朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

素晴らしいブログを見つけた

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地
もっと怒っていいと思います。

 「日朝国交『正常化』と植民地支配責任」というブログ(現在は実名も出ているが)を読み、参考にしつつ全面的に共有できる問題であったので、その内容を要約し、私の意見も含みつつ投稿したい。



  朝鮮学校を排除した高校「無償化」法案が衆議院を通過したのち、「無償化」実現のための「抵抗」「闘争」が行われ、今ではいたいけな学生たちを被告とし、裁判までも起こしている。

 これまで、日本政府は、朝鮮高校を「高校」と認めなかった。そして、朝鮮高校が「高等学校の課程に類する課程を置くもの」かどうかの判断を第三者機関に委ねていた。幾たびか朝鮮高校を「視察」した議員たちは何を見ていたのか、人を馬鹿にしすぎである。そして、朝鮮高校は排除されたうえで法案は修正されると。
 今回のパブリックに集めた「意見」は反対が過半数を超えた。いったい日本の人たちは何を考えているのか。

 これまですべての朝鮮学校に対する抑圧、差別はすべて朝鮮人を馬鹿にしきった屁理屈の積み重ねによって遂行されてきた。

 私はもう一度、強調したい。もっと怒っていいと思う。
 「朝鮮人は感情的だ」。
 感情的にならないことこそ難しいのである。朝鮮人が生まれながらにして、「感情的」であるはずもなかろう。そんな民族心などは存在しない。
 なぜ、感情的になるのか、日本はこれを考えるべきである。

 朝鮮学校を排除するためなら手段を選ばない『産経』や在特会に、そして、朝鮮学校も「変わった」んだからそろそろ許してやれといっている『朝日』に怒るべきなのである。
 これは「無償化」に限らない。
 1990年代に東京朝高に外国人登録証の住所変更をしなかったとかいう「微罪」で機動隊がなだれ込んできたこと、JRの定期券「通学」割引を朝鮮学校に認めなかったこと、大学受験資格が認められないこと、「閉鎖令」と朝鮮学校をぶっ潰したこと、植民地における「皇民化教育」を「施した」こと、すべての在日朝鮮人、朝鮮人に対する差別的、植民主義的な抑圧にもっと怒っていいのである。

 そして、これらのことに口を紡ぎ、食い止めることもしないまま、今も「罪」を重ねる、共犯者となっていっている浅はかな日本の一般人にも怒っていいのである。

 確認しておくが、我々は日本に対して必要以上のことを語る必要も義務もない。

 日本政府は「高等学校の課程に類する課程を置くもの」は高校「無償化」法案における「高等学校等」に含めるという法を定めた。だが朝鮮学校は排除するという。では朝鮮学校が「高等学校の課程に類する課程を置くもの」ではないという理由を挙げてみせよ。問うべきことはその一点に過ぎない。
 そして、今回なぜ朝鮮学校が外されねばならないのか。その排外主義を断固糾弾することこそが求められているのである。

 朝鮮学校側が「一生懸命」朝鮮学校がインターハイでよい成績をおさめているとか、多くは日本の大学に進学するとか、韓国籍や日本籍の子もいるとか、朝鮮学校卒業生はこれから日本で暮らす子達なのだとか、はたまた日本の高校とほとんど変わらないとか、そんなことを持ち出して卑屈に懇願する必要は無いのである。
 もう一度強調しておく。こういうことは一切やる必要がない。
 そのような文書をつくり、そのために走り回る時間があれば、子供たちの教育の質向上のために自分の時間を作り、そこに充てるべきである。
 
 仮にインターハイの「イ」の字もしらないような学校であろうが、全員が日本の大学になど見向きもしないような学校であろうが、全員が「朝鮮籍」であろうが、在学生や卒業生たちのほとんどが一日でも早く日本を離れることを夢見て努力していようが、朝鮮学校の排除は許されないのである。

 はっきり書いておくが、日本政府はいまだけ間違っているのではない。ずっと間違っている。ずっと間違っているから、いまも間違えるのである。だからこそ、朝鮮人が歴史を持ち出し、怒りを表明することは決して間違っていないのである。 (上記ブログ上における私の最も強烈な共感)

 決して間違ってない。もっと怒るべきである。
 「いい人」面なんてする必要もない。今の日本における「いい人」なんてのは、日本政府の不当な要求に屈して、笑顔でいる「奴隷」にすぎない。

 最後に、私はだからといってケンカをしようとか、極端にすべての闘争をして行こうと言っているわけではない。今朝高生のために日夜奮闘している学父母、活動家、教員たちの努力を否認しているわけでもない。むしろそこに積極的に携わり、連携する覚悟である。

 ただ、今の我々の立ち位置について、われわれの意志と思想(=志操)についてもう一度確認しているのみである。
 4.24教育闘争はこの精神、この思想における「団結」が勝利をもたらしたのである。

 すべての在日朝鮮人は、今こそ団結を!

