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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

のどかな時代?でした 飯山温泉:厚木市

2009-03-05 16:17:58 | 思いでの写真館

 枝に残った柿の実、日の光に輝くススキの穂、晩秋の風景です。

 

 昭和36年(1961)11月、小田急沿線の飯山温泉に泊まっています。鄙びた感じの木造の建物でした。



 大学の仲間数名が写真に収まっているのですが、何をしに行ったかは定かでありません。当時は合コンなどはなく、麻雀を別格として一番のレジャーはハイキングやスケート、プール、ダンスパーティーやスキーなどスポーツ系でした。この時も、丘を登り下界を睥睨している写真が残っていますから、おそらくハイキングが主目的だったのでしょう。



 しかし疑問が出てしまいました。新宿から小田急で僅か1時間足らずの距離ですから日帰りが当然で、貧乏学生が旅館に泊まるなど通常はしません。思い出を手繰り寄せようと苦労しましたが、50年程前の話、なかなかその時の様子を思い出せません。フィルムの前半は、学校の運動会の模様が写っているので、慰労会??否!専門課程に進学したばかりの一年生でしたから、下働きのお手伝いです、慰労会の費用など出ません。

 11月にネガをスキャンして、ススキと柿のコラボレーションをもくろんだのですが、由来が出せず没になっていました。端境期の冬枯れ、画像としては捨てがたい趣があります。飯山観音の本堂にも、参詣していたようです。



 鐘楼に松の木、お寺の雰囲気は十分です。立て看に「亀甲松」の文字が見えるので、写真を拡大してみると、幹に亀甲模様が浮き出ていました。

 

 最近と言ってもすでに十年以上経っていますが、丹沢の入り口のこの地区、大山に何度か登ったこともあり、泊まりで鶴巻温泉で研修会をしたり、猪鍋を食べに七沢温泉に泊まったりしています。箱根や熱海の陰になっていますが、近くて手軽にのんびり出来る場所としては、再認識したいところです。でも、近すぎて日帰りしてしまうのですが・・・。


ここは何処 四天王寺:大阪市

2009-02-23 16:20:27 | 思いでの写真館

 回廊越しの金堂と五重塔、てっきり法隆寺かと思いました。



  昭和36年(1961)3月、恵比寿の新しい下宿の桜と同じフィルムのはじめの部分に、数枚のネガがありました。スキャンして拡大して2003年5月に行った時の法隆寺の写真と比べてみましたが何か違います。一つは金堂の妻側が、法隆寺は五重塔に向いていますが、写真では平側に対しています。。そして回廊の門は中門ですから、二層であって、写真の平凡な門ではありません。更に細かなことですが、鬼瓦の位置には、屋根飾りとして鯱や鳳凰が設えられますが、その形が異なります。

 その違いを説明しようと思っても、建物の部分を表す名称が分かりませんでした。webをあちこち探し回って、「妻」「平」「花肘木」などの名称を探し出しましたが、偶然寺院建築、特に天平の頃の建築様式を解説しているサイトに行き着きました。そこには、法隆寺と四天王寺の金堂が並べて掲載され、解説してありました。花肘木の配列が決め手で、写真は四天王寺のものでした。四天王寺の金堂の屋根は二層、法隆寺は三層ですが、回廊に遮られてその部分は見えません。

 そこまで分かって、やっとこの写真の旅の思い出がよみがえってきました。この年(1961)3月の末、学年休みで帰省した折り大阪へ日帰り家族旅行をしています。家族全員(カメラマンのkoba3を除いて)と、隣家の娘さん、父の仕事の助手の女性が一緒に写っています。



 最初、鳩の群れるこの画像が何か?から始まりました。四天王寺と分かって全てが氷解しました。亀池に架けられた橋の上に設けられた石舞台だったのです。回廊の外、講堂の裏側に当たります。



 一週間の間、記憶を取り戻すのにモヤモヤしていたものが晴れました。同時に思い出も取り戻せました。大阪行きの目的は、「OS劇場」のシネラマ「これがシネラマだ」見物でした。東京と大阪にしかシネラマ劇場はありませんでした。「シネラマ」はすでに死語と化していますが、3台のカメラで撮影して、3台の映写機を同期させて大画面の迫力を出す、画期的な映画画面でした。今では、万博などのイベント館で360度画面が当たり前になっていますが、当時の感激を語っている『JIROユーティリティshop』のサイトがありました。
 帰路の近鉄上本町駅に近いので立寄ったのでしょう、“四天王寺”が判断出来なければ、この思い出も消えてしまっていたかもしれません。


