朝鮮について知りたい

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雑誌「前夜」を読み返す(1)

2016年02月26日 | 帝国主義・植民地
最近、雑誌「前夜」を読み返している。いまもなお続巻が出ているのならば、まず目を通しておきたい書物である。

※ここで言う「前夜」とは、戦争体制へと組み込まれていっている現在の日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗のあらたな拠点を築こうという努力、「夜」を耐え忍び、新生の時を迎えるそのときまで、女性・被圧迫民族・マイノリティの現状を歴史的に検証し、「知的」であることによって、現実を変えようとする努力を怠ってないものの「観点」としてある。(季刊「前夜」は何を目指すのか、「前夜」1、P4) また高橋哲哉は、「…現在の苦境は常に何か解放的な事態の『前夜』としても経験されうる。世界が『戦時中』であっても、どんな破局的な状況に立ち至っても、『希な望み』を捨てない抵抗-レジスタンスの動きが残っているかぎり、それはつねに『前夜』なのだという、そういう思いを私はこの言葉に託したい」と、述べている。(前掲書、P29)

さて、最近のもっぱらの関心事は、「日本の左翼はどこへ?」という問題なので、とりあえずは共産党に対して調べてみようと思う。そういう問題意識からふと、「前夜」を手にしてみた。パラパラと読み返しながら、ふと中野敏男氏の連載記事に目がとまったので、メモ代わりとして要約や問題意識を残していきたいと思う。いかに共産党は「国民国家」という化け物に取りつかれていったのか(という仮説であるが)、その出発はどこにあるのか、を探る作業がやはり大事なのかな、と感じている。

とりあえず、「前夜」。その次は関東大虐殺時の社会主義者。そして、似たような事象が第一次世界大戦を取り巻くヨーロッパでも起こっている(カウツキーとドイツ社会民主党)ので、その辺を調べていきたいと思う。根詰めて行わなければならない作業であるが、現在日本を理解し、そのうえで、行く末を見定めるためには重要な作業になると思う。

まずは、中野敏男氏の連載記事を最初から見てみることにする。

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どこから出発したのか?-小熊英二『<民主>と<愛国>』を批判する(中野敏男、「前夜」Ⅰ、P141)

△問題提起 : 「戦後」を問うとはどういうことか?

「たしかに、現在の状況にとても大きな変化が起こっていて、それが<前夜>の兆候であると考えてみると、その指標の中に、これまで『戦後のもの』として了解されてきたさまざまな事柄の総崩れという現実が含まれていることは明らかである。」(「前夜」1、P141)

→国旗・国歌法が成立(1999年8月13日公布、施行)したことを皮切りにイラク戦争への参戦、有事関連の法整備(2003年6月13日、武力攻撃事態対処関連3法)、教育現場への「日の丸・君が代」の強制、教育基本法改定への動き(2006年12月22日公布、施行)、そして憲法「改正」までへと、という状況の中、中野敏男は「戦後のもの」として了解されてきた「平和主義」や「民主主義」といった基本原理が浸蝕され、その意味で「戦後」 が根本から崩壊の淵に立っていると評している。

上記のような問題意識にそくして、「戦後」というものを問おうとした場合、想起されるものは、「人権」、「自由」、「平等」、「平和」のような原理である。それは、おおよそこれらが「戦後の原点」として認められる原理・理念であるからである。これらをより強い概念に仕立て上げ現状を批判克服するための武器にしたいと考えるのも一理ある。が、中野はこれにたいし、反問する。

 「この『日本』という場で考えるとき、はたしてそこに立ち戻るべき戦後があったのか、いま、またいつか聞いた『復初の説』を唱えればそれでいいのか」と。(前掲書、P142) 
 →このような問題意識は、東西冷戦の枠組みが崩れた1990年代のプロセス(「従軍慰安婦問題」や在日朝鮮人・中国人の無権利状況など)が、「戦時」に発する侵略と植民地主義の禍根がこの「戦後」の基層に解決されないままずっと伏在し続けていることを痛切に認識させたがゆえである。

・「戦後」における「民主主義」
 戦後民主主義の象徴としての「婦人参政権」 が認められた日に、旧植民出身者の参政権が一方的に停止された。そんな「戦後民主主義」の在り方への問いとして。

