(昔) 憲法第9条・戦争放棄
(今) ?昔の誓は今いづこ?
21世紀は世界唯一の核被曝国日本が先頭に立って、今世紀を戦争の無い平和な世界にしようと動き始めなければならない年だった。だが現実はどうか。今や世界全体を巻き込んだ戦争が地球上を覆い始めている。今や武器の主役は大砲や戦車ではなく核になった。その終着駅は人類の滅亡であり、ハルマゲドンである。既に1963年、世界はキューバ危機で、一触即発の事態を経験し、その怖ろしさに慄いた。その時、我々は超大国の独占的な核保有による戦争の抑止には、もはや限界がきていることを学んだはずである。戦争を廃絶するためには軍備の縮小から軍備の廃止へと進む以外の道はあり得ない。それなくして戦争を回避し得るほどの叡智も理性も勇気も、現代の人類は持ち合わせていない。金銭欲と権力欲のためには、人類とくに先進国の富める人類は、容易に良心と正義感を悪魔の手に売り渡して、世界制覇への道を突っ走ろうとしているのである。大量破壊兵器によるハルマゲドンへの道である。その大量破壊兵器を世界で最も多く保有している国は何処か。世界規模での軍縮、世界規模での戦争放棄を呼びかけるのでなく、世界の警察官の名の下に、世界制覇を目指している国は何処か。また、その野望を支持している国は、何処か?
顧みて昭和8年5月26日、右翼に操られた東大出の文相鳩山一郎は自由主義の刑法学者瀧川幸辰を罷免して文化を破壊し、軍国主義に道を開いて、以後の日本を暗黒の底に突き落とした。無知な鳩山を唆して、この暴挙を行わせたのは、かねて瀧川に私怨をもつ右翼の学匪蓑田のアジ文書だった。この年、ヨーロッパではヒットラー内閣が成立し、4月23日には議会による独裁が承認され、5月10日には焚書が行われている。東西呼応したような自由主義への弾圧は、12年後広島と長崎の街を原爆で焼き尽くし、市民の大部分を焼き殺すという悲惨な犠牲を払ってようやく終った。
当時の連合軍を率いるアメリカは、民主主義・自由主義の国であった。彼らは敗戦国の日本に自由を許し、民主主義を教え、平和憲法を与えて、日本を世界一幸福な国にした。
しかし今、50年余を経て始まった世界平和の破壊は、何であろう。テロの非を否定する者はいない。恐らくはテロリスト自身、テロを良いこととは考えていないだろう。然らば戦争は如何? 広島・長崎で何万の非戦闘員を殺した戦争、南京大虐殺、アウシュビツの虐殺をも含めて戦争ならば人の命は失われてもよいのか。
我々はテロも戦争も許せない。弱者に対する戦争も、強者に対するテロも、共に人類に対する犯罪である。戦争の罪は特に重い。「原爆許すまじ」である。
20世紀は戦争の世紀だった。平和憲法の恩恵に浴した日本は別として、世界中の人類の多くが戦争の惨禍に苦しんだ。我々は21世紀を戦争もテロもない平和で幸福な世紀にしたい。私達は歴史に学びながら、その行方に監視を怠ってはなるまい。この新しい世紀に戦争やテロを持ち込む輩を許すまい。
今,あえて瀧川事件を取り上げる所以である。
今年の5月26日は、昭和8年に起きた瀧川事件の70周年にあたる。これは時の文相鳩山一郎が、京大の花形自由主義教授瀧川幸辰とその同僚教授らの事実上の罷免を強行して,学の自由を奪い、結果的に日本を軍国主義の支配する暗黒時代に導いた弾圧事件である。京大を始め,東大や東北大などで熾烈な学生運動が起こり、長谷川如是閑、美濃部達吉、岩波茂雄など当時の日本を代表する自由主義的文化人,知識人も一斉に抗議に立ち上がったが、無知な鳩山は頑として処分を強行した。これは<瀧川教授は共産主義者だ>との讒訴が右翼からあり、これを鳩山が真に受けたからである。この時、若い京大生長尾,浩美は、恩師らを護ろうと命がけで活躍するが,当時の特高警察は、瀧川事件を左翼運動と誤認して、容赦の無い検挙と拷問によって学生達の運動を弾圧した。
