朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

雑誌「前夜」を読み返す(3)

2016年03月11日 | 帝国主義・植民地
戦争責任を受け止める主体位置-「超国家主義の論理と心理」と「中国の近代と日本の近代」(中野敏男、「前夜」3、P180)
 
前回まで、中野敏男は「戦後を問う」という営みの概略的な意義とともに「戦前」と「戦後」という言葉の中に含まれる「断絶」に注目し、そこで語られる「主体」が実は目的意識的に追及されその過程で、植民地主義あるいは戦争における日本人の責任が免罪されていったことを明らかにした。

 第三回からは、このような視点でもって「戦後思想」を読み込んでみると新たに出てくる問題は何なのか、とりわけ「代表的テキストに基づく一貫してまとまりある『思想史』の語り」が「一貫してまとまりある排除をもって成立している」事実に着目し、代表的著作を取り上げつつそこに認められる差異と落差の中に「抗する」営みの実質を捉える努力をしている。


1.「戦後思想史」を割り割く読み


「…代表的なテクストをいくつか選んで読み、それによりもうひとつの『思想史』を語ろうとするなら、それはかなり危うくきわどい作業になってしまう…。小熊英二が文字どおり再演したことだが、たとえば時々の言説状況を支配した(マジョリティで男性の)知識人たちのテクストばかりを並べて取り上げ、このメインストリームを代表にして一貫した『戦後思想史』を語ってしまうと、どれほど多くのことがそれにより見えなくなってしまうだろうか(180)」。

- 「一貫した思想史」としての「物語」を語るうえで出てくる暴力性/排他性

・テクストを「選んで」読み取ること(たとえそれが同時代の多くの人々に読まれ同型的な思想の形が繰り返し現れてくると分かった場合でさえ)は、そのようなテクストを一連の系譜に整序したりするのは、それ自体が一つの解釈作業に他ならない。
・そのような言説は支配的な言語の文法に強く拘束され方向づけられている、ということから、その解釈に沿って語られる「思想史」も支配的な言説であるということから免れえない。
・すなわち、別様な意味理解の可能性についての抑圧や排除を必然的に含んでいる
 → まとまりある「思想史」の語りは、一貫してまとまりある排除をもって成立しているのである。

- そのような暴力性に抗する試みとして

①「思想史」の伝統的な語りに抗して、それが排除してきたテクストの存在に関心を寄せ、そのテクストのほかなる声に耳を傾けようとする努力(女性/民衆など)
→在日朝鮮人などのマイノリティ、労働者、学生、民衆が自ら声を発し、そこからの精神生活への影響など、また貧困や差別の極北におかれた人々の行動や声
 →排除され埋没してきたそのような経験や声に光をあて、そこから「戦後」の思想的意味を考え直す

※しかし、「問題」はある。
・「資(史)料」の問題
  :手に入れるのが難しいなか、手に入るいくつかのテクストを「代表」とするとまた「排除」が?
 →「サバルタンは語れるのか(スピヴァク)」、「忘却の穴(アレント)」などを想定しているだろう。

② そのような「問題点」を鑑みるとき、一つの方法として以下のような方法論を提起できる。
「テクストとテクストの間、そこに現われている差異に意味を認め、その落差の中に『抗する』営みの実質を捉えて、それらの批判する潜在力を図ろうとする試み」
 →間=「差異」と「落差」:このようなものがなぜ生まれ出る必要があったのか、というところに焦点をあて、想像力を働かせ、そのような言説に抗した『サバルタン』を逆照射すること。
 →このような営みは、「一貫してまとまりのある思想物語」を不能とし、その裂け目から萌芽としてありえたさまざまな思想的可能性を精査することによって、それらが場合によって閉塞してしまった理由を考える。

- このような方法論にしたがった第一歩として

丸山真男「超国家主義の論理と心理」(1946年6月5日)、竹内好「中国の近代と日本の近代」(1948年11月)という著作に挑戦しなければ

これらは、「敗戦直後」、大きな影響力を持ったと認めうるテキストであり、また最初の時期に、民衆の加害責任を明確に意識して戦争責任の問題を提起した数少ないものであるからである。

→前回まで見てきた「ナショナリズム不在現象」と言われるこの時期、この二つのテキストはナショナルな枠組みで加害としての戦争責任を考える二つの起点として機能している。
 「民族主義者」としての竹内好、「近代主義者」としての丸山真男は、ナショナル・アイデンティティを照射しようとする思想努力の契機において一致しているのである。
 →このような二つの「起点」における差異に注目し、その亀裂から「まとまりのある戦後思想史」を割り割く可能性を示すのが、本稿の射程である。

2.「東洋の抵抗」という契機

-構成概念として駆使された「ヨーロッパ」(丸山真男)と「東洋」(竹内好)
・「ヨーロッパ」=「ヨーロッパ近代国家」VS「日本の超国家主義」という認識図式は戦後日本において日本を主題化するため丸山によって意図的に選択された「装置」
・「東洋が存在するかしないかという議論」:無意味、無内容、後ろ向きの議論
→現実の「ヨーロッパ」「東洋」がなにかではなく、構成概念として駆使されている

-「超国家主義の論理と心理」と「中国の近代と日本の近代」というクリアーな対照性
・竹内:「自分流に近代化の一般理論を目指した」
 →丸山の著書が敗戦直後、日本の近代化を論ずる「一般理論」として定着、それに対する批判から生まれる

・竹内の目指したものは「東洋」への視野であった(「近代」という認識における対照性)
「東洋の近代は、ヨーロッパの強制の結果である、あるいは結果から導き出されたもの」
 :「東洋に視野をおく」ということは、「東洋の抵抗」に注目する、ということ。すなわち「抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した」
 →この意味で竹内は、「近代化」という意味は、植民地主義・帝国主義として理解している。

 ※丸山は著作において「ヨーロッパ近代」を基本型として語っているが、その近代化論と著しい対照をなしているのである。

・植民地主義と侵略戦争に加担することで加害責任を負った日本の近代を考えるうえでの対照(日本認識における対照性)
 丸山 日本の近代を遅れたもしくは歪んだ近代化として理解

 →日本の加害責任に対して認識してはいるものの、その責任は、近代化を徹底することで引き受けられる:近代化が徹底されなかった「日本の至らなさ」にたいする「悔恨」、戦後に邁進すべき進歩という「目標」を示唆し、戦後日本において「啓蒙」の役割を果たす
 竹内 正反対の方向に理論を展開(そもそも抵抗する側から見ると日本の近代とは何だったのか)
 →日本は、「ある意味」では「進歩」していたが、その内実は「ドレイの進歩」であり、「ドレイの勤勉」であった:これが、日本をヨーロッパと肩を並べる植民地主義と侵略戦争へと駆り立てたのである
 
 このように、竹内は「日本全体が『進歩』に照準を合わせて戦後復興に乗り出そうとするとき(プロジェクト Xが回顧するその時!)」、「日本は西欧的進歩を踏襲してアジアにおける反動となった」と指摘し、西欧的な近代化と進歩そのものに対する批判を展開した。このような意味で丸山とは対照をなすのである。そのような竹内の議論の中心にある概念が「ドレイ」である


3.自由なる主体とドレイ

※魯迅「賢者とバカとドレイ」(1925年12月26日、竹内好訳)
 竹内は、この寓話の主語はドレイであり、魯迅自身である、という。
 「魯迅においてある、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望」の意味から、魯迅を「ドレイ」と呼ぶ。

-竹内は、賢人がドレイを救う論理について言及する。「救う」ということは、結局ドレイの主観における「解放」でしかない。賢人はそのようなドレイたいして「ドレイという自覚を呼びさまさない」(夢を見させる、救わない)選択をする。ドレイが最も過酷な状況は、「ドレイという自覚」なのである。
 →このような状況におかれたドレイ、すなわち「自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する」ような「絶望」の状況におかれたドレイは「道のない道を行く抵抗」を選択せざるを得ないのである。これが、竹内の魯迅解釈
-このような竹内の主張を、上述した日本の「ドレイの進歩」とそれに対する「東洋の抵抗」という文脈で理解する
 すなわち、魯迅と同じように、「絶望の基底部」から反転していく抵抗の形をとったのが、「東洋の抵抗」であったのである。

- 丸山と竹内の交差

・では、丸山はどのように「主体(=自由なる主体)」を語っているか?
「これだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでのところ、どこにも見当たらない」という認識
 →敗戦後における「自由なる主体意識」欠如に対して、丸山は批判している。
 これは、竹内流の言葉でいうと「ドレイ根性」への批判として捉えられがちである。

・しかし、竹内の「魯迅観」を捉えなおしてみると、「ドレイ根性」に対する批判を媒介として重なって見えたはずの丸山と竹内は実は対極にいるという事実が浮かび上がってくる。
 →竹内は、植民地主義と侵略戦争を生みなお圧倒的な支配力をもって継続している近代という時代そのものに向けて、「抵抗」しているのである。
 すなわち、近代的「進歩」が孕む支配性と暴力性の避けがたさに対する明確な認識、それに抗する、「道のない道」を行くという意味での「抵抗」だけが「血にまみれた民族」の加害責任を受け止める道、ということを主張しているのである

・これに対して丸山は、「近代における主体」を語っている=近代としてなお「行く道がある」ということを前提としている。(竹内流に言えば、「賢人の救い」)
 すなわち「よりよくヨーロッパになろうとすること」で脱却の道を探っていっている。「ドレイはかれみずからがドレイの主人になったときに十全のドレイ性を発揮」するのだが、それが日本の植民地主義であった。しかし、丸山はあらためて「近代における主体」を提唱し、そこに行く道を示している。
 →この道は、結局日本が「自分がドレイであるという自覚さえ失わなければならない」道である。
 戦後に「復興」「経済成長」へと進む日本が「奇跡の復興」に酔いそれを実現した「勤勉=(ドレイの勤勉!)」を自己賛美するようになったのは、そのような帰趨を示している。

まとめとして
 竹内は、丸山が「超国家主義の論理と心理」において提起した「自由なる主体」という理念的核心をこのように「割り割いている」。
 →このように、思想的に問題を詰めて再出発する一つの可能性、「戦後」に抗して進む道があったにもかかわらず、この可能性がどこに向かって開かれていったのか?またどんな問題があったのだろうか? 次回からまた提出されるであろう。



