朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

雑誌「前夜」を読み返す(1)

2016年02月26日 | 帝国主義・植民地
最近、雑誌「前夜」を読み返している。いまもなお続巻が出ているのならば、まず目を通しておきたい書物である。

※ここで言う「前夜」とは、戦争体制へと組み込まれていっている現在の日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗のあらたな拠点を築こうという努力、「夜」を耐え忍び、新生の時を迎えるそのときまで、女性・被圧迫民族・マイノリティの現状を歴史的に検証し、「知的」であることによって、現実を変えようとする努力を怠ってないものの「観点」としてある。(季刊「前夜」は何を目指すのか、「前夜」1、P4) また高橋哲哉は、「…現在の苦境は常に何か解放的な事態の『前夜』としても経験されうる。世界が『戦時中』であっても、どんな破局的な状況に立ち至っても、『希な望み』を捨てない抵抗-レジスタンスの動きが残っているかぎり、それはつねに『前夜』なのだという、そういう思いを私はこの言葉に託したい」と、述べている。(前掲書、P29)

さて、最近のもっぱらの関心事は、「日本の左翼はどこへ?」という問題なので、とりあえずは共産党に対して調べてみようと思う。そういう問題意識からふと、「前夜」を手にしてみた。パラパラと読み返しながら、ふと中野敏男氏の連載記事に目がとまったので、メモ代わりとして要約や問題意識を残していきたいと思う。いかに共産党は「国民国家」という化け物に取りつかれていったのか(という仮説であるが)、その出発はどこにあるのか、を探る作業がやはり大事なのかな、と感じている。

とりあえず、「前夜」。その次は関東大虐殺時の社会主義者。そして、似たような事象が第一次世界大戦を取り巻くヨーロッパでも起こっている(カウツキーとドイツ社会民主党)ので、その辺を調べていきたいと思う。根詰めて行わなければならない作業であるが、現在日本を理解し、そのうえで、行く末を見定めるためには重要な作業になると思う。

まずは、中野敏男氏の連載記事を最初から見てみることにする。

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どこから出発したのか?-小熊英二『<民主>と<愛国>』を批判する(中野敏男、「前夜」Ⅰ、P141)

△問題提起 : 「戦後」を問うとはどういうことか?

「たしかに、現在の状況にとても大きな変化が起こっていて、それが<前夜>の兆候であると考えてみると、その指標の中に、これまで『戦後のもの』として了解されてきたさまざまな事柄の総崩れという現実が含まれていることは明らかである。」(「前夜」1、P141)

→国旗・国歌法が成立(1999年8月13日公布、施行)したことを皮切りにイラク戦争への参戦、有事関連の法整備(2003年6月13日、武力攻撃事態対処関連3法)、教育現場への「日の丸・君が代」の強制、教育基本法改定への動き(2006年12月22日公布、施行)、そして憲法「改正」までへと、という状況の中、中野敏男は「戦後のもの」として了解されてきた「平和主義」や「民主主義」といった基本原理が浸蝕され、その意味で「戦後」 が根本から崩壊の淵に立っていると評している。

上記のような問題意識にそくして、「戦後」というものを問おうとした場合、想起されるものは、「人権」、「自由」、「平等」、「平和」のような原理である。それは、おおよそこれらが「戦後の原点」として認められる原理・理念であるからである。これらをより強い概念に仕立て上げ現状を批判克服するための武器にしたいと考えるのも一理ある。が、中野はこれにたいし、反問する。

 「この『日本』という場で考えるとき、はたしてそこに立ち戻るべき戦後があったのか、いま、またいつか聞いた『復初の説』を唱えればそれでいいのか」と。(前掲書、P142) 
 →このような問題意識は、東西冷戦の枠組みが崩れた1990年代のプロセス(「従軍慰安婦問題」や在日朝鮮人・中国人の無権利状況など)が、「戦時」に発する侵略と植民地主義の禍根がこの「戦後」の基層に解決されないままずっと伏在し続けていることを痛切に認識させたがゆえである。

・「戦後」における「民主主義」
 戦後民主主義の象徴としての「婦人参政権」 が認められた日に、旧植民出身者の参政権が一方的に停止された。そんな「戦後民主主義」の在り方への問いとして。

※ 1945年11月21日治安警察法の廃止と女性の結社権、同年12月17日に国政参加が認められる。ただし地方参政権については、46年9月27日地方制度改正により実現

※ 植民地期の在日朝鮮人には25歳以上の男子などの制限はあるが選挙権・被選挙権が認められていた。しかし1945年12月1日の衆議院議員法の附則によって、在日朝鮮人の選挙権は停止された。また46年の参議院議員法の附則と地方自治体法代20条は、衆議院議員法附則と同様戸籍を根拠として、参政権を在日朝鮮人に対して停止した。45年の衆議院議員法で在日朝鮮人の参政権が停止された背景には、当時朝鮮人が参政権を行使し天皇制に反対することを恐れた清瀬一郎衆議院議員らの強力な反対があった。(水野直樹「在日朝鮮人台湾人参政権「停止」条項の成立―在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(1)―」、財団法人・世界人権問題研究センター「研究紀要」第一号、1996年3月)
「此等の者が力を合すれば最少十人位の当選者を獲ることは極めて容易なり。或いはそれ以上に及ぶやも知るべからず。我国に於ては従来民族の分裂なく、民族単位の選挙を行ひたる前例なし。今回此事を始めんとす。もし此の事が思想問題と結合すれば如何。その結果実に寒心に堪へざるものあらん。次の選挙に於て天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らくは国籍を朝鮮に有し内地に住所を有する候補者ならん(清瀬一郎意見書)」


・「戦後」における「平和」
 日本の「平和」の下での戦後復興と高度経済成長という奇跡、その背景には各々朝鮮戦争、ベトナム戦争がある。その背景に関しては複雑な事柄があるものの、事実として戦争は継続している。「戦後半世紀以上ずっと平和」であったというのは、日本国内にしか目を向けない特権的な自己欺瞞に過ぎない。

このような問題意識でもって「戦後を問う」ということを出発するとき、「戦後」の実在を主張し、その「戦後」を想起すべきとの著作が現れる。小熊英二の「<民主>と<愛国>」である。
 →これを吟味することから「戦後を問う」作業を始めてみる、こう中野は言っているのだ。


△小熊英二の「語り」の問題

小熊英二は「<民主>と<愛国>」の中で、日本の戦後思想をたどりながら、丸山真男と大塚久雄をとりあげ、次のようにまとめた。「丸山や大塚の思想は、戦争体験から生まれた『真の愛国』という心情のもとに、多くの矛盾する理念が束ねられていた、いわばパンドラの箱であった。そして戦後思想の以降の流れは、戦争の記憶が風化してゆくなかで、そこに含まれていた多くの思想潮流が次第に分裂し『民主』と『愛国』の両立が崩壊してゆく過程をたどることになる」(小熊英二「<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性―」、P103)、と。小熊は、丸山真男が「陸羯南-人と思想」において明治初期の「日本主義」から50年のうちに、右翼的反動と自由主義と社会主義の三方向がそれぞれ育ったと述べているように、丸山の学統からも戦後50年のうちにさまざまな思想の持ち主(戦後民主主義の継承者、現実主義者、大衆社会論者、励起子修正主義にいたるまで)が排出されたとしている。(そして、小熊の指摘によるとかれらは丸山の一部のみを継承し、全体を継承してはいない。)

小熊は、本書の中で「戦後日本」というもののなかに実は「第一の戦後」、「第二の戦後」があり、戦後をめぐる今日の語りの多くがこの「第一の戦後」のことを忘却し、見失っている、と指摘している、と中野は解釈していると思って間違いないだろう。

・そして中野は、小熊が、丸山と大塚を小熊がとりあげたのは、かれらが特殊例であったわけではなく、同時代人の一集団的な心情そのものを代表的に表現しているからだとみている。

・小熊は、「民主」と「愛国」が両立しえた時代があったのだという語り口を採用することによって、「ここに帰れ」というメッセージを投げかけるのである。
 そして、その語りを受ける人々は、「55年体制」と言われる政治における区画点、「もはや戦後ではない」と宣言した56年経済白書などによって、この時期区分をア・プリオリに前提していて、思想面における「第二の戦後」への突入という物語に聞き入ってしまう。

しかし、中野敏男は、このような「語り口」に「待った」をかける。

 「このような小熊の語りは、新たに戦後日本の復活神話を美しく語ることで、その戦後日本が問題として抱えてきているとびきり大切なことを、とりわけナショナリズム、民族、国民といった主題に関連して考えなければならない中心を、むしろ隠ぺいし置き去りにしてしまう…」(「前夜」1、P144)。
 
→「民主」と「愛国」が両立した「第一の戦後」なるものがはたしてあったのか?中野はそれに対しアンチを唱えながら、竹内好、日本共産党、石母田正の論を採用し反論を試みる。これらの論は、45年から50年を前後する状況にある種の思想的変遷があった、ということを如実に語っているものである。
 このことから、45年から55年、「第一の戦後」という小熊の語りは、実は45年から50年前後に至るこの間の状況変化を覆い隠している一つの罠として機能しているということを論証する。

竹内好(1951年)
 「民族の問題が、ふたたび人々の意識にのぼるようになった。これまで、民族の問題は、左右のイデオロギイによって政治的に利用される傾きが強くて、学問の対象としてはむしろ意識的に取り上げることが避けられてきた。…戦争中何らかの仕方でファシズムの権力に奉仕する民族主義に抵抗してきた人々が、戦後にその抵抗の姿勢のままで発言しだしたのだから、このことは自然のなりゆきといわねばならない」。
 
→竹内のこの言葉は、1951年くらいの時期に「民族」という問題が「ふたたび人々の意識にのぼる」という論旨であって、特に「近代主義とは、いいかえれば民族を思考の回路に含まぬ、あるいは排除すること」であり、この近代主義こそが敗戦後に支配的であった。扱うべき思想における中心問題は近代主義であった。45年~51年と限定して考えてみると、小熊の主張とは正反対である。

