(活彩祖谷村村長の手作りの新聞)・・・・・徳島県剣山の麓の村、祖谷は言うまでもなく本書の主人公、長尾浩美の故郷として「時の流れに」(祖谷渓挽歌)の筆者(藍友紀=あい・みゆき)が、主人公長尾浩美の出身地としている地。ここは平成の大合併の名の下に、骨太の方針に則り、政府の地方切り捨て、福祉切捨て、費用の住民への負担転嫁などを目的に合併を迫られ、三好市となった。この厳しい条件の中で、「旧東祖谷山村の活性化を住民の手で進めよう」と、同村今井の市岡日出夫氏の発案で、今年(06年)3月に発足したのが仮想村の「活彩祖谷村」である。このまま放置すれば「村の良さである住民同士のきずなも失われないか。そんな危機感から」祖谷を愛する人々が有志村民は勿論,村外、県外、海外からも参加して結成した。村長に選挙で選ばれた市岡さんが中心となって極彩色の新聞「てんご新聞」を発行して村民に配布している。(サイトの「活彩祖谷村」の項、参照)
筆者藍は、「祖谷渓挽歌」著述のため、東祖谷に延べ2ヶ月以上、滞在したので祖谷を愛すること限りなく、一時は祖谷移住を希望したこともある程なので、早速志願して村民に加えて頂いたが、この度「てんご新聞」の7月号(06年)が送られてきた。B4版2面の新聞だが、「村民が100人を越えた」などの記事に加えて、この地に咲く高山植物系の季節季節の花々を直接、撮影した写真の色彩の美しさには心奪われる。今月号にはオオヤマレンゲ・イヤギボウシなどの花が紙面を飾っている。とくにイヤギボウシの花一つ一つが山霧の露に濡れている風情など、筆舌に尽くせぬ美しさ。
なお、この程、村長の市岡氏と手紙を交換するなかで、長尾孫夫氏の御母堂が、村長の近縁の方だったことも判り、この奇遇に一際感激。恥ずかしながら筆者、度重なる取材にも拘らず、御母堂が旧姓市岡さんだったことを忘れていたという迂闊さに、改めて失礼をお詫びせねばならなかった。
筆者としては事情が許せば、近々東祖谷を訪れて村長のお話を伺い、久しぶりに長尾孫夫氏の墓前に参じ、できれば有志と一緒に墓前寮歌祭を行いたいなどと考えている。
なお昔の東祖谷の描写は元落合小学校体育訓導だった菅生甫氏や元村長喜田徳太郎氏の次男、徳氏などのご教示によるものだが、観光で知られる現今の祖谷とは程遠いので、拙作は今は全くの昔話である。
ご参考までに「てんご新聞」には、{誰でも村民、何処に住んでいても村民!申込みは住所氏名を連絡するだけ!」とある。祖谷を愛する人なら誰でも、徳島県三好市東祖谷村今井(番地不要)」の市岡さん宛に申し込めば、村民になれるようである。村民になって剣山登山や、祖谷川の瓦でのアメゴのヒララ焼き。かづら橋わたり、温泉宿泊や平家の里の探訪を行えば、興趣は尽きないのではないだろうか。「06年7月13日追記/文責・藍)
(前頁に続く)京大は何ゆえ敗れたのか? これが時代の趨勢だったと言ってしまえば、それまでである。既に昭和6年9月の満州事変開始によって30年戦争の火蓋は切って落とされている。日本の大陸侵略は、石原完爾の世界最終戦争をも視野に入れて、その歩みを踏み出した。これによって日本は世界から孤立し、もはや引き返すことは出来ない。それを考えれば、自由主義は早晩抹殺される運命にあった。「学の自由」も亦、許さるべくもなかったのである。
だが、それにしても、この完敗ぶりは、どうだろう。自由の最後の砦としては、余りにも呆気なく落城してしまったのではないか。それについて著者は、京大内部で既に自由の伝統が崩壊していたと指摘する。かつて一高から転じてきた学生自治の始祖、木下廣次が種を蒔き、若き日の佐々木惣一教授が指揮をとって沢柳総長を文部省に追い返して教授の任免権を教授会の管理下においた輝かしい自治・自由の伝統は、平沼騏一郎の主宰する国本社の学者理事,荒木寅三郎を4期14年にわたって総長に選出し続けたという愚挙を演じることによって、完膚なきまでに打ち砕かれていたのである。荒木がいなければ、かの近衛文麿をして東大を去って京大に赴かしめた河上肇の追放も易々とは行われなかっただろうし、瀧川事件の原因となった蓑田胸喜の講演会も、催されなかっただろう。事件勃発時の総長だった小西重直にも、少なくとも学者としての信念の欠如は指摘されねばならないし、辞任後には超右翼的論文を数多く発表して識者の首を傾げさせた。最終局面で教授たちの辞表を一括して鳩山文相に手渡して、玉砕か瓦全かの選択を鳩山の恣意的な判断に一任した松井総長の飽くなき出世欲と見事な裏切りに至っては、何をか言わんやである。
他学部の教授たち特に長老教授らの腐敗ぶりも正視するに耐えない。評議員会でも法学部教授会を支持する者がいない。若年ゆえに発言を遠慮していた農学部の評議員湯浅八郎が見かねて法学部擁護の発言をしたので、ようやく評議員会も法学部教授会の主張を認める形で決着したという。湯浅は,この後まもなく「京大がいやになった」と言って職を辞するが、後に同志社大学の総長に推されたのも宜なることと言えよう。(第2号に続く)