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チュチェ思想の誕生

2011年11月21日 | 帝国主義・植民地
 チュチェ思想は、時代と革命実践発展の要求に即して、金日成主席によって創始されました。
 
 マルクス主義は、朝鮮や中国などの植民地、反植民地における労働者階級、ひいては世界の被抑圧人民大衆が植民地解放運動を繰り広げる上で、革命思想としての役割を果たしていました。

 ロシア社会主義の発展に伴い、社会主義の生命力が世界に広く公認され、資本主義社会内部における闘争も激化していく中、特にこれまで搾取と抑圧の対象でしかなかったアジアやアメリカ、ラテンアメリカの人民が一つの政治勢力として、民族・階級解放を目指す闘争に進出してきました。
これは、人民大衆が歴史の主体として社会運動を担いながらも、自主性を蹂躙されてきた時代から、彼らが歴史と自己の真の主人として階級、そして民族解放のための闘争を目的意識的に、世界的範囲で展開していく新しい自主の時代、チュチェ時代へと時代が移り変わったことを端的に表していると言えるでしょう。

 このような歴史的条件において、解放闘争の主体としての人民大衆は、自身の運命開拓の道を新しい時代に即して示してくれる新しい思想の誕生を渇望しました。とりわけ、朝鮮においては歴史発展の特殊性、革命実践の複雑性などからこの問題を解決することが、革命の前途を展望する重要な問題として提起されました。このような要求を反映し創始されたのがチュチェ思想です。

 当時、民族解放運動に携わっていた「マルクス主義者」や民族主義者たちは、人民大衆の解放運動の指揮権をめぐるヘゲモニー争いや空理空論に明け暮れていたばかりでなく、朝鮮の解放闘争を自国の人民の力ではなく、外部勢力に依拠して成し遂げようとしました。「共産主義」運動の指揮者たちは様々に分裂していた党派がコミンテルンの承諾を得るために躍起になり、革命実践のための理論も、他国の革命成果をその特徴も実情も異なる朝鮮の実践にそのまま適用するのが一般的でした。
 当時の朝鮮革命を「指導」したとされる「マルクス主義者」が、いかに人民の団結を妨げ、また教条主義と事大主義に駆られていたかということは、1927年12月 、1928年にそれぞれ、コミンテルンによって、朝鮮革命の現状についての辛辣な批判を受けていること からも、十分窺うことができます。


 ※「朝鮮共産党についてのコミンテルン決定」(1927年12月以前)、『コミンテルン資料集』4、大月書店、264頁
 この決定の第1項では、「朝鮮戦闘的プロレタリアートの第1重要にして緊急なる任務は完全なる党の実現にしていまだ現存せる総有フラクション及びグループの即時解体にある。過去フラクションの派争の残在が党の発展を阻害したものである。過去派争は単に党のみならず国民革命の存在まで魔酔せしめた…」と、当時の朝鮮革命を指導したグループを一括して批判している。

 ※ 「朝鮮問題についての決議」(1928年12月10日、執行委員会政治書記局)、同上、487ページ
 コミンテルンは当時、朝鮮の革命運動が厳しい危機に瀕している理由を、工業の発展や労働者階級の発展における微弱性、労働者階級の組織率の程度、日本帝国主義の迫害とみなしながらも、「諸君の国の共産主義運動をすでに数年にわたって引き裂いている悲しむべき内部的な不和と抗争の所産でもある。」としている。
 また、朝鮮革命を先導していた、共産党(激しい生みの苦しみのうちに生まれでようとしている)に対しては、「個々ばらばらの革命家と労働者大衆とのあいだに最も緊密な結びつきがつくりだされないかぎり、共産主義運動がプロレタリアートの集中点に足場を固めないかぎり、党が農民大衆のあいだでその影響力を組織的に打ち固めないかぎり、党が民族革命運動にたいして組織的な影響力をもたないかぎり、内部的不和に引き裂かれた共産主義運動は、革命的闘争の先導者、組織者、指導者とはないえない。」と、明白に言及している。



 金日成主席は、当時の民族主義運動と共産主義運動における教訓を批判的に分析し、1930年6月、卡倫会議での演説、「朝鮮革命の進路」において、チュチェ思想の2つの起点をとなる結論を導きました。



 その一つは、革命の主人は人民大衆であり、彼らの中に入り、意識下、組織化することでのみ、革命闘争に勝利することができるということ。

 《혁명투쟁의 주인은 인민대중이며 인민대중이 조직동원되여야 혁명투쟁에서 승리할수 있는것입니다.》 

 もう一つは、朝鮮革命における全ての問題を、自らの責任によって、朝鮮の実情に合わせて解決していかなければならないという、自主的、創造的立場でした。

 《경험은 혁명을 승리에로 이끌기 위하여서는 인민대중속에 들어가 그들을 조직동원하여야 하며 혁명에서 나서는 모든 문제를 다른 사람에게 의존하여 해결하려고 할것이 아니라 자신이 책임지고 자기의 실정에 맞게 자주적으로 해결하여야 한다는것을 보여주고있습니다.우리는 이 교훈으로부터 조선혁명의 주인은 조선인민이며 조선혁명은 어디까지나 조선인민자체의 힘으로,우리 나라의 실정에 맞게 수행하여야 한다는 확고한 립장과 태도를 가지는것이 가장 중요하다고 인정합니다.》

 この過程に、朝鮮革命における最も重要な教訓としての事大主義と教条主義を反対するチュチェの原理が明らかにされたのです。

 当時、革命の主体を人民大衆と見ることができず、人民大衆の団結を促すのではなく、ヘゲモニー闘争によって、分裂させていた事態を収拾し、朝鮮革命の思想的欠点であった、事大主義、教条主義を克服する観点としての、主体的立場、自主的立場(⇔事大主義)、創造的立場(⇔教条主義)が提起されたところに、チュチェ哲学の誕生が1930年6月30日のこの会議であったと言える所以があるのです。

 チュチェ哲学の創始に伴って、朝鮮では植民主義に反対し、現実の植民地から解放されるための武装闘争が展開され、党の結成までをも念頭に据えたまさに、組織的な反抗が促されていったのです。

 このような事情から、朝鮮人民はチュチェ哲学を朝鮮においてだけではない、人類の解放と真の平等の思想として、自身の指導思想に据えているのです。


 1930年6月、卡倫にて創始されたチュチェ思想は、その後、朝鮮における2つの革命戦争と、反帝反封建民主主義革命、社会主義革命、そして社会主義建設の実践的過程に金日成主席、金正日総書記によって、総合体系化され、その原理と内容が深化されていきました。
 
 このような意味で、金日成主席は「…わたしが朝鮮人民という土壌に種をまき育ててきたチュチェ思想を、金正日同志が生い茂る森にかえ、豊かな実を収穫できるようにしたといえます。」(『社会主義偉業の継承、完成のために』、「金日成著作集」第44巻、104頁)と、述べました。

 金日成主席によって創始され、金正日総書記によって総合体系化されたチュチェ思想は、人民大衆の自主性を実現する革命思想であり、人民の哲学、またその道に導く政治思想です。





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