 よって、45~55年までを「第一の戦後」ととらえる小熊の主張には「待った」をかけなければならない。

日本共産党の場合(1951年五全協決定までの過程)
 共産党は、「民族」という観念を政治的に利用し、特にプロパガンダ用の文書では「民族」という文言が散見される。しかし、党の綱領や路線にかかわる重要文書では民族の問題をしっかりと扱っている。
 共産党は敗戦直後、帝国主義連合国軍を「解放軍」として確認。(45年10月「人民に訴ふ」)ここでは、「天皇制打倒」の主体は「人民」であり、民族・国民との混同はない。
 48年3月の中央委員会では「民主民族戦線」を提案。
 51年綱領ではそれを「民族解放民主統一戦線」に修正、「民族解放民主革命」の主体を「国民」と表現するに至る。
 「人民」から「国民」への変遷過程は重要で、51年全協決定ではこの点について説明をしている。
 →しかし小熊は、共産党にたいしては敗戦直後から一括して「反米愛国」を掲げていたと示している。共産党における路線論争の意味をないがしろにしてしまう。

・石母田正(1952年3月「歴史と民族の発見」、53年「続歴史と民族の発見」)
 戦後日本における民族問題に関する論議に大きな影響。しかも、「民族の発見」という表題には特別な意味を付与すべきである。数年間見失われた「民族」という問題を再発見したことに他ならない。

この議論における結論(問題提起)
 
小熊によって、「愛国言説」として扱われた「敗戦直後」である45~55年までの「第一の戦後」という論理は45~50年前後に至るこの間の思想状況の変化を覆い隠している。小熊の著作の中でもこれらの論調の実例としては主に49年ないし52年頃から採用される。そうして45年~50年前後の間までにはいかなる変化(=問題)もなかったという結論を持ってきてしまう。
 
しかし、この期間には実は、「戦後日本の形成」を語るうえで「忘却」されてはならない重要な事項がいくつもある。

まず、1949年の中華人民共和国成立という中国革命であり、次に50年から本格的戦闘が広がった朝鮮戦争である。
小熊の語り口である「第一の戦後」=〔1945年~55年〕説というものは、実はこのような中国・朝鮮にかかわる問題を構造的に排除する問題点を抱えているのである。
 確認してきたように、小熊は戦後日本を「第一の戦後」、「第二の戦後」と区分し、今の人々が「第一の戦後」を忘却し、見失っている点を指摘しつつ、それへの回帰を促す企画意図と結びついているのである。

△ 丸山真男・大塚久雄理解から見る小熊の「戦後」観

※ 上記のような認識の下、小熊は「戦中」と「戦後」というもっとも基本的な時期区分を提出する。

小熊は、「戦中」と「戦後」という時期区分を明確に打ち出し、日本における戦後の出発を次のような文章にこめる。「虚偽と無責任を生み、大量の死と破壊をもたらした、『皇国日本』と『臣民』の関係。それに代わる『公』と『私』の関係は、どのようにあるべきか。崩壊した『国民同士の人間らしい連帯』を、どのような新しい原理のもとに構想しなおすか。『廃燼の中から新たな日本を創り出すのだ』という戦死した学徒兵の遺言の言葉は、敗戦に直面した多くの人々に共通する思いであった。『戦後』と呼ばれる時代は、ここから始まる」(P65)。

→「戦後」という物語の起点
 小熊の語りの中には、彼にとって必要な舞台装置だけしかない。というのは、そこには日本にあったはずの侵略、植民地主義が抜け落ちていて、小熊が「課題」と認めているものが「国民同士の人間らしい連帯」の再建のみであるからである。このように舞台が設えられるのなら、「国民の再生」物語を描きだすのには、好都合でしかない。(戦後、荒廃の中から立ち上がった先人たちのプロジェクトx)

- 小熊の語りのカラクリに対する手がかり

 大著の実質部分である、丸山真男と大塚久雄にかかわる章、「総力戦と民主主義」である。

・丸山や大塚の思想が戦後ではなく、戦時の総力戦体制という時代的コンテクストの中で形成されたということを確認している。
 これは、中野敏男などが提起した丸山・大塚の思想形成が戦時動員体制にあるとする理解 を追認するもの。

・また丸山や大塚が『当時の人々に共有された心情を表現』する思想家であったことを確認するために芦田均の発言 (1945年9月)、黒沢明の「一番美しく」などが引き合いに出されている。

・そのような確認(思想形成状況、同時代的心情)のあと、小熊は、丸山や大塚の思想内容ではなく、彼らの「抵抗」と「真の愛国」という心情に思い入れ、それらを救い出してしまう。(ちなみに、中野は前述した問題意識に則り、ここから丸山と大塚の思想内容について検討している)

- 抵抗と屈服、忠誠と反逆との「紙一重」を歩んだ丸山真男という理解

・総力戦体制そのものの合理的遂行を唱える思想の面(忠誠の側面)、政府や軍部への批判になる文脈の面(反逆の側面)
 このような理解から小熊は、中野の丸山(大塚)論にたいして、「反逆の側面」を軽視しているとの批判をする。

・中野の反批判
 そもそも、中野は彼らの思想が時局批判であったことを肯定し、むしろ繰り返し強調している。にもかかわらず、小熊が中野に対していわれのない批判をするのはなぜか、それは小熊の物語に秘密がある。

中野の丸山(大塚)理解
①かれらの言説は「時局批判」に動機づけられている。
②しかし、痛切な批判の心情が逆に、熱烈な参与と動員の論理を堅牢に組み上げてしまう(総力戦期に国民的主体を語ることの逆説性)
③現に、丸山が「強烈な国民的自覚」を語る日米戦争開始期には、「東亜共同体論」や「新体制運動」に可能性を示した革新左派の戦時改革への夢は途絶え、「国民の主体性」は総力戦への参与に水路づけられる以外なくなっている。(「内鮮一体」に「国民」としての希望を呈した朝鮮人の挫折も同様である)結果、労働運動も「オシャカ闘争」と化した。
④そのような状況の下での「国民たらう」という丸山の呼びかけは、それがいかに全体主義的国体論に「抵抗」しようとするもの(動機から出発)であったとしても、抵抗の形とは逆立し、むしろ積極的な参与と動員の呼びかけにならざるをえないのである。
⑤にも関わらず、丸山の主観においては、それらはいつの時も「時局批判」であった。
→そうだからこそ、その論理は「戦後」を担う主体の論理として、「戦後」にそのまま生き延びたのである。

・先に引用した芦田の場合においても、かれの発言が1945年9月のものであるということから、見受けられるものは、総力戦体制にたいする批判がまさに、総力戦体制を維持させえた思想でもって行われ、その総力戦思想そのものが「戦後」の出発点となっているのである、ということだ。(総力戦から戦後への連続)

→ このような観点に即して考えてみると、戦時と戦後の断絶を強調したがる小熊の意図が見えてくる。すなわち、小熊は、丸山らの言説を「抵抗」、「政府や軍部への批判」という側面を取り上げることによって、戦時における国民間の道徳的退廃と「人間らしい連帯」の解体を「戦争体験」として語り、一方では、「戦後」を「国民の再生物語」として語っていくことに成功するのである。

この議論における結論
 
これを「戦後思想」と呼ぶには、あまりに重大な隠ぺいがあって無惨であり、内容を問わない思想分析は空疎である。戦後日本の心情を揺るがし、主体を割るのではなく、逆に日本人を救済し融合させるその基調は、<前夜>のこのとき、むしろ危険な誘惑となるのである。これに対抗する戦後思想史を書くことで、「前夜における戦後思想認識」があぶり出されるのである。

△ 「戦後」に抗する「戦後思想」

「…現在われわれが間違いなく『戦後思想家』と見なしている幾人かの人びとが、小熊とはちょうど正反対の状況認識を示しながら、それに抗する彼らの戦後の第一声を発していることに気づかされる…」。(「前夜」1、P150)

- 鶴見俊輔の場合
 「『八紘一宇』『肇国の精神』などは、戦争の好きな人の旗印として戦争中にあまりはでにもちいられたため、部隊の回転とともに流行からはずされた。これらにかわって、アメリカから輸入された『民主』『自由』『デモクラシー』などの別系列の言葉がお守り言葉としてさかんにつかわれるようになった。…戦前から戦中にかけて侵略を歓迎したかのようにみえる評論家たちが、『民主』『自由』『平和』をうたったことを見ると、彼らがその間の変化に恥ずかしさを感じない根拠は、彼らがこれらの言葉をお守りとして使うことを考え、言葉が変わったとしても内容にはかわりがなくてよいのだという認識に達したものと判断される」 。

竹内好の場合
 竹内は敗戦後に流行する進歩主義について次のような認識を示す。
 「進歩主義は、日本イデオロギイの重要な特徴の一つと思うが、それは否定の契機を含まぬ進歩主義であり、つまり、ドレイ的日本文化の構造に乗っかって安心している進歩主義である。…かれらは人民を組織しようとするが、それは人民に自分の命令をきかせようとするだけだ。権威のすげかえをやるだけだ。『エロ・グロ』のなかに抵抗の契機をつかむのではなくて、それを禁止して、そのかわりに『民主主義』を押しつけるだけだ」 。

吉本隆明の場合
 吉本は57年の「戦後文学は何処へ行ったか」で、「戦後十一年の暗い平和にたたかれて変形されたとは云え、私の中には、当時からくすぶっている胸の炎がまだ消えずにのこっている。けっして『戦後』はおわっておらず、戦争さえも過ぎてはゆかないのである。わたしはそれを信ずる。戦後文学は、私流の言葉遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である」 。


総まとめ

 これらの言葉は、敗戦直後の言説状況を捉え、そうした状況に抗するものとして発せられている。同時代人たちの証言に即して言えば、小熊が「神話時代」として語っている敗戦直後(1945~55年までを「第一の戦後」とみる)にすでに「楽園」などはなかった。
 このような戦後思想家たちは、戦後における思想状況を戦時からの連続の相として捉えており、自らの思想を「戦後に抗する思想」として提起している。
 彼らは、一口で「戦後日本を割ろうとし始めている」のである。(小熊は、自身の物語によって、日本人を救済し融合させるその基調を提出した)
中野がこの文で発掘した問題意識とはずばり、「小熊の語りと、戦後思想の始まりとは実は真逆の発想だった」のだ!ということであろう。

 中野はこののち、このような思想家(小熊とは逆の思想家)の「戦後思想」に注目していくことにしたところで、①を締めくくった。


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多大な示唆を受けた。次にすすむとしよう。

70日戦闘、はじまる

2016年02月25日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
朝鮮民主主義人民共和国は、今日「70日戦闘」で、党7回大会を輝かしく迎えようとしている。

その様子、その意味を簡単に探ってみたいと思う。

朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は、2月24日付で朝鮮労働党中央委員会がすべての党員に手紙を送り、歴史的な党第7回大会を前に、70日戦闘を起こそうと鼓舞した旨を伝えた。

