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なせばなる・・・?!

何でもありの個人的記録です。

平田俊子著『ピアノ・サンド』

2007-03-11 | 
以前ここでも書いた夏石鈴子の本の中に出てきた作家です。
とはいっても、後書きか何かで夏石さんは彼女の詩集を読んだそうで、
でも詩集を読むほどポエティックというか、文学的でもないので
興味はあったけど、そのまんま「平田俊子」という名前は忘れてました。

そしたら、姉が福岡に戻ってきたときに、彼女の本を買ってたんですわ。
詩だけではなく、エッセイや小説も書いているらしく、
でも詩人であるだけに、言葉の一つ一つ、改行とか、文字の配列にも
細かく気が使われてます。
本を読んでても、目が文字を追ってるだけで意味がつかめないこととかあるけど
この人の本は(夏石さんもそうやったけど)、すんなり頭に入ってきました。

で、この本にはタイトルになってる「ピアノ・サンド」と「ブラック・ジャム」
の二編がおさめられておりまして。
(長めの後書きというのもあるので、三編というべきかも)
両方ともおもