朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

鉄の労働者(植民地後孫)

2014年05月22日 | 在日朝鮮人
南の労働運動、青年運動、統一運動時代の歌を聴くと、「思想」が生きているというか、「実践」と結びついているというか、ものすごく説得力のある生きた言葉だと思う。(もちろん当時のではあるが)

「高校無償化」除外事態が象徴している、人権侵害に対して、抵抗をやめないわれわれの歌も、この精神から学ぶことは多いと感じる。ちょっとだけ歌詞をいじってみた。

철의 로동자 (식민지후손)


애족애국 기발아래 와서 모여 뭉치세
빼안긴 우리 존엄을 투쟁으로 되찾으세

강철같은 독립의지 와서 모여 지키세
투쟁속에 살아있음을 온몸으로 느껴보세

단결만이 살길이요 우리 동포 살길이요
내 하루를 살아도 인간답게 살고싶다

아 애족애국 우리의 사랑 투쟁으로 이룬 사랑

단결 투쟁 우리의 무기
너와 나 너와 나 식민지후손


すべてはそのままなのに 모든것은 그대로인데

2014年05月22日 | 在日朝鮮人
모든것은 그대로인데

考えてみると、私をのぞくすべてはそのままなのに
表情を隠し、違うと偽っても世界はそのままなのに
涙にぬれ、振りかえる思い出はいつもそのままなのに
酒にまぜて飲んだとしても忘れられはしないものだ

いつまでたっても変われないという考えを捨てるため
どれほどの長い時間苦しんだのか、運命までをもひっくり返す勇気を

私に必要なものは、息をする空と地である
この燃え盛る胸をいっぱいにしてくれる、そのようなあたたかい胸

考えてみると、われわれを苦しめたすべてはそのままなのに
煙として消すわけにはいくまい、すべてはそのままなのに


생각해보면 나를 제외한 모든것은 그대로인데
표정을 감추고 아닌척해도 세상은 그대로인데
눈물에 젖어 흐르는 추억은 언제나 그대로인데
술잔에 섞어서 마신다 해도 잊을수는 없는거야

한참을 기다려도 변할수 없다는 생각을 버리기 위해
얼마나 많은 날을 괴로워했던가 운명마저 갈아엎는 용기를

나에게 필요한것은 숨쉬는 하늘과 땅이야
이 타오르는 가슴을 채울수 있는 그런 따뜻한 가슴들

생각해보면 우리가 아파한 모든것은 그대로인데
연기로 사라져버릴순 없지 모든것은 그대로인데

ソウル大学新聞のチャンドヒョン社会部長の記事も併せて読みたい

我われの立ち位置

2014年05月16日 | 在日朝鮮人
鄭栄桓先生の研究書である。彼のすさまじいほどの熱さと、それを補完する冷たく感じるほどの分析と蓄積に脱帽。




青商会記事に一部分だけ、記し載せたが、併せて紹介したい。


「我われの立ち位置」

埼玉フォーラムにおいてパネラーとしても出演した鄭栄桓氏の著書「朝鮮独立への隘路(あいろ)」の中から一文を記し紹介したい。「四十五年八月十五日、日本支配は終わり朝鮮は解放された、と現代史の年表には記されている。しかし、本書の執筆を通じて改めて痛感したのは、朝鮮民族にとって、この日は解放を現実のものとし、真の意味で『独立』するための困難な歩みの始まりであったということである」(『あとがき』、P346~347)。
 5月に開催される全体大会を前に、少しだけ思いを馳せてみた。これまでの「闘い」は何のための闘いだったのか、と。
この遠大な歴史を顧みたとき、一つの想いが込み上げてくる。「民族解放」、「朝鮮独立」のため、「隘路」を敢えて選択し辿ってきた在日朝鮮人運動のまぎれもなく中核に位置する、総連のイルクンとしての自覚と自負である。
長いこの歴史が私に囁く教訓は、「団結」であった。一人一人の小さな力が大きな河をなし、「独立」という大海に向かって進んできた過程、これこそが我われの「運動」であった。そして「独立」を目指したがゆえに、いわれのない、徹底した暴力に打ちのめされ、なおも立ち上がり進んできた「抵抗をやめない歴史」こそ、「我われの歴史」であろう。
「独立」という民族的課題を「私の課題」として受け持ち、自身の使命として生きていく決断を下すまでに様々な迷いがあったであろうことは間違いない。しかし、そのような「弱き人」を支え、後押ししたのは、いつも「同胞たち」だった。名前も顔も知らない数多くの同胞たちの意志と勇気、決断と実践とが絡まり合い、うねりを伴いながら、歴史にその軌跡を刻んできた。
朝鮮強占までのあいだ、植民地時代、そして「解放」以降、我われはいっときも闘いを止めなかったし、それは今も続いている。このやまない闘いに影を落としているのは、まぎれもなく日本の植民地主義であり、歪んだ「朝鮮観」である。このような「今日の植民地」の中、私は、諦めを知らず、しつこいと言わしめんばかりの「抵抗」を続けている同胞の姿を見ている。その運動のテーマはただ一つ、「同化するな!」であり、運動を貫くその意志は、差別や制度の是正などではなく、「人間として認めろ」という「人間宣言」である。そして、我われの歴史は、「人間宣言」がいかに困難なのか、この選択がどれだけの覚悟の上に成り立っているのかを改めて示してくれよう。
これまでの闘争はすでに歴史に記憶され、記録されている。しかし、人間の尊厳を未だ手に出来ていない我われが、今ここから手を離すと、この闘争は、一つの物語、歴史記録としてのみ残ることになるであろう。しかも、支配者たちは往々として、「記録された歴史」を簡単にゴミ箱(忘却の穴)へと捨ててしまう、デリートキーを押すように。これまで存在したことがなかったようにすることなど、支配者にとっては容易いことだ。現にそのように消された記憶は存在し、未だ発掘されていない事象は数多くある。そして支配者は記録を手にしていない抵抗者にたいして、こう述べる。「証拠がないのに歪曲する」と。
記憶は「可能」か?答えは「可能」である。何が「可能」たらしめるのか?我々の運動である。
5月に迎える全体大会は、在日朝鮮人運動のさらなる飛躍を約束するだろう。そのテーマは「継承」、そして「革新」である。継続する日本の植民地主義的暴力に晒されながらも、いっときも抵抗をやめなかった我われは公然と宣言する。「抵抗」の最前線に立つ祖国とともに、「最後の勝利」を迎えるその日まで、「闘い」を続けると。さて、今我われはどこに立つのだろうか。

(※「青商会」を「我われ」に置き換えた)

バカになれ

2014年05月16日 | 在日朝鮮人
 青商会の学習資料を幾人かが読めず、できれば資料として提示していただきたいというありがたい提案もあり、「時事」ではなくなった資料だけ、たまに転載しようと思います。