以下、その概要である


勝利と栄光の5月、党7回大会を革命の最全盛期でもって迎え、世界にとどろく軌跡を創造しよう。
朝鮮労働党はこれまでの70年の歴史を開拓しながら、いつも党大会を分岐として、人民の運命と生活において大きな転変をもたらし、人民はそのたび新しい飛躍の歩幅で奇跡を起こしてきた。
手紙は、米帝との闘争の真っただ中になる中でこそ、今、奇跡を起こすことが何よりも大事な朝鮮のタスクと認めながら、白頭山大国の新しい繁栄期を、赤旗をなびかせながら開いていこうと指摘した。すべての党員が指導者と志を一つに精神力、愛国心を爆発させ、なおかつ科学技術第一主義の御旗のもと、人民たちの歓声をもたらすため滅私服務する革命家となろうと強調した。
(※ちなみに日本帝国主義が声高に人民に対して叫んだ「滅私奉公」とは何の関連もない。これは、党活動家たちの任務である)秘訣は、イルクン(党活動家)にある。彼らの人民愛を噴出させること、この滅私服務(人民重視、人民尊重、人民服務)の覚悟をもった者のみがこの戦闘で「勝利者」となれるであろう。みなで、力を合わせ最全盛期を拓いていこうではないか。という内容であった。


朝鮮は、これまで「70日戦闘」(1974年)、「100日戦闘」(1978年)、「150日戦闘」(2009年)を含め、革命と建設の重要期に「戦闘」を組織し、その都度奇跡を起こしてきた。

この党中央委員会の呼びかけに応え、2月25日付「労働新聞」には政論「70日戦闘の勝利者となろう」が掲載されている。

혁명의 대는 바뀌우고 일터의 세대는 달라졌다.그러나 우리의 명줄이고 생명인 당중앙결사옹위의 바통은 오늘도 억세게 이어지고있다.
革命の代は変わり、仕事場の世代も変わった。しかし、われわれの命綱、命である党中央決死擁護のバトンは今日も変わらず受け継がれている。

당 제7차대회,조국을 받들어 기적의 나라로 빛내여주고 인민을 이끌어 영웅인민으로 키워준 우리 당의 력사와 불멸의 업적이 다시금 천 만의 가슴에 후덥게 어려오는 력사의 분수령이다. 승리에서 더 큰 승리에로 인민을 이끌며 광활한 미래에로 나아가는 전도양양한 우리 당의 힘과 위용이 천하를 진감하고 천만의 심장을 이름 못할 긍지로 부풀게 하는 반만년민족사의 대경사 우리 당 제7차대회이다.
党第7回大会、祖国を支え奇跡の国として輝かし、人民を率い英雄的人民として育ててきた、党の歴史と不滅の業績がもう一度千万の胸に暖かく刻まれる歴史の分水嶺である。勝利からさらなる大きな勝利へと人民を率い、輝かしい未来へと進んでいく前途輝くわが党の力と威容が天下を震撼させ、千万のハートを何とも言えぬ矜持でわしづかみにする半万年民族史の大慶事、党第7回大会である。

내외의 원쑤들의 준동을 천리마의 무쇠발굽으로 단호히 쳐갈긴 1956년 12월 천리마대고조의 발단이 그러하였고 나라의 정세가 전쟁접경에로 치닫던 1960년대 당이 제시한 병진로선을 받들어 한손에는 총을,다른 한손에는 낫과 마치를 들고 조국의 힘을 천백배로 키워온 로정이 또한 그러하였다.시련의 눈보라속에서 주저앉은것이 아니라 천만이 당의 두리에 천겹만겹으로 더욱 굳게 뭉쳐 선군혁명의 위대한 승리를 안아온 고난의 행군의 승리가 바로 그것을 증명하고있다. 원쑤들의 발악은 극도에 달하여도 우리의 전진은 순간도 멈춰세울수 없다.우리는 70일전투의 승리로 만리마를 타고 더 기세차게 나래쳐오를것이며 원쑤들의 간악한 제재와 봉쇄의 포위망에 결정적파렬구를 내고 최후승리를 위한 기적과 비약의 도약대를 자랑스럽게 마련할것이다.
内外の敵の策動を千里馬の鉄轡で断固粉砕した1956年12月の千里馬大高潮の発端がそうであったように、国の情勢が戦争直前にまで及んだ1960年代、党が提示した並進路線にそって片手には銃を、もう一方には鍬とトンカチを掲げ祖国の力を千百倍にも蓄えた露呈がそうであったように。試練の吹雪の中、座り込むのではなく、千万が党の周りを何層にも囲み、団結して先軍革命の偉大な勝利を勝ち取った苦難の行軍がそれを証明している。敵のあがきは極度に達してもわれわれの前進を少しも止めることはできないだろう。われわれは70日戦闘の勝利で持って万里馬に乗ってさらなる飛躍をするであろうし、肝悪な敵の制裁と封鎖の包囲網に決定的な打撃(破裂口)を加え、最後勝利のための奇跡と飛躍の跳躍台を作ることとなる。

《동무는 만리마를 탔는가?》,《동무는 오늘전투계획을 수행하였는가?》
「君は万里馬を乗ったのか?」、「君は今日の戦闘計画を遂行したのか?」

これが、朝鮮人民の答えである。


さて、今から40年前、朝鮮では金正日総書記(当時書記)の指導のもと、「70年戦闘」が行われた。
1974年10月9日、金正日総書記は道党委員会責任書記たちの会合の中で、「1974年は社会主義大建設が始まる歴史的な年」とし、当時生産が落ち込んでいた状況を科学的に分析総括したのち、極めて詳細な指導を行っている。
とくには、人民たちのために党活動家がいること、指導者(金日成主席)の意図は違うところにあるのではない、「人民のため」にわれわれがいるし、指導者もいるということ、そして思想の力で社会主義大建設時代を切り拓いていこうと鼓舞する。実際、その後の総書記の指導は建設現場のみならず、文化芸術に特化して行われ、「歌劇革命」、「映画革命」の奇跡的旋風を起こしていくのである。「朝鮮の星」、「民族の太陽」などもこの時作られたものであるし、「党の真なる娘」などを含む歌劇も作られ、朝鮮舞踊も「祖国のツツジ」などの名作が滝のように作られていく。(今日のモランボン楽団や青峰楽団などの「根」もやはりここにある)
朝鮮は、「70日戦闘」を成果的に終え、1978年には「100日戦闘」にて画期的な成果を残したうえで6カ年計画を遂行し、党6回大会(1980年)を迎えて行くのである。


さて、今朝鮮は「強盛国家の全盛期」を自らのちからで勝ち取るため、党6回大会前の6カ年計画遂行よりもさらに厳しく、険しい道を進んで選んだ。
この闘争は、単なる「建設」などではなく、いわゆる「制裁」などという訳のわからない孤立圧殺策動、そして核戦争までをも想定したアメリカ主導の侵略策動の中で、「それでも朝鮮は前進する」ということを確定させるための「闘争」なのである。

「70日戦闘」が終わるころ、朝鮮がどのように変貌しているのか。
党7回大会を人民がどのように迎えるのか。

楽しみで仕方がない。

朝鮮人民軍最高司令部重大声明

2016年02月24日 | 翻訳記事
2016年2月23日、朝鮮人民軍最高司令部は、「우리 운명의 눈부신 태양을 감히 가리워 보려는자들을 가차없이 징벌해버릴것이다」(われわれの運命の眩い太陽をふさごうとするのならば、容赦なく懲罰するであろう)という重大声明を発表した。