※ 1945年11月21日治安警察法の廃止と女性の結社権、同年12月17日に国政参加が認められる。ただし地方参政権については、46年9月27日地方制度改正により実現

※ 植民地期の在日朝鮮人には25歳以上の男子などの制限はあるが選挙権・被選挙権が認められていた。しかし1945年12月1日の衆議院議員法の附則によって、在日朝鮮人の選挙権は停止された。また46年の参議院議員法の附則と地方自治体法代20条は、衆議院議員法附則と同様戸籍を根拠として、参政権を在日朝鮮人に対して停止した。45年の衆議院議員法で在日朝鮮人の参政権が停止された背景には、当時朝鮮人が参政権を行使し天皇制に反対することを恐れた清瀬一郎衆議院議員らの強力な反対があった。(水野直樹「在日朝鮮人台湾人参政権「停止」条項の成立―在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(1)―」、財団法人・世界人権問題研究センター「研究紀要」第一号、1996年3月)
「此等の者が力を合すれば最少十人位の当選者を獲ることは極めて容易なり。或いはそれ以上に及ぶやも知るべからず。我国に於ては従来民族の分裂なく、民族単位の選挙を行ひたる前例なし。今回此事を始めんとす。もし此の事が思想問題と結合すれば如何。その結果実に寒心に堪へざるものあらん。次の選挙に於て天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らくは国籍を朝鮮に有し内地に住所を有する候補者ならん(清瀬一郎意見書)」


・「戦後」における「平和」
 日本の「平和」の下での戦後復興と高度経済成長という奇跡、その背景には各々朝鮮戦争、ベトナム戦争がある。その背景に関しては複雑な事柄があるものの、事実として戦争は継続している。「戦後半世紀以上ずっと平和」であったというのは、日本国内にしか目を向けない特権的な自己欺瞞に過ぎない。

このような問題意識でもって「戦後を問う」ということを出発するとき、「戦後」の実在を主張し、その「戦後」を想起すべきとの著作が現れる。小熊英二の「<民主>と<愛国>」である。
 →これを吟味することから「戦後を問う」作業を始めてみる、こう中野は言っているのだ。


△小熊英二の「語り」の問題

小熊英二は「<民主>と<愛国>」の中で、日本の戦後思想をたどりながら、丸山真男と大塚久雄をとりあげ、次のようにまとめた。「丸山や大塚の思想は、戦争体験から生まれた『真の愛国』という心情のもとに、多くの矛盾する理念が束ねられていた、いわばパンドラの箱であった。そして戦後思想の以降の流れは、戦争の記憶が風化してゆくなかで、そこに含まれていた多くの思想潮流が次第に分裂し『民主』と『愛国』の両立が崩壊してゆく過程をたどることになる」(小熊英二「<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性―」、P103)、と。小熊は、丸山真男が「陸羯南-人と思想」において明治初期の「日本主義」から50年のうちに、右翼的反動と自由主義と社会主義の三方向がそれぞれ育ったと述べているように、丸山の学統からも戦後50年のうちにさまざまな思想の持ち主(戦後民主主義の継承者、現実主義者、大衆社会論者、励起子修正主義にいたるまで)が排出されたとしている。(そして、小熊の指摘によるとかれらは丸山の一部のみを継承し、全体を継承してはいない。)

小熊は、本書の中で「戦後日本」というもののなかに実は「第一の戦後」、「第二の戦後」があり、戦後をめぐる今日の語りの多くがこの「第一の戦後」のことを忘却し、見失っている、と指摘している、と中野は解釈していると思って間違いないだろう。

・そして中野は、小熊が、丸山と大塚を小熊がとりあげたのは、かれらが特殊例であったわけではなく、同時代人の一集団的な心情そのものを代表的に表現しているからだとみている。

・小熊は、「民主」と「愛国」が両立しえた時代があったのだという語り口を採用することによって、「ここに帰れ」というメッセージを投げかけるのである。
 そして、その語りを受ける人々は、「55年体制」と言われる政治における区画点、「もはや戦後ではない」と宣言した56年経済白書などによって、この時期区分をア・プリオリに前提していて、思想面における「第二の戦後」への突入という物語に聞き入ってしまう。