広い敷地そして灯りのページェント:続・大阪万博

2009-01-28 17:44:27 | 思いでの写真館

 水一杯の公園、大阪万博の今でも残るイメージです。昭和45年(1970)8月のことでした。



 とにかく暑かったとの記憶が強烈に残っています。炎天下、あちこちのパビリオン前には長い行列が渦巻いていました。それでもいくつかの比較的短い行列に並び観覧しましたが、全天周や360度画面の迫力ある映像ばかりの記憶しかなく、しかも、もっと後の筑波科学博の記憶とごっちゃになり、訳が分からなく記憶を区分け出来なくなりました、館内の写真は残っていませんから・・・。

 暑い日中は、木陰を求めて水辺の公園や人気の少ないパビリオンに避難していた気がします。日暮れになると暑さも和らぎ、いたるところ光の洪水・光の競演となっていました。

 この項を纏めるため、ネットサーフィンしてみましたが、「大阪万博」を扱ったサイトが、アルワアルハで驚きました。依って、紹介はおこがましく、思い出の印象を記すに留めましたが、1月27日掲載の虹色の建物は「虹の塔(専売公社)」、その隣の噴水は上から下へ水を逆噴射する「彗星」ということも分かりました。
 
 そして、幻想的に光を放つのは、「みどり館(アストロラマ)」の外観で、この中に昼やっと入ることが出来た全天周スクリーンがありました。赤と青の幻想は、切り取りすぎててはいますが、紺色の影はどうやらエキスポタワ-の様でもあります。

 

 今だったらLEDの灯りで構成されるでしょうが、無数の電球で建物全体をくるんだ映像が残っていました。夜景を集めた公式の絵はがきをWEB上に見つけましたが、この電球の集合した姿は、記録されていませんでした。



 帰りに立ち寄った、「ビルマ館」の玄関、暗い中に襲いかかってくる姿が不気味ですが、記憶にないのも哀れです。「ビルマ」は「ミャンマー」に、「専売公社」は「日本たばこ」に、ワープロソフトが変更を迫ってきます。時代は確実に変わっています。



単に印象を述べるのみ・・・大阪万博:

2009-01-27 13:56:46 | 思いでの写真館

 昨日まで、東京でも寒いから冷たいと寒さが厳しくなっています。九州までも雪景色なのですが、寒さを吹き飛ばすように、いきなり真夏の水場で沢山の子供たちが水遊びしている画像を掲載です。



 子供は動きも表情も邪気が無く被写体としては最適ですから、撮影に出て困った時はカメラに納めていました。それでも今の時期夏の風景はそぐわないとは思いますが、1969四国の旅と同じファイルに保存されていたネガの中に隠れていたので、忘れないうちに整理することにしました。寒さを一時忘れられる???ナことはない!?!

 1970年(昭和45年)8月、ここは何処?遙か彼方金色に輝く“顔”が象徴しています。



 大阪万博の会場、太陽の塔が遙か彼方に見えていました。上を走っているのはモノレールでしょうか、まだ珍しかった時代です。記憶に残っているのは、人混みと行列、照りつける太陽と灼熱の暑さだけです。四国の旅の翌年、すでに長女は誕生していましたが、実家の母が一晩預かってくれると電話してくれたので、甘えることにしたのでした。細かな記憶はなく、とにかく熱い熱いと言いながら広い会場を歩き回っていました。

 人気のパビリオンは長蛇の列、アメリカ館「月の石」など2時間以上の待ちとなっていて、気短な我が夫婦、ただの石を見るため!?!写真で見れば十分ともちろんパスでした。それでも各パビリオン斬新なデザインで、建物やモニュメントを見て歩くだけでも充分楽しめました。

 

 万博会場は閉会後公園として整備され、万博記念公園として残されました。その中、遊戯施設は「エキスポランド」として存続していましたが、遊戯施設のトラブルで死亡事故を起こし、現在民事再生手続きに至り休園中です。事故を起こした「風神雷神Ⅱ」と写真のジェットコースターが同じものかは分かりませんが、『Ⅱ』とあるので、2代目?となっているかもしれません。