以下に、全文を掲載し翻訳紹介したい。

朝鮮語版

최근 주체조선의 첫 수소탄시험과 지구관측위성 《광명성-4》호발사의 통쾌한 완전성공에 얼혼이 빠진 미제와 남조선괴뢰들이 최후발악을 하고있다.
유엔무대에서 벌리는 히스테리적인 《제재》결의채택놀음도,각종 핵전쟁살인장비들을 동원한 발광적인 군사적압살책동도,우리 공화국에 대한 전대미문의 그 모든 《선택안》들도 우리의 의지를 꺾을수 없게 되자 미국과 남조선괴뢰들은 마지막도박에 매달리고있다.
그것이 바로 우리 최고수뇌부를 겨냥한 《참수작전》을 통하여 《체제붕괴》를 실현해보려는것이다.
이미 이 작전에 투입될 미제침략군 핵동력잠수함 《노스캐롤라이너》호가 부산항에 입항하고 《F-22A》스텔스전투폭격기들이 오산미공군기지에 기동전개하였으며 미제침략군 특수작전무력이 련속 남조선에 밀려들고있다.
전시 우리의 최고지도부와 핵 및 전략로케트군기지들을 비롯한 중요전략적대상물타격을 작전임무로 삼고있는 미제침략군 륙군 1특수전단과 75특공련대,미해병대 특공련대,미공군 720특수전술전대,미해군특수전단 《씰》팀 등 특수작전무력들이 현지에 전개된 상태에 있다.
지난 시기 해외침략전쟁들에서 악명을 떨친 미제침략군 륙군,해군,해병대,공군의 거의 모든 특수작전무력들과 이른바 《족집게식타격》에 동원되는 침략무력이 일시에 남조선에 쓸어든적은 일찌기 없었다.
미국과 남조선괴뢰들은 곧 강행하게 될 《키 리졸브》,《독수리 16》합동군사연습때 새로 꾸며낸 《작전계획 5015》의 핵심항목인 련합《참수작전》과 우리의 핵 및 전략로케트무력《제거작전》의 현실성을 검토하겠다고 서슴없이 떠들어대고있다.
적들이 떠드는 《참수작전》이라는것은 우리의 핵 및 전략로케트《사용》을 차단하기 위하여 《명령권자》를 사전에 《제거》한다는 극악무도한 선제타격내용을 담고있다.
사태의 엄중성은 남조선괴뢰들이 동족압살을 위해 날강도 미국의 핵전쟁살인장비들을 마구 끌어들이다못해 《참수작전》실행에 혈안이 되여 동참해나서고있는것이다.
극악무도한 《참수작전》과 《체제붕괴》책동은 우리에 대한 적대행위의 극치로 된다.
우리 군대와 인민은 우리 혁명의 최고수뇌부를 자기의 삶의 전부보다 더 신성시하고있다.
그가 누구든 우리의 존엄높은 최고수뇌부를 털끝만큼이라도 건드린다면 추호의 용서도 아량도 인내도 모르고 그 즉시 가차없이 징벌하는것이 우리 천만군민이다.
조성된 정세가 더이상 수수방관할수 없는 험악한 지경에 이른것과 관련하여 조선인민군 최고사령부는 노호한 우리 천만군민의 천백배 보복의지를 담아 다음과 같은 원칙적립장을 천명한다.
지금 이 시각부터 우리 혁명무력이 보유하고있는 강위력한 모든 전략 및 전술타격수단들은 이른바 《참수작전》과 《족집게식타격》에 투입되는 적들의 특수작전무력과 작전장비들이 사소한 움직임이라도 보이는 경우 그를 사전에 철저히 제압하기 위한 선제적인 정의의 작전수행에 진입할것이다.
1차타격대상은 동족대결의 모략소굴인 청와대와 반동통치기관들이다.
우리 민족의 공동재보인 핵억제력과 우주개발성과물들을 피를 물고 헐뜯어대면서 이 땅에 핵참화를 몰아올 미국상전의 핵전쟁살인수단은 덮어놓고 끌어들이는 박근혜역적패당이야말로 이 땅에 살아숨쉴 자격을 상실한지 오래다.
하늘의 태양을 가리워보려고 한 대역죄,우리 삶의 터전을 없애버리려고 한 악행은 가장 참혹하고 가장 처절한 대가를 반드시 치르어야 한다.
우리의 중대경고에도 제정신을 차리지 못하고 계속 어리석은 군사적망동에 매달린다면 그 근원을 깡그리 소탕해버리기 위한 2차타격작전에 진입하게 될것이다.
2차타격대상은 아시아태평양지역 미제침략군의 대조선침략기지들과 미국본토이다.
날강도 미제와의 최후결전을 위해 세기를 두고 다져온 우리 식의 타격전은 이 세상이 상상할수도 없는 기상천외한 보복전으로 될것이며 만가지 악의 소굴이 이 행성에 다시는 소생하지 못하게 재가루로 만들어놓을것이다.
똑바로 알아야 한다.
우리에게는 임의의 시각,임의의 장소에서 미국땅덩어리를 마음먹은대로 두들겨팰수 있는 세계가 가져본적이 없는 강위력한 최첨단공격수단들이 다 있다.
날강도 미 국과의 판가리결산을 위해 한두해도 아니고 반세기가 훨씬 넘도록 대를 이어가며 총력을 다해온 우리의 군사적능력에 대해 이제는 숨길 필요를 느끼지 않는다.
미국은 우리가 치면 고스란히 맞아야 하고 들씌우면 그대로 불에 타 없어져야 한다.
이것이 우리와 맞선 미국에 주어진 숙명적인 말로이다.
침략의 아성들은 우리의 조준권안에 들어있으며 보복타격의 격발기는 이미 당겨놓은 상태에 있다.
미국과 남조선괴뢰들은 무자비한 천벌을 그대로 받아들이겠는가 아니면 뒤늦게라도 사죄하고 사태를 수습하는 길로 나가겠는가 하는 최후의 선택을 하여야 할것이다.
하늘에서 태양을 끌어내리겠다는것보다 더 어리석고 미련한짓은 없을것이다.
우리 혁명의 최고수뇌부를 옹위하여 천겹만겹의 성벽을 쌓은 우리 천만군민은 적대세력들의 모든 도발책동을 가차없이 짓뭉개버리고 백두산대국의 최후승리의 지평을 향해 더 기운차게 질풍쳐나갈것이다.

주체105(2016)년 2월 23일

평 양


翻訳はこちら


最近、チュチェ朝鮮の初の水素弾試験と
地球観測衛星「光明星号-4」号発射の痛快な完全成功に魂の抜けた米帝と南朝鮮傀儡たちは最後のあがきをしている。
UN舞台で行っているヒステリックな「制裁」決議採択も、各種核戦争殺人装備を動員した発狂的な軍事的圧殺策動も、わが共和国に対する前代未聞の「選択案」とやらも、われわれの意志を折ることができないと悟るといなや、アメリカと南朝鮮傀儡たちは、最後の挑発にしがみつきだした。
それが、まさにわが最高首脳部を狙った「斬首作戦」をつうじて「体制崩壊」を実現しようとするものである。

すでにこの作戦に動員されるであろう米帝侵略軍の核動力潜水艦「ノスケロールライナー」号が釜山港に入港し、「F-22A」ステレス爆撃機がオサン米空軍基地に軌道展開され、米帝侵略軍特殊作戦武力が連日南朝鮮に押し寄せている。

戦時にわれわれの最高指導部と核および戦略ロケット軍基地を含む、重要戦略的対象物打撃を作戦任務として持つ米帝侵略軍陸軍1特殊戦団と75特攻連隊、米海兵隊特攻連隊、米空軍720特殊戦術戦隊、米海軍特殊戦団「シール」チームなど特殊作戦武力が現地に展開された状態にある。

過去、海外侵略戦争において悪名をとどろかせた米帝侵略軍陸軍、海軍、海兵隊、空軍のほとんどすべての特殊作戦武力といわゆる「毛抜き式打撃」に動員される侵略武力が一時に南朝鮮に配備されたことは類例のないことである。

アメリカと南朝鮮傀儡たちがすぐ敢行するであろう「キーリゾルブ」、「フォールイーグル16」合同軍事演習にて、新しく作り出した「作戦計画5015」の中核項目である連合「斬首作戦」とわが核および戦略ロケット武力「除去作戦」の現実性を検討すると迷うことなく騒ぎ立てている。
敵が騒いでいる「斬首作戦」というものは、わが核および戦略ロケット「使用」を遮断するため「命令権者」を事前に「除去」するという極悪非道な先制打撃内容を含んでいる。

事態の厳重性は、南朝鮮の傀儡たちが同族圧殺のため強盗アメリカの核戦争殺人装備を引き入れるのみならず、「斬首作戦」実行に血眼になりながら賛同していることである。

極悪非道な「斬首作戦」と「体制崩壊」策動は、われわれに対する敵対行為の極みである。

わが軍隊と人民は、わが革命の最高指導部を自身の生のすべてよりもより神聖視している。

それが誰であろうと、われわれの尊厳高い最高首脳部を毛の先だろうと触れるものがあるのならば、少しの容赦も遠慮も忍耐もなく、即、懲罰するのがわが千万軍民である。

醸成された情勢がこれ以上傍観できるものではない険悪な状況に至っていることに関連し、朝鮮人民軍最高司令部は、怒号するわが千万軍民の千百倍の報復意志をこめ、次のような原則的立場を表明する。


いま、この時刻からわが革命武力が保有している強威力的なすべての戦略および戦術打撃手段は、いわゆる「斬首作戦」と「毛抜き式打撃」に投入される敵の特殊作戦武力と作戦装備がすこしの動きでも見せる場合、それを事前に徹底的に制圧するために先制的な正義の作戦遂行に進入するであろう。

一次打撃対象は、同族対決の謀略巣窟である青瓦台と反動統治機関である。
わが民族の共同財宝である、核抑止力と宇宙開発成果物を、血を噛みながら蔑みながらも、この地に核の惨禍をもってくるアメリカ様の核戦争殺人手段は伏せながら持ち込む朴謹恵逆賊腐党こそこの地に生きる資格を消失して日が長い。
空の太陽をふさいごうとした大逆罪、われわれの生の礎をなくしてみようとした悪行は最も残酷で最も処切な代価を伴うものである。

われわれの重大警告にも目を覚ませず、続けてふざけた軍事的妄動にしがみつくのならば、その根源をきれいになくしてしまう二次打撃作戦に進入することとなるだろう。
二次打撃対象は、アジア太平洋地域米帝侵略軍の対朝鮮侵略基地とアメリカ本土である。
強盗米帝との最後決戦のため、世紀をかけ進化してきたわれわれの打撃戦はこの世界が、想像することもできない起床天外な報復戦となるであろうし、すべての悪の巣窟がこの恒星に二度と蘇生できないよう灰と化してしまうだろう。

よく知っておくがいい。

われわれには、任意の時刻、任意の場所でアメリカの土塊を己の決心にしたがって転覆させることができる、世界が持ったことのない強威力的な最先端攻撃手段がすべてある。
強盗アメリカとの決算のため、一、二年でもなく半世紀すらも超え、世代を乗り越えながら総力を尽くしてきたわれわれの軍事的能力にたいしてもはや隠す必要もない。
アメリカがわれわれが打てばすべて喰らうであろうし、のっければすべて燃え尽きるであろう。
これがわれわれと敵対したアメリカに与えられた宿命的な末路である。
侵略の牙城はわれわれの照準圏のなかに入っており、報復打撃の引き金はすでに引いた状態にある。

アメリカと南朝鮮傀儡たちは無慈悲な天罰をそのまま受けるのか、あるいは遅くとも謝罪し、事態を収拾する道に出るのか、最後の選択を余儀なくされるであろう。
空から太陽を引きずり下ろすなどという、可憐で未練なことはない。

わが革命の最高首脳部を擁護し、千層万層にも城壁を積み重ねたわが千万軍人は敵対勢力のすべての挑発策動を容赦なく打ち崩し、白頭山大国の最後勝利の地平にむけ、より強く颯爽と前進するであろう。

チュチェ105(2016)年 2月23日

ピョンヤン



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翻訳記事であるので、一言だけ付け加えたい。「なぜこうなったのか」、をよく考えろ、ということである。まさに怒号。個人的には「最後の選択」という言葉にしびれた。

愛媛新聞社説に関連して

2016年02月22日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
先日(2016年2月16日付)、愛媛新聞の社説に次のような文章が載った。(以下本文をそのまま掲載)


朝鮮の拉致調査中止 一方的な合意破棄は許されない(「愛媛新聞」社説、2016年02月16日付)