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魯迅「賢者とバカとドレイ」


奴隷はとかく人に向って不平をこぼしたがるものであります。何かにつけてそうですし、またそうしかできないのです。ある日、彼はひとりの賢人に行きあいました。
「先生」と、彼は悲しそうに言いました。涙が糸のようにつながって、眼のふちから流れ落ちました。「あなたはそ存じでしょう。私の暮らしは、まるで人間の生活ではありません。食べるものといったら、一日に高粱のカスばかり、犬や豚だって食べたがりません。おまけに、小さな椀にたった一杯.....」
「まったくお気の毒だね」賢人も、痛ましげに言いました。
「そうですとも」彼は、愉快になってきました。「そのくせ、仕事は昼も夜も休みなしなんです。朝は水汲み、晩は飯たき、昼は使い走り、夜は粉ひき、晴れれば洗濯、雨降りゃ傘さし、冬は火燃やしで、夏は扇ぎ、夜中の御馳走つくり、御主人は麻雀、おこぼれどころか、貰うものは鞭だけ......」
「まあまあ.....」賢人は、ためいきをつきました。眼のふちが少し赤くなって、いまにも涙がこぼれそうです。
「先生、これではとてもつづきそうにありません。ほかに何とかやり方を考えないことには。でも、どんなやり方がありましょう....」
「そうでしょうか。そう願いたいものです。でも、私は、先生に悩みを打ち明けて、同情して頂いたり、慰めて頂いたりしましたので、すっかり気が楽になりました。まったく、お天道様は見殺しにはなさらないものですね.....」
 けれども二、三日たつと、彼には不平が起こってきました。そこで例のように、不平を訴える相手を探しに出かけてゆきました。
「先生」と、彼は涙を流して言いました。「あなたはご存じでしょう。私の住んでいるところは、豚小屋よりももっとひどいのです。主人は私を、人間あつかいしてくれません。私より狆ころの方を何万倍もかわいがっています......」
「唐変木!」と、その人は、いきなり大声でどなったので、彼はびっくりしました。その人は馬鹿でありました。
「先生、私の住んでいるところは、ちっぽけなぼろ小屋です。じめじめして、まっくらで、南京虫だらけで、眠ったかと思うとたかってきて、やたらに食いまわります。むっと鼻をつくように臭いのです。四方に窓一つあいていません.....」
「おまえの主人に言って、窓を開けてもらうことができんのか」
「めっそうもない」
「それじゃ、おれを連れて行って見せろ」
馬鹿は、奴隷のあとについて、彼の家へ行きました。そしてさっそく、家の外から泥の壁をこわしにかかりました。
「先生、何をなさるのです」彼はびっくり仰天して、言いました。
「おまえに窓を開けてやるのさ」
「いけません。主人に叱られます」
「構うものか」相変わらずこわしつづけます。
「誰か来てくれ。強盗がわしらの家をこわしているぞ。早く来てくれ。早く来ないとぶっこ抜いてしまうぞ.....」泣きわめきながら、彼は地面をのたうちまわりました。
奴隷たちがみんな来ました。そして馬鹿を追い払いました。
叫び声をききつけて、ゆっくり最後に出てきたのが、主人でありました。
「強盗が、わたくしどもの家を毀そうといたしました。わたくしが、一番はじめにどなりました。みんなで力を合わせて、追っ払いました」彼は、うやうやしく、勝ち誇って言いました。
「よくやった」主人は、そう言ってほめてくれました。
その日、大勢の人が、見舞いにやって来ました。賢人もそのなかにまじっていました。
「先生、今回は私に手柄があって、主人がほめてくれました。このまえ、先生が、きっといまによくなると言ってくださったのは、ほんとうに、先見の明で.....」
希望に満ちたように、彼は朗らかにそう言いました。
「なるほどね.....」賢人も、お陰で愉快だといわんばかりに、そう答えました。












雑誌「前夜」を読み返す(2)

2016年03月02日 | 帝国主義・植民地
連続する戦時体制の遺産/封印される戦争責任(中野敏男、「前夜」2、P186)


前回、小熊英二の「<民主>と<愛国>」が描く「戦後神話」への批判からはじめた中野敏男。

第二回、中野は「戦後思想」が敗戦直後のその状況にどのような思想的課題を見いだしたのかに注目する。そうすることによって、「戦後」に抗する「戦後思想」が何に対して抗しているのかという意味を探る、というのが本稿の狙いであったといえるだろう。

△「八・一五革命」という神話

- 中野はまず、丸山真男の系譜を受け継ぐ石田雄の1995年における言説を取り上げながら、戦後民主主義の担い手たちが敗戦直後に「大きな断絶」があったという実感を当為的に高め、戦後の価値を堅く守ろうとした事実を確認した。

「私は『わだつみの世代』の一人として『学徒出陣』によって戦争に参加し、敗戦当時は陸軍少尉であった。欧米帝国主義からの『東亜の解放』という戦争目的を信ずる軍国青年として『臣忠報国』の努力をして来た私は、敗戦によってアイデンティティの危機に直面した。国全体の価値が180度転換した戦後の日本で生きる意味を見いだすためには、戦前の日本を社会科学的に分析することが必要だと私は考えた」。(石田雄)

- しかし、このような意識を前提として、少なくとも断絶を「全否定」することはできないということを確認しつつ、中野は近年の研究で明らかにされてきた敗戦前後の事情を見ながら、「180度転換」という認識にある種の事後解釈やすり替えがあったのではないか、という疑問を呈する。

 中野は、戦後民主主義者の代表者としての丸山真男と宮沢俊義という二人を取り上げ、「超国家主義の論理と心理」(丸山)、「八学革命と国民主権主義」(宮沢)によって敗戦の日(1945年8月15日)を一大変革の日と認める共通認識を提出したと見る。

丸山真男は上書において、「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである」という見解を提出した。一見するとやはり、戦後日本において「八・一五」という日が、新たな民主主義の出発点となったことを「確認」させてくれる。

・しかし、これに対して異を唱えたのが米谷匡史の研究業績である。

 米谷によれば、丸山の上記のような認識は、実は新憲法の骨格が「憲法改正草案要綱」として発表された1946年3月6日以降になって生まれたものであるというのだ。

※ 丸山自身の回想においても明らかなように、丸山は戦時においては、「一君万民」思想としての天皇制に一定の評価を与えており、戦後においても最初期には立憲君主制を肯定する方向で憲法研究委員会(委員長は宮沢)は憲法改正討議に参加している。

丸山はこのような時期を経て、GHQ民政局起草の草案をベースとした「憲法改正草案要綱」の発表後、すなわち1946年3月においてはじめて「主権在民」と「象徴天皇制」を基調とする憲法改正を現実的なものとして考え出したのである。しかし、自身の著作で丸山は、このような自己認識を前年の八月にまで遡らせている。カラクリがあったのである。

・このような丸山の思想状況をかんがみるとき、戦後民主主義の原点ともいうべき丸山の思想は、実は占領軍の主導下においてそこに天皇・為政者たちが加担する形で作られた「戦後秩序」ともいうべき新憲法を「革命の所産」として、正当化し受容する仕方で登場することになる。しかし、現実的には丸山がこのような考えに及んだのは46年3月であり、はじめからこのような「革命」を目論んだわけでは決してなかったのである。

 だからといって、上記の認識は、丸山が憲法改正の意味を天皇主権から国民主権への主権の移譲という形で認識し、その意識を国民の中に確立することによって、国民の主体としての自覚を促そうとするものであったということを否認するものに繋がるものではない。問題は、「八・一五」における「180度転換」という「神話」を作り上げることによって、戦時と戦後の「断絶」を人々に認識させ、戦後秩序の中にある戦時からの「連続性」から目をそらせ、連続を抱擁する道として開かれたところにあるのだ。

-敗戦と国家主権に対する認識(天皇制と「国体」の存廃をめぐる事態の推移)

 ・戦争末期に見られる戦争終結の動きは「近衛上奏文」にもみられるが支配層に「国体」を守るため、という認識が先にありきでポツダム宣言を受諾するに至る。

 ・天皇裕仁の戦争責任を追及するアメリカ国内、連合国の世論は天皇制存続において予断を許さない状況であった。が、46年1月にGHQは天皇訴追せずと決定する。
 この間、共産党以外のところからの天皇制廃絶の動きがもっと強く公然と起こっていれば事態が変わっていた可能性もあった。

 ・このような攻防を考えると、46年3月に発表された「憲法改正草案要綱」は、日本政府の松本案に比べると明らかに進んだ民主主義志向を基調にしてはいたが、一方では天皇訴追問題の決着がつき、天皇制の維持が確定した結果としての産物なのである。

小結

このような「天皇制民主主義」、君主制に民主制を接ぎ木した奇妙な政体の成立は、「国体」護持という為政者の目論み、そして天皇の権威を利用し円滑な占領統治を完遂しようとしたGHQの思惑と一致した。かくして、天皇の「人間宣言」は天皇の意志が民主主義と直結するという方向で編まれ、マッカーサーもそれを歓迎する声明を発表することによって、戦時下の為政者とGHQの思惑によって「天皇制下の民主主義」という戦時期との連続の相が生まれたのである。

 この過程に天皇制が組み込まれた新憲法体制を、戦後民主主義は「革命」と呼び、その断絶の神話の下いくつもの連続の現実を見落としてしまったのである。

△「穏健派リベラル」という騙り

-残された記録、フィルムを見る限り、敗戦後の日本の様子は革命や解放を迎えた時の民衆とは雰囲気を異にしている。

 たとえば、1945年8月15日を解放の日として迎えたソウルでは対極旗や「独立万歳」のプラカードなどをもって歓喜し、他方パリではナチ協力者と見られる女性の髪を鋏で切り落としている。さらにイタリア・ミラノでは、パルチザンによって逮捕、銃殺され姿態をさらすムッソリーニがいる。

 このような「戦後」を想起するとき、日本では天皇の全国巡幸に歓呼する日本人の情景の異質性が際立ってくる。他国の「戦後」の善悪云々を抜きにして日本とこの他国との「戦後」の質の差は、決して無視することはできない参照項となる。

・三木清の獄死という「事件」
 三木清は、官憲によって捉えられ戦争終結を迎えた後にも誰一人救出に向かうものもおらず、獄中において病死した。
※ロイター通信はその際、「思想取締りの秘密警察はなお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と当然のように語る山崎巌内相へのインタビューに成功

これは、マッカーサーによる「政治・信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」という指令の一契機となり、当時の東久邇宮内閣はこれを実行できずに翌日5日に総辞職、そして幣原喜重朗内閣のもと、10日には徳田久一をはじめとする500名の「政治犯」が釈放されるにいたる。