 アフリカや東南アジアなどのこぢんまりとしたパビリオンを訪ね歩きましたが、いずれもひっそりとしていました。民族衣装をまとったホステスさんが(コンパニオン?当時呼び名は何だっけ?)、質素なパンフレットを配ったりしていた記憶があります。それでも、お国柄を表した建物の中に民芸品や物産が展示されていて、外国旅行などまだまだの時代、見るだけでも楽しめました。


穏やかな海だった 室戸岬:高知県

2009-01-22 16:48:30 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その9  これでおしまい
 冬の旅は少ないので、何とか探し出したのが昭和44年1月新婚旅行の記録だった。旅館の領収書や画像からの推測で纏めていったので、確認が出来たところから掲載し、話がやや前後してしまった。

 最御崎寺から尾根づたいに室戸岬の灯台に行っている。崖の端海を見下ろす場所だが、展望箇所より一段低くなった所に据えられていて、見上げるというより燈火部分が背丈の位置にあり、見た目もごく標準的なタイプなので記念写真しか残っていない。さすが灯台、見晴らしは良く、太平洋を望みアメリカまでも見渡せる?・・・ンナ訳はない。



 岬は平坦地があり広場は整備されていたが、冬の季節、高知桂浜には人がいたがここ室戸岬では、最御崎寺、灯台共全く人に会っていなかった。



 写真で見る足摺岬に比べおとなしい海岸線ではあるが、それでも太平洋の荒波に晒され、台風銀座の只中にある岩礁は荒々しく、海へ続いていた。



 その日宿泊した「ホテルニューむろと」、その時はオフシーズンでもあり宿泊者は他に見あたらなかったが、その後「スカイレスト」なる展望レストランを設けているようだった。バブル期を経ているので、ある時期多くの観光客を集めて盛況だったと思われるが、多くの観光地と同じようにのど元過ぎて崩壊の憂き目にあったようだ。偶然web上実態を見てしまい、更にホテルも休業に追い込まれてしまっているようで、何か寂しい。
 
 翌日龍河洞に寄り、土讃線の車窓から「大歩危小歩危」をチラとでも見られたらと期待していた。結局、室戸岬で時間を使いすぎ龍河洞はパスしてしまった。最初から龍河洞に寄らずに「大歩危小歩危」観光を予定していれば、列車の時刻の調整も出来たはず、今でも悔しい思いをしている。通過しただけで徳島県に足跡が残せなっかたことを・・・。

 そして琴平の虎屋の項へつづくのだが、屋島を最後に高松港から「加藤汽船」の客船で四国を離れ神戸に渡り、六甲山ホテルのレストランから、神戸の夜景を楽しんでいる。昨年夏、長崎の夜景に巡り会え、神戸より更に遡って函館の夜景も目にしているので、三大夜景を網羅出来た。もちろん、「○大○○を制覇する」等の趣味はないが、自己満足にはなる??

 東名高速道路はその年の夏まで全通していなかったが、名神高速道はすでに全線供用されていたので、翌日朝、変化を求めて新幹線は避け、神戸駅前から国鉄ハイウエイバスで実家のある愛知・名古屋駅まで走り、無事旅行を終えた。

 この週末の日曜日が丁度40年目の結婚記念日になる。多少の波風はあったかもしれないがごく平凡に過ぎてきて、思い出の四国旅行のアルバムを繰ることが出来た。メデタシ・メデタシ!?!


栄枯盛衰世のならい 最御崎寺:高知県室戸市

2009-01-21 14:36:47 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その8
 高知からバスで室戸岬へ向かった。1月の末(昭和44年のこと)ではあっても、この前後石鎚山越え以外は天気も良く気候も穏やか、さすが南国土佐、コートも朝晩以外は脱いでいたようだ。

 当初、磯が独特の荒々しさを持つ足摺岬を望んでいたのだが、当時の交通事情では2日の余裕が必要であって日程的に無理と解り、帰路の道順に合う穏やか海岸線を持つ室戸岬に決めたいきさつがあった。今なら道路も整備され、足摺岬も可能な行程であるが・・・。

 四国遍路八十八ヶ所巡りの本場、同行二人の弘法大師像、随所に現れる。室戸のお寺にもいた。



 このお寺、全く名前も記憶にないので調べてみたが、地図上にも近辺には一寺しかなかったので、最御崎寺に違いはない。読みも分からなかったが(ほつみさきじ)と振り仮名があった。写真の本堂いかにもうらぶれた様子で、形は同じでも現在web上で見る姿からはなかなか同一の寺とは思えなかった。



 背丈より遙かに大きな灯籠が特徴で納得できたが、右から左に移され多宝塔が建立されたり宝物館まで造られている。参詣客も多いようで繁盛している模様だ。近年四国遍路八十八ヶ所巡りはブームの様相で、旅行社のツアーにも頻繁に登場している。札所の寺は、どこも賑わっているようだ。
 
 それに引き替え“屋島”の衰退と、ホテル「屋島館」について、やはり気になるので更に調べてみた。

 「屋島」で検索をかけ、琴電グループの屋島ドライブウエーのサイトに、かってのホテルや建物の名が僅かに残っている屋島山上の観光地図が残されていて、その中に「屋島館」やその他の旅館、土産物店の名がかすかに読み取れた。Googleの地図と航空写真を重ねると、明らかに民家とは異なり規模の大きな建物数棟が確認出来た。市街図には、営業中のホテルや茶屋の名称はあったが、その他の建築物は外形のみの記載で、名称はなかった。

 「屋島館」も特定することが出来たが、何回かの検索の末、Wikipedia上に恐るべき記述を見つけ、以下に引用した。

『かつては四国の代表的な観光地であった屋島であるが、瀬戸大橋開通時の賑わいを最後に観光客が激減した。この影響で山上にあったみやげ物店・宿泊施設が相次いで閉鎖され、現在は事実上廃墟の様相を呈したものが少なくない。こうした建物は景観や保安上の問題があり地元からは撤去を求める声が多いが、土地の所有者が屋島寺であるため、公的機関が思うように撤去を進められないのが現状である。このため、高松市などは自然公園法による国からの補助金を得て公費で撤去を行うスキームを検討している。』

 時代の流れとはいえ、この時訪れた寂れた感じの最御崎寺が時代に乗って繁栄し、かっての名勝地屋島が、風景はそのままであっても時代の波に取り残されてしまう、他人事とは思えず、寂しさよりも怖さを感じてしまった。“栄枯盛衰世のならい”もって肝に銘ずべし!


泊まった宿は今 道後温泉そして桂浜と三翠園:愛媛県高松市・高知県高知市

2009-01-20 15:02:17 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その7
 昭和44年1月、松山への飛行機便の欠航で急遽国鉄に切り替え、山陽本線を西に向かった。乗車してすぐ検札の車掌さんが来たので早速事情を話し、岡山経由宇野、高松への連絡船、松山へ行く予讃線の時刻を調べてくれるように依頼した。しばらくして現れ、詳細な時刻表を渡して呉れた。時刻表を見ると、深夜着になるが、何とかその日に道後温泉に着けるようだった。

 それではそろそろと準備に掛かっていたら、件の車掌さんが慌ててやってきて、別の経路があったと伝えてくれた。そのまま尾道まで乗車して、水中翼船で今治に渡るルートがあるという。その経路の方がかなり所要時間が短くて済む。列車の尾道到着時間と船の出航時間は同時刻であるが、駅と港は50メートル足らずで、走って行くのが見えれば待っていてくれるはずと教えてくれた。綱渡りではあったが、間に合えば宿でかろうじて夕食が取れる時間には着けるようだった。現在なら、尾道今治間は“しまなみ街道”の橋で結ばれ、1時間程度で行かれてしまうのだが・・・。

 夕闇迫る島々の間を水中翼船は縫うように滑っていった。思わぬアクシデントではあったが、これぞ瀬戸内という風景を満喫することが出来た。

 道後温泉には、暗くなってから着いているので、予定の観光は全て出来なかった。道後温泉本館だけは立ち寄りたかったがそれも叶わなかったが、幸い宿泊したホテルからはすぐの位置にあったので、翌朝車の中から外観だけは眺めることが出来た。写真は撮れなかったが、名所だけにweb上に一杯画像はあるので、ちょっと借りてしまった。どこから?あちこち特定出来ないようなのを???。



 余談だが、本州と四国を結ぶ瀬戸内航路は沢山あったが、橋が3本も架かってしまい全面的に消滅すると思われていたが、現在でも宇高国道フェリーなど、橋と平行する航路すら残っており、かなりの航路が存続していると聞いている。料金が安いことや、強風時は橋上の鉄道等が通行止めになるのに対抗出来ることからのようだ。