 朝鮮が、日本人拉致問題の調査を担う特別調査委員会を解体し、調査を全面的に中止すると表明した。核実験と事実上のミサイル発射に対し、日本が独自制裁強化を決めたことへの対抗措置だ。2014年5月に日朝間で拉致問題の再調査を決めたストックホルム合意を、一方的に破棄する不誠実極まりない決定に強く抗議する。
 朝鮮の行為は「弾道ミサイル技術を使った全ての発射」を禁じた国連安全保障理事会の制裁決議や、ミサイル発射の凍結延長を明記した日朝平壌宣言に違反している。自らの違反行為を省みることなく、反発するのは筋違いも甚だしい。再調査合意の確実な履行を求める。
 14年7月に設置された特別調査委の報告期限は「1年程度」だった。真剣に調べているとは思えない態度に終始し、返答を先送りしてきた。報告を待ち望む拉致被害者の家族の気持ちを察すると心が痛む。家族の高齢化は進み、一刻の猶予もない。日本政府は交渉進展のため、制裁を一部緩めたが、結果的に朝鮮の利益となっただけで、交渉の手詰まり感は否めない。戦略を見直し対話を続け、粘り強く説得に当たらねばなるまい。
 日本が今回、人と船舶の往来規制拡大や送金の禁止など新たな制裁を追加したのは当然の対応といえよう。
 問題は制裁が厳格に実施されるかだ。日本は10年前から独自制裁を行っているが、国連安保理の報告書は、朝鮮の海軍艦船に日本製の民間用レーダーアンテナの搭載が確認されたと指摘しているという。全面輸出入禁止の網の目をかいくぐり、日本の民生品が軍事転用されたことは看過できない。日本政府の対応の甘さが浮き彫りになったと言わざるを得ない。
 制裁の重要な目的は、核やミサイルの開発につながる資金や技術の流れを絶つことにある。しかし、これまでの制裁では、核実験もミサイル発射も食い止めることはできず、逆に技術の向上を許してしまっている。過去と同じ方法をいくら繰り返しても、効果が上がるとは思えない。実効性の高い策を考える必要がある。
 韓国は南北間で唯一の経済協力事業の開城工業団地の操業を停止し、米国は制裁強化法案にオバマ大統領が近く署名する見通しとなった。日米韓の独自制裁は、核やミサイル開発を断じて許さないとの姿勢を示す意味はある。だが朝鮮の後ろ盾となっている中国の制裁がなければ、本当の圧力にはならない。
 中国は、朝鮮の混乱が自国に及ぶことを恐れ、制裁には消極的だ。朝鮮は中国が慎重な態度を崩さないと見越し、挑発を繰り返している。国際社会が朝鮮包囲網を築けず、暴走を止められずにいる。中国は国連安保理の常任理事国としての重い責任を果たすべきだ。安保理の追加制裁決議を進めるため、日米韓は足並みをそろえ、中国への働き掛けを強めたい。



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以下、本社説にたいしての反論および意見を掲載しようと思う。


1.「ストックホルム合意を一方的に破棄する不誠実極まりない決定」という事項について

まず、ストックホルム合意の原文を当たってみよう

※ストックホルム合意

双方は,日朝平壌宣言に則って,不幸な過去を清算し,懸案事項を解決し,国交正常化を実現するために,真摯に協議を行った。
日本側は,朝鮮側に対し,1945年前後に朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地,残留日本人,いわゆる日本人配偶者,拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した。
朝鮮側は,過去朝鮮側が拉致問題に関して傾けてきた努力を日本側が認めたことを評価し,従来の立場はあるものの,全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施し,最終的に,日本人に関する全ての問題を解決する意思を表明した。
日本側は,これに応じ,最終的に,現在日本が独自に取っている朝鮮に対する措置(国連安保理決議に関連して取っている措置は含まれない。)を解除する意思を表明した。
双方が取る行動措置は次のとおりである。双方は,速やかに,以下のうち具体的な措置を実行に移すこととし,そのために緊密に協議していくこととなった。

―日本側

第一に,朝鮮側と共に,日朝平壌宣言に則って,不幸な過去を清算し,懸案事項を解決し,国交正常化を実現する意思を改めて明らかにし,日朝間の信頼を醸成し関係改善を目指すため,誠実に臨むこととした。
第二に,朝鮮側が包括的調査のために特別調査委員会を立ち上げ,調査を開始する時点で,人的往来の規制措置,送金報告及び携帯輸出届出の金額に関して朝鮮に対して講じている特別な規制措置,及び人道目的の朝鮮籍の船舶の日本への入港禁止措置を解除することとした。
第三に,日本人の遺骨問題については,朝鮮側が遺族の墓参の実現に協力してきたことを高く評価し,朝鮮内に残置されている日本人の遺骨及び墓地の処理,また墓参について,朝鮮側と引き続き協議し,必要な措置を講じることとした。
第四に,朝鮮側が提起した過去の行方不明者の問題について,引き続き調査を実施し,朝鮮側と協議しながら,適切な措置を取ることとした。
第五に,在日朝鮮人の地位に関する問題については,日朝平壌宣言に則って,誠実に協議することとした。
第六に,包括的かつ全面的な調査の過程において提起される問題を確認するため,朝鮮側の提起に対して,日本側関係者との面談や関連資料の共有等について,適切な措置を取ることとした。
第七に,人道的見地から,適切な時期に,朝鮮に対する人道支援を実施することを検討することとした。

―朝鮮側
第一に,1945年前後に朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地,残留日本人,いわゆる日本人配偶者,拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施することとした。
第二に,調査は一部の調査のみを優先するのではなく,全ての分野について,同時並行的に行うこととした。
第三に,全ての対象に対する調査を具体的かつ真摯に進めるために,特別の権限(全ての機関を対象とした調査を行うことのできる権限。)が付与された特別調査委員会を立ち上げることとした。
第四に,日本人の遺骨及び墓地,残留日本人並びにいわゆる日本人配偶者を始め,日本人に関する調査及び確認の状況を日本側に随時通報し,その過程で発見された遺骨の処理と生存者の帰国を含む去就の問題について日本側と適切に協議することとした。
第五に,拉致問題については,拉致被害者及び行方不明者に対する調査の状況を日本側に随時通報し,調査の過程において日本人の生存者が発見される場合には,その状況を日本側に伝え,帰国させる方向で去就の問題に関して協議し,必要な措置を講じることとした。
第六に,調査の進捗に合わせ,日本側の提起に対し,それを確認できるよう,日本側関係者による朝鮮滞在,関係者との面談,関係場所の訪問を実現させ,関連資料を日本側と共有し,適切な措置を取ることとした。
第七に,調査は迅速に進め,その他,調査過程で提起される問題は様々な形式と方法によって引き続き協議し,適切な措置を講じることとした。



さて、以上が「ストックホルム合意」の内容である。

これを見ると、先にストックホルム合意を「一方的に破棄」したのが、どちらなのかは明白であろう。
社説には次のような文面がある。「14年7月に設置された特別調査委の報告期限は「1年程度」だった。真剣に調べているとは思えない態度に終始し、返答を先送りしてきた。報告を待ち望む拉致被害者の家族の気持ちを察すると心が痛む」、と。さて、ストックホルム合意にこの「報告期限」なるものが記されているのだろうか。おそらく、外務省の人間がストックホルムから帰ってきたのち、拉致被害者の生還を求める「強い意志」を持って合意に辿りついたといわんばかりに「一年程度」で答えが返ってくる、とでもいったのではないだろうか。両国間で深く協議し懸案の問題を解決するための合意として「効力」を持つものは、文書以外のなにものでもない。文書に「一年程度」と書かれているだろうか。書かれていない。

もうひとつ付け加えておこう。朝鮮側の行動に記された第二項に注目していただきたい。日本と朝鮮との合意は、そもそも拉致被害者調査も含まれてはいるが、それ以外の人たち(遺骨の問題、在留日本人、いわゆる配偶者)の問題も同時並行的に調査を実施するものとなっている
しかも、である。なんと日本政府(外務省)は、第三項では、朝鮮側が実施してきた「墓参り」の問題では大きく「評価」までしているのである。
そのような双方(いや、朝鮮側)の努力の積み重ねによって、やっとストックホルム合意に辿りつき、この合意がなされたのである。

朝鮮側がこれまで何もしていないのだろうか。ストックホルム合意後、朝鮮は特別調査委員会を設置し、上記の4つの問題を並行的に真摯に行ってきた。そして、日本側に対してもやはり、調査結果を随時、報告してきた。その間、遺骨問題・配偶者問題など新しく発見した資料や名簿、情報は多大である。にもかかわらず、日本政府の一貫した態度は、「拉致問題で進展がみられない」という「一蹴」であった。すべての問題の包括的な解決を求む措置を追求しておきながら、核心的な問題が解決されないと一蹴する。その間、安倍政権は「朝鮮との交渉をしっかりやっている」という評価まで下され、支持率を獲得する。


拉致問題にたいして言及しておく必要があると思う。朝鮮は拉致被害者にたいして真摯な態度をとっていると思われる。一番のネックは「横田めぐみさんの死亡」である。さて、朝鮮側は横田めぐみさんの死亡に関しての一切の情報を日本側に提出し、なんと遺骨まで渡している。当時、日本の専門機関3つがめぐみさんの遺骨を鑑定した。2つの研究機関は間違いない、と。そして一つの研究機関が「疑わしい」と述べた。それに伴い、警視庁はめぐみさんの遺骨を「拉致」するかのごとく、持っていくにいたる。朝鮮側のこの問題に関してのコメントは、「偽物であったならば、至急遺骨を返還せよ。また調査する」であった。さて、その遺骨はどこにいったのだろうか。日本がまだ持っているのである。なんとも奇妙な話であるが、だからこそ朝鮮は一貫して「拉致問題は解決済み」という立場をとっており、今回のストックホルム合意では日本政府の顔を立て寛大にも拉致問題を含んだのであり、その調査も真摯に行っているのである。


現に日本は、在日朝鮮人問題にたいして、高校無償化・補助金の問題をはじめ議論すらしていない状況にある。そして、裁判闘争の中でも一貫して「在日朝鮮人に対する朝鮮および朝鮮総連の不当な支配」というものを声高に叫び続けている。これは「真摯な態度」であろうか。朝鮮総連議長の家宅捜索は一体なんなのだ。朝鮮はそれでも、ストックホルム合意に則って、批判はしたものの、継続して調査を行い、そして随時報告準備が出来た旨を正式に日本政府に通告している。

さて、本題に戻ろう。合意を一方的に破棄したのは、日本か、朝鮮か。

もう一度だけ、ストックホルム合意に立ち返ろう。「双方は,日朝平壌宣言に則って,不幸な過去を清算し,懸案事項を解決し,国交正常化を実現するために,真摯に協議を行った」、とある。お互いの国が尊重し、認め合って、国家同士の国交を結ぶ過程が国交正常化過程である。日本政府は、今回の朝鮮の人工衛星発射に関連して、「衛星を称したミサイル」、「事実上のミサイル」、そして最終的には「ミサイル」と断じて行きながら、朝鮮の自主権にたいして侵害した。そして、更なる追加措置として、「独自経済制裁」を発動した。そののち、朝鮮はストックホルム合意に基づいて、特別委員会を解体する。社説では、最初に「日本の独自制裁への対抗措置」として朝鮮の問題が述べられ、不思議なことに次にまた、「制裁の追加」が述べられる。奇妙な文章の書き方である。「日本の独自制裁」=「制裁追加」であるにもかかわらず、である。