 中野はこのような事象を挙げながら理想主義的な民主主義が進んだ一時期としての敗戦直後は、それほど単純ではないということ、そこにすでに旧体制を維持しようとする力が、また変革を都合よくねじ曲げ引き戻そうとする力が、さまざまな形で実際に強くはたいていたことを示唆しているのある。そして、単純な「断絶」などではなく重症なのは、実際に「何が連続してしまったのか」を見極めることだと指摘する。

・中野はさらに次のように指摘する。「軍国主義者VS穏健派」という対立が「決して絶対的なものではなく、多くは外交と軍事にわたる戦術やタイミングについての些細な意見の相違に過ぎなかった(P191)」
 
中野は、ここで「穏健派」という名づけ自体が実は、「国体護持」を名分に天皇と共に戦争責任を回避しようとする彼らの生き残り戦略に好都合であったとして、さらにそれをGHQが利用しようとするものであると指摘している。現実的にこのような「穏健派」の中から戦後の日本政治を動かす保守本流が生まれてきていることは、戦時体制が戦後体制へと連続するもっとも太い通路の在処を示している、というのである。(たとえば吉田茂など)

・そして、言論出版界、言論人たちに対しても戦時における自分たちの戦争協力を隠ぺい、あるいは正当化する足場となったことについて語った。

 「君らのような出版者はいまにでもぶっつぶしてやる」という虚像、戦時をひたすら暴力と退廃をもって描きだし、それとの「断絶」を装うことで延命をはかる、もう一つの連続の問題に関して問題意識を提出した。(主に知識人の問題)
 
吉田裕「軍人グループ」によって力でねじ伏せられていく中で戦争への道が準備されたという歴史認識:「多くの人々は、後者のグループ(抑圧された人々)に自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲み下す、いわば『糖衣』としてきた」

 こうして、多くの日本人が自分たちも被害者であったと気づきだすと、その被害意識という『糖衣』に包まれて、他民族への加害の記憶の方は逆にその苦さを薄めていく。自分は確かにひどいことをした。しかし自分もまた、『被害者』なのだと。このような被害意識が敗戦直後の状況に生まれ、ときの「民族」をめぐる言説に影を落とすことになる。

△ 民族問題の潜在と顕在

-「ナショナリズム不在現象」

・敗戦直後のナショナリズム価値暴落(丸山真男)

戦時の国体ナショナリズムの極端な自己中心主義への反動から、敗戦直後の民主主義という真っ直ぐな「普遍主義」への「思想状況の振り子現象」
 
※石母田正の弟からの書簡「敗戦直後には『愛国』だなんてそんなに簡単に言えなくなっていたのだ。」

・他方、『自由』『平等』という普遍主義的価値にアクセントがおかれたはずの戦後改革を、旧植民地出身の在日朝鮮人や中国人の立場から見直してみる。

1945年12月、衆議院議員選挙法改正:「婦人参政権」、その代償として在日朝鮮人、中国人は参政権否定、「日本国憲法」が施行される前日の1947年5月2日、最後の勅令=「外国人登録令」:憲法による人権保護対象から外される。憲法における「国民」規定

 中野は、このような状況に対してのさしたる批判も抵抗も生まれなかった日本を「普遍主義的価値」を重視していた時代として表象できるのか?という疑問を呈す。
つまり、「民族主義」というものが、その実質の一部において国民主義の形で、生きのびていたのであった。「民族主義」は言説上は、しばらく対決が後方に退いたに過ぎないが、この対決があいまいにされる中で、「民衆の加害という意味での戦争責任の問題」も直視されなくなり、「糖衣」につつまれた戦争観が前面に立ちあがってくる。=民族の加害という認識に封印をしてしまうのである

-ふたたび人々の意識にのぼる「民族」の問題

竹内好「ナショナリズムとの対決をよける心理には、戦争責任の自覚の不足があらわれている」

敗戦後の思想が対決すべき問題の核心である。このようなことから前回みた「民主と愛国の両立」という語りがこのような点を隠ぺいされていることが気づかされる。
 しかし、このような問題意識は、51年から立ち上がったものなのだが、それは竹内が言うような「戦争責任の自覚」を通してではなく、冷戦状況の進行と占領政策の「逆コース」という「民族の屈辱」の経験(被害者意識に駆り立てられた民族問題の再覚醒)として現れることになる。

石母田正(50年の講演)
 「日本民族の隷属」からの脱却のための「民族の発見」

民族の被害という意識が全面解禁される。敗戦直後にはどうしても「加害」を連想させるものであった「民族」というシンボルが数年後には「被害を語る重要な拠り所」に変貌しているのである。

まとめとして

 中野が今回、提出した問題意識はこうである。「民族」「戦争責任」など戦後に何よりも問題として浮上せねばならなかった中心テーマが、敗戦直後からの状況変化の中で実はずっと危うい隘路に追い込まれ続けていたということ。

①敗戦直後の民主改革の「普遍主義」という装いの下、民族問題との対決が避けられ潜在化
→加害意識が最小限に封印
②「逆コース」を背景に被害という形で民族問題が再興
→民族の被害意識が全面的に解禁、加害の記憶、戦争責任はさらに後方に追いやられる
 
 このような過程は、「普遍主義」の立場に立って戦後民主主義の主体的担い手となって、その次に占領という異民族支配に抗する民族的な抵抗主体になり、このプロセスを通じて日本の戦後に国民的主体のアイデンティティを確かめるようになった。 戦後日本思想史上、「主体性」という問題が浮上するが、このような「主体性」は実は戦後のこのような状況の中で「引き受けられた」ものである。
 →「普遍主義」:進歩派ナショナリズムも占領と東京裁判の被害体験に固執する保守派ナショナリズムのも、自治は同じ基盤の上に成立しその根を共有しているのである。(帝国主義・植民地主義・戦争責任を引き受け、日本を割り割く道が開かれることはなかった)

 では、このような「戦後」の中で、どのような試行錯誤があったのか。(それは次回からの文で明らかになるであろう)

雑誌「前夜」を読み返す(1)

2016年02月26日 | 帝国主義・植民地
最近、雑誌「前夜」を読み返している。いまもなお続巻が出ているのならば、まず目を通しておきたい書物である。

※ここで言う「前夜」とは、戦争体制へと組み込まれていっている現在の日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗のあらたな拠点を築こうという努力、「夜」を耐え忍び、新生の時を迎えるそのときまで、女性・被圧迫民族・マイノリティの現状を歴史的に検証し、「知的」であることによって、現実を変えようとする努力を怠ってないものの「観点」としてある。(季刊「前夜」は何を目指すのか、「前夜」1、P4) また高橋哲哉は、「…現在の苦境は常に何か解放的な事態の『前夜』としても経験されうる。世界が『戦時中』であっても、どんな破局的な状況に立ち至っても、『希な望み』を捨てない抵抗-レジスタンスの動きが残っているかぎり、それはつねに『前夜』なのだという、そういう思いを私はこの言葉に託したい」と、述べている。(前掲書、P29)

さて、最近のもっぱらの関心事は、「日本の左翼はどこへ?」という問題なので、とりあえずは共産党に対して調べてみようと思う。そういう問題意識からふと、「前夜」を手にしてみた。パラパラと読み返しながら、ふと中野敏男氏の連載記事に目がとまったので、メモ代わりとして要約や問題意識を残していきたいと思う。いかに共産党は「国民国家」という化け物に取りつかれていったのか(という仮説であるが)、その出発はどこにあるのか、を探る作業がやはり大事なのかな、と感じている。

とりあえず、「前夜」。その次は関東大虐殺時の社会主義者。そして、似たような事象が第一次世界大戦を取り巻くヨーロッパでも起こっている(カウツキーとドイツ社会民主党)ので、その辺を調べていきたいと思う。根詰めて行わなければならない作業であるが、現在日本を理解し、そのうえで、行く末を見定めるためには重要な作業になると思う。

まずは、中野敏男氏の連載記事を最初から見てみることにする。

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どこから出発したのか?-小熊英二『<民主>と<愛国>』を批判する(中野敏男、「前夜」Ⅰ、P141)

△問題提起 : 「戦後」を問うとはどういうことか?

「たしかに、現在の状況にとても大きな変化が起こっていて、それが<前夜>の兆候であると考えてみると、その指標の中に、これまで『戦後のもの』として了解されてきたさまざまな事柄の総崩れという現実が含まれていることは明らかである。」(「前夜」1、P141)

→国旗・国歌法が成立(1999年8月13日公布、施行)したことを皮切りにイラク戦争への参戦、有事関連の法整備(2003年6月13日、武力攻撃事態対処関連3法)、教育現場への「日の丸・君が代」の強制、教育基本法改定への動き(2006年12月22日公布、施行)、そして憲法「改正」までへと、という状況の中、中野敏男は「戦後のもの」として了解されてきた「平和主義」や「民主主義」といった基本原理が浸蝕され、その意味で「戦後」 が根本から崩壊の淵に立っていると評している。

上記のような問題意識にそくして、「戦後」というものを問おうとした場合、想起されるものは、「人権」、「自由」、「平等」、「平和」のような原理である。それは、おおよそこれらが「戦後の原点」として認められる原理・理念であるからである。これらをより強い概念に仕立て上げ現状を批判克服するための武器にしたいと考えるのも一理ある。が、中野はこれにたいし、反問する。

 「この『日本』という場で考えるとき、はたしてそこに立ち戻るべき戦後があったのか、いま、またいつか聞いた『復初の説』を唱えればそれでいいのか」と。(前掲書、P142) 
 →このような問題意識は、東西冷戦の枠組みが崩れた1990年代のプロセス(「従軍慰安婦問題」や在日朝鮮人・中国人の無権利状況など)が、「戦時」に発する侵略と植民地主義の禍根がこの「戦後」の基層に解決されないままずっと伏在し続けていることを痛切に認識させたがゆえである。

・「戦後」における「民主主義」
 戦後民主主義の象徴としての「婦人参政権」 が認められた日に、旧植民出身者の参政権が一方的に停止された。そんな「戦後民主主義」の在り方への問いとして。

※ 1945年11月21日治安警察法の廃止と女性の結社権、同年12月17日に国政参加が認められる。ただし地方参政権については、46年9月27日地方制度改正により実現

