムースに行かれました。土曜日と繰り延べ休日で四連休、近場の城ヶ島は閑散として人も少なく久しぶりの潮騒を満喫しました。



 翌5日、午後仕事をこなし6時前東京を出発、連休といえども関越道の渋滞はすでに無く順調に花園I.Cを下り秩父へ向かいました。西武秩父駅前のビジネスホテルへチェックイン後すぐさま夕食場所を探しましたが、飲み屋以外はファミレスのみで寿司屋もすでに閉店、うらぶれたスナックで一杯やってやれやれでした。翌6日繰り延べ休日、ホテルに車を置いて急坂を歩いて登るとそこは別世界、羊山公園の芝桜は満開をやや過ぎて緑が混じり始めていましたが、まだ圧巻の眺めでした。



 この時以来、繁華街の有りそうにない地方の町のビジネスホテルに宿泊の時は、ホテルに最低でも食事が出来る設備があるか、近くの食事場所をネット検索して予約をするように改めました。

 2007年はかねてから望んでいた「河岸段丘」の展望場所が偶然ネット上で見つかり、ルートを決めました。越後湯沢から峠越えに津南へ出ました。目指すは「マウンテンパーク津南」でした。眼下にはっきりと幾層にも重なった段丘を確認出来て至福の時を過ごしました。



 マウンテンパーク津南、2011シーズンは土・日・祭日の営業のみで、平日はクロ-ズしていたと聞きましたが、実際はどうだったのか確認していないので定かではありませんが、スキー客の減少には歯止めがかかっていません。来シーズンにはどのスキー場が閉鎖するのか、予断が許されない状況です。

 津南から千曲川と名を変えた信濃川を遡り、フルーツ・ロードの盛りのリンゴの花を愛で、



千曲市で一泊、稲荷山の蔵の町・姥捨の棚田を巡った後安曇野へやってきました。安曇野のそこかしこには清流の流れに沿ってわさび田が点在していました。中でもまとまって見事な景観を見せていたのが「大王わさび農場」でした。が、人の多さも最大級、わさび田だけを見るようにしていました。



 2006年は悲しい思い出になりました。G.W直前に父が百歳を前に他界したので、葬儀のため帰郷しました。お通夜に間に合うべく前夜遅く東名高速道を西に向かいましたが、天下の難所富士川S.A付近で大渋滞、宿泊を予定していた豊川I.Cを出たのは翌日になっていました。そこで初めて知ったのですが、12時を過ぎて走り続けていると料金は半額になっていました。儲かったような?疲れたような・・?

 通夜の翌日葬儀前の少しの間に、菩提寺近くの半田運河(堀川)のほとりに行くと、昔のままの姿を再現しているミツカン本社工場の黒板塀をバックに鯉のぼりが泳いでいました。最近はやりの町おこしのイベントのようです。



 さて、明日からはkoba3の短いG.Wですが姪の結婚式なので往復の短い時間で何が出来るか知恵を絞ってみました。そして5月末には父・母・長兄の回忌法要で久しぶりの帰郷となりますが、日帰りに近いスケジュールになりそうです!?!


G.Wのおさらい 2010~2006年:北から南から

2011-04-30 09:54:06 | 思いでの写真館

北東北・九谷・美濃:青森県・秋田県・岩手県・石川県・岐阜県

 この冬の寒さは厳しく高齢者には応え家に籠もってしまったようなので、例年になく(例年もこの時期はほぼ同じような状態ですが)暇な時期を過ごしました。これから暖かくなって世間が動き出す時期に東日本大震災が起こりました。おかげでますます暇もてあまし状態になりました。GWが近づきそろそろ細かいスケジュールを決めようと準備を始めたところ、急に暖かくなりそのせいか来訪者が多くなり時間不足に陥りました。というより、のんびりやってきたので多少の混雑もさばけなくなっていたのです。

 G.W前とてご近所の旅すら予定が組めない有様、blog更新も滞っています。今年は暦が悪くkoba3三連休が一回だけとなりました。その中日に姪の結婚式に招かれ、500kmを走破しなければなりません。せっかく遠出するのですから寄り道をと考えても、中日一日拘束されては行き帰りだけで時間切れ、マ!のんびり行と腹をくくりました。そこで時間つぶしに最近のGWの行動を振り返ってみました。

 2010年、昨年は北東北の桜巡りでした。メインは三大花見の名所、まずは弘前公園、お堀の桜と夜桜のライトアップでした。

 



 角館武家屋敷街は余りの人の多さに、そこそこ逃げ出しました。



 北上では早朝人出前に訪れ、朝日に輝く静かな桜を楽しみました。



 2009年、北陸道を長岡方面から「九谷茶碗まつり」に直行、ここでも人並みに呑まれました。



 翌日は越前大野を経由、美濃白鳥まで一般道のドライブを楽しみそのまま高速道には乗らず郡上八幡まで走りました。山越えの高速道はトンネルや高架橋ばかりで町並みや風景は楽しめませんが、旧来の地方道では地域の雰囲気を思い切り味わうことが出来ます。郡上八幡は水と緑の町でした。