長尾浩美は、徳島県東祖谷山村の出身で、徳島中学から旧制高知高等学校を経て京大法学部に進んだ。長尾は高知高校一年のとき、寮歌『時の流れに』を作詞した自由主義的なロマンチストである。
(記念祭歌)『時の流れに』は、全国の旧制高校など40余校の寮歌およそ三千の中で、人気投票(寮歌研究会「若蛙の会」による)第一位にもなった名歌である。筆者が初めて長尾を知ったのも,この寮歌を通じてであった。
そこで先ず、その歌詞を紹介することにしよう。
記念祭歌 時の流れに(昭和5年)
①、時の流れに舟浮かべ 情けの調べ奏でつつ
果てなき旅に出でしより ここに はたちの齢へぬ
② はからず今宵 南瞑の 古城の畔 舟をつけ
三年の夢を結ばんと 友と岸辺に降り立ちぬ
③ ああ海原に陽は沈み この白浜を夕月の
淡き光の照らす時 桂の香り身に迫る
④ 沖に自由の白き帆や 岸辺に赤き自治の花
ああ若き日の憧れを 青空高くあげんかな
長尾は明治四十五年六月十五日に生まれている。石川啄木が死んで一月ほど経った時である。偶然ではあろうが、長尾は容貌が啄木に似ていた。友人たちは彼を啄木の生まれ変りだと言った。そのせいか、彼は啄木を尊敬するようになり、その生き様を真似るようになった。特に晩年の啄木が大逆事件(明治43年)に強い関心を持ち、半ば命を懸けて真相を明らかにしようとした態度には感銘を受けた。
大逆事件では幸徳秋水ら12人が処刑されたが、実際に法律違反のあったのは5人で、幸徳は冤罪だった。彼が処刑されたのは、社会主義者の抹殺を図った桂首相と平沼騏一郎検事総長が傍聴禁止,一審制の謀略裁判を強行して、幸徳を謀殺したのである。このことは外国では直ちに露見して、多くの抗議が政府に寄せられた。
日本の良心と言われた徳富蘆花も逸早く真相を知った。それを聞いた一高の自治寮委員長河上丈太郎は蘆花jに講演を依頼した。蘆花は一高の講堂を埋め尽くした生徒たちを前にして、多磨霊園にある井伊直弼の墓と吉田松陰の墓について、言った。松蔭の墓には慰霊の花が絶えたことがない、しかし直弼の墓を訪れる者は稀である。将来,幸徳は無実が晴れて国民の尊崇を集め、逆に事件をフレームアップして幸徳らを処刑した桂や平沼は、陰謀が露見して国民から糾弾される事になろう、と説いた。蘆花が講演を終わると、満場の生徒たちが涙を拭いながら、会場も割れんばかりの拍手を送った。しかし、この事は直ちに当局の耳に入り、一高の校長だった新渡戸稲造は、小松原文相から譴責処分を受けた。しかし新渡戸は河上を賞賛し、激励したという。
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[著者・藍 友紀氏紹介]
藍 友紀(あい・みゆき)氏が筆名を藍原友紀から変更したのは、女性姓名判断師の忠告に従ったものだそうです。なお継続発表中の作品については、引き続き藍原姓をも併用するとか・・・・・
1930年生まれ。
1946年東京府立第一中学校4年修了
旧制第一高等学校理甲入学
1947年 旧制第一高等学校理甲中退
旧制第一高等学校文丙入学
1950年 旧制第一高等学校文丙卒業
東京大学文科2類入学
1958年東京大学文学部史学科(西洋史)卒業
NHK釧路放送局放送部勤務(プロデューサーディレクター)~代表作品「飢え迫る開拓地」「返らざる島をみつめて」他。
1962年 NHK東京本部教育局教養部勤務。「教養特集~出稼ぎ」「村の記録~新しい浜辺に」などを担当。その間、国際番組コンクール「日本賞」に入賞するなど、顕著な活躍をする。しかし第4班のプロデューサー・デスクの時、ベルリンで開催される「テレビ番組国際コンクール」出品作「日本の漁法」の制作姿勢について上司と意見合わず。家庭の事情もあって辞任を決意。