※ 植民地期の在日朝鮮人には25歳以上の男子などの制限はあるが選挙権・被選挙権が認められていた。しかし1945年12月1日の衆議院議員法の附則によって、在日朝鮮人の選挙権は停止された。また46年の参議院議員法の附則と地方自治体法代20条は、衆議院議員法附則と同様戸籍を根拠として、参政権を在日朝鮮人に対して停止した。45年の衆議院議員法で在日朝鮮人の参政権が停止された背景には、当時朝鮮人が参政権を行使し天皇制に反対することを恐れた清瀬一郎衆議院議員らの強力な反対があった。(水野直樹「在日朝鮮人台湾人参政権「停止」条項の成立―在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(1)―」、財団法人・世界人権問題研究センター「研究紀要」第一号、1996年3月)
「此等の者が力を合すれば最少十人位の当選者を獲ることは極めて容易なり。或いはそれ以上に及ぶやも知るべからず。我国に於ては従来民族の分裂なく、民族単位の選挙を行ひたる前例なし。今回此事を始めんとす。もし此の事が思想問題と結合すれば如何。その結果実に寒心に堪へざるものあらん。次の選挙に於て天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らくは国籍を朝鮮に有し内地に住所を有する候補者ならん(清瀬一郎意見書)」


・「戦後」における「平和」
 日本の「平和」の下での戦後復興と高度経済成長という奇跡、その背景には各々朝鮮戦争、ベトナム戦争がある。その背景に関しては複雑な事柄があるものの、事実として戦争は継続している。「戦後半世紀以上ずっと平和」であったというのは、日本国内にしか目を向けない特権的な自己欺瞞に過ぎない。

このような問題意識でもって「戦後を問う」ということを出発するとき、「戦後」の実在を主張し、その「戦後」を想起すべきとの著作が現れる。小熊英二の「<民主>と<愛国>」である。
 →これを吟味することから「戦後を問う」作業を始めてみる、こう中野は言っているのだ。


△小熊英二の「語り」の問題

小熊英二は「<民主>と<愛国>」の中で、日本の戦後思想をたどりながら、丸山真男と大塚久雄をとりあげ、次のようにまとめた。「丸山や大塚の思想は、戦争体験から生まれた『真の愛国』という心情のもとに、多くの矛盾する理念が束ねられていた、いわばパンドラの箱であった。そして戦後思想の以降の流れは、戦争の記憶が風化してゆくなかで、そこに含まれていた多くの思想潮流が次第に分裂し『民主』と『愛国』の両立が崩壊してゆく過程をたどることになる」(小熊英二「<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性―」、P103)、と。小熊は、丸山真男が「陸羯南-人と思想」において明治初期の「日本主義」から50年のうちに、右翼的反動と自由主義と社会主義の三方向がそれぞれ育ったと述べているように、丸山の学統からも戦後50年のうちにさまざまな思想の持ち主(戦後民主主義の継承者、現実主義者、大衆社会論者、励起子修正主義にいたるまで)が排出されたとしている。(そして、小熊の指摘によるとかれらは丸山の一部のみを継承し、全体を継承してはいない。)

小熊は、本書の中で「戦後日本」というもののなかに実は「第一の戦後」、「第二の戦後」があり、戦後をめぐる今日の語りの多くがこの「第一の戦後」のことを忘却し、見失っている、と指摘している、と中野は解釈していると思って間違いないだろう。

・そして中野は、小熊が、丸山と大塚を小熊がとりあげたのは、かれらが特殊例であったわけではなく、同時代人の一集団的な心情そのものを代表的に表現しているからだとみている。

・小熊は、「民主」と「愛国」が両立しえた時代があったのだという語り口を採用することによって、「ここに帰れ」というメッセージを投げかけるのである。
 そして、その語りを受ける人々は、「55年体制」と言われる政治における区画点、「もはや戦後ではない」と宣言した56年経済白書などによって、この時期区分をア・プリオリに前提していて、思想面における「第二の戦後」への突入という物語に聞き入ってしまう。

しかし、中野敏男は、このような「語り口」に「待った」をかける。

 「このような小熊の語りは、新たに戦後日本の復活神話を美しく語ることで、その戦後日本が問題として抱えてきているとびきり大切なことを、とりわけナショナリズム、民族、国民といった主題に関連して考えなければならない中心を、むしろ隠ぺいし置き去りにしてしまう…」(「前夜」1、P144)。
 
→「民主」と「愛国」が両立した「第一の戦後」なるものがはたしてあったのか?中野はそれに対しアンチを唱えながら、竹内好、日本共産党、石母田正の論を採用し反論を試みる。これらの論は、45年から50年を前後する状況にある種の思想的変遷があった、ということを如実に語っているものである。
 このことから、45年から55年、「第一の戦後」という小熊の語りは、実は45年から50年前後に至るこの間の状況変化を覆い隠している一つの罠として機能しているということを論証する。

竹内好(1951年)
 「民族の問題が、ふたたび人々の意識にのぼるようになった。これまで、民族の問題は、左右のイデオロギイによって政治的に利用される傾きが強くて、学問の対象としてはむしろ意識的に取り上げることが避けられてきた。…戦争中何らかの仕方でファシズムの権力に奉仕する民族主義に抵抗してきた人々が、戦後にその抵抗の姿勢のままで発言しだしたのだから、このことは自然のなりゆきといわねばならない」。
 
→竹内のこの言葉は、1951年くらいの時期に「民族」という問題が「ふたたび人々の意識にのぼる」という論旨であって、特に「近代主義とは、いいかえれば民族を思考の回路に含まぬ、あるいは排除すること」であり、この近代主義こそが敗戦後に支配的であった。扱うべき思想における中心問題は近代主義であった。45年~51年と限定して考えてみると、小熊の主張とは正反対である。

 よって、45~55年までを「第一の戦後」ととらえる小熊の主張には「待った」をかけなければならない。

日本共産党の場合(1951年五全協決定までの過程)
 共産党は、「民族」という観念を政治的に利用し、特にプロパガンダ用の文書では「民族」という文言が散見される。しかし、党の綱領や路線にかかわる重要文書では民族の問題をしっかりと扱っている。
 共産党は敗戦直後、帝国主義連合国軍を「解放軍」として確認。(45年10月「人民に訴ふ」)ここでは、「天皇制打倒」の主体は「人民」であり、民族・国民との混同はない。
 48年3月の中央委員会では「民主民族戦線」を提案。
 51年綱領ではそれを「民族解放民主統一戦線」に修正、「民族解放民主革命」の主体を「国民」と表現するに至る。
 「人民」から「国民」への変遷過程は重要で、51年全協決定ではこの点について説明をしている。
 →しかし小熊は、共産党にたいしては敗戦直後から一括して「反米愛国」を掲げていたと示している。共産党における路線論争の意味をないがしろにしてしまう。

・石母田正(1952年3月「歴史と民族の発見」、53年「続歴史と民族の発見」)
 戦後日本における民族問題に関する論議に大きな影響。しかも、「民族の発見」という表題には特別な意味を付与すべきである。数年間見失われた「民族」という問題を再発見したことに他ならない。

この議論における結論(問題提起)
 
小熊によって、「愛国言説」として扱われた「敗戦直後」である45~55年までの「第一の戦後」という論理は45~50年前後に至るこの間の思想状況の変化を覆い隠している。小熊の著作の中でもこれらの論調の実例としては主に49年ないし52年頃から採用される。そうして45年~50年前後の間までにはいかなる変化(=問題)もなかったという結論を持ってきてしまう。
 
しかし、この期間には実は、「戦後日本の形成」を語るうえで「忘却」されてはならない重要な事項がいくつもある。

まず、1949年の中華人民共和国成立という中国革命であり、次に50年から本格的戦闘が広がった朝鮮戦争である。
小熊の語り口である「第一の戦後」=〔1945年~55年〕説というものは、実はこのような中国・朝鮮にかかわる問題を構造的に排除する問題点を抱えているのである。
 確認してきたように、小熊は戦後日本を「第一の戦後」、「第二の戦後」と区分し、今の人々が「第一の戦後」を忘却し、見失っている点を指摘しつつ、それへの回帰を促す企画意図と結びついているのである。

△ 丸山真男・大塚久雄理解から見る小熊の「戦後」観

※ 上記のような認識の下、小熊は「戦中」と「戦後」というもっとも基本的な時期区分を提出する。

小熊は、「戦中」と「戦後」という時期区分を明確に打ち出し、日本における戦後の出発を次のような文章にこめる。「虚偽と無責任を生み、大量の死と破壊をもたらした、『皇国日本』と『臣民』の関係。それに代わる『公』と『私』の関係は、どのようにあるべきか。崩壊した『国民同士の人間らしい連帯』を、どのような新しい原理のもとに構想しなおすか。『廃燼の中から新たな日本を創り出すのだ』という戦死した学徒兵の遺言の言葉は、敗戦に直面した多くの人々に共通する思いであった。『戦後』と呼ばれる時代は、ここから始まる」(P65)。

→「戦後」という物語の起点
 小熊の語りの中には、彼にとって必要な舞台装置だけしかない。というのは、そこには日本にあったはずの侵略、植民地主義が抜け落ちていて、小熊が「課題」と認めているものが「国民同士の人間らしい連帯」の再建のみであるからである。このように舞台が設えられるのなら、「国民の再生」物語を描きだすのには、好都合でしかない。(戦後、荒廃の中から立ち上がった先人たちのプロジェクトx)

- 小熊の語りのカラクリに対する手がかり

 大著の実質部分である、丸山真男と大塚久雄にかかわる章、「総力戦と民主主義」である。

・丸山や大塚の思想が戦後ではなく、戦時の総力戦体制という時代的コンテクストの中で形成されたということを確認している。
 これは、中野敏男などが提起した丸山・大塚の思想形成が戦時動員体制にあるとする理解 を追認するもの。

・また丸山や大塚が『当時の人々に共有された心情を表現』する思想家であったことを確認するために芦田均の発言 (1945年9月)、黒沢明の「一番美しく」などが引き合いに出されている。

・そのような確認(思想形成状況、同時代的心情)のあと、小熊は、丸山や大塚の思想内容ではなく、彼らの「抵抗」と「真の愛国」という心情に思い入れ、それらを救い出してしまう。(ちなみに、中野は前述した問題意識に則り、ここから丸山と大塚の思想内容について検討している)

- 抵抗と屈服、忠誠と反逆との「紙一重」を歩んだ丸山真男という理解

・総力戦体制そのものの合理的遂行を唱える思想の面(忠誠の側面)、政府や軍部への批判になる文脈の面(反逆の側面)
 このような理解から小熊は、中野の丸山(大塚)論にたいして、「反逆の側面」を軽視しているとの批判をする。