 松山から高知へはバスで移動している。この方面、鉄道は松山高知間を直行せず、大きく迂回している。又、四国一の高山石鎚山が見たかったので、峠越えで麓を巻いているコースを選んだ。もっとも、バスは走りっぱなしで停車はしない上に、雨模様で山頂どころかバスの周りも霞み状態だった。旅行の最初から桂浜に到着するまでの写真は撮っていなかったのは、そんな事情からだった。

 そして夕方、暮れ始めた桂浜の風景となる。





 高知では、古い屋敷の門と広い庭のあるというホテル「三翠園」を選んでいた?旅行社が?散策はしたはずだが、庭は部屋の窓から僅かに覗いている画像しかない。



 この時宿泊した部分が今存在しているかは分からないが、当時、建物の半分以上を建て直しのための工事の足場が組まれ、庭の一部も立ち入れない状態であった。自慢の黒門も、見られなかったのかもしれない。ホテルのHPにあった門は、記憶にはあるのだが・・・。



 1969四国の旅を纏めるために、web上で色々確認した。その内泊まった宿で変化のあることも分かった。道後温泉「ホテル八千代」、高知「三翠園」、六甲「六甲山ホテル」はいずれも新館を建て増し、規模も設備も拡張して高級ホテルの道を歩んでいた。一方、琴平「虎屋」はそば屋へ模様替えしており、室戸「ホテルニューむろと」は旅行社のサイトに営業休止コメントが見られ、関連施設の「スカイレスト ニューむろと」の無惨な廃墟の写真がブログに掲載されていた。展望レストランの営業不振があったのだろうか?
 高松屋島「屋島館」は痕跡すらなく、宿泊伝票にあった住所で検索すると、その場所にはドライブインがあった模様(それも現在では明確には分からない)が、かすかに読み取れたのみである。正面には「れいがん茶屋」があり、その先の獅子の
霊巖展望台での写真が残っているので、場所は間違いないであろうが、「屋島館」の名すら見つからないのはなぜか???気になる!


夕闇迫る浜は静かだった 桂浜:高知県

2009-01-19 13:38:48 | 思いでの写真館

もう少し続く・1969四国の旅:その6
 話が後先になってしまったが、四国の旅は昭和44年1月末、新婚旅行の時のこと、残念ながらその時以来四国には足を踏み入れる機会がなかった。その後も長距離の旅は数多くしているが、なぜか四国が候補に挙がることはなかった。陸続きでないことで、敬遠していたのであろうか?・・・。

 この時、四国には松山から入り道後温泉に行く予定で、当時の国鉄でも新幹線は新大阪まで開通しており、途中フェリーや連絡船を使えばその日の内に松山まで行くことが出来た。が、そこは新婚旅行新郎の見栄?“飛行機”を選んでしまった。朝東京を出ても、昼前には松山に着くことが出来るのが魅力であったことも当然のこと、今のように飛行機に対する恐怖心もなく、初めての飛行を経験したかったのだ。当時国内旅行では、飛行機利用はまだまだ一般的でなかったように記憶している。

 ところが旅行のアルバムは、土佐の高知の桂浜から始まっている。その理由は、ちょっと複雑・・・。



 羽田出発の時トラブルがあり、松山には暗くなってから着いている。到着地の濃霧発生で羽田出発が3時間近く遅れ、更に、大阪から松山は同じく濃霧の為欠航となってしまった。当時直行便はなく、大阪で地方空港に発着出来る小型機に乗り換える必要があり、気象条件に左右され欠航も頻繁にあった。

 すでに伊丹着は正午をはるかに過ぎていたが、四国方面に飛ぶ便はなく、やむなく国鉄大阪駅に急いだ。宇野港から高松へ連絡船で渡ることを考え、岡山経由宇野行きの急行列車のあることを切符売り場で確認し、1等車乗車券を購入しホームへ出たが列車はいなかった。ホームにいた駅員に確認したら、不定期列車でその日は運行されていなかった。丁度同じホームに入ってきた九州方面へ走る特急か急行(予定にない行動で定かでない)に飛び乗ってとりあえず西に向かった。

 飛行機代の払い戻しの現金が手元にあったので1等車にしたのだが、この年5月、国鉄の等級制が廃止されグリーン車となってしまい、奇しくも後にも先にも1等車に乗ったのはこの時だけとなってしまった。
 少し冗漫になったが、桂浜の夕日を掲げ、・・・この項つづく・・・