1965年 NHK退職
以後、代々木ゼミナール臨時講師を経て、共学センターで私大医学部志望高校生の専任講師となり、数学・物理・化学・英語を教授して、教え子全員の現役合格と医師国家試験の卒業時一発合格を達成する。また医大生の個人教授を勤め、医学界腐敗の酷さを知り、その改革を訴える。
1965年以来、雑誌『漁村』に評論・ルポなどを発表.。以後、同誌の定期出稿者となる。近藤康男元東大教授に師事し、漁業経済学会会員。 1978年には 『釧路新聞』に『船頭一代』を連載。現在、北海道釧路市桜ヶ丘7-33-6在住(郵便番号085-0805、本籍地も同じ)。
(註)寮歌「時の流れに」と「瀧川事件」関係の資料については、上記釧路の”京大瀧川事件研究会”あてに葉書でお問い合わせ下さい。
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[藍 友紀の主な作品]
羽織漁師
庄内浜日記
八木家の人々
流氷の来る浜
白髪の踊り子たち
明けそめる海
時の流れに
父を恋う
散りにし花
笛の音うるむ(松江高等学校寮歌・作曲 梁田 貞(城ケ島の雨、どんぐりコロコロ、昼の夢などの作曲者)
ふみ子 など
(提携団体)「京大瀧川事件研究会(代表幹事・中村博志=歴史研究家。会長・谷津精衛=やづせいえい=旧制一高文丙昭和25年卒・旧制高校など3000曲の寮歌を歌う集い『若蛙の会』の発起人にして主宰者・大門寮歌祭委員長)と緊密に連携して評論活動を行う。
なお「同研究会」は、テキストとして、次の書を使用する。
① 松尾たかよし著「非常時下の知識人~京大瀧川事件の場合」(藤原彰/今井清一編/十五年戦争史第一巻・青木書店刊)
② 谷津精衛選・「若蛙の会」愛唱寮歌集第一巻ー222曲所収~入手方法は同前。
選者谷津精衛氏は1930年生まれ。昭和25年旧制高知高校中退・旧制一高文丙卒業。旧制八高出身で同じくNHK出身の鈴木啓一氏らを誘って「若蛙の会」を創設し、主宰者として、全国旧制高校ならびに準旧制高校の寮歌3000を歌い尽くし、佳曲は定期歌唱会で斉唱。後世に歌い継ぐことを悲願としている。他に「大門寮歌祭〔目下休止中)委員長、元一高常泉玉杯会幹事。「寮歌迷人会」主宰。 (以上中村記)
(今) ?昔の誓は今いづこ?
21世紀は世界唯一の核被曝国日本が先頭に立って、今世紀を戦争の無い平和な世界にしようと動き始めなければならない年だった。だが現実はどうか。今や世界全体を巻き込んだ戦争が地球上を覆い始めている。今や武器の主役は大砲や戦車ではなく核になった。その終着駅は人類の滅亡であり、ハルマゲドンである。既に1963年、世界はキューバ危機で、一触即発の事態を経験し、その怖ろしさに慄いた。その時、我々は超大国の独占的な核保有による戦争の抑止には、もはや限界がきていることを学んだはずである。戦争を廃絶するためには軍備の縮小から軍備の廃止へと進む以外の道はあり得ない。それなくして戦争を回避し得るほどの叡智も理性も勇気も、現代の人類は持ち合わせていない。金銭欲と権力欲のためには、人類とくに先進国の富める人類は、容易に良心と正義感を悪魔の手に売り渡して、世界制覇への道を突っ走ろうとしているのである。大量破壊兵器によるハルマゲドンへの道である。その大量破壊兵器を世界で最も多く保有している国は何処か。世界規模での軍縮、世界規模での戦争放棄を呼びかけるのでなく、世界の警察官の名の下に、世界制覇を目指している国は何処か。また、その野望を支持している国は、何処か?