「『バカ』になれ」

「創ろう! 我らの力で! 『同胞社会の万豊年』!」、青商会の無限の可能性を示した埼玉フォーラム。埼玉に限らずこれまで行われてきたすべての青商会フォーラムが同胞社会にもたらした反響はみな記憶に新しい。
青商会が培ってきたこの貴重な財産を貫く精神を、筆者なりに考えてみた。それは、「責任」と「創造」であると思う。今の我々を取り巻く状況にたいして悲観するもの、悲嘆にくれ立ち止まるものも少なくないであろう。しかし、彼(女)らは立ち上がり実践した。
なぜか?「責任感」があったからではないだろうか。コッポンオリの未来を守る。この一点に人々は集まり、語らい合い、夢を持って無我夢中に邁進した。そしてその過程に「創造」が生まれ、それは未来像へと成長し、確信に変わった。未来は心配ない、と。
もちろん「困難」がなくなったわけではない。困難が立ちはだかろうとも、それを乗り越えられる力が我々にはある。先代たちの後ろ姿から、学び、憧れ、目指した後輩たちは少なくないはずであり、私も少なくないその一人である。
さて、しばしこの源泉を探す旅に出たいと思う。このような光景を「美しい」と思える感覚はどこから生まれたのか。
魯迅は、権力の前に膝まずき「少ない幸せ」を得ようとしたものを「ドレイ」と呼び、「善意」でもって「少ない幸せ」に勧誘するものを「賢者」と呼び、「少ない幸せ」を顧みず不条理と闘うものを「バカ」と述べ、「バカ」を賞賛した。
「バカ」としか思えない青商会の活動に胸打たれ、感激し、鼓舞され、うねりながら前進する青商会パワーの源はどこにあるのだろうか。
1957年1月、金日成主席は在日同胞子女のために送る教育援助費と奨学金を、「国家予算」の項目にぶちこんだ。在日朝鮮人の教育を守ることを「善意」や「施し」ではなく、「国是」としたのだ。当時、授業料や月謝の支払いもままならず、大学進学など夢であった同胞たちにとってこのインパクトはいかなるものだったのだろう。そのお金で、困窮した同胞たちがどれほど救われたのだろう。戦後復旧建設と呼ばれ、困窮していた財政状況の中、民族教育を受ける海外同胞がいる限り、送る。異国の地で不安に駆られ、子供たちの未来を案じた親たちはこの事態を、どう受け止めたのか。
私は、教育援助費ですべての民族教育をおこなったと言いたいのではない。この「事態」を在日同胞がどのように受け止めたのか、ここに想像力を馳せたいのである。160回、教育援助費はいついかなる時も中断することなく、「主席の遺志」として送られた。
この奨学金に込められた想いは、確かに受け継がれている。「我々が工場の一つや二つ建てられないとしても異国で苦労する同胞たちに、子供たちを教育するお金を送らなければならなりません。これはわたしたちの民族的義務です」。
民族的義務、この「意志」を私は灯台、羅針盤として持っていたい。そしてそのような「事態」に心打たれ奮起した同胞たちの誇りと情熱をまさに青商会が継承しているのではないのだろうか。ある地域でこのような言葉を聞いた。「日本政府が無償化を適用しないのなら我々の力で無償化する」。わたしは自信を持ってこの言葉に金メダルよりもさらに輝く、「バカ」という称号を与えたい。
我々の前に課題は山積みであろう。その問題を論点からそらしたいわけではない。このような炎が燃え滾る限り、我々は倒れない。そう言いたいのだ。
これを貫く精神は何か。「祖国と同胞、後代への愛と献身」。これが「責任」ある「創造」につながっているのではないだろうか。 そして、実践する人々は意志と信念を持った「バカ」である。わたしも「バカ」を目指したいものだ。(教育援助費の部分を修正済み)