このように巧みに歴史を語る順序をずらしていく。間違いなく、ストックホルム合意を一方的に破棄したのは、日本である。そして、朝鮮はストックホルムの相互尊重の意志に則って、調査委員会を解体した。


2.いわゆるUN安全保障理事会の「制裁決議」について

これまでUNは朝鮮にたいして、どれほどの「決議」を行ってきたのであろうか。
1950年6月28日、朝鮮戦争が始まったのち、すぐに発動された「対朝鮮輸出禁止措置」から始まり、これまで65年もの間、一日の中断もなく、決議をもって苦しめてきたのが、アメリカ主導のUNによる「制裁」である。
「決議1695」(2006年7月15日):すべての加盟国動員し、軍需物資と資金を共和国が「調達」できないようにする
「決議1718」(2006年10月14日):核実験にたいしての決議
「決議1874」(2009年6月12日):第二次核実験にたいしての決議
「決議2087」(2013年1月23日):人工衛星発射がこれまでの決議に反するとして決議

これらは、代表的な「制裁措置」である。朝鮮が一貫して主張したのは、「朝鮮のみ弾劾することは許されない」である。戦争状況におかれた朝鮮が自国自衛のため軍事的訓練をするのは当然のこと。それに対して反発するのならば、毎年恒例で東海にて行われている「軍事演習」にたいして「制裁」をしろということだ。
人工衛星発射に関していえば、全世界の国家が持つ自主権、発展権をUNがないがしろにするのか、と批判している。この「決議」は民族自決権の侵害であり、朝鮮が発展することが「違法」ということになる、として抗議している。

そのような「決議」に違反しているから、日本が強硬姿勢を貫くのは全くもって筋が通る。という話は、まったく筋が通ってない。要は、朝鮮を国家として認めるのかどうか、という問題であり、そのような認識の欠けた国家と国交正常化などできるはずがないのである。日本にあえて一言を付け加えて言うのならば、別に国交正常化など頼んでいない。日本が過去に行った罪悪を贖罪する覚悟があるのならば、はじめて議論してもいいくらいであるのだが、東アジアの安全・平和のため、戦争回避と人民の生命財産・在日朝鮮人のためにかなりの譲歩をしてあげているのである。
それから、「技術転用云々」の問題を述べているが、別に日本の技術がわたっているわけではないだろう。「事実上のミサイル」というのならば、目覚まし時計だって「事実上の時限爆弾」である。問題は、かつての「大本営発表」のごとく振る舞い、大手をふるっているマスコミである。せいぜい、垂れ流し報道をするがいい。そして、過去来た道をまたあゆみ、失敗することとなるであろう。

3.中国の常任理事国としての「責任」について

あまり、長々と書きたくはない。
中国の言い分、朝鮮半島の緊張の原因は米日韓の三角軍事同盟との対立にあるわけなので、対話で解決しなさい。中国が「経済制裁」に乗り気じゃないから、朝鮮が「生きている」などという言葉は間違っているし、これは中国が手助けしているのみならず、中国の東北三省も朝鮮経済とともにあるのだという証左である。
中国が言っているのは、なぜ、自国までをも狙いに定めた米日韓の軍事的・経済的利得のためにわざわざ自分が出ていくのか?自分達でやれ。という話である。
対話に出るのならば協力する。以上である。
それから、アメリカや日本の行っている「制裁」はもう意味がない。カードを全部切ってしまったことだろう。だから、これからは在日朝鮮人団体にたいして、とくに民族教育弾圧に舵を切るしかなくなるだろう。そして、国会では現在朝鮮学校の「補助金」削減の議論をしているのである。

歴史にふたをして、正義ぶって話してところで、嘘は嘘。真実は真実である。
結局、日本は「拉致被害者」のために何をしたのであろうか?
仮に、朝鮮が拉致被害者家族を、朝鮮に全員招聘し、とことん納得のいくまで調査する、という方策を出せば、日本がどのような顔をするであろうか。。。

そのような過程は、対話でしか作られない。そして、今日本は「制裁」を発動し、これに対して右も左も、本土も沖縄も関係なく、「やれやれ!」と言っている。沖縄に「ミサイルの迎撃のため」自衛隊がやってきて、「安心」する姿(そしてそれは、おそらくすべてを代表するものでは決してない)を見て、大いに落胆したものだ。

いまの、日本という状況を作り出しているのは、間違いなく、「右翼」などではない。どこかで見たことがあるな、と思ってしまうのである。



歴史の曲がり角

2016年02月22日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
「歴史の曲がり角」

やはり大変なことが起こった。今日のこの事態には、「やはり」という表現がしっくりくる。「国際平和支援法案」「平和安全法制整備法案」からなる「平和」のための「安保法案」が通ってしまった。いや、通るべくして通ったのである。

「平和」とは何なのか?ただちに疑問が湧きトラウマに陥る。日本が「戦後」に築いた「平和」の影で、朝鮮半島、ベトナムが立たされた状況がバックラッシュする。

先日わたしはこのような文章を書いた。『日本が過去を清算しえず、「いつか来た道」をまた進まんとするとき、「被害者」はどのようなトラウマにさらされるだろうか。このことを想像できずにいて、「朝鮮問題」を論ずるものが出口を見出せない迷路に突入するのは火を見るより明らかであろう』、と。

この文にはおおよそ次のような意味がある。日本国家の「歴史の曲がり角」にはいつも朝鮮がいた。日本が近代化を求め「世界」へ羽ばたくための口実は「朝鮮の近代化のため」であった。日本労働運動の高揚にブレーキをかけたのは「関東大震災時朝鮮人虐殺」であった。新自由主義的政策・軍事大国化が大手を振るうようになったきっかけの一つは「拉致」を筆頭とする「北朝鮮ヒステリー」であった。など枚挙に暇がない。
安保法案が議論の俎上に上り、その都度新聞報道などに目を通してみても、このような記事が目立つ。「あんな悲惨な目にあわせたくない」と。たしかに悲惨だったであろう。日本は戦争で300万余の犠牲者を出したのだから。しかし一方で、この論理はアジアでの2000万余の犠牲を忘却する装置として作用してはいないだろうか。

「従軍慰安婦」問題を提起しても、関東大虐殺の問題を論じても、返答はいつも似たり寄ったり。「捏造」「反日感情」「ナショナリズム」だ、「不幸な過去」は国家間のしがらみの中で生まれた問題なのだから、これからはそれを乗り越えていこう、と。要は「過去を問う行為」がナンセンスとなる風潮が生まれてしまったのだ。そして過去を切り離す。どの国もスタート地点は同じ。なぜなのか朝鮮というわけもわからない国はいつも怒っている。ならず者国家に対抗しよう、と。

法案に反対の意を表しているほとんどの人たちも、上記の感性を共有しているのではなかろうか。しかもこの「朝鮮嫌い」にはあまり根拠がない。いまや在日朝鮮人、そして本国にたいしての民族差別意識は、「黒人」だから嫌いというとんでもない人種差別的なレベルにまで達したといっても過言ではないだろう。このような「深刻な朝鮮観」という同じ根をもつ者同士が論争を繰り広げたところで、最終的には「反北朝鮮」なのか、あるいは「親北朝鮮」なのかの議論に絡めとられるだけである。いま日本のおかれている状況は、容易に推察できたし、この結果しかはじき出せなくて当然である。わたしたちは、その目線を直に受けている者なのだから。

先日、日本の大学生が朝鮮を訪問し、平壌外国語大学の学生たちと3日間の交流を行った映像を見た。とてもうれしかった。人と人とがふれあう事でこんなに簡単に壁は消えていくのだ。こんなにいい未来はない。これから新しい世代が手に手をとりあい、友好と平和の明日を築いていくためにも、今日わたしが立つべき場所を忘れてはならない、そう思ったしだいである。

「三年ぶりの訪朝」

 2015年夏、三年ぶりに訪朝した。

 税関も無事通り、バスに乗り込む。目の前に長閑な田園風景が広がる。2014年、朝鮮は大干ばつに見舞われた。農業は大丈夫だろうか。人民たちが暗い顔をしてはいないだろうか。心配しながら外をながめる。大丈夫だ。人々はたくましく、明るく働き、そして相変わらずのトロリーバスに乗り込み退勤していた。安堵の一息。

三年ぶり訪朝は、何せ涙の連続だった。人民たちのたくましさと優しさ、そして無邪気さに触れるたびに、自分が「ここにいてよかった」と思ったのである。


まずは一点目、「衣食住から文化へ」、である。朝鮮の成長をおそらく最も表しているのが、文化生活の向上、福祉政策の大転換であろう。平壌のみならず元山や咸興などにも新たにそびえ立つ育児院(託児所)や愛育院(幼稚園)、親を亡くし孤児として生きる選択をせざるを得ない子供たちが、国家によって最もいい施設、環境にて生活や勉強をし、中等、高等教育までもすべて受けることができるのである。教室や宿舎もさることながら、運動場の隅々にまで行き渡る人々の配慮が一目で分かる。それから新たに作られた養老院。老人ホームである。ここもまたすばらしい。孤独に生きているハラボジ・ハルモニたちが嬉しそうに引越支度を済ませ、ここに移り行く姿には本当に感動した。

最近、英米社会や日本では「朝鮮の人権問題」に焦点をあて、「あの国」では脱北者の家族は射殺されるだの、「政治犯収容所」なるところで人権侵害行為が蔓延っているだの、子供たちに安全で健全な社会環境がないだの、散々言っているのであるが、「わたしが見た朝鮮」にその片鱗はかげりもない。そして

やはり朝鮮も同じことを考えている

今年6月ヨーロッパから「人権擁護団体」なるものたちが、来て「検査」を行うと申し出た。もちろん朝鮮は上記の育児院や愛育院に案内しようとした。いわゆる「脱北者」の家族も全員面会の準備を整えた。しかし彼らは日程を変更し、すぐさま帰国の途に着いた。なにがしたかったのであろうか。

わたしが言いたいのは、「朝鮮だからすべていい」ということではない。このような事実があり、この事実を人民が喜んで受け止めている、ということに「蓋」をしながら、バッシングをしている輩に、世界は君たちだけを中心に回っているのではないよ、と警鐘を鳴らしたいだけである。

二点目、「上出来の農事」である。今回、黄海道(朝鮮の穀倉地帯)を見て回った。かなり心配だった。大干ばつを乗り越えはしたものの、問題は今年の農業である。果たして作況はどうなっているのか。三年ぶりに米穀共同農場の農場員たちと、あたり一面に広がった黄金畑を見ながらお酒を酌み交わした。涙が止まらなかった。本当に頑張ったな、と。この稲穂を作るまでいったい幾つの難敵と立ち向かったのだろうか。

彼(女)らは何を思い、ここまで頑張ったのだろうか。農場長は一言で述べた。「人民たちを米で支えたい」と。最悪の状況、今年こそはダメかもしれない、そう思った人々もいたかもしれない。しかし、米で人民の生活を守らんとする彼らの情熱は、稲を育て実らせ、史上最大の収穫量を手にしたのである。

彼らは口々にこう言っていた。「去年から農民への分配が変わった」と。どういうことだ?