・中野の反批判
 そもそも、中野は彼らの思想が時局批判であったことを肯定し、むしろ繰り返し強調している。にもかかわらず、小熊が中野に対していわれのない批判をするのはなぜか、それは小熊の物語に秘密がある。

中野の丸山(大塚)理解
①かれらの言説は「時局批判」に動機づけられている。
②しかし、痛切な批判の心情が逆に、熱烈な参与と動員の論理を堅牢に組み上げてしまう(総力戦期に国民的主体を語ることの逆説性)
③現に、丸山が「強烈な国民的自覚」を語る日米戦争開始期には、「東亜共同体論」や「新体制運動」に可能性を示した革新左派の戦時改革への夢は途絶え、「国民の主体性」は総力戦への参与に水路づけられる以外なくなっている。(「内鮮一体」に「国民」としての希望を呈した朝鮮人の挫折も同様である)結果、労働運動も「オシャカ闘争」と化した。
④そのような状況の下での「国民たらう」という丸山の呼びかけは、それがいかに全体主義的国体論に「抵抗」しようとするもの(動機から出発)であったとしても、抵抗の形とは逆立し、むしろ積極的な参与と動員の呼びかけにならざるをえないのである。
⑤にも関わらず、丸山の主観においては、それらはいつの時も「時局批判」であった。
→そうだからこそ、その論理は「戦後」を担う主体の論理として、「戦後」にそのまま生き延びたのである。

・先に引用した芦田の場合においても、かれの発言が1945年9月のものであるということから、見受けられるものは、総力戦体制にたいする批判がまさに、総力戦体制を維持させえた思想でもって行われ、その総力戦思想そのものが「戦後」の出発点となっているのである、ということだ。(総力戦から戦後への連続)

→ このような観点に即して考えてみると、戦時と戦後の断絶を強調したがる小熊の意図が見えてくる。すなわち、小熊は、丸山らの言説を「抵抗」、「政府や軍部への批判」という側面を取り上げることによって、戦時における国民間の道徳的退廃と「人間らしい連帯」の解体を「戦争体験」として語り、一方では、「戦後」を「国民の再生物語」として語っていくことに成功するのである。

この議論における結論
 
これを「戦後思想」と呼ぶには、あまりに重大な隠ぺいがあって無惨であり、内容を問わない思想分析は空疎である。戦後日本の心情を揺るがし、主体を割るのではなく、逆に日本人を救済し融合させるその基調は、<前夜>のこのとき、むしろ危険な誘惑となるのである。これに対抗する戦後思想史を書くことで、「前夜における戦後思想認識」があぶり出されるのである。

△ 「戦後」に抗する「戦後思想」

「…現在われわれが間違いなく『戦後思想家』と見なしている幾人かの人びとが、小熊とはちょうど正反対の状況認識を示しながら、それに抗する彼らの戦後の第一声を発していることに気づかされる…」。(「前夜」1、P150)

- 鶴見俊輔の場合
 「『八紘一宇』『肇国の精神』などは、戦争の好きな人の旗印として戦争中にあまりはでにもちいられたため、部隊の回転とともに流行からはずされた。これらにかわって、アメリカから輸入された『民主』『自由』『デモクラシー』などの別系列の言葉がお守り言葉としてさかんにつかわれるようになった。…戦前から戦中にかけて侵略を歓迎したかのようにみえる評論家たちが、『民主』『自由』『平和』をうたったことを見ると、彼らがその間の変化に恥ずかしさを感じない根拠は、彼らがこれらの言葉をお守りとして使うことを考え、言葉が変わったとしても内容にはかわりがなくてよいのだという認識に達したものと判断される」 。

竹内好の場合
 竹内は敗戦後に流行する進歩主義について次のような認識を示す。
 「進歩主義は、日本イデオロギイの重要な特徴の一つと思うが、それは否定の契機を含まぬ進歩主義であり、つまり、ドレイ的日本文化の構造に乗っかって安心している進歩主義である。…かれらは人民を組織しようとするが、それは人民に自分の命令をきかせようとするだけだ。権威のすげかえをやるだけだ。『エロ・グロ』のなかに抵抗の契機をつかむのではなくて、それを禁止して、そのかわりに『民主主義』を押しつけるだけだ」 。

吉本隆明の場合
 吉本は57年の「戦後文学は何処へ行ったか」で、「戦後十一年の暗い平和にたたかれて変形されたとは云え、私の中には、当時からくすぶっている胸の炎がまだ消えずにのこっている。けっして『戦後』はおわっておらず、戦争さえも過ぎてはゆかないのである。わたしはそれを信ずる。戦後文学は、私流の言葉遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である」 。


総まとめ

 これらの言葉は、敗戦直後の言説状況を捉え、そうした状況に抗するものとして発せられている。同時代人たちの証言に即して言えば、小熊が「神話時代」として語っている敗戦直後(1945~55年までを「第一の戦後」とみる)にすでに「楽園」などはなかった。
 このような戦後思想家たちは、戦後における思想状況を戦時からの連続の相として捉えており、自らの思想を「戦後に抗する思想」として提起している。
 彼らは、一口で「戦後日本を割ろうとし始めている」のである。(小熊は、自身の物語によって、日本人を救済し融合させるその基調を提出した)
中野がこの文で発掘した問題意識とはずばり、「小熊の語りと、戦後思想の始まりとは実は真逆の発想だった」のだ!ということであろう。

 中野はこののち、このような思想家(小熊とは逆の思想家)の「戦後思想」に注目していくことにしたところで、①を締めくくった。


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多大な示唆を受けた。次にすすむとしよう。

レイシスト大行進

2014年10月23日 | 帝国主義・植民地

問題意識を持って見てみよう。

レイシズム批判のハマる、「罠」というか。
前回、安倍晋三が日本におけるレイシズム的状況を「批判」した際にも触れたが、レイシズムや、ヘイトスピーチ批判=味方、とはならない今の状況を真摯に、直視しなければならないと思う。


安倍や橋下の主張と、在特会の主張とは根底ではつながっており、「同志」とも見て取れる、ということを直視する必要があり、今回の面談も「暗黙の了解」のもと、排外主義を助長させる算段の上で行われている。

結局、何が議論されたのか。特別永住権問題である。
この議論での本筋は、在特会のようなヘイトスピーチがなぜ出てくるのか、を考えてあげて、その根拠となる、「在日朝鮮人の特権」をなくすように努力することによって、ヘイトスピーチをなくしていこうとすること。

なぜ、在日朝鮮人が特別永住権をもつようになったのか、という問題は議論されない。もっと言えば、特別永住権ですら、「差別的」であるのにもかかわらず、そこから論点を究極的にずらす狙いも見て取れる。ガッツリとスクラムを組んでいる。パッと見た感じでは、ヘイトスピーチに関する問題を議論し、一方では批判、一方では擁護している。しかし、根底は在日朝鮮人排除の思考様式しかないところに注意したほうがいいと思う。

そして、すでに述べたように、このままこの論調に乗っかって自分たちの置かれた状況を分析し、「対策」をこうじてしまうとこうなる。「特別永住権」だけは守ろう、と。

補助金の問題も全く同じであるが、補助金がカットされる、これに抗する。とりあえず、補助金が出るようになった。ホッとする。(しかし実は補助金の問題は出るか否かの問題ではなく、金額の問題である)このように我々の当たり前の権利を主張する抵抗としての運動において目標がずらされる、いつの間にか自分の立ち位置が変わってしまう状況はかなり危険である。わたしはこれまでこのような状況を、「横滑り」と一貫して述べてきた。目指すべき目標は、「人間として認めろ」という「人間宣言」である。形式の問題ではない。しかし、われわれが今の状況を見誤ると、将来後代たちに大変な荷物、禍根を残すこととなろう。注意しなくては。

最近の、在日朝鮮人政策や朝鮮問題にしても、日本当局が使う常套手段は、われわれの「帰る場所」をずらすことにあると思われる。われわれは「そもそも」何を目指し闘争、抵抗してきたのか、を今ほど思い起こす必要があるときはこれまでなかったのではないのか。

日朝平壌宣言、2002年のこの宣言から日本では「拉致」一本で情勢をゆがますだけ歪ませてきた。その結果が経済制裁の解除と、その他「恩恵」である。しかし、実際の宣言の文言は未だ推進されていない。この状況をしっかり認識できていないと、一歩も進んでないはずの日朝交渉、ふりだしに戻って朝鮮だけが宣言以外の「再調査」をさせられる、という状況にたいして「怒り」を覚えることができないのではないのか。交渉が始まればいいという問題ではない。何を論じているのか、が問題なのだ。日本は世界屈指の「経済力」・「軍事力」でもって、朝鮮にたいして大々的な制裁、暴力的措置をとってきた。その結果、自分たちは「拉致問題を強固な立場で前進させたぞ」と躍起になる。その影で、在日朝鮮人に対しての国家的差別政策を緩和するどころかより強化させた。

自身たちがおかれている立場をしっかり見据え、運動の対策、方向を考えていきたいものである。

なんにせよ、橋下と在特会はズブズブの仲良しであり、彼らの目指す未来に、幼気な在日朝鮮人子弟の居場所は、ない。

橋本と在特会櫻井との面談 (動画はこちら)


反レイシストが実はレイシストであった喜劇を生むか

2014年06月17日 | 帝国主義・植民地

「レイシスト」になる自由はあるか?という本が2月に翻訳され出版されました。

 翻訳をした明戸氏へのインタビュー記事なのですが、京都朝鮮学園へのヘイトスピーチをとりあげたりと「期待」はできます。

 が、気がかりな問題がいくつか。以下、そのインタビューの一部を掲載し、検討しようと思います。


※  ※  ※
――今回、翻訳した本の特徴は?

現状の欧米の法制度に関して、全体の見取り図がわかる本です。欧米主要国の「ヘイトスピーチ」規制のあり方について、バランスよく紹介している点が特徴です。主な内容はヘイトスピーチ規制、ヘイトクライムの禁止、人種差別の禁止についてで、アメリカの公民権法のように歴史的な流れも全部含まれています。

著者のスタンスとしては、規制と表現の自由とのバランスをとる、という視点で書かれています。著者のブライシュは、もともと英仏の比較研究を専門としているアメリカ人の政治学者です。この本ではそのイギリス・フランス・アメリカに加えて、ドイツの事例も取り扱われています。

ヨーロッパは、ホロコースト(ナチスドイツによる大量虐殺)があったこともあり、ヘイトスピーチ規制に積極的です。一方、アメリカは、「表現の自由」を重視して、規制は行わないという立場です。かなり対照的なんですね。ただ、詳しく見ていくと、そう単純ではない。

ヨーロッパと日本は「歴史的な文脈」が違う

――なぜヨーロッパが規制に積極的で、アメリカが消極的なのですか?