繁栄する祖国、同胞たちの幸せ

2013年09月09日 | 在日朝鮮人
9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の創建65周年という節目は、わたしに色々なことを想起させる。
1948年5月10日、UN主催の下、「単独選挙」が行なわれた。8月15日「大韓民国」が樹立され、李承晩が大統領となる。「親日派」はよみがえり、「国家議員」の座に腰を下ろした。
48年4月、56の政党、社会団体代表の参加の下、南北連席会議が開かれた。提案されたのは、単独選挙の反対、米ソ両軍の撤収、全朝鮮的政府の樹立、である。9月9日には共和国が樹立され、南北代表の代議員が選出された。スローガンはもちろん祖国の統一である。続く49年6月、南北71の政党、社会団体を網羅した祖国統一民主主義戦線が結成される。祖国統一と完全な独立、米軍の撤収と民族反逆者への反対、南朝鮮人民委員会の復活、獄中にある愛国者の釈放、南北総選挙と統一的立法機関の創立などが提案された。
さて、このように並んだ事例をわれわれはどのように見るのであろうか。私は上の並んだ二つの歴史的事実を、並列的に評価することはできない。
今日という節目が私に想起させるのは、上記のような歴史的事実ではない。その歴史を創りだした民衆の声である。南へのアメリカ軍駐屯に対して、朝鮮民衆は黙っていたのか。そんなはずはない。すぐさま反対の声はあがってくる。済州4.3事件や麗順(麗水・順天)軍人蜂起、南におけるゲリラ闘争はその最たる例であろう。そしてそれらは最たる例ではあってもすべてではない。済州島の住民30万人中3万人、麗順では8千人、1949年まで11万を超える人民が虐殺された。
その理由は何か。彼(女)たちが「独立」を志向したからに他ならない。独立統一によって不利益を被る者たちにとって、「独立勢力」がいかに畏怖的な存在であったのか垣間見ることができるであろう。
そのような民衆の志向と希望は共和国に託された。独立統一を志向する全朝鮮政府の樹立をめざす主権国家の誕生が9月9日である。それから65年という歳月が流れた。未だ共和国は独立統一を志向し、厳しい闘いを強いられている。
「独立」はそれを阻む勢力との闘いを抜きに勝ち取れるものではない。現にいまなお植民地から「解放」されたはずの朝鮮半島で起こった戦争は終結をみていない。共和国の言う、「独立」とは「国際社会」の承認のもとでのみ自国の存在を許される秩序、これの解体である。この「独立・統一」こそ共和国の建国理念である。なるほど、このような共和国が「野蛮」に見え、「脅威」に見えるのは至極当然かもしれない。しかし、止むことのない「暴力」のなか、共和国は今日もかわらずこの道を進んでいる。胸のすく思いだ。
さて、今日共和国では新しいリーダー、金正恩第一書記の指導のもと、独立統一の旗印である金日成主席、金正日総書記の遺訓をブレることなく、貫徹していっている。人民は明るい未来を展望し、少しずつではあるが、着実に変わっていっている「今日」を生きながら、よりよい「明日」を切り拓いていっている。
「繁栄する祖国、同胞たちの幸せ」。このスローガンを掲げた我々は今どこに立っているのであろうか。90年前、同胞たちは「朝鮮人」という理由だけでいわれのない虐殺を甘受した。「4.24教育闘争」時、在日同胞が対峙した相手は「軍隊」だった。今日の「高校無償化」や「補助金カット」が垣間見せる日本の朝鮮人にたいする眼差しは、このような思想レベルでの「植民地」が、未だ連綿と続いていることの証左であろう。
「真の独立」のための闘いの先頭には、いつも共和国が変わらず立っている。祖国の「繁栄」は、在日同胞に「第二の解放」を迎える転換点を与えるに違いないだろう。

団結を!!

2011年12月12日 | 在日朝鮮人
  共同通信によると、東京都の石原慎太郎知事は8日の都議会で、都内の朝鮮学校に対する補助金について「来年度予算には計上しないことも含めて、国民全員が納得するような判断をしたい」と述べ、12年度予算に盛り込まない可能性があるとの見方を示した。

 都議の質問に答えた。知事は朝鮮学校の授業内容について、「(調査に)行くと違う教科書を見せる。都職員が張り付いて実態を調査したらいい。それが嫌なら学校を閉鎖したらいい」と批判。その上で「そういうことを許容できない相手に国民の税金を使って補助する必要は毛頭ないと思う」と述べた。
 都は都内10校に対する10年度の補助金約2300万円を執行せず、11年度についても執行を保留している


石原の発言は矛盾をいくつも孕んでいる。

①国民全員が納得するような判断。
かれの発言は、その「国民全員」というのは、誰をさしているのか?ということを前提としていない。日本の新自由主義的な国家戦略の中で、労働階級をはじめとする被雇用者を大々的に犠牲にしたうえで日本の「再建」を図ろうとする政策の中、300万に及ぶワーキングプアが出ている。ひいては、「自らの意志」でニートやフリーターを選んだ、という青年たちに対し、「彼らが決めたこと」、「自己責任」という曖昧で横暴な言葉を持って、福祉厚生をないがしろにしている。そのような青年たちや浮浪者、労働階級の不満のはきだめこそ、まさに日本が「誇る」サブカルチャーであり、ネット社会であり、また在日朝鮮人問題であり、「北朝鮮」問題ではないのか。幾十年もの歳月をかけ、育成し、完成してきた不公平、不平等な社会。富と貧困の差が歴然であり、それらが過去のアジア人民たちの犠牲によって成り立っていることすらもつゆ知らず、「経済大国」の名前のもと、「日の丸」、「君が代」を公言し、「誇り」を持つ日本の国民。
 「戦後」という概念、日本がアジアの諸国に対して戦争責任という十字架を背負わなければならない、現状のもと、「震災後」という表現を持って、「元気な日本」を「再建」しよう!と。そして、過去も全てひっくるめて、やり直そうとする姿勢は許せるものではない。このような状況の中で、日本の世論は創り上げられたし、また、彼がいう国民「全員」には、自由な主体であるはずの善良な日本人民たちは入っていない。朝鮮学校を排除することで得をする輩。そしてその大々的な報道にのまれている人たちのみを対象としているのではないであろうか。

