1969四国の旅:その7
昭和44年1月、松山への飛行機便の欠航で急遽国鉄に切り替え、山陽本線を西に向かった。乗車してすぐ検札の車掌さんが来たので早速事情を話し、岡山経由宇野、高松への連絡船、松山へ行く予讃線の時刻を調べてくれるように依頼した。しばらくして現れ、詳細な時刻表を渡して呉れた。時刻表を見ると、深夜着になるが、何とかその日に道後温泉に着けるようだった。
それではそろそろと準備に掛かっていたら、件の車掌さんが慌ててやってきて、別の経路があったと伝えてくれた。そのまま尾道まで乗車して、水中翼船で今治に渡るルートがあるという。その経路の方がかなり所要時間が短くて済む。列車の尾道到着時間と船の出航時間は同時刻であるが、駅と港は50メートル足らずで、走って行くのが見えれば待っていてくれるはずと教えてくれた。綱渡りではあったが、間に合えば宿でかろうじて夕食が取れる時間には着けるようだった。現在なら、尾道今治間は“しまなみ街道”の橋で結ばれ、1時間程度で行かれてしまうのだが・・・。
夕闇迫る島々の間を水中翼船は縫うように滑っていった。思わぬアクシデントではあったが、これぞ瀬戸内という風景を満喫することが出来た。
道後温泉には、暗くなってから着いているので、予定の観光は全て出来なかった。道後温泉本館だけは立ち寄りたかったがそれも叶わなかったが、幸い宿泊したホテルからはすぐの位置にあったので、翌朝車の中から外観だけは眺めることが出来た。写真は撮れなかったが、名所だけにweb上に一杯画像はあるので、ちょっと借りてしまった。どこから?あちこち特定出来ないようなのを???。

余談だが、本州と四国を結ぶ瀬戸内航路は沢山あったが、橋が3本も架かってしまい全面的に消滅すると思われていたが、現在でも宇高国道フェリーなど、橋と平行する航路すら残っており、かなりの航路が存続していると聞いている。料金が安いことや、強風時は橋上の鉄道等が通行止めになるのに対抗出来ることからのようだ。
松山から高知へはバスで移動している。この方面、鉄道は松山高知間を直行せず、大きく迂回している。又、四国一の高山石鎚山が見たかったので、峠越えで麓を巻いているコースを選んだ。もっとも、バスは走りっぱなしで停車はしない上に、雨模様で山頂どころかバスの周りも霞み状態だった。旅行の最初から桂浜に到着するまでの写真は撮っていなかったのは、そんな事情からだった。
そして夕方、暮れ始めた桂浜の風景となる。



高知では、古い屋敷の門と広い庭のあるというホテル「三翠園」を選んでいた?旅行社が?散策はしたはずだが、庭は部屋の窓から僅かに覗いている画像しかない。

この時宿泊した部分が今存在しているかは分からないが、当時、建物の半分以上を建て直しのための工事の足場が組まれ、庭の一部も立ち入れない状態であった。自慢の黒門も、見られなかったのかもしれない。ホテルのHPにあった門は、記憶にはあるのだが・・・。

1969四国の旅を纏めるために、web上で色々確認した。その内泊まった宿で変化のあることも分かった。道後温泉「ホテル八千代」、高知「三翠園」、六甲「六甲山ホテル」はいずれも新館を建て増し、規模も設備も拡張して高級ホテルの道を歩んでいた。一方、琴平「虎屋」はそば屋へ模様替えしており、室戸「ホテルニューむろと」は旅行社のサイトに営業休止コメントが見られ、関連施設の「スカイレスト ニューむろと」の無惨な廃墟の写真がブログに掲載されていた。展望レストランの営業不振があったのだろうか?
高松屋島「屋島館」は痕跡すらなく、宿泊伝票にあった住所で検索すると、その場所にはドライブインがあった模様(それも現在では明確には分からない)が、かすかに読み取れたのみである。正面には「れいがん茶屋」があり、その先の獅子の霊巖展望台での写真が残っているので、場所は間違いないであろうが、「屋島館」の名すら見つからないのはなぜか???気になる!