ヨーロッパが積極的な要因は、やっぱりナチスですね。その中でも象徴としての「ホロコースト」があったことでしょう。それに加えて、1960年代ごろから出てきた移民問題。その2点が大きいですね。

一方、アメリカが今の流れになったのは、実は公民権運動以降です。運動を押さえ込みたい南部の州政府に対して、司法が公民権運動の側に有利な判決を出していった。そのときに根拠になったのが「表現の自由」だった。それが経験的には大きくて、表現の自由を押さえ込むと、マイノリティの利益を損ねることになるという意識が、ものすごく強いのです。

――なぜ、いま、この本を翻訳したのですか?

2013年の2月以降、日本でも、排外主義的なデモが大きな社会問題として捉えられるようになりました。そういったデモに対抗する「カウンター」の動きも出てきた。ヘイトスピーチの法規制についても、メディアや国会議員の間で語られるようになりました。

司法の側にも動きがありました。京都の朝鮮学校で行われた街宣活動に対して、賠償と学校周辺での街宣活動の禁止を命じる判決を、2013年10月に京都地裁が出しました。

僕自身も、2013年2月に新大久保のデモとカウンターの様子を見て、「いま、自分が果たすべき役割は何だろうか」とあらためて考えていた。そんな文脈の中で、この本を翻訳しようと思ったんです。

  ※  ※  ※

うなづきかけて、「うん?」と思ったこととして、記しておこうと思います。

 「歴史的文脈が違う」とはどういうことなのか?もちろんこれは編集上、つけられたタイトルではあって、訳者の思惑とは外れている可能性もあるが、その後の、「いま自分の果たすべき役割」とあるので、大筋は合意しているとみて、間違いないだろう。

 訳者は、ドイツのホロコーストに関連して、ナチスドイツに対抗する軸と、1960年代からの移民問題の軸から、ヘイトスピーチ規制という問題を捉えているにもかかわらず、日本では2013年2月以降のヘイトスピーチの問題へと、タイムスリップ(逆の意味で)する。
 そのような「過激的」なヘイトスピーチに対して、「カウンター」として、京都地裁の判決や法規制について論じられているから、この本は「意義」がある、ということだろうか。今の現状で、「他国の歴史(アメリカとドイツ)」、自身たちの歴史的文脈は違えど、そのような法規制がいかになされたのかを見るのは、意義があると…

 しかしよく考えてみると、「ホロコースト」と類似した日本帝国主義の過去はいくつも散見されている。その代表格といえるのが「関東大虐殺」ではなかったのか。(もちろんその他いくつもの例がある)「関東大虐殺」のみでは語れない、日本の植民地時代の暴力があり、それが忘却されていっている「今」の問題が、レイシズムの問題ではなかったろうか?
 この語りは、「レイシストを批判する」という趣旨の本であろうことは間違いないだろうが、あくまでも「レイシスト」は、「在特会」のような人々を指し、それを批判さえすれば「免罪符」を得られる今の日本の状況をあまりにも鮮明に表しているのではないだろうか。(そういえば安部もレイシストを「批判」していた)

 このような「物語」を見るたびに、歴史修正主義者たちの「功績」を認めざるをえない。遺憾ながら、彼(女)らの思惑通りに日本は進んできているし、いまや、過去が切り離された「今」を生きている人々が、「レイシスト」か「反レイシスト」かで別れ闘っているような錯覚にさえ陥る。

 ヘイトスピーチが横行し、それへの「カウンター」で、今の日本を論じるのは危険極まりないとしか言いようがない。
 そもそもの「ヘイトスピーチの氾濫」といえるような状況は、1991年金学順ハルモ二の「証言」から始まった植民地主義的暴力に抗う闘争に対しての、バックラッシュ現象として出てきたものであり(もちろんそれ以前にもあった)、それが倒錯した形で「朝鮮人」=なんでもありの思考様式が生まれた。「いい朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」というような鶴橋や新大久保でのデモのような「過激派」もその思考様式から「逸脱」したものでは決してない。「逸脱」ではない、「普通の人」が行った虐殺こそが「関東大虐殺」であった。そのような思考様式が、日本の「進歩」的な陣営にまで影を落としているのが現況ではなかろうか。

 そして、それは日本の敗戦直後から今なお継続している。このような歴史的な枠組みの中で、過去を暴力をもって「忘却」しつづけた(あるいはさせ続けた)日本の必然的な結果が今の、レイシズム的状況であると断言できる。

 このような、過去への反省とそれの超克との視座を持ちえねば、このような「レイシズム批判」は、より大きな植民地主義によって絡めとられ、新たな「過激的レイシズム」を批判する「穏和なレイシズム」を生むであろう。反レイシストが実は、レイシストであった、という喜劇の誕生である。

 今、求められているのは、「日本の現住所」の確認ではなかろうか。過去から現在、そして不安な未来へと連綿とつづく日本の迷走を断ち切るにはそれしかないと思われる。 

親日派は生きている

2014年05月16日 | 帝国主義・植民地
鄭雲鉉氏の著書、「親日派は生きている(初版2011)」から、一文を記し紹介したい。

민족을 배반하고 일신의 영달만을 꾀했던 친일파 가운데 자신의 죄과를 참회하고 사죄를 구한 자는 겨우 손에 꼽을 정도다. 반면 그들 가운데 대다수는 자신의 친일 행적을 미화하거나 변명하였으며, 더러는 독립유공자로 둔갑해 훈장을 받기조차 했다. 특히 그들의 후예(후손 및 후학)들 가운데 더러는 공공연히 친일 전력자의 이름을 딴 상을 제정하거나 기념사업회를 만들어 이들의 친일 경력을 세탁하고 심지어 미화 작업에도 나서고 있다. 민족정기가 제대로 선 나라에서는 있을수 없는 일들이 오늘날 대한민국에서는 버젓이 자행되고 있다. 그야말로 파렴치가 극에 달한 형국이다.

(訳)民族を裏切り、一身の栄達のみを図った親日派の中で、自身の罪過を懺悔し謝罪したものは、きわめて少ないといえる。反面、彼(女)らの大多数は自身の親日行為を美化したり、弁明し、中には独立有功者として化け、勲章をもらうまでに至る。特にその後裔(後孫、後学)らの幾人かは公然と親日戦歴者の名をつけた賞を制定したり、記念事業会をつくり、彼らの親日経歴を洗濯し、究極的には美化作業に取り掛かるにまで至っている。民族の精気がまともにある国ではありえない事象が、今日の大韓民国では堂々と強行されているのである。まさに、破廉恥極まりないとしか言いようがない。

             *   *   *

 この本は、わが民族のすべての歴史ではないが、今日の分断と民族反目の状況を作り出した、いくつかの重大な問題を歴史的に紐解き明らかにしている点で、名著であり、必読をお勧めする。
 もちろん、「親日」なのか、「反日」なのかと極端に問い、それによる分割を進めようとするものでは決してない。(そして、これこそが植民地支配者たちの常とう手段である)

 しかし、今日の我々を取り巻く状況というものは、きわめて暴力的であり、それによる「転向」ともいえる事態が「無自覚なまま」行われ、被害者たちの分裂が促進されているという点で、大変難しい状況だということはできると思われる。

 高校無償化問題、補助金削減の問題といった生活・教育レベルでの差別制度から、「法の厳格適用」という名のもと、「犯罪者」として強制捜査を受ける同胞たちの現状、共和国に対する「制裁」という名の「戦時法」。そして、この「戦時法」延長に関する閣議決定は今年度の4月には「なかった」。昨年度にこの法案の効力期間は1年から2年間に延長され、それは自公民のみならず、社民や共産党などすべての「進歩政党」らまで含み、「全会一致」で採択されたからである。
 この状況で、日本の植民地主義と抗うことを決意するには相当の覚悟が必要であり、その「決意」は暴力的状況を甘受するといった「宣言」に他ならない。しかしながら、暴力を受けて、いつまでも耐え忍べるほど人間は強くない。この状況で、自身の気持ちが揺らぎ、闘争から一歩引いたり、ひいては、暴力者たちに「すり寄る」ことで、一定の安泰を図るものも珍しくはないと思われる。問題はこのように暴力によって分断された、被抑圧者同士がお互いに、反目しあい、団結を妨げられることによって、被害者への暴力が一層加速化してしまう状況にたいして、「無力」になることであろう。

 我々が何をめざし、何のために、「今を生きるのか」。そういう問題を紐解く一端でもこの本から学ぶことは多いと思われる。
 そして、その作業は「自身の反省」、「共犯者」となりつつあった自己に対する確認作業となるであろう。
 最後に、私は、「南が悪」で「共和国は正義」、ということを単純図式に収めて言いたいわけではない。植民地とは何であったし、今我々はどこにいるのかを、「民衆からの視点」で、歴史的に追求すれば、いろいろとヒントはあると、いうことである。

 一読を勧めたい。


(차례)제1장 민족반역의 길로 들어서다
제2장 나는 황국신민이로소이다
제3장 뼛속까지 친일파로 산다
제4장 대한민국은 친일공화국이다
제5장 친일파는 살아있다
제6장 친일청산, 역사의 숙명이다
제7장 친일청산, 기록하는 자와 변명하는 자
제8장 우리는 부끄럽고, 그들은 부럽다

(目次)
第一章 民族反逆の道へと
第二章 私は皇国臣民である
第三章 骨の髄まで親日派として生きる
第四章 大韓民国は親日共和国である
第五章 親日派は生きている
第六章 親日清算、歴史の宿命である
第七章 親日清算、記録するものと弁明するもの
第八章 我々は恥じ、かれらは羨ましい
 ※第八章は、主に共和国や中国、フランスなどの事例を挙げています。



素晴らしいブログを見つけた

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地
もっと怒っていいと思います。

 「日朝国交『正常化』と植民地支配責任」というブログ(現在は実名も出ているが)を読み、参考にしつつ全面的に共有できる問題であったので、その内容を要約し、私の意見も含みつつ投稿したい。



  朝鮮学校を排除した高校「無償化」法案が衆議院を通過したのち、「無償化」実現のための「抵抗」「闘争」が行われ、今ではいたいけな学生たちを被告とし、裁判までも起こしている。