しかし、中野敏男は、このような「語り口」に「待った」をかける。

 「このような小熊の語りは、新たに戦後日本の復活神話を美しく語ることで、その戦後日本が問題として抱えてきているとびきり大切なことを、とりわけナショナリズム、民族、国民といった主題に関連して考えなければならない中心を、むしろ隠ぺいし置き去りにしてしまう…」(「前夜」1、P144)。
 
→「民主」と「愛国」が両立した「第一の戦後」なるものがはたしてあったのか?中野はそれに対しアンチを唱えながら、竹内好、日本共産党、石母田正の論を採用し反論を試みる。これらの論は、45年から50年を前後する状況にある種の思想的変遷があった、ということを如実に語っているものである。
 このことから、45年から55年、「第一の戦後」という小熊の語りは、実は45年から50年前後に至るこの間の状況変化を覆い隠している一つの罠として機能しているということを論証する。

竹内好(1951年)
 「民族の問題が、ふたたび人々の意識にのぼるようになった。これまで、民族の問題は、左右のイデオロギイによって政治的に利用される傾きが強くて、学問の対象としてはむしろ意識的に取り上げることが避けられてきた。…戦争中何らかの仕方でファシズムの権力に奉仕する民族主義に抵抗してきた人々が、戦後にその抵抗の姿勢のままで発言しだしたのだから、このことは自然のなりゆきといわねばならない」。
 
→竹内のこの言葉は、1951年くらいの時期に「民族」という問題が「ふたたび人々の意識にのぼる」という論旨であって、特に「近代主義とは、いいかえれば民族を思考の回路に含まぬ、あるいは排除すること」であり、この近代主義こそが敗戦後に支配的であった。扱うべき思想における中心問題は近代主義であった。45年~51年と限定して考えてみると、小熊の主張とは正反対である。

 よって、45~55年までを「第一の戦後」ととらえる小熊の主張には「待った」をかけなければならない。

日本共産党の場合(1951年五全協決定までの過程)
 共産党は、「民族」という観念を政治的に利用し、特にプロパガンダ用の文書では「民族」という文言が散見される。しかし、党の綱領や路線にかかわる重要文書では民族の問題をしっかりと扱っている。
 共産党は敗戦直後、帝国主義連合国軍を「解放軍」として確認。(45年10月「人民に訴ふ」)ここでは、「天皇制打倒」の主体は「人民」であり、民族・国民との混同はない。
 48年3月の中央委員会では「民主民族戦線」を提案。
 51年綱領ではそれを「民族解放民主統一戦線」に修正、「民族解放民主革命」の主体を「国民」と表現するに至る。
 「人民」から「国民」への変遷過程は重要で、51年全協決定ではこの点について説明をしている。
 →しかし小熊は、共産党にたいしては敗戦直後から一括して「反米愛国」を掲げていたと示している。共産党における路線論争の意味をないがしろにしてしまう。

・石母田正(1952年3月「歴史と民族の発見」、53年「続歴史と民族の発見」)
 戦後日本における民族問題に関する論議に大きな影響。しかも、「民族の発見」という表題には特別な意味を付与すべきである。数年間見失われた「民族」という問題を再発見したことに他ならない。

この議論における結論(問題提起)
 
小熊によって、「愛国言説」として扱われた「敗戦直後」である45~55年までの「第一の戦後」という論理は45~50年前後に至るこの間の思想状況の変化を覆い隠している。小熊の著作の中でもこれらの論調の実例としては主に49年ないし52年頃から採用される。そうして45年~50年前後の間までにはいかなる変化(=問題)もなかったという結論を持ってきてしまう。
 
しかし、この期間には実は、「戦後日本の形成」を語るうえで「忘却」されてはならない重要な事項がいくつもある。

まず、1949年の中華人民共和国成立という中国革命であり、次に50年から本格的戦闘が広がった朝鮮戦争である。
小熊の語り口である「第一の戦後」=〔1945年~55年〕説というものは、実はこのような中国・朝鮮にかかわる問題を構造的に排除する問題点を抱えているのである。
 確認してきたように、小熊は戦後日本を「第一の戦後」、「第二の戦後」と区分し、今の人々が「第一の戦後」を忘却し、見失っている点を指摘しつつ、それへの回帰を促す企画意図と結びついているのである。