②「(調査に)行くと違う教科書を見せる。都職員が張り付いて実態を調査したらいい。」
 
 張り付いて実態を調査すればいい。違う教科書などは皆無である。民族教育下での、教科書は学友書房を通して作られており、そのような教科書は作っていない。現に、公務員の見守る中、北海道では「拉致問題」に対して授業が行われたことをしらないはずもない。
 上記の文章は百歩譲っての言葉だ。そもそも「拉致に関して『北朝鮮』が全部悪いと言え」というスタンスで教育現場に指示する権限を政府は持っていないはず。要は、日本と朝鮮両国の過去を真摯に見つめ、これからの自主的な未来を切り開こうとする人材を育てるのが嫌なだけだ。そう言えばいい。彼は公人の発言を鵜呑みにし、現実とかけ離れた単なる「イメージ」を持って、ウソばかりをいっているのだが、それが報道されるという現状をわかりきった上で発言している。悪意しか感じられない。

 言えばいいさ。「三国人に出す金はない」と。正直にいいなさい。自分の間違った解釈を持って政論をかざそうとするものの論理は恐ろしくおろそかなものである。日本の知性の恥とも知らず、公然と人種差別、民族差別を言ってのけるこのような政治家に身震いし、日本の未来を憂うだけである。

③「それが嫌なら学校を閉鎖したらいい」

 いや、「それが嫌なら」ではない。
 無償化、補助金の対象から外すから、これからは学校を閉鎖する方向で考えてください。と言い換えなさい。石原のおやじ。あんたが言わんとすることは分かった。
 また1940年代のあの忌まわしい「過去」を繰り返そうとするのであるのならば、繰り返すがいい。しかし、抑圧のあるところでは反抗があり、反抗があるところで、正義は勝利するものである。在日朝鮮人とその擁護者たちを、そして、れっきとした主権国家であり、民族教育における最大の功労者、そしてほう助者である朝鮮を、ののしり、侮り、弾圧するのならばすればいい。
 日本はまた、その歴史の1ページに世界の中で最も恥ずべき行動を記載することになるであろう。
 われわれはこの闘いにて必ず勝つ。現に石原は日本国家が辿るべき道、過去来たファシズムへの道へど歩き出した。マルクスの言葉を借りるのならば、かれこそ、日本ファシズムの墓掘り人である。
 

 我々は必ず勝利する。自らの運命開拓のため、そして健全な日本国家の繁栄のため。
 「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的である」。ヘーゲルのこの言葉通り、社会歴史は、真理と正義の名の下に少しずつ、そして急激に前進するであろう。
 
 石原よ。在日朝鮮人の団結、友好的な日本人民の闘争に怖れ慄くがいい。

 かれに、今を生きる在日子弟たちの顔は見えない。子供たちの未来のため、民族教育の発展のため、難しい今を生きるわれわれは、立ち上がり、最後まで、闘う。そして勝利する。不当にもらえない権利は勝ち取るまで。

 同胞たちよ!団結せよ!夜明け前は一番暗いもの。夜明けは近い。


 石原にコブシは使えなくとも、「団結」という鉄拳を!

血税

2011年10月25日 | 在日朝鮮人
http://sankei.jp.msn.com/politics/topics/politics-14760-t1.htm

産経新聞の記事によると、「朝鮮学校無償化に反対 民主党議員の会が発足 反日教育、国民の納得得られない」とし、民主党内で論議を醸しているようだ。

以下抜粋。


菅直人政権が退陣直前の8月末に朝鮮学校の高校無償化適用への審査手続きを再開したことに反発する民主党国会議員有志が25日、「朝鮮学校授業料無償化を考える会」を正式に発足させ、国会内で設立総会を開いた。世話人代表に鷲尾英一郎衆院議員を選出、朝鮮学校への支援金給付を事実上行わないよう求める決議文を採択した。

