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チュチェ思想入門 第一回 モノの見方、考え方

2015年01月22日 | チュチェ思想入門

朝鮮の指導理念でもあるチュチェ思想について書き、詳説することは骨が折れることではあるだろうが、ともあれ解説を始めたいと思う。
第一回目の今回は、ガイダンス的なものである。ひとえに「思想」とは何たりえるか、という問題である。人それぞれ「意地」や「理念」、「モットー」などは様々な形として持っているだろう。わたしがこの企画において語りたいのは、「この考え方が正しい」ということでは毛頭ない。祖国、朝鮮が「なぜこう考えるのか?」ということを述べたいということである。自身の思想や考えを改めるという作業はかなりの苦痛を伴うものである。しかしながら、祖国の考え方、チュチェ思想から学ぶことは、かなり多いとわたしは自負している。

2000年以上の哲学史の成果とバトンを受け継ぎ、人間の自主性実現のための道を新たに示すチュチェ思想、この考え方についてできるだけこれから詳説していくつもりである。

さて、今回は第一回目ということもあり、チュチェ思想に限らず、「思想」一般について語ってみたいと思う。

まず一つ、「思想」とはものの見方、考え方である。「真理」というものは一つしか存在しないのだろうか?人それぞれに家庭があり、仕事があり、理想もあり、現実もある。一般的に人々が共有している精神といえば、「いろいろと頑張っている」ということに落ち着くのではないだろうか。面白いことに人は「思想」をいろいろと持ちえないものである。たとえば、ハサミを持ち、時にはカッターを用いるようにはいかないということである。人は人生におけるいくつもの経験の中で、真理を求め活動する。真理というものは=正義とも訳せるものでいわゆる「若いとき」に、ここに燃えることはよくよくある話である。かのイタリアの独裁者ムッソリーニでさえ、若い青年時代にはマルクス主義に燃えたというのだから、人の思想がこんなに行ったり来たりするものか、と目を丸くしたものである。しかしながら、時代別・年代別に人々は様々な思想を選択できるとしても、同じ時期、同じタイミングで別の思想を持つ訳にはいかないのである。もちろんたまに良いことを言う人が、ときにはびっくりするくらいの発言をするときはある。良い発言をA、悪い発言をBとする場合、Aでもあり、Bでもある、ということにはならない。グレーゾーンなんてものは「思想」の世界では通用しない。その場合、Aか、Bか、要するに、その二つの行動をした人間は、あるタイミングでは嘘をついている(あるいは無理している)のである。「思想」を突き詰めると「しんどい」のはこのためである。

さて、二つ目の話に移ろう。「思想」とはその人なりの「志操」である。朝鮮語ではよく、「チョルゲ」とも言われるが。自身の思想を、自分の良心・信条として持ち、それを「志操」化した人間ほど、魅力のある人間はいない。逆に思想を「志操」化できていない人間にはあまり、魅力がないのである。ある場所ではこう言い、またある場所ではああ言う。こんな人に人々が付いていくはずもない。

これまでの話でわたしが言いたいことはなんだったであろうか。一つ、思想というものは人間が自分の良心奥深くに持っている「志操」なのである。しかし、われわれは「生きる」ため、という理由を筆頭とし、様々な場面で自分に嘘をつく。にこっと笑って見せたりもする。わたしは自分の小さいプライドを押し殺しながらそうする人は称賛するだろう。しかし、自分の背負っているもの(たとえば民族や階級)を、根拠なしにつつかれながら笑える人を見たときによく思う。この人は思想(=志操)ではやってないんだろうな、と。

さて、チュチェ思想は、どのような志操を我々に提出してくれるのか。最初で有るがゆえにあえて、わたしは結論から述べたい。チュチェ思想ほど、人民の力を信じ、人民のために服する思想にわたしは出会ったことがない。どうってことはない。この思想を掲げ、建設をやる。わたしが朝鮮を「祖国」と呼ぶ理由は、これだけで十分である。