 これまで、日本政府は、朝鮮高校を「高校」と認めなかった。そして、朝鮮高校が「高等学校の課程に類する課程を置くもの」かどうかの判断を第三者機関に委ねていた。幾たびか朝鮮高校を「視察」した議員たちは何を見ていたのか、人を馬鹿にしすぎである。そして、朝鮮高校は排除されたうえで法案は修正されると。
 今回のパブリックに集めた「意見」は反対が過半数を超えた。いったい日本の人たちは何を考えているのか。

 これまですべての朝鮮学校に対する抑圧、差別はすべて朝鮮人を馬鹿にしきった屁理屈の積み重ねによって遂行されてきた。

 私はもう一度、強調したい。もっと怒っていいと思う。
 「朝鮮人は感情的だ」。
 感情的にならないことこそ難しいのである。朝鮮人が生まれながらにして、「感情的」であるはずもなかろう。そんな民族心などは存在しない。
 なぜ、感情的になるのか、日本はこれを考えるべきである。

 朝鮮学校を排除するためなら手段を選ばない『産経』や在特会に、そして、朝鮮学校も「変わった」んだからそろそろ許してやれといっている『朝日』に怒るべきなのである。
 これは「無償化」に限らない。
 1990年代に東京朝高に外国人登録証の住所変更をしなかったとかいう「微罪」で機動隊がなだれ込んできたこと、JRの定期券「通学」割引を朝鮮学校に認めなかったこと、大学受験資格が認められないこと、「閉鎖令」と朝鮮学校をぶっ潰したこと、植民地における「皇民化教育」を「施した」こと、すべての在日朝鮮人、朝鮮人に対する差別的、植民主義的な抑圧にもっと怒っていいのである。

 そして、これらのことに口を紡ぎ、食い止めることもしないまま、今も「罪」を重ねる、共犯者となっていっている浅はかな日本の一般人にも怒っていいのである。

 確認しておくが、我々は日本に対して必要以上のことを語る必要も義務もない。

 日本政府は「高等学校の課程に類する課程を置くもの」は高校「無償化」法案における「高等学校等」に含めるという法を定めた。だが朝鮮学校は排除するという。では朝鮮学校が「高等学校の課程に類する課程を置くもの」ではないという理由を挙げてみせよ。問うべきことはその一点に過ぎない。
 そして、今回なぜ朝鮮学校が外されねばならないのか。その排外主義を断固糾弾することこそが求められているのである。

 朝鮮学校側が「一生懸命」朝鮮学校がインターハイでよい成績をおさめているとか、多くは日本の大学に進学するとか、韓国籍や日本籍の子もいるとか、朝鮮学校卒業生はこれから日本で暮らす子達なのだとか、はたまた日本の高校とほとんど変わらないとか、そんなことを持ち出して卑屈に懇願する必要は無いのである。
 もう一度強調しておく。こういうことは一切やる必要がない。
 そのような文書をつくり、そのために走り回る時間があれば、子供たちの教育の質向上のために自分の時間を作り、そこに充てるべきである。
 
 仮にインターハイの「イ」の字もしらないような学校であろうが、全員が日本の大学になど見向きもしないような学校であろうが、全員が「朝鮮籍」であろうが、在学生や卒業生たちのほとんどが一日でも早く日本を離れることを夢見て努力していようが、朝鮮学校の排除は許されないのである。

 はっきり書いておくが、日本政府はいまだけ間違っているのではない。ずっと間違っている。ずっと間違っているから、いまも間違えるのである。だからこそ、朝鮮人が歴史を持ち出し、怒りを表明することは決して間違っていないのである。 (上記ブログ上における私の最も強烈な共感)

 決して間違ってない。もっと怒るべきである。
 「いい人」面なんてする必要もない。今の日本における「いい人」なんてのは、日本政府の不当な要求に屈して、笑顔でいる「奴隷」にすぎない。

 最後に、私はだからといってケンカをしようとか、極端にすべての闘争をして行こうと言っているわけではない。今朝高生のために日夜奮闘している学父母、活動家、教員たちの努力を否認しているわけでもない。むしろそこに積極的に携わり、連携する覚悟である。

 ただ、今の我々の立ち位置について、われわれの意志と思想(=志操)についてもう一度確認しているのみである。
 4.24教育闘争はこの精神、この思想における「団結」が勝利をもたらしたのである。

 すべての在日朝鮮人は、今こそ団結を!

「沖縄の占領と日本の復興」を読んで

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地

「沖縄の占領と日本の復興」、ここに、鄭栄桓氏は「1948年4月の『朝鮮戦争』―非常事態宣言下の神戸と在日朝鮮人―」という、鋭く興味深い研究業績を提出している。

まさに、「4.24」に象徴されるように、1948年に何があったのか。この史実を直視し、今の我々の闘争、抵抗がいかなる意味を持つのか、ということに対して、「考えることをやめない」ことは意義のあるものだと思える。
1948年2月の時点で、朝鮮学校(朝連初等学院)の数は500校をこえ、そこには約5万人の朝鮮人児童が就学していた。しかし、47年3月の教育基本法・学校教育法の公布・施行を受けて日本政府は朝連経営の朝鮮人学校に対する統制を強化し、48年1月24日には、「朝鮮人子弟であっても、学齢に該当するものは、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない」とする通達「朝鮮人学校の取り扱いについて」を発するにいたる。
これに伴い、48年3月18日には山口、4月20日には東京、ほかにも兵庫、岡山などで朝鮮人児童の公立・私立学校への転入と、認可によらない朝鮮人学校の閉鎖、また日本の学校から借用されていた朝鮮人学校施設の明け渡しを求める学校閉鎖例を発した。

もちろん当時のこの「政府・当局の決定」にはアメリカや南朝鮮の干渉もあった。が、ここでは問題にしない。(重要でないという意味ではない)

当時、神戸を例に例えると、4月24日~5月15日まで直接軍政がひかれ、朝鮮人の「抵抗」は「鎮圧」された。ちなみに、沖縄以外の「本土」において、アメリカ軍による直接軍政がひかれたのは後にも先にもこれっきりである。

金東椿は朝鮮戦争時の民衆の避難、占領、虐殺を分析しつつ、「朝鮮戦争はすでに1948年末から始まっていたものとして記憶されている」という指摘をした。(鄭氏の論文から)

このような問題意識を想起するとき、私は現在の「抵抗」、「闘争」を見ながら、またその主体として2つの点のみを指摘したい。

①まさに「戦争前夜」である、ということ。
②教育に対する「暴力」、そして植民地主義は今になって始まったのではない。いつの時代もそうであったし、今を生きる在日朝鮮人はその証人である。

これから戦争が始まるぞ、さ、準備しようなどとは言わない。私が言わんとすることは、まさに今、朝鮮は1950年に起きた戦争を想定し、二度と自民族、そして自身の国を失なわないよう、「抵抗」していると思われる、そこである。「戦争なんか起きないよ」なんてものを保証する論理はどこにもない。かつて527万ないし600万人が大虐殺されたユダヤ人でさえ、ある場所においては「そんなことはありえない」と思っていたのだから。ちなみにユダヤ人大虐殺の問題を私が朝鮮人のみの問題に書き換えて、ナショナリズムを煽ったり、プロパガンダをするつもりは毛頭ない。
しかしながら、自分たちが今流動する世界情勢の中でどこに立っているのか、これは「考える必要がある」と警鐘をならすのみである。今現在も闘争は続いている。神奈川の緊急集会でオモニたちのインタビューには、一言で端的に表せる表現がいくつも出てきた。「民族を失いたくない」。これは単純なナショナリズム(=悪)ではない。日本においていつも他者として規定され、他者としての生存を強制されてきた在日朝鮮人たちが、生きるため、人間としての尊厳を守るために創り、守ってきたものが今音をたてて崩れ始めている。
これに抵抗しないで、何に抵抗するのか。

二点目の問題意識は、「朝鮮の評価」に関する問題である。単純に共和国がやってるからいい!ということを認識せよ。などというつもりはない。しかし、在日朝鮮人が今苦境に立たされているのは、「日本の問題」なのか、「朝鮮のせい」なのか。これは一考してみる必要がある、ということである。

「韓国はもちろん問題もあるが、今は民主化されていて…」、だから「誇りが持てる」などという人たちにも一言いっておきたい。あなたは、「韓国軍」が大量的に、無慈悲に虐殺したベトナムの人民たちにどのようにお会いになって、どのように「応答」するのですか?
そして、私たちの民族教育の「盾になってきたつもり」などとぬかした、某県の知事に質問したい。「あなたは何を守っているのですか?」


今、在日朝鮮人の生そのものが、「忘却の穴」に落とされようとしている。まるで存在しなかったかのように。むしろそのようにふるまわなければ、日本人に認められない。「忘却の穴」を否定し、それに抗う教育は「反日教育」として断罪され、国民でもなかったはずの在日朝鮮人が「非国民」とされ、「だったら国に帰れ」と言われる。これが当たり前になりつつある。

朝鮮学校は一度、閉鎖されたのだ。国家的暴力によって、閉鎖されたのである。
これを想起していただきたい。

関東大震災??関東大虐殺であろう。朝鮮人や中国人は6000人も「天災」によって死んだのではない。虐殺されたのだ。今を生きる人々、もしくはその親たちによって。
これを想起していただきたい。

私はいたずらに「だから日本人嫌い」などと、いうつもりはない。いい人たちだっている。そんなことは分かっている。ただ、日本が責任を負い、責務を全うさせるため邁進するのみである。そんなこと俺がするのか?と、いつも思いながら。できれば在日同胞の未来のための活動のみに絞って活動したいのだが、状況がそうさせてはくれないらしい。そこがまた腹立たしい。

総じて、「考えることをやめないこと」。これが今、一番問われているのかな、と思います。
今、考えることをやめると、仮にもし、朝鮮戦争がまた起きてしまったとき、われわれ在日朝鮮人は歴史の被害者であるとともに、「忘却の穴」を掘り、戦争に加担した(積極的・消極的に)戦争責任から逃れることはできないであろう。
民族教育は一度奪われた、が、取り返したのである。

今、民族教育が奪われようとしている。もちろん子供たちを先ず守り、彼らのゆりかごを守るのは我々の当面の責務であろう。同時にまた、われわれが守らなければならないものは、「民族を生かし、育てる民族教育」、自民族のみならず、世界の平和、日本の発展、祖国の統一、祖国の発展のための、そして最も人間愛に深い人材を育て育てる「教育精神」こそを守ることこそが重要だと思われる。

神奈川新聞を見ながら

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地
http://news.kanaloco.jp/editorial/article/1302140001/


