朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

反レイシストが実はレイシストであった喜劇を生むか

2014年06月17日 | 帝国主義・植民地

「レイシスト」になる自由はあるか?という本が2月に翻訳され出版されました。

 翻訳をした明戸氏へのインタビュー記事なのですが、京都朝鮮学園へのヘイトスピーチをとりあげたりと「期待」はできます。

 が、気がかりな問題がいくつか。以下、そのインタビューの一部を掲載し、検討しようと思います。


※  ※  ※
――今回、翻訳した本の特徴は?

現状の欧米の法制度に関して、全体の見取り図がわかる本です。欧米主要国の「ヘイトスピーチ」規制のあり方について、バランスよく紹介している点が特徴です。主な内容はヘイトスピーチ規制、ヘイトクライムの禁止、人種差別の禁止についてで、アメリカの公民権法のように歴史的な流れも全部含まれています。

著者のスタンスとしては、規制と表現の自由とのバランスをとる、という視点で書かれています。著者のブライシュは、もともと英仏の比較研究を専門としているアメリカ人の政治学者です。この本ではそのイギリス・フランス・アメリカに加えて、ドイツの事例も取り扱われています。

ヨーロッパは、ホロコースト(ナチスドイツによる大量虐殺)があったこともあり、ヘイトスピーチ規制に積極的です。一方、アメリカは、「表現の自由」を重視して、規制は行わないという立場です。かなり対照的なんですね。ただ、詳しく見ていくと、そう単純ではない。

ヨーロッパと日本は「歴史的な文脈」が違う

――なぜヨーロッパが規制に積極的で、アメリカが消極的なのですか?

ヨーロッパが積極的な要因は、やっぱりナチスですね。その中でも象徴としての「ホロコースト」があったことでしょう。それに加えて、1960年代ごろから出てきた移民問題。その2点が大きいですね。

一方、アメリカが今の流れになったのは、実は公民権運動以降です。運動を押さえ込みたい南部の州政府に対して、司法が公民権運動の側に有利な判決を出していった。そのときに根拠になったのが「表現の自由」だった。それが経験的には大きくて、表現の自由を押さえ込むと、マイノリティの利益を損ねることになるという意識が、ものすごく強いのです。

――なぜ、いま、この本を翻訳したのですか?

2013年の2月以降、日本でも、排外主義的なデモが大きな社会問題として捉えられるようになりました。そういったデモに対抗する「カウンター」の動きも出てきた。ヘイトスピーチの法規制についても、メディアや国会議員の間で語られるようになりました。

司法の側にも動きがありました。京都の朝鮮学校で行われた街宣活動に対して、賠償と学校周辺での街宣活動の禁止を命じる判決を、2013年10月に京都地裁が出しました。

僕自身も、2013年2月に新大久保のデモとカウンターの様子を見て、「いま、自分が果たすべき役割は何だろうか」とあらためて考えていた。そんな文脈の中で、この本を翻訳しようと思ったんです。

  ※  ※  ※

うなづきかけて、「うん?」と思ったこととして、記しておこうと思います。

 「歴史的文脈が違う」とはどういうことなのか?もちろんこれは編集上、つけられたタイトルではあって、訳者の思惑とは外れている可能性もあるが、その後の、「いま自分の果たすべき役割」とあるので、大筋は合意しているとみて、間違いないだろう。

 訳者は、ドイツのホロコーストに関連して、ナチスドイツに対抗する軸と、1960年代からの移民問題の軸から、ヘイトスピーチ規制という問題を捉えているにもかかわらず、日本では2013年2月以降のヘイトスピーチの問題へと、タイムスリップ(逆の意味で)する。
 そのような「過激的」なヘイトスピーチに対して、「カウンター」として、京都地裁の判決や法規制について論じられているから、この本は「意義」がある、ということだろうか。今の現状で、「他国の歴史(アメリカとドイツ)」、自身たちの歴史的文脈は違えど、そのような法規制がいかになされたのかを見るのは、意義があると…

 しかしよく考えてみると、「ホロコースト」と類似した日本帝国主義の過去はいくつも散見されている。その代表格といえるのが「関東大虐殺」ではなかったのか。(もちろんその他いくつもの例がある)「関東大虐殺」のみでは語れない、日本の植民地時代の暴力があり、それが忘却されていっている「今」の問題が、レイシズムの問題ではなかったろうか?
 この語りは、「レイシストを批判する」という趣旨の本であろうことは間違いないだろうが、あくまでも「レイシスト」は、「在特会」のような人々を指し、それを批判さえすれば「免罪符」を得られる今の日本の状況をあまりにも鮮明に表しているのではないだろうか。(そういえば安部もレイシストを「批判」していた)

 このような「物語」を見るたびに、歴史修正主義者たちの「功績」を認めざるをえない。遺憾ながら、彼(女)らの思惑通りに日本は進んできているし、いまや、過去が切り離された「今」を生きている人々が、「レイシスト」か「反レイシスト」かで別れ闘っているような錯覚にさえ陥る。

 ヘイトスピーチが横行し、それへの「カウンター」で、今の日本を論じるのは危険極まりないとしか言いようがない。
 そもそもの「ヘイトスピーチの氾濫」といえるような状況は、1991年金学順ハルモ二の「証言」から始まった植民地主義的暴力に抗う闘争に対しての、バックラッシュ現象として出てきたものであり(もちろんそれ以前にもあった)、それが倒錯した形で「朝鮮人」=なんでもありの思考様式が生まれた。「いい朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」というような鶴橋や新大久保でのデモのような「過激派」もその思考様式から「逸脱」したものでは決してない。「逸脱」ではない、「普通の人」が行った虐殺こそが「関東大虐殺」であった。そのような思考様式が、日本の「進歩」的な陣営にまで影を落としているのが現況ではなかろうか。

 そして、それは日本の敗戦直後から今なお継続している。このような歴史的な枠組みの中で、過去を暴力をもって「忘却」しつづけた(あるいはさせ続けた)日本の必然的な結果が今の、レイシズム的状況であると断言できる。

 このような、過去への反省とそれの超克との視座を持ちえねば、このような「レイシズム批判」は、より大きな植民地主義によって絡めとられ、新たな「過激的レイシズム」を批判する「穏和なレイシズム」を生むであろう。反レイシストが実は、レイシストであった、という喜劇の誕生である。

 今、求められているのは、「日本の現住所」の確認ではなかろうか。過去から現在、そして不安な未来へと連綿とつづく日本の迷走を断ち切るにはそれしかないと思われる。 

コメントを投稿