 普段は関東周辺か、東京から地方の中核都市を結ぶ高速道を走ることが多いのですが、旅先では予想外の事態に会います。都会に生活していると放射状に中心都市と地方都市へ往復することが多いのですが、点在する衛星都市同士を交通することは少ないのです。その為高速道の整備も中核都市同士を主に放射状に結ぶものが多かったのです。ところが3月に開通した北関東道は東京とは関係なく東京を中心点に輪状に地方都市間を結んでいます。中部地方にも「東海環状道」がありました。美濃市付近で「東海北陸道」から別れ「中央道」と交差し直接「東名道」まで行かれます。このときは中央道の先多治見まで直行しています。多治見のビジネスホテルで1泊して翌日美濃焼の窯元を巡り、雨に煙る永保寺の浄土の庭を堪能しました。



掲載済みの画像は避けたつもりですが、ダブッてしまったかも??この項つづく・・・まとめが追いつかないので・・・


天下の日本三景 瑞巌寺:宮城県松島町

2011-03-30 14:52:41 | 思いでの写真館

 今回の震災、隣の東松島市では千人単位の死者不明者の犠牲が出ているのに対し松島町では、わずかに死者1名ですんでいる。地震や津波の影響もあり浸水や多少の倒壊もあったが、大きな被害とはならなかった、とwebサイトにあった。260余りの島々が津波の高まりを和らげたのであろうか?海岸に突き出したように建てられている五大堂も、元のまま留めているその姿をあるサイトで見ることが出来た。いずれ出されるであろう専門家のコメントが待たれる。

 海岸から400m足らずしかない瑞巌寺の本堂であるが、それほど高台にある訳でもなく津波には襲われず地元民や観光客の避難の手助けをしたとニュースにあった。まさに仏のご加護か!



 昭和51年(1976)8月、家族4人(末っ子で長男は誕生前)お盆休みとて車で東京を出発、建設中の高速道脇の側道、渋滞気味の一般道を岩槻I.Cまで行き、東北自動車道その頃は白石I.C辺りまでだと記憶しているがかなりの時間を要して松島へ到達し、丘の上の大観荘に宿泊した。・・・はずだが?

 遊覧船は決められた眺めしかないので好みではないが、幼子つれた家族旅行手っ取り早く利用して松島を船で遊覧、上陸後五大堂を一回りした後瑞巌寺へ向かった。参道でもやはり子供が中心となっている。



 参道脇には石窟群が有ったが、これらは修行僧が生活した場所と同行したガイドが説明してくれた。



 ガイド??声をかけてきたかと思うといつの間にか同行してあれこれ説明解説してくれていた。門前の土産店の客引きなのか、(最近の各地・観光地で盛んなボランティアガイドとは違うが)それでも事前リサーチしてなかったので有り難かった。尤も子供たちは興味なく、所在なげではあったが・・・。間を縫って撮影したので静けさが見えるが、人はやはり多かった。日本三景の観光地には違いない。

 


たった一枚の写真に・・・! 弁天温泉:栃木県那須

2011-02-10 18:35:01 | 思いでの写真館

 ブログ開始から5回の正月を過ぎ、旅の思い出を中心に同時進行の旅も加えて更新してきました。印象に残る旅先や自慢の写真は真っ先に掲載してしまって、残るは紀行文を添えるのが難しい物件ばかりとなりました。仕事場を移転してからは週休1日では新しい旅も思うに任せず、題材が手詰まりになりつつあります。それでも過去には今は失われた風景も数あるので、探って行く価値はあると自負しています。
 ところが、たった一枚の写真に数日手こずっていました。昭和34・5年頃の蓼科登山の写真と一緒に保存してあったので、思い出を詰めていたのですが風景には見覚えがあるのです。大丸温泉とばかり思っていたら大丸は那須の奥に存在していました。なんとかさぐりました所ベランダの女性の上、小屋裏の窓上の壁に書かれた僅かな文字がやっと読み取れました。「弁天温泉」でした。



 ただ、弁天温泉のサイトで写真を見比べても一致しないのです。画像のどっしりとした趣のある風体とは違って、プレハブ風にしか見えない写真が紹介されていました。50年近く経っていますが、多くの旅館は近代的に建て替えているのですが・・・。暖かくなったら、久しぶりの登山を兼ねて確認のため訪れてみたくなりました。 


モノクロの銀杏並木では黄葉は??? 神宮外苑:港区北青山?