こういうことらしい。これまで農民たちは、生産した米を半強制的に国家に売っていた。一キロ28~40ウォンくらいで。これを「現金分配」という。しかし、去年からこれが「現物分配」へと変わったのである。いうなれば、一人当たり一トンの米を生産するとしよう。約300キロを国家へ納める(土地、水、機械使用量など)。残った700キロは自分で処理していいのである。そして、それを自由に売れる供給所がいたるところにできた。一キロ3000ウォン(100倍!)である。農場長は表現することの出来ない満面の笑みを浮かべながらこう語った。「人民のために頑張ったつもりが自分に返ってきた」と。お金が残ってどうしようもないので、携帯電話を買ったらしい。たしかに彼は、持っているスマホを全然使いこなせていなかった。それがまた嬉しかった。

いま、朝鮮では「地殻変動」が起こっている。もちろん足りない部分も多々あるだろう。それらは、これからの克服課題である。何より朝鮮人民がその課題をもっとも自覚している。 しかしそれらを超越した今の朝鮮の様相を一言で表すならば、それは「合心」である。今まさに政策と民心とが見事に融合しそれら大きな力となって、日を改めるたびに進化を遂げている。これからが本当に楽しみで仕方ない。

次回からは、もう少し突っ込んで、子供たちの生活や経済状況などにスポットをあてて見たい。(続く)












なぜ「朝鮮」なのか

2016年02月21日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
順序を守れ

先日、わたしは朝鮮問題を論じるにあたっての常套手段として用いられるのは、「物語の起点をずらす」ことである、と述べた。なるほど、その「物語」は「事実」を語っている。朝鮮は、ミサイル実験、核実験を行った。朝鮮は怒っている。これは、事実であろう。ゆえに自信満々である。

では確認しよう。とくに2013年以来の「朝鮮の怒り」という「物語の起点」はどこにあるのか?


「ミサイルと称された人工衛星」(2012年12月12日、光明星3号2号機、報道では「人工衛星と称されたミサイル」と繰り返された)に対する非難である。
これまで、「反帝国主義」という旗を降ろすことがなかったがゆえに、朝鮮は所謂「国際社会」から異端視され続けてきた。「異端視」は暴力と弊害しか生み出さなかった。
朝鮮は、日本帝国主義によって36年ものあいだ、植民地となった。しかも36年という年月は、実際に「韓国合併条約」からのことであって、実際に暴力はそれ以前から続いており、それは今も継続している。暴力でもって人々の生活を破壊し、生存すら脅かす植民地主義、そして性暴力、略奪、虐殺を本懐とする帝国主義に抵抗しているものが「異端」と呼ばれるのならば、喜んで「異端」となろう。これが朝鮮の本音ではなかろうか。朝鮮民族受難の100年史(植民地半世紀、分断半世紀)を、「記憶するもの」として、「抵抗」は至極当然の結果である。問題は「異端」を生み出した「原因」を忘れるな、ということである。

朝鮮は反帝国主義、反植民地主義闘争の過程で多くの犠牲を甘受した。われわれ日本に生きているものには想像すらできない苦難、犠牲であったろう。「社会主義富貴栄華」のため苦難の中、自身の力で、最先端技術を考案開発し、その結晶としてやっと打ち上げ成功に至った「人工衛星―光明星3号2号機」。
朝鮮の自主・発展の象徴、この「血と汗と涙の結晶」に対する「国際社会」の反応は「違法」であった。世界各国で6000回以上打ち上げられた人工衛星は、朝鮮に限ってのみ「違法」なのである。

朝鮮は自国の自主権・発展権・生存権すら認めない行為として、これを断罪糾弾した。度重なる忠告も無視し、「定例訓練」という名の下、2013年にはアメリカ・韓国を含む「列強」たちが、核兵器を投下することのできるステレス機(飛行機)、潜水艦(SLBM)、大陸間弾道ミサイル(ICBM)まで動員するに至った。ちなみに2014年には沖縄米軍基地から22機ものオスプレイが東海(トンへ)へと飛んでいった。
 現在のこの「戦争」は、「記憶を保持するもの」と「記憶を抹消しようとするもの」との闘争である。にもかかわらず日本の厚顔無恥な言論は、「北朝鮮」という標語に言うに耐えない罵詈雑言を託しながら、「朝鮮という国がわけもわからず怒っている」、「危ない」と言っているのだ。朝鮮だけではない。わたしも怒っている。
 わたしは、このような状況に異を唱えるために、多くの言葉を必要としない。一言でいい。「順序を守れ」。

「朝鮮」という問題で誰が得をする?

 よくよく考えてみると、「朝鮮問題」で誰が得をするのだろうか?
「北朝鮮」で盛り上がる日本社会では、集団的自衛権の解釈をめぐり議論が本格化してきた。新ガイドライン法の改定にも今年、踏み込むだろう。憲法9条が踏みにじられ、日本が悠々自適に「戦争できる軍事大国」となる未来しかはじき出せないのは、わたしだけではないと思う。憲法に関する議論でも問題は多々あると思われるが、ここでは割愛する。

日本が戦争できる国になる、ということをアジアおよび世界の被害者たち、とりわけ「従軍慰安婦」のハルモ二たちや朝鮮に生きる人々は、どのように受け取るのだろうか。わたしは、主義主張で人々を区別し分類することをあまり得意としない。ただ、一つはっきり言えることは、「被害者の声」に耳を傾けない人をわたしは軽蔑する、ということだ。
日本は、これまで「北朝鮮」問題だけを取り上げてきたわけでは決してない。「歴史の証人」として名乗り出たハルモニたちに対して「証拠がない」「金ほしさ」「売春婦」というセカンドレイプを幾重にも重ねてきたのが日本当局である(もちろんすべての「日本人」ではない)。「植民地がなかったら朝鮮は近代化できないでいた」、「関東大震災」で虐殺された朝鮮人は「殺されて然るべき存在だった」、と。馬鹿げている。しかし、このような論理が根を深く張り、脈々と生きているのが、日本というわれわれの立地条件なのだ。

それに加担する朝鮮人も多々いることを忘れてはならないが、そのような「歴史の忘却」と「北朝鮮問題」、そしてヘイトスピーチや教育問題などを筆頭とする在日朝鮮人迫害問題は、連綿と連なっている、といっても差し支えないように思える。
日本が過去を清算しえず、「いつか来た道」をまた進まんとするとき、「被害者」はどのようなトラウマにさらされるだろうか。このことを想像できずにいて、「朝鮮問題」を論ずるものが出口を見出せない迷路に突入するのは火を見るより明らかであろう。

なぜ「朝鮮」なのか-「わたし」は誰だ

 最後に、「なぜ『朝鮮』なのか」について触れておきたい。
 
まず、在日朝鮮人の歴史が、「暴力」を「暴力」と糾弾し、それに抗ってきた歴史である、という認識が不可欠であろう。

暴力は人々の考え方、生き方を捻じ曲げる作用をする。「4.24教育闘争」で記憶される抵抗運動の発端となった「朝鮮人設立学校の取扱について(1948.1.24)」も、「高校無償化」も本質的には、「民族教育を学校として認めない」という趣旨で一貫されている。一言で、「反日教育」をしている学校は学校ではないということが日本の国是である。民族教育は日本の「国益」にそぐわない。よって認定すべきではない。日本国家からすると、「当たり前のこと」なのである。

軍事大国化を目指す日本にとって「歴史教育」は一番のハードル。そのハードルをやっと達成できるほどの「民意」を掴んだ(「北朝鮮問題」大活躍!)。ふと見てみると、それに抵抗する輩がいる。朝鮮学校だ!「歴史の忘却」によってのみ、先に進むことのできる日本にとって、朝鮮学校は「邪魔者」以外のなにものでもない。朝鮮学校は「反日教育」をやっている。だから排除。論理は至ってシンプルである。

この状況を見ながら、われらが「産経新聞」と「朝日新聞」は大いに論争した。産経新聞は一貫して、「朝鮮学校は反日教育をやっている、だから排除だ」と主張する。朝日新聞が対抗する。「朝鮮学校は日本の学校と変わらない」、「過去には『反日』だったが、『今』は違う!」と。論争しながら、われわれに問いかける。「本音のところどっちですか?」と。

日本が植民地支配責任を認めず、過去を清算しない限り(したとしても)、われわれは、「民族受難の100年史」を教えるだろう。日本が過去の清算をうやむやにしながら、「いつか来た道」を歩まんとする今、われわれ在日朝鮮人の民族教育は「反日」とならざるをえない。

それを「支援金」という懐柔(アメ)と、「排除」という暴力(ムチ)でもって、捻じ曲げようとしているのが現在の「高校無償化」問題であろう。

このような徹底された暴力の中、在日朝鮮人社会にもある「変化」が少しずつ現れる。「自分たちもそろそろ変わったほうがいいのかも」、と。これまで団結の力で抵抗していた集団が真二つに分断される。

これから垣間見ることができるのは、われわれがいつも暴力の中に晒され続けたということ。その暴力によって、今われわれが「原点」を失いかけているということ。

新しい時代が開かれるにつれ、われわれの運動もまた変わらざるを得ないだろう。しかし、それと民族教育を「変質」させることとはわけが違う。

「今なぜ『朝鮮』を問うのか」、と投げかける前に、「なぜこれまで朝鮮を問うてきたのか」という問題意識を持つ必要もあると思う。

1945年8月15日、朝鮮民族は「解放」された、と現代史には記されている。が、朝鮮民族にとってのこの日は、「真の独立」の始まりであったに過ぎなかったのではないだろうか。この観点から「わたし」を診断するとき、「解放」のための本拠地として、希望の灯台として崇めた「祖国」とは何だったのだろうか。真の独立統一に向けて、「実践したわたし=(在日朝鮮人)」が頼った集団はどこだったのだろうか。