 「考える会」は、52人が呼びかけ人に名を連ね、総会には33人が出席した。

 決議文は(1)朝鮮学校の経理を厳格に審査し、疑念が残るときは支援金は支給しない(2)反日教育を行う朝鮮学校に国民の血税を使うのに国民の納得は得られず、拉致問題の記述で改善がなければ支援金は支給しない(3)審査は国民が納得できる明確な基準に基づき、厳正かつ慎重な審査を行うべきだ-とする内容。今月中に野田佳彦首相と中川正春文部科学相に提出する。




国民の血税、在日同胞の「血税」は吸いあげないのか。その問題に​は触れないのか。

民主党議員によってこのような「弾圧組織」が公然と組織されるこ​とについて、またこのような記事について「いいね!」といい、f​acebookに投稿する人々がいることについて、ため息が出る​。

さて、どう闘うことか。まず、この「有志」たちが何を言って出る​のか(記事では少しあるが)じっくり見てみて、これから、これに​真っ向勝負で対応してみましょう。

国民の納得を得られない。その納得できない国民意識を作ったのは​誰であったのか。

力が抜けるこの事態、言っても日本政府はこの姿勢を一度も崩した​ことはないのだが、しかし、腹がたつ。

感情論だけではなく、明確な論理と​論拠を以て、同胞学生たちの未来のために、今を生きていかなけれ​ば、と、力が入る。



4.24を彷彿させる報道事件。

2011年10月24日 | 在日朝鮮人

さて、いったいどこまで進むのか。

産経新聞は次に、朝鮮学校に支給されている、各都道府県、市の補​助金を対象として、大々的に報道をはじめた。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/111024/edc11102400510000-n1.htm

特に着目すべきなのは補助金を見直し、支給額が減った理由を、「​朝鮮総連と直結した反日・思想教育や経営実態が明らかになり、補​助金を見直す動きが相次いだ上、生徒離れが起きているため」とし​た。

こいつらは、本当に半端じゃない。結局、日本において民族教育に​対する補助金は認められませんということを大々的に報じる第一歩​を見事に踏み出した。

それに、一つ、朝鮮総連と直結した民族教育は反日=日本にとって​はいらない教育だと断定した上での悪意ある報道だということ。 ​これはかなりの世論をあおりそうなのだが、完全に日本にはこれを​簡単に需要する土壌ができあがってしまった。これは大変危険であ​る。在日同胞にとっても、日本人にとっても、である。

二つ目、高校無償化は終わった、という認識においてのこの記事で​ある。前日の無償化に対する都道府県の反対、「無償化適用審査自​体が暴挙」と一言でくくった彼らの主張は、それはもう「論議する​ことすら許されない問題」と昇格したと言える。適用するのか、し​ないのか、それは教育内容を見てから。ま、これも普通に終わって​いる論理なのだが、教育内容を見たところ、どうやら反日らしい。​だから、これからは誰も議論すらしないように、と言っているよう​なものだ。

最後に、在日同胞は完全になめられている。これは主体的にわれわ​れが見直すべき点かも知れない。もう在日同胞は反対もしないであ​ろう。怒ってはいても。だからその証拠に、学校離れだって起こっ​ている。こうやって差別すれば、経営難で自分から破たんしてくれ​るであろうという、共通認識の下、完全に国家プロジェクトとして​行われているという点が一番危ない。

はたして、無償化のための闘争、権利のための闘争は終わったのだ​ろうか。学生の胸中いかなるものであろう。

断言してもいい。日本はこれから、反総連キャンペーンなどといっ​た、生ぬるいものはしないであろう。4.24教育闘争を思い出さ​せる闘争は二度と、在日同胞は起こせない。だから、もう歴史から​消してしまおう、という魂胆すら見え隠れする。

さ、どう闘いますか… 私はとりあえず、出来ることを片っ端から​やっていこうと思います。

しかしながら、闘争において一番重要なのは、「連帯」なんです。​「団結」なんです。
在日同胞の至高の武器である、この伝統を失ったとき、われわれは​取り返しのつかない事態に、土を叩きながら慟哭するのでしょうか​。そういう未来はやだな、と思ってます。


もっと怒っていい。もっと闘っていい。んじゃないかと、思われる。