朝鮮について知りたい

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「沖縄の占領と日本の復興」を読んで

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地

「沖縄の占領と日本の復興」、ここに、鄭栄桓氏は「1948年4月の『朝鮮戦争』―非常事態宣言下の神戸と在日朝鮮人―」という、鋭く興味深い研究業績を提出している。

まさに、「4.24」に象徴されるように、1948年に何があったのか。この史実を直視し、今の我々の闘争、抵抗がいかなる意味を持つのか、ということに対して、「考えることをやめない」ことは意義のあるものだと思える。
1948年2月の時点で、朝鮮学校(朝連初等学院)の数は500校をこえ、そこには約5万人の朝鮮人児童が就学していた。しかし、47年3月の教育基本法・学校教育法の公布・施行を受けて日本政府は朝連経営の朝鮮人学校に対する統制を強化し、48年1月24日には、「朝鮮人子弟であっても、学齢に該当するものは、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない」とする通達「朝鮮人学校の取り扱いについて」を発するにいたる。
これに伴い、48年3月18日には山口、4月20日には東京、ほかにも兵庫、岡山などで朝鮮人児童の公立・私立学校への転入と、認可によらない朝鮮人学校の閉鎖、また日本の学校から借用されていた朝鮮人学校施設の明け渡しを求める学校閉鎖例を発した。

もちろん当時のこの「政府・当局の決定」にはアメリカや南朝鮮の干渉もあった。が、ここでは問題にしない。(重要でないという意味ではない)

当時、神戸を例に例えると、4月24日~5月15日まで直接軍政がひかれ、朝鮮人の「抵抗」は「鎮圧」された。ちなみに、沖縄以外の「本土」において、アメリカ軍による直接軍政がひかれたのは後にも先にもこれっきりである。

金東椿は朝鮮戦争時の民衆の避難、占領、虐殺を分析しつつ、「朝鮮戦争はすでに1948年末から始まっていたものとして記憶されている」という指摘をした。(鄭氏の論文から)

このような問題意識を想起するとき、私は現在の「抵抗」、「闘争」を見ながら、またその主体として2つの点のみを指摘したい。

①まさに「戦争前夜」である、ということ。
②教育に対する「暴力」、そして植民地主義は今になって始まったのではない。いつの時代もそうであったし、今を生きる在日朝鮮人はその証人である。

これから戦争が始まるぞ、さ、準備しようなどとは言わない。私が言わんとすることは、まさに今、朝鮮は1950年に起きた戦争を想定し、二度と自民族、そして自身の国を失なわないよう、「抵抗」していると思われる、そこである。「戦争なんか起きないよ」なんてものを保証する論理はどこにもない。かつて527万ないし600万人が大虐殺されたユダヤ人でさえ、ある場所においては「そんなことはありえない」と思っていたのだから。ちなみにユダヤ人大虐殺の問題を私が朝鮮人のみの問題に書き換えて、ナショナリズムを煽ったり、プロパガンダをするつもりは毛頭ない。
しかしながら、自分たちが今流動する世界情勢の中でどこに立っているのか、これは「考える必要がある」と警鐘をならすのみである。今現在も闘争は続いている。神奈川の緊急集会でオモニたちのインタビューには、一言で端的に表せる表現がいくつも出てきた。「民族を失いたくない」。これは単純なナショナリズム(=悪)ではない。日本においていつも他者として規定され、他者としての生存を強制されてきた在日朝鮮人たちが、生きるため、人間としての尊厳を守るために創り、守ってきたものが今音をたてて崩れ始めている。
これに抵抗しないで、何に抵抗するのか。

二点目の問題意識は、「朝鮮の評価」に関する問題である。単純に共和国がやってるからいい!ということを認識せよ。などというつもりはない。しかし、在日朝鮮人が今苦境に立たされているのは、「日本の問題」なのか、「朝鮮のせい」なのか。これは一考してみる必要がある、ということである。

「韓国はもちろん問題もあるが、今は民主化されていて…」、だから「誇りが持てる」などという人たちにも一言いっておきたい。あなたは、「韓国軍」が大量的に、無慈悲に虐殺したベトナムの人民たちにどのようにお会いになって、どのように「応答」するのですか?
そして、私たちの民族教育の「盾になってきたつもり」などとぬかした、某県の知事に質問したい。「あなたは何を守っているのですか?」


今、在日朝鮮人の生そのものが、「忘却の穴」に落とされようとしている。まるで存在しなかったかのように。むしろそのようにふるまわなければ、日本人に認められない。「忘却の穴」を否定し、それに抗う教育は「反日教育」として断罪され、国民でもなかったはずの在日朝鮮人が「非国民」とされ、「だったら国に帰れ」と言われる。これが当たり前になりつつある。

朝鮮学校は一度、閉鎖されたのだ。国家的暴力によって、閉鎖されたのである。
これを想起していただきたい。

関東大震災??関東大虐殺であろう。朝鮮人や中国人は6000人も「天災」によって死んだのではない。虐殺されたのだ。今を生きる人々、もしくはその親たちによって。
これを想起していただきたい。

私はいたずらに「だから日本人嫌い」などと、いうつもりはない。いい人たちだっている。そんなことは分かっている。ただ、日本が責任を負い、責務を全うさせるため邁進するのみである。そんなこと俺がするのか?と、いつも思いながら。できれば在日同胞の未来のための活動のみに絞って活動したいのだが、状況がそうさせてはくれないらしい。そこがまた腹立たしい。

総じて、「考えることをやめないこと」。これが今、一番問われているのかな、と思います。
今、考えることをやめると、仮にもし、朝鮮戦争がまた起きてしまったとき、われわれ在日朝鮮人は歴史の被害者であるとともに、「忘却の穴」を掘り、戦争に加担した(積極的・消極的に)戦争責任から逃れることはできないであろう。
民族教育は一度奪われた、が、取り返したのである。

今、民族教育が奪われようとしている。もちろん子供たちを先ず守り、彼らのゆりかごを守るのは我々の当面の責務であろう。同時にまた、われわれが守らなければならないものは、「民族を生かし、育てる民族教育」、自民族のみならず、世界の平和、日本の発展、祖国の統一、祖国の発展のための、そして最も人間愛に深い人材を育て育てる「教育精神」こそを守ることこそが重要だと思われる。

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