「沖縄の占領と日本の復興」を読んで

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地

「沖縄の占領と日本の復興」、ここに、鄭栄桓氏は「1948年4月の『朝鮮戦争』―非常事態宣言下の神戸と在日朝鮮人―」という、鋭く興味深い研究業績を提出している。

まさに、「4.24」に象徴されるように、1948年に何があったのか。この史実を直視し、今の我々の闘争、抵抗がいかなる意味を持つのか、ということに対して、「考えることをやめない」ことは意義のあるものだと思える。
1948年2月の時点で、朝鮮学校(朝連初等学院)の数は500校をこえ、そこには約5万人の朝鮮人児童が就学していた。しかし、47年3月の教育基本法・学校教育法の公布・施行を受けて日本政府は朝連経営の朝鮮人学校に対する統制を強化し、48年1月24日には、「朝鮮人子弟であっても、学齢に該当するものは、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない」とする通達「朝鮮人学校の取り扱いについて」を発するにいたる。
これに伴い、48年3月18日には山口、4月20日には東京、ほかにも兵庫、岡山などで朝鮮人児童の公立・私立学校への転入と、認可によらない朝鮮人学校の閉鎖、また日本の学校から借用されていた朝鮮人学校施設の明け渡しを求める学校閉鎖例を発した。

もちろん当時のこの「政府・当局の決定」にはアメリカや南朝鮮の干渉もあった。が、ここでは問題にしない。(重要でないという意味ではない)

当時、神戸を例に例えると、4月24日~5月15日まで直接軍政がひかれ、朝鮮人の「抵抗」は「鎮圧」された。ちなみに、沖縄以外の「本土」において、アメリカ軍による直接軍政がひかれたのは後にも先にもこれっきりである。

金東椿は朝鮮戦争時の民衆の避難、占領、虐殺を分析しつつ、「朝鮮戦争はすでに1948年末から始まっていたものとして記憶されている」という指摘をした。(鄭氏の論文から)

このような問題意識を想起するとき、私は現在の「抵抗」、「闘争」を見ながら、またその主体として2つの点のみを指摘したい。

①まさに「戦争前夜」である、ということ。
②教育に対する「暴力」、そして植民地主義は今になって始まったのではない。いつの時代もそうであったし、今を生きる在日朝鮮人はその証人である。

これから戦争が始まるぞ、さ、準備しようなどとは言わない。私が言わんとすることは、まさに今、朝鮮は1950年に起きた戦争を想定し、二度と自民族、そして自身の国を失なわないよう、「抵抗」していると思われる、そこである。「戦争なんか起きないよ」なんてものを保証する論理はどこにもない。かつて527万ないし600万人が大虐殺されたユダヤ人でさえ、ある場所においては「そんなことはありえない」と思っていたのだから。ちなみにユダヤ人大虐殺の問題を私が朝鮮人のみの問題に書き換えて、ナショナリズムを煽ったり、プロパガンダをするつもりは毛頭ない。
しかしながら、自分たちが今流動する世界情勢の中でどこに立っているのか、これは「考える必要がある」と警鐘をならすのみである。今現在も闘争は続いている。神奈川の緊急集会でオモニたちのインタビューには、一言で端的に表せる表現がいくつも出てきた。「民族を失いたくない」。これは単純なナショナリズム(=悪)ではない。日本においていつも他者として規定され、他者としての生存を強制されてきた在日朝鮮人たちが、生きるため、人間としての尊厳を守るために創り、守ってきたものが今音をたてて崩れ始めている。
これに抵抗しないで、何に抵抗するのか。

二点目の問題意識は、「朝鮮の評価」に関する問題である。単純に共和国がやってるからいい!ということを認識せよ。などというつもりはない。しかし、在日朝鮮人が今苦境に立たされているのは、「日本の問題」なのか、「朝鮮のせい」なのか。これは一考してみる必要がある、ということである。

「韓国はもちろん問題もあるが、今は民主化されていて…」、だから「誇りが持てる」などという人たちにも一言いっておきたい。あなたは、「韓国軍」が大量的に、無慈悲に虐殺したベトナムの人民たちにどのようにお会いになって、どのように「応答」するのですか?
そして、私たちの民族教育の「盾になってきたつもり」などとぬかした、某県の知事に質問したい。「あなたは何を守っているのですか?」


今、在日朝鮮人の生そのものが、「忘却の穴」に落とされようとしている。まるで存在しなかったかのように。むしろそのようにふるまわなければ、日本人に認められない。「忘却の穴」を否定し、それに抗う教育は「反日教育」として断罪され、国民でもなかったはずの在日朝鮮人が「非国民」とされ、「だったら国に帰れ」と言われる。これが当たり前になりつつある。

朝鮮学校は一度、閉鎖されたのだ。国家的暴力によって、閉鎖されたのである。
これを想起していただきたい。

関東大震災??関東大虐殺であろう。朝鮮人や中国人は6000人も「天災」によって死んだのではない。虐殺されたのだ。今を生きる人々、もしくはその親たちによって。
これを想起していただきたい。