顧みて昭和8年5月26日、右翼に操られた東大出の文相鳩山一郎は自由主義の刑法学者瀧川幸辰を罷免して文化を破壊し、軍国主義に道を開いて、以後の日本を暗黒の底に突き落とした。無知な鳩山を唆して、この暴挙を行わせたのは、かねて瀧川に私怨をもつ右翼の学匪蓑田のアジ文書だった。この年、ヨーロッパではヒットラー内閣が成立し、4月23日には議会による独裁が承認され、5月10日には焚書が行われている。東西呼応したような自由主義への弾圧は、12年後広島と長崎の街を原爆で焼き尽くし、市民の大部分を焼き殺すという悲惨な犠牲を払ってようやく終った。
当時の連合軍を率いるアメリカは、民主主義・自由主義の国であった。彼らは敗戦国の日本に自由を許し、民主主義を教え、平和憲法を与えて、日本を世界一幸福な国にした。
しかし今、50年余を経て始まった世界平和の破壊は、何であろう。テロの非を否定する者はいない。恐らくはテロリスト自身、テロを良いこととは考えていないだろう。然らば戦争は如何? 広島・長崎で何万の非戦闘員を殺した戦争、南京大虐殺、アウシュビツの虐殺をも含めて戦争ならば人の命は失われてもよいのか。
我々はテロも戦争も許せない。弱者に対する戦争も、強者に対するテロも、共に人類に対する犯罪である。戦争の罪は特に重い。「原爆許すまじ」である。
20世紀は戦争の世紀だった。平和憲法の恩恵に浴した日本は別として、世界中の人類の多くが戦争の惨禍に苦しんだ。我々は21世紀を戦争もテロもない平和で幸福な世紀にしたい。私達は歴史に学びながら、その行方に監視を怠ってはなるまい。この新しい世紀に戦争やテロを持ち込む輩を許すまい。
今,あえて瀧川事件を取り上げる所以である。
今年の5月26日は、昭和8年に起きた瀧川事件の70周年にあたる。これは時の文相鳩山一郎が、京大の花形自由主義教授瀧川幸辰とその同僚教授らの事実上の罷免を強行して,学の自由を奪い、結果的に日本を軍国主義の支配する暗黒時代に導いた弾圧事件である。京大を始め,東大や東北大などで熾烈な学生運動が起こり、長谷川如是閑、美濃部達吉、岩波茂雄など当時の日本を代表する自由主義的文化人,知識人も一斉に抗議に立ち上がったが、無知な鳩山は頑として処分を強行した。これは<瀧川教授は共産主義者だ>との讒訴が右翼からあり、これを鳩山が真に受けたからである。この時、若い京大生長尾,浩美は、恩師らを護ろうと命がけで活躍するが,当時の特高警察は、瀧川事件を左翼運動と誤認して、容赦の無い検挙と拷問によって学生達の運動を弾圧した。
長尾浩美は、徳島県東祖谷山村の出身で、徳島中学から旧制高知高等学校を経て京大法学部に進んだ。長尾は高知高校一年のとき、寮歌『時の流れに』を作詞した自由主義的なロマンチストである。
(記念祭歌)『時の流れに』は、全国の旧制高校など40余校の寮歌およそ三千の中で、人気投票(寮歌研究会「若蛙の会」による)第一位にもなった名歌である。筆者が初めて長尾を知ったのも,この寮歌を通じてであった。
そこで先ず、その歌詞を紹介することにしよう。
記念祭歌 時の流れに(昭和5年)
①、時の流れに舟浮かべ 情けの調べ奏でつつ
果てなき旅に出でしより ここに はたちの齢へぬ
② はからず今宵 南瞑の 古城の畔 舟をつけ
三年の夢を結ばんと 友と岸辺に降り立ちぬ
③ ああ海原に陽は沈み この白浜を夕月の
淡き光の照らす時 桂の香り身に迫る
④ 沖に自由の白き帆や 岸辺に赤き自治の花
ああ若き日の憧れを 青空高くあげんかな
長尾は明治四十五年六月十五日に生まれている。石川啄木が死んで一月ほど経った時である。偶然ではあろうが、長尾は容貌が啄木に似ていた。友人たちは彼を啄木の生まれ変りだと言った。そのせいか、彼は啄木を尊敬するようになり、その生き様を真似るようになった。特に晩年の啄木が大逆事件(明治43年)に強い関心を持ち、半ば命を懸けて真相を明らかにしようとした態度には感銘を受けた。
大逆事件では幸徳秋水ら12人が処刑されたが、実際に法律違反のあったのは5人で、幸徳は冤罪だった。彼が処刑されたのは、社会主義者の抹殺を図った桂首相と平沼騏一郎検事総長が傍聴禁止,一審制の謀略裁判を強行して、幸徳を謀殺したのである。このことは外国では直ちに露見して、多くの抗議が政府に寄せられた。