△ 丸山真男・大塚久雄理解から見る小熊の「戦後」観

※ 上記のような認識の下、小熊は「戦中」と「戦後」というもっとも基本的な時期区分を提出する。

小熊は、「戦中」と「戦後」という時期区分を明確に打ち出し、日本における戦後の出発を次のような文章にこめる。「虚偽と無責任を生み、大量の死と破壊をもたらした、『皇国日本』と『臣民』の関係。それに代わる『公』と『私』の関係は、どのようにあるべきか。崩壊した『国民同士の人間らしい連帯』を、どのような新しい原理のもとに構想しなおすか。『廃燼の中から新たな日本を創り出すのだ』という戦死した学徒兵の遺言の言葉は、敗戦に直面した多くの人々に共通する思いであった。『戦後』と呼ばれる時代は、ここから始まる」(P65)。

→「戦後」という物語の起点
 小熊の語りの中には、彼にとって必要な舞台装置だけしかない。というのは、そこには日本にあったはずの侵略、植民地主義が抜け落ちていて、小熊が「課題」と認めているものが「国民同士の人間らしい連帯」の再建のみであるからである。このように舞台が設えられるのなら、「国民の再生」物語を描きだすのには、好都合でしかない。(戦後、荒廃の中から立ち上がった先人たちのプロジェクトx)

- 小熊の語りのカラクリに対する手がかり

 大著の実質部分である、丸山真男と大塚久雄にかかわる章、「総力戦と民主主義」である。

・丸山や大塚の思想が戦後ではなく、戦時の総力戦体制という時代的コンテクストの中で形成されたということを確認している。
 これは、中野敏男などが提起した丸山・大塚の思想形成が戦時動員体制にあるとする理解 を追認するもの。

・また丸山や大塚が『当時の人々に共有された心情を表現』する思想家であったことを確認するために芦田均の発言 (1945年9月)、黒沢明の「一番美しく」などが引き合いに出されている。

・そのような確認(思想形成状況、同時代的心情)のあと、小熊は、丸山や大塚の思想内容ではなく、彼らの「抵抗」と「真の愛国」という心情に思い入れ、それらを救い出してしまう。(ちなみに、中野は前述した問題意識に則り、ここから丸山と大塚の思想内容について検討している)

- 抵抗と屈服、忠誠と反逆との「紙一重」を歩んだ丸山真男という理解

・総力戦体制そのものの合理的遂行を唱える思想の面(忠誠の側面)、政府や軍部への批判になる文脈の面(反逆の側面)
 このような理解から小熊は、中野の丸山(大塚)論にたいして、「反逆の側面」を軽視しているとの批判をする。

・中野の反批判
 そもそも、中野は彼らの思想が時局批判であったことを肯定し、むしろ繰り返し強調している。にもかかわらず、小熊が中野に対していわれのない批判をするのはなぜか、それは小熊の物語に秘密がある。

中野の丸山(大塚)理解
①かれらの言説は「時局批判」に動機づけられている。
②しかし、痛切な批判の心情が逆に、熱烈な参与と動員の論理を堅牢に組み上げてしまう(総力戦期に国民的主体を語ることの逆説性)
③現に、丸山が「強烈な国民的自覚」を語る日米戦争開始期には、「東亜共同体論」や「新体制運動」に可能性を示した革新左派の戦時改革への夢は途絶え、「国民の主体性」は総力戦への参与に水路づけられる以外なくなっている。(「内鮮一体」に「国民」としての希望を呈した朝鮮人の挫折も同様である)結果、労働運動も「オシャカ闘争」と化した。
④そのような状況の下での「国民たらう」という丸山の呼びかけは、それがいかに全体主義的国体論に「抵抗」しようとするもの(動機から出発)であったとしても、抵抗の形とは逆立し、むしろ積極的な参与と動員の呼びかけにならざるをえないのである。
⑤にも関わらず、丸山の主観においては、それらはいつの時も「時局批判」であった。
→そうだからこそ、その論理は「戦後」を担う主体の論理として、「戦後」にそのまま生き延びたのである。