私はいたずらに「だから日本人嫌い」などと、いうつもりはない。いい人たちだっている。そんなことは分かっている。ただ、日本が責任を負い、責務を全うさせるため邁進するのみである。そんなこと俺がするのか?と、いつも思いながら。できれば在日同胞の未来のための活動のみに絞って活動したいのだが、状況がそうさせてはくれないらしい。そこがまた腹立たしい。

総じて、「考えることをやめないこと」。これが今、一番問われているのかな、と思います。
今、考えることをやめると、仮にもし、朝鮮戦争がまた起きてしまったとき、われわれ在日朝鮮人は歴史の被害者であるとともに、「忘却の穴」を掘り、戦争に加担した(積極的・消極的に)戦争責任から逃れることはできないであろう。
民族教育は一度奪われた、が、取り返したのである。

今、民族教育が奪われようとしている。もちろん子供たちを先ず守り、彼らのゆりかごを守るのは我々の当面の責務であろう。同時にまた、われわれが守らなければならないものは、「民族を生かし、育てる民族教育」、自民族のみならず、世界の平和、日本の発展、祖国の統一、祖国の発展のための、そして最も人間愛に深い人材を育て育てる「教育精神」こそを守ることこそが重要だと思われる。

神奈川新聞を見ながら

2013年03月09日 | 帝国主義・植民地
http://news.kanaloco.jp/editorial/article/1302140001/


いわゆる「高校無償化」適用如何に関する問題が朝鮮学校を取り巻いている。この記事は、神奈川県の補助金停止と相成ってでたものではあるが、FACEBOOK上にて、いささか、この記事が「シェア」され、「いいね!」という表現が目立ってくるこの状況の中、一意見として、また論議を醸すため、私も一つ「シェア」をしたいと思います。

この報道、たしかに「進歩的」ではあるんですけど…
しかし、私はあえて、「ちょっと待て、その先は断崖だ」と言いたいです。

この記事からは「北朝鮮=悪魔国家」、だからといって「子供の権利をはく奪する権力を国家は持たない」という論理構造が見えます。
「朝鮮は確かに悪い。でも子供たちには「罪」はない。」こんな論調は、日本が朝鮮に対する植民地宗主国であったということ、今のまさに「現在の」朝鮮の状況を作った張本人が日本である、という批判を無効化させる恐れがあると思います。
無償化や補助金は日本の「恩恵」ではなく、「義務」なんですよ。そして子供たちはその「権利」を持つ。それだけの話なんです、本当は。そこにこそ批判しなければならない。

しかし、このように差別が全面化するあまりにも難しい状況の中におかれてしまうと、この「差別がだめだ」という論調が出てくると何でもかんでも「いいね!」と評価してしまう。この自分たちの評価がのちの自分たちの「転向」、たとえば民族教育側も教育内容を考えようとか、祖国との「距離」とか、「教科書の内容」とかを言い出してしまう。そんないろいろな問題が、補助金や無償化の「前提」に設定されてしまう今の状況こそに批判する、そういう態度が必要なのかな、と思います。教育内容がだめだから、補助金がもらえないんだ、こんな論理は権利の論壇では何も示さないただの「教育に関する国家の干渉」でしかありえないのです。 
 たとえ、「反日」(わたしは本当の意味での「愛日」と思っていますが)であろうと、全員が「朝鮮籍」だろうと、補助金も無償化も適用しなくてはならないんです。だって、教育なんですから。

今の朝鮮の状況、日本はそれに対してどれほども「責任」を感じているのか、朝鮮戦争時の日本の「戦争責任」などみじんも感じてない状況や、ベトナムに派兵して、「経済的成長」をもたらした南の当局の問題など、全部が無視された状況での「子供愛」、これに対して、在日朝鮮人運動をやっている私たちが「いいね!」ということは、補助金をもらわなかったり、無償化が実現されない以上の「敗北」をもってくるのではないのでしょうか?

 そういう意味で、この記事を持ち、シェアし、「いいね!」と言っているすべての人々に、私は「ちょっと待て、その先は断崖だ。」と言いたいです。ちなみにこの言葉は徐京植先生の名言です。(半難民の位置から)

民族教育の権利が政治的にはく奪されていく中、私は、「今こそ政治闘争を!」と呼びかけたいですし、その「政治闘争」の最前線にたっている国家がまさに、朝鮮民主主義人民共和国だと思い、そのことから、私は朝鮮を「在日朝鮮人」の祖国である、と規定したいです。 

明々白々な差別に対しての抵抗はもちろん、「見えない」、もしくは「優しい」差別、ナショナリズムやレイシズムにこそ抵抗する,世界で最もラディカルに。これが在日朝鮮人運動の意義であり、この精神こそが一世の残した宝だと思います。
今の無償化闘争が、4.24教育闘争のようになれていない根拠、理論的脆弱性がここにあるのかな、と私は思います。