わたしは、これこそ、朝鮮民主主義人民共和国だと思っている。
だから、「朝鮮」を問うのである。今も、そして、これからも。












私の眼

2016年02月20日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
「哲学」というものが何なのか、ということを書いていきたい。難しいことばを並べるよりも、真に迫れると思っている。素敵な「哲学」の世界へようこそ。

 ジャイアンだって「哲学」する。ジャイアンを引き合いに出したのはこの人が有名人だからである。違う意味はとくにない。ガキ大将ジャイアンは素晴らしい哲学者だ。このことばを知っていようか。「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」。こんなに解りやすい「哲学」にわたしは出会ったことがない。世界にあるすべてのものは俺のものにしていく、ポジティブで主体的で、理想がありなおかつその「力」もある。「ドラえもん」の世界におけるナポレオンである。しかし、世の中、そんなに簡単ではない。すべての人がジャイアンと同じ思想を持っているわけでは決してない。そう、「哲学」とは各々の人がもつ、「考え方」ということだ。哲学はすべての人が持っている。人間は常日頃から、何かしらの利害関係によって世界に働きかける。子供のため、社会のため、仕事のため、…。問題はここからだ。このような「哲学」というものがわれわれの「眼」にどのような影を落とすのか。

一枚の写真

 さて、ここに一枚の写真がある。髪は乱れ、血を流し、服は破れ、手には包丁、今にも襲いかからんとする女性を撮った写真である。あなたはどのような判断を下しただろうか。「変人?」、このような判断を下したかもしれない。しかし、この写真には実は続きがある。後出しジャンケンのようで少し引け目を感じるが、タネ明かしをしたい。実はこの女性の後ろには愛する子どもがいる。目の前には猛獣。さて、あなたの判断は変わっただろうか。少なくともわたしの「眼」に彼女は「勇者」として映った。「変人」から「勇者」への昇格(あるいは降格)、このことは一つのことをわれわれに示してくれる。人間が「同じもの」を見たとして、結果が一つとは限らない、ということである。極端な事例で示したが、たった一つの例を見ただけで、人間の評価は180°変わることがある。これは一つの重要な手がかりになるに違いない。
 わたしはこのようなことを想像しながら、連載を綴るにあたって、まずは「わたしの『眼』」がどのような『眼』なのかを検証してみた。

生まれた疑問

 わたしはこれまでの長くはない人生のなかで、諸先輩方に忠告じみた事柄を言われ続けてきた。「視野を広く持て」、と。おそらくそれは、「世界的な視野」を持てということだったのだろう。「世界的な視野」とは何だろうか。われわれが今生きているこの日本を指すのか、あるいは同調するアメリカやヨーロッパの「先進国」的な視点を指しているのだろうか? 上の「アドバイス」とセットで必ずと言っていいほど言われることがある。「理想を追うのはいいけどね」と。これもやはりしっくりこない。

 このような質問は、未だわたしを悩ませている。が、ある程度の答えをわたし自身は持っているように思われるので、これを期に記すことにしたい。そして、これから記す二つのことが私の文を貫く趣旨となるであろうと思う。

順序を守れ

一つ目、語る順序を間違えるな。これは常日頃から自分自身に課している問題意識である。順番を守る、ということは物語る上でとても重要である。人の話とは所詮、その人が知っている事実を紡ぎあわせた「物語」なのだ。順序を間違えると大変である。カップ焼きそばを食べる際、まさかソースを先に入れて、お湯を入れる人はいないであろう(カップ焼きそばは、先にお湯で麺をほぐしてその後ソースをかける)。しかし、「物語」となると話は別である。順序は変えられ、「違う物語」があたかも「真実」として語られていく。ある種の意思によって。「盗人猛々しい」という諺がある。これは、盗人が盗まれた当人に自分の責任をなすりつけようとする愚行を戒めたものであるのだが、このような場面は生活の中でいくらでも出てくる。ドラマでもよく見かけるだろう。「あの人が悪いのよ!」と。いやいや、悪いのは「あなた」です、と言いたい場面を共感できると思う。さて、朝鮮問題を論ずるにあたっての常套手段として用いられるのは、「物語の起点をずらす」ことである。紙面上、多くは展開できずにいるが後ほど明らかになっていくはずである。日本において朝鮮は、いつも「怒っている険な国」というレッテルが確定的になっている。「朝鮮」・「北」というと「警戒」された経験は結構な人にあると思われる。わたしが言いたいのは、「朝鮮がなぜ怒っているのか」を考えよ、ということだ。

あなたは誰だ

二つ目、あなたは誰だ、と常に自分に問いかけよ。自分がどこに立っているのかをいつも考えて発言しなさい、という趣旨の戒めである。これまでチョゴリを着て登校したことがないわたしは、民族教育を引き合いにだすとき、決まって「民族性を守る」=チョゴリと話す。言ってみれば、自分は危険を犯さず、女性たちを暴力的な状況に置きながら、「俺の自慢」としてチョゴリを提出する、ということだ。このような「わたし」を念頭においたとき、「従軍慰安婦」という問題が「自分の問題」としても襲いかかってくる。自分が「共犯者」とはならないか、という疑問である。1991年、金学順ハルモニが、元「従軍慰安婦」として最初の証言をした。大学時代にこの事実を知り、ハッとしたことを今でも覚えている。1991年、「解放」から46年が経っている。彼女にとって「解放(1945年)」とはなんだったのだろうか。日本の植民地からは解放されたが、その「解放」は、男性によって「沈黙」を強要させられた日々の始まりだったのではないだろうか。「汚辱を受けた女」、このようなプレッシャーのなか生き続けたに違いないハルモニを思うと、在日朝鮮人社会において、女性たちよりも「安全」な場所で甘んじている自分が「従軍慰安婦」問題を簡単に述べてはならない、という自覚を持ったものである。言ってみれば「男尊女卑」という秩序の中で「得」をしているわたしが、この秩序をなくし新しいものを創っていく覚悟もなしに、簡単に「批判」なんかはできない、ということなのだ。もちろん、「従軍慰安婦」にたいする昨今の当局の発言は目に余りすぎであるが、「自分自身」を常に問いただす必要はあると思う。そして、なんと沖縄には、金学順に先んじて証言をしたぺポンギハルモニもいる。発見の連鎖とも言うべきこのような問題に即して考えると、朝鮮問題を論ずるとき、わたしの「眼」は何を見ているのだろうか。

このような視点を持つことが、朝鮮問題を論ずる上では欠かせないと思う。












チュチェ思想入門 第二回 チュチェ思想、その始まり

2016年02月01日 | チュチェ思想入門

第二回目である。今回のテーマは、「チュチェ思想の始まり」である。


チュチェ思想は、1930年6月30日、卡倫(カリュン)会議における、金日成主席の報告でその思想的根幹が提起され、その創始が宣告された。今回はそのうち、「チュチェの発見」という大事件について触れてみたい。

当時、日本の植民地下にあった朝鮮では、抗日武装闘争を展開しようとするもの、中国・ロシアなどの大国との連携で解放を実現しようとするもの、日本やアメリカにとりいって自治を獲得しようとするもの、など様々な主義主張があり、植民地からの解放をめざす朝鮮人民にとってそのような状況は、マイナスにこそ作用すれプラスとなるものではなかった。本来、抑圧や搾取からの解放のため、必要となる武器は、「団結」だからである。無尽蔵な可能性を秘め、そのうちに解放の方図と力をも兼ね備えている人民から離れ、知識人たちは卓上の口論を繰り返し、果ては闘争のヘゲモニー(主導権)をめぐって互いに罵倒や嘲笑を繰り返し、それは度々「同志討ち」にまで発展する。


その水面下で朝鮮人の生活はというと、アメリカ発の世界恐慌に見舞われた世界経済のどん底から這い上がろうとする日本の餌食となっていく。当時日本は経済において金本位制を採用しておらず、世界経済が恐慌を味わうその時ほどに金本位制に移行した。これが、「嵐の中で戸をあける行為」と評されるまで、そんなに時間はかからなかった。しかし、その後、欧米の経済がどん底をさまよっているとき、日本はというと、「経済発展」の道を辿っていくのである。1910~1920年代初期には「米騒動」なる暴動が幾重にも起こり、関東大震災において朝鮮人大虐殺が行われていく状況のなかで、恐慌に出会い、「嵐」に見舞われた日本は、その傷跡を見せることなく、発展の道を辿って行ったので.ある。このことが、当時の植民地・朝鮮にたいして収奪にいかほどの影を落としたのか、これは容易に想像できるだろう。そのような中、極度の貧困に立たされている朝鮮人民の立場を鑑みると、上記のヘゲモニー闘争などは、邪魔もの以外のなにものでもなかったのではなかろうか。

なかでも深刻だったのは、社会主義革命を目指すというグル―パーの存在であった。貧困の極みの中、人々が皆平等に暮らせる社会主義革命を目指す思想にあこがれや期待を持つのは自然的な流れであろう。しかし、当時の指導者を自称するものたちは、朝鮮人民の状況と準備程度を考慮することなく、むやみやたらに「闘争」に人々を駆り出し、無益な犠牲を重ねていながらも、「社会主義の勝利」を声高に叫んでいたのである。またたく間に人々は離れ、朝鮮の独立運動は座礁していく。この状況の中、人民のため、解放に向かうため、どのような手を立てればいいのだろうか。これは、当時、金日成主席のみならず抗日運動を指揮したすべての人々の前に立ちはだかった壁であったのだ。
金日成主席の出した答えは、いたってシンプルであった。 「人民の中にはいり、彼らの力を動員してこそ革命の勝利があるのです」。人民の中にはいり、人民の力を動員する。これが革命闘争の本懐であり、原則である。解放闘争という革命は、卓上の理論で行われるものではない。人民が何を望み、何を訴えているのか。それを吸収し、大きな力として結集させるところに、道ははじめてできるのである。これが、「チュチェの発見(=人民の発見)」である。

そういえば、昔、魯迅という作家がこのようなことを言った。「抵抗の道は見えない道」だと。抵抗者にとって明日などはわからない。今日の抵抗によって支配者にぶっ潰されるかも知れない人々にとって、「安易な道」などはないのである。一寸先が闇であろうと、それでも前に進むとき、人間は一つの道をはじめて作るのである。これこそが解放への道だ。

日本帝国主義という大きなハードルを乗り越えて、解放という道をすすむ。そのための方法はただ一つ、「人民の中」に入ることである。ここに、チュチェ思想の本質がある。

まさに1930年初夏、青年将校はこのような真理を見つけ出したのであり、これこそが「朝鮮人民の偉大さ」なのである。