いわゆる「高校無償化」適用如何に関する問題が朝鮮学校を取り巻いている。この記事は、神奈川県の補助金停止と相成ってでたものではあるが、FACEBOOK上にて、いささか、この記事が「シェア」され、「いいね!」という表現が目立ってくるこの状況の中、一意見として、また論議を醸すため、私も一つ「シェア」をしたいと思います。

この報道、たしかに「進歩的」ではあるんですけど…
しかし、私はあえて、「ちょっと待て、その先は断崖だ」と言いたいです。

この記事からは「北朝鮮=悪魔国家」、だからといって「子供の権利をはく奪する権力を国家は持たない」という論理構造が見えます。
「朝鮮は確かに悪い。でも子供たちには「罪」はない。」こんな論調は、日本が朝鮮に対する植民地宗主国であったということ、今のまさに「現在の」朝鮮の状況を作った張本人が日本である、という批判を無効化させる恐れがあると思います。
無償化や補助金は日本の「恩恵」ではなく、「義務」なんですよ。そして子供たちはその「権利」を持つ。それだけの話なんです、本当は。そこにこそ批判しなければならない。

しかし、このように差別が全面化するあまりにも難しい状況の中におかれてしまうと、この「差別がだめだ」という論調が出てくると何でもかんでも「いいね!」と評価してしまう。この自分たちの評価がのちの自分たちの「転向」、たとえば民族教育側も教育内容を考えようとか、祖国との「距離」とか、「教科書の内容」とかを言い出してしまう。そんないろいろな問題が、補助金や無償化の「前提」に設定されてしまう今の状況こそに批判する、そういう態度が必要なのかな、と思います。教育内容がだめだから、補助金がもらえないんだ、こんな論理は権利の論壇では何も示さないただの「教育に関する国家の干渉」でしかありえないのです。 
 たとえ、「反日」(わたしは本当の意味での「愛日」と思っていますが)であろうと、全員が「朝鮮籍」だろうと、補助金も無償化も適用しなくてはならないんです。だって、教育なんですから。

今の朝鮮の状況、日本はそれに対してどれほども「責任」を感じているのか、朝鮮戦争時の日本の「戦争責任」などみじんも感じてない状況や、ベトナムに派兵して、「経済的成長」をもたらした南の当局の問題など、全部が無視された状況での「子供愛」、これに対して、在日朝鮮人運動をやっている私たちが「いいね!」ということは、補助金をもらわなかったり、無償化が実現されない以上の「敗北」をもってくるのではないのでしょうか?

 そういう意味で、この記事を持ち、シェアし、「いいね!」と言っているすべての人々に、私は「ちょっと待て、その先は断崖だ。」と言いたいです。ちなみにこの言葉は徐京植先生の名言です。(半難民の位置から)

民族教育の権利が政治的にはく奪されていく中、私は、「今こそ政治闘争を!」と呼びかけたいですし、その「政治闘争」の最前線にたっている国家がまさに、朝鮮民主主義人民共和国だと思い、そのことから、私は朝鮮を「在日朝鮮人」の祖国である、と規定したいです。 

明々白々な差別に対しての抵抗はもちろん、「見えない」、もしくは「優しい」差別、ナショナリズムやレイシズムにこそ抵抗する,世界で最もラディカルに。これが在日朝鮮人運動の意義であり、この精神こそが一世の残した宝だと思います。
今の無償化闘争が、4.24教育闘争のようになれていない根拠、理論的脆弱性がここにあるのかな、と私は思います。

チュチェ思想の誕生

2011年11月21日 | 帝国主義・植民地
 チュチェ思想は、時代と革命実践発展の要求に即して、金日成主席によって創始されました。
 
 マルクス主義は、朝鮮や中国などの植民地、反植民地における労働者階級、ひいては世界の被抑圧人民大衆が植民地解放運動を繰り広げる上で、革命思想としての役割を果たしていました。

 ロシア社会主義の発展に伴い、社会主義の生命力が世界に広く公認され、資本主義社会内部における闘争も激化していく中、特にこれまで搾取と抑圧の対象でしかなかったアジアやアメリカ、ラテンアメリカの人民が一つの政治勢力として、民族・階級解放を目指す闘争に進出してきました。
これは、人民大衆が歴史の主体として社会運動を担いながらも、自主性を蹂躙されてきた時代から、彼らが歴史と自己の真の主人として階級、そして民族解放のための闘争を目的意識的に、世界的範囲で展開していく新しい自主の時代、チュチェ時代へと時代が移り変わったことを端的に表していると言えるでしょう。

 このような歴史的条件において、解放闘争の主体としての人民大衆は、自身の運命開拓の道を新しい時代に即して示してくれる新しい思想の誕生を渇望しました。とりわけ、朝鮮においては歴史発展の特殊性、革命実践の複雑性などからこの問題を解決することが、革命の前途を展望する重要な問題として提起されました。このような要求を反映し創始されたのがチュチェ思想です。

 当時、民族解放運動に携わっていた「マルクス主義者」や民族主義者たちは、人民大衆の解放運動の指揮権をめぐるヘゲモニー争いや空理空論に明け暮れていたばかりでなく、朝鮮の解放闘争を自国の人民の力ではなく、外部勢力に依拠して成し遂げようとしました。「共産主義」運動の指揮者たちは様々に分裂していた党派がコミンテルンの承諾を得るために躍起になり、革命実践のための理論も、他国の革命成果をその特徴も実情も異なる朝鮮の実践にそのまま適用するのが一般的でした。
 当時の朝鮮革命を「指導」したとされる「マルクス主義者」が、いかに人民の団結を妨げ、また教条主義と事大主義に駆られていたかということは、1927年12月 、1928年にそれぞれ、コミンテルンによって、朝鮮革命の現状についての辛辣な批判を受けていること からも、十分窺うことができます。


 ※「朝鮮共産党についてのコミンテルン決定」(1927年12月以前)、『コミンテルン資料集』4、大月書店、264頁
 この決定の第1項では、「朝鮮戦闘的プロレタリアートの第1重要にして緊急なる任務は完全なる党の実現にしていまだ現存せる総有フラクション及びグループの即時解体にある。過去フラクションの派争の残在が党の発展を阻害したものである。過去派争は単に党のみならず国民革命の存在まで魔酔せしめた…」と、当時の朝鮮革命を指導したグループを一括して批判している。

 ※ 「朝鮮問題についての決議」(1928年12月10日、執行委員会政治書記局)、同上、487ページ
 コミンテルンは当時、朝鮮の革命運動が厳しい危機に瀕している理由を、工業の発展や労働者階級の発展における微弱性、労働者階級の組織率の程度、日本帝国主義の迫害とみなしながらも、「諸君の国の共産主義運動をすでに数年にわたって引き裂いている悲しむべき内部的な不和と抗争の所産でもある。」としている。
 また、朝鮮革命を先導していた、共産党(激しい生みの苦しみのうちに生まれでようとしている)に対しては、「個々ばらばらの革命家と労働者大衆とのあいだに最も緊密な結びつきがつくりだされないかぎり、共産主義運動がプロレタリアートの集中点に足場を固めないかぎり、党が農民大衆のあいだでその影響力を組織的に打ち固めないかぎり、党が民族革命運動にたいして組織的な影響力をもたないかぎり、内部的不和に引き裂かれた共産主義運動は、革命的闘争の先導者、組織者、指導者とはないえない。」と、明白に言及している。



 金日成主席は、当時の民族主義運動と共産主義運動における教訓を批判的に分析し、1930年6月、卡倫会議での演説、「朝鮮革命の進路」において、チュチェ思想の2つの起点をとなる結論を導きました。



 その一つは、革命の主人は人民大衆であり、彼らの中に入り、意識下、組織化することでのみ、革命闘争に勝利することができるということ。

 《혁명투쟁의 주인은 인민대중이며 인민대중이 조직동원되여야 혁명투쟁에서 승리할수 있는것입니다.》 

 もう一つは、朝鮮革命における全ての問題を、自らの責任によって、朝鮮の実情に合わせて解決していかなければならないという、自主的、創造的立場でした。

 《경험은 혁명을 승리에로 이끌기 위하여서는 인민대중속에 들어가 그들을 조직동원하여야 하며 혁명에서 나서는 모든 문제를 다른 사람에게 의존하여 해결하려고 할것이 아니라 자신이 책임지고 자기의 실정에 맞게 자주적으로 해결하여야 한다는것을 보여주고있습니다.우리는 이 교훈으로부터 조선혁명의 주인은 조선인민이며 조선혁명은 어디까지나 조선인민자체의 힘으로,우리 나라의 실정에 맞게 수행하여야 한다는 확고한 립장과 태도를 가지는것이 가장 중요하다고 인정합니다.》

 この過程に、朝鮮革命における最も重要な教訓としての事大主義と教条主義を反対するチュチェの原理が明らかにされたのです。

 当時、革命の主体を人民大衆と見ることができず、人民大衆の団結を促すのではなく、ヘゲモニー闘争によって、分裂させていた事態を収拾し、朝鮮革命の思想的欠点であった、事大主義、教条主義を克服する観点としての、主体的立場、自主的立場(⇔事大主義)、創造的立場(⇔教条主義)が提起されたところに、チュチェ哲学の誕生が1930年6月30日のこの会議であったと言える所以があるのです。

 チュチェ哲学の創始に伴って、朝鮮では植民主義に反対し、現実の植民地から解放されるための武装闘争が展開され、党の結成までをも念頭に据えたまさに、組織的な反抗が促されていったのです。

 このような事情から、朝鮮人民はチュチェ哲学を朝鮮においてだけではない、人類の解放と真の平等の思想として、自身の指導思想に据えているのです。


 1930年6月、卡倫にて創始されたチュチェ思想は、その後、朝鮮における2つの革命戦争と、反帝反封建民主主義革命、社会主義革命、そして社会主義建設の実践的過程に金日成主席、金正日総書記によって、総合体系化され、その原理と内容が深化されていきました。
 
 このような意味で、金日成主席は「…わたしが朝鮮人民という土壌に種をまき育ててきたチュチェ思想を、金正日同志が生い茂る森にかえ、豊かな実を収穫できるようにしたといえます。」(『社会主義偉業の継承、完成のために』、「金日成著作集」第44巻、104頁)と、述べました。

 金日成主席によって創始され、金正日総書記によって総合体系化されたチュチェ思想は、人民大衆の自主性を実現する革命思想であり、人民の哲学、またその道に導く政治思想です。