日本の良心と言われた徳富蘆花も逸早く真相を知った。それを聞いた一高の自治寮委員長河上丈太郎は蘆花jに講演を依頼した。蘆花は一高の講堂を埋め尽くした生徒たちを前にして、多磨霊園にある井伊直弼の墓と吉田松陰の墓について、言った。松蔭の墓には慰霊の花が絶えたことがない、しかし直弼の墓を訪れる者は稀である。将来,幸徳は無実が晴れて国民の尊崇を集め、逆に事件をフレームアップして幸徳らを処刑した桂や平沼は、陰謀が露見して国民から糾弾される事になろう、と説いた。蘆花が講演を終わると、満場の生徒たちが涙を拭いながら、会場も割れんばかりの拍手を送った。しかし、この事は直ちに当局の耳に入り、一高の校長だった新渡戸稲造は、小松原文相から譴責処分を受けた。しかし新渡戸は河上を賞賛し、激励したという。
~~~~~~~~~~~~~~~~
[著者・藍 友紀氏紹介]
藍 友紀(あい・みゆき)氏が筆名を藍原友紀から変更したのは、女性姓名判断師の忠告に従ったものだそうです。なお継続発表中の作品については、引き続き藍原姓をも併用するとか・・・・・
1930年生まれ。
1946年東京府立第一中学校4年修了
旧制第一高等学校理甲入学
1947年 旧制第一高等学校理甲中退
旧制第一高等学校文丙入学
1950年 旧制第一高等学校文丙卒業
東京大学文科2類入学
1958年東京大学文学部史学科(西洋史)卒業
NHK釧路放送局放送部勤務(プロデューサーディレクター)~代表作品「飢え迫る開拓地」「返らざる島をみつめて」他。
1962年 NHK東京本部教育局教養部勤務。「教養特集~出稼ぎ」「村の記録~新しい浜辺に」などを担当。その間、国際番組コンクール「日本賞」に入賞するなど、顕著な活躍をする。しかし第4班のプロデューサー・デスクの時、ベルリンで開催される「テレビ番組国際コンクール」出品作「日本の漁法」の制作姿勢について上司と意見合わず。家庭の事情もあって辞任を決意。
1965年 NHK退職
以後、代々木ゼミナール臨時講師を経て、共学センターで私大医学部志望高校生の専任講師となり、数学・物理・化学・英語を教授して、教え子全員の現役合格と医師国家試験の卒業時一発合格を達成する。また医大生の個人教授を勤め、医学界腐敗の酷さを知り、その改革を訴える。
1965年以来、雑誌『漁村』に評論・ルポなどを発表.。以後、同誌の定期出稿者となる。近藤康男元東大教授に師事し、漁業経済学会会員。 1978年には 『釧路新聞』に『船頭一代』を連載。現在、北海道釧路市桜ヶ丘7-33-6在住(郵便番号085-0805、本籍地も同じ)。
(註)寮歌「時の流れに」と「瀧川事件」関係の資料については、上記釧路の”京大瀧川事件研究会”あてに葉書でお問い合わせ下さい。
~~~~~~~~~~
[藍 友紀の主な作品]
羽織漁師
庄内浜日記
八木家の人々
流氷の来る浜
白髪の踊り子たち
明けそめる海
時の流れに
父を恋う
散りにし花
笛の音うるむ(松江高等学校寮歌・作曲 梁田 貞(城ケ島の雨、どんぐりコロコロ、昼の夢などの作曲者)
ふみ子 など
(提携団体)「京大瀧川事件研究会(代表幹事・中村博志=歴史研究家。会長・谷津精衛=やづせいえい=旧制一高文丙昭和25年卒・旧制高校など3000曲の寮歌を歌う集い『若蛙の会』の発起人にして主宰者・大門寮歌祭委員長)と緊密に連携して評論活動を行う。
なお「同研究会」は、テキストとして、次の書を使用する。
① 松尾たかよし著「非常時下の知識人~京大瀧川事件の場合」(藤原彰/今井清一編/十五年戦争史第一巻・青木書店刊)
② 谷津精衛選・「若蛙の会」愛唱寮歌集第一巻ー222曲所収~入手方法は同前。
選者谷津精衛氏は1930年生まれ。昭和25年旧制高知高校中退・旧制一高文丙卒業。旧制八高出身で同じくNHK出身の鈴木啓一氏らを誘って「若蛙の会」を創設し、主宰者として、全国旧制高校ならびに準旧制高校の寮歌3000を歌い尽くし、佳曲は定期歌唱会で斉唱。後世に歌い継ぐことを悲願としている。他に「大門寮歌祭〔目下休止中)委員長、元一高常泉玉杯会幹事。「寮歌迷人会」主宰。 (以上中村記)