2010-12-16 17:50:41 | 思いでの写真館

 11月終わり近くになってやっと紅葉狩りに足利まで出かけたが、それ以後休日には雑用が湧いてきて出かけることが出来なかった。家の窓から、隣の小学校の桜や銀杏の葉が見事に色付いていくのを眺めているのみだった。それはそれで身近に樹木が沢山あり、季節の移ろいを肌で感じる事が出来るので幸せなことではある。が、青空の下土を踏み締めて季節を感じたい。TVは常のことだが神宮外苑の銀杏並木の敷き詰められた黄色の絨毯を映し出していた。日曜日やっと所用で渋谷へ出かけ外苑まで足を伸ばすつもりであったが、今年の銀杏の盛りは短かったと聞いて、近辺の銀杏は既に葉を落としていたので期待薄と考え、「ビックカメラ」に足を止めてしまった。・・・何も買う予定もまして予算などあるはずもないのだが・・・。

 神宮外苑の銀杏並木、何度も訪れているのでせめて写真でもと探してみた。盛りの頃は並木の中は人で一杯になり、良いアングル・雰囲気の画像はなかなか得られないのだが、保存フィルムは見つからなかった。唯一昭和40年(1965)11月のはじめの画像、しかもモノクロ写真が出て来た。



 地面は土が出ているので、まだ黄葉には早かったであろう。カラーでないので色付き具合の様子は全く分からないが、枯れ枝ではなさそうなので時期が早かったのか?ちなみに、神宮外苑所在は大部分新宿区なのだが、銀杏並木は港区になる。

 
 
 人出もほとんど無く、静かな外苑の佇まいが映し出されていた。日の陰がないので時間も天気も分からないが、ビルの谷間にある東京のど真ん中とは考えにくい風情だ。

 昭和も後半になるとカラーフィルムも安価になり、引き伸ばし価格も手の届く範囲に入っていた。その頃には流石モノクロに拘っていたkoba3も、カラ-写真の色香に負けて普段はカラー写真重点となっていた。掲載の神宮外苑、黄葉はやっと始まったばかりと思われるが、太陽の下逆光での撮影でアップなら黄葉は多少表現出来るが、それも見られずただ静かな林としか意味を持たない。足利鑁阿寺・足利学校の銀杏の黄葉は見事だったが、東京の銀杏も捨てたものではない。モノクロだけでは物足りないので過去に一部掲載しているが、平成13年(2001)12月、やや散り始め枯れ始めの駒沢公園の銀杏、余っていた画像を彩りに掲載することとした。

 ム・ム・既に枯れ始めていた!! 


伊豆の山~まや~ま・・・ 達磨山&西海岸:静岡県伊豆市・沼津市

2010-07-21 13:54:36 | 思いでの写真館

 伊豆半島は海ばかりではありません。背骨に天城連山があり、そそり立った断崖が海からすぐに続く場合が多く、伊東や下田のような町を形成出来る海岸際の平地は案外少ないのです。断崖から眺めた海の風景のすぐ後には山の上から遙か遠くの海を眺めている画像が続いていました。



 そして周りを見渡すと、眼下にはなだらかな起伏の広い空間が展開し、バンガローが点在していました。



 1961年の旅ですから1962年供用開始の「伊豆スカイライン」は開通していないはず、一般国道を天城越えしてやって来たのはおそらく達磨山辺りであったことを、ようやく思い出しつつあります。写真の中央立て看板に文字が書かれていて、達磨山のキャンプ場のようですが文字が霞んでいます。念のためweb上で探して現在の看板を見つけました。



 カラー版の今とモノクロの50年前が全く同じでした。昔のまま変わらずなのか、新設か改装しているはずですが、同じ意匠であったことは愕きと共に感心してしまいました。達磨山方向に登っていったのでしょうか、記憶が曖昧ですが駿河湾側、沼津方向の海を眺めていたようです。残念ながら富士山は雲の中だった・・・?!。



 そして次には、浴衣姿で仲間が海岸をそぞろ歩いている画像が出て来ました。



 この画像を見てやっと僅かながら記憶の端が見えてきました。この頃伊豆西海岸戸田方面へは、沼津から直接行くことは出来たかどうかは定かではないのですが、通常中伊豆の修善寺・達磨山経由で山越えしていたはずです。黄昏時に土肥温泉の宿にたどり着いた僅かな記憶がよみがえってきました。宵闇の近づいた浜、フィルムの汚れと思った黒い影は飛び交う鳥の群れのようです。

 翌朝と思われますが、沼津への船を待つ間海岸をさまよい歩いていたもよう・・・



 モノクロでの描写も、ハーフサイズの固定焦点では波の煌めきを捉えてはいなかったようです。



 この旅行の写真では紙焼きは見当たらないので、旅行費用支出が負担で現像がやっと???それにしても、達磨山以降の記憶は朧気ながらつかめてきたのですが、前半下田・石廊崎とが未だ甦らず!!!