・先に引用した芦田の場合においても、かれの発言が1945年9月のものであるということから、見受けられるものは、総力戦体制にたいする批判がまさに、総力戦体制を維持させえた思想でもって行われ、その総力戦思想そのものが「戦後」の出発点となっているのである、ということだ。(総力戦から戦後への連続)

→ このような観点に即して考えてみると、戦時と戦後の断絶を強調したがる小熊の意図が見えてくる。すなわち、小熊は、丸山らの言説を「抵抗」、「政府や軍部への批判」という側面を取り上げることによって、戦時における国民間の道徳的退廃と「人間らしい連帯」の解体を「戦争体験」として語り、一方では、「戦後」を「国民の再生物語」として語っていくことに成功するのである。

この議論における結論
 
これを「戦後思想」と呼ぶには、あまりに重大な隠ぺいがあって無惨であり、内容を問わない思想分析は空疎である。戦後日本の心情を揺るがし、主体を割るのではなく、逆に日本人を救済し融合させるその基調は、<前夜>のこのとき、むしろ危険な誘惑となるのである。これに対抗する戦後思想史を書くことで、「前夜における戦後思想認識」があぶり出されるのである。

△ 「戦後」に抗する「戦後思想」

「…現在われわれが間違いなく『戦後思想家』と見なしている幾人かの人びとが、小熊とはちょうど正反対の状況認識を示しながら、それに抗する彼らの戦後の第一声を発していることに気づかされる…」。(「前夜」1、P150)

- 鶴見俊輔の場合
 「『八紘一宇』『肇国の精神』などは、戦争の好きな人の旗印として戦争中にあまりはでにもちいられたため、部隊の回転とともに流行からはずされた。これらにかわって、アメリカから輸入された『民主』『自由』『デモクラシー』などの別系列の言葉がお守り言葉としてさかんにつかわれるようになった。…戦前から戦中にかけて侵略を歓迎したかのようにみえる評論家たちが、『民主』『自由』『平和』をうたったことを見ると、彼らがその間の変化に恥ずかしさを感じない根拠は、彼らがこれらの言葉をお守りとして使うことを考え、言葉が変わったとしても内容にはかわりがなくてよいのだという認識に達したものと判断される」 。

竹内好の場合
 竹内は敗戦後に流行する進歩主義について次のような認識を示す。
 「進歩主義は、日本イデオロギイの重要な特徴の一つと思うが、それは否定の契機を含まぬ進歩主義であり、つまり、ドレイ的日本文化の構造に乗っかって安心している進歩主義である。…かれらは人民を組織しようとするが、それは人民に自分の命令をきかせようとするだけだ。権威のすげかえをやるだけだ。『エロ・グロ』のなかに抵抗の契機をつかむのではなくて、それを禁止して、そのかわりに『民主主義』を押しつけるだけだ」 。

吉本隆明の場合
 吉本は57年の「戦後文学は何処へ行ったか」で、「戦後十一年の暗い平和にたたかれて変形されたとは云え、私の中には、当時からくすぶっている胸の炎がまだ消えずにのこっている。けっして『戦後』はおわっておらず、戦争さえも過ぎてはゆかないのである。わたしはそれを信ずる。戦後文学は、私流の言葉遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である」 。


総まとめ

 これらの言葉は、敗戦直後の言説状況を捉え、そうした状況に抗するものとして発せられている。同時代人たちの証言に即して言えば、小熊が「神話時代」として語っている敗戦直後(1945~55年までを「第一の戦後」とみる)にすでに「楽園」などはなかった。
 このような戦後思想家たちは、戦後における思想状況を戦時からの連続の相として捉えており、自らの思想を「戦後に抗する思想」として提起している。
 彼らは、一口で「戦後日本を割ろうとし始めている」のである。(小熊は、自身の物語によって、日本人を救済し融合させるその基調を提出した)
中野がこの文で発掘した問題意識とはずばり、「小熊の語りと、戦後思想の始まりとは実は真逆の発想だった」のだ!ということであろう。

 中野はこののち、このような思想家(小熊とは逆の思想家)の「戦後思想」に注目していくことにしたところで、①を締めくくった。


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多大な示唆を受けた。次にすすむとしよう。

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