 昭和40年代から50年代にかけてかなり旅行をしている。四国の旅を整理しながら、当時と現在を無意識に比較していることに気が付いた。カラーフィルムやカラーの焼き付け代金も徐々に値下がりしつつあったが、まだまだ高価であった。今のコストの掛からないデジカメとは違って、フィルムの消費を気にしてカット数は少ない。おまけにこの時は新婚旅行であったから、人物本位で風景はさらに少ない。残された風景写真が少ないので、当時の旅事情を思い出しながら記述中心で描いてみたが、意外に当時の旅事情に加え社会情勢まで思い出されるので、この先はその辺りを、記憶を辿りながら纏めてみることにした。・・・。


意味不明の漢字「偃」 栗林公園:香川県

2008-12-20 13:56:37 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その4

 1月の栗林公園、芝や草のたぐいはすっかり褐色に枯れていたが、常緑の松が多く植えられており、地面を見なければいつの季節か判断が付きにくい程であった。“一歩一景”といわれる変化に富んだ趣ある情景とガイドにあるように、広大な敷地に多くの池と趣の異なる庭が配置され、大名庭園の見事さが残されている。

 夕暮れも迫っており、一巡するのもやっとだった記憶があるが、それでも見所の南湖の偃月橋はしっかり撮し込んでいた。



 「偃」の字が読めず意味も不明で、あちこち調べてみた。「堰」と作りが同じであるからおそらく「えん」であろうことは推測出来た。「偃月橋は弓張り月(半月)が湖面に影を映す姿から名づけられた」とあり、別に「偃」は「伏せる」意とあって、半月が伏せた姿と理解出来た。稚拙なブログであっても、間違いは避けたいという意識は働いている。特に固有の名、地名は恥を晒すようで避けたい。各地の名所は、歴史的伝統を持つものも多く、物見遊山で行った旅では理解せず漫然と通過していた。ブログに載せる前に裏付けを取るようになって、思いがけない事実を知ることも多い。六十いや七十の手習いというところか。

 「和」の庭園が数多くあったが、「洋」の庭園も造られていた。この区画はいつの頃作庭されたのであろうか。“大名”の頃だとしたら、随分モダンな殿様だが・・・。



大わらじを探して 善通寺:香川県

2008-12-19 17:12:34 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その3

 金刀比羅宮から僅かな距離の所に、善通寺があった。善通寺の事前の印象はなぜか“大わらじ”であった。多分、旅行雑誌のグラビアの印象が強かったと思われる。あちこち探してしまったが、仁王門の裏側に鎮座していた。



 誰もがこの前で人物を入れて写真を撮るのは、大きさを確認するためであろうか。境内は広く、お堂も数多く配置されていた。金堂(本堂)の脇には五重塔が聳えていたが、なぜか金堂は撮していない。



 境内は街の中と思われるが緑に包まれていて、お堂や伽藍を巡って歩き回っていたようだが、記憶はとぎれている。護摩堂が背後に見えているが、この回廊はどこか分からない。



 四国八十八ヶ所霊場の一つであり、「七ヶ所まいり」(第71番札所から第77番札所までの7ヶ寺を一日で巡拝する)の中心でもある。「七ヶ所まいり」についた調べてみたが、寺のHPに『「四国八十八番寺社名勝」という絵図に「足よはき人は 此印七り七ヶ所をめぐれば 四国巡拝にじゅんずといふ」』とあり、いわば七箇寺を巡れば四国巡拝の修行となると読めるが、誤りか???知っていれば、あと六ヶ寺巡ってきたのに・・・!

 五社明神をバックに撮った映像、この明神さんの由来を調べたが、善通寺領の氏神であること以外は殆ど分からなかった。唯一、背後に写っている大楠が善通寺の二大楠の一で、大門近くにあるもう一本の大楠と共に県指定の天然記念物となっている。この項、人物がしばしば登場しているが、スケールの大きさを表すために残しておいた。

 このあとフィルムの順序から見ると、まだ日暮れまで間があるようで、栗林公園を廻って宿泊ホテルのある屋島へ向かっている。もし紙焼きの写真しかなければ、この日の行動の順序ははっきりしなかったかもしれない。40年前とはいえ、感銘や感動、反対に強い悲しみを受けた事態は鮮明に記憶しているが、自然に過ぎて行ってしまった出来事や行動は、記憶の彼方に去ってしまっているようだ。
 この旅、出発から四国に入るまでハプニングの連続で、時間単位まで鮮明に記憶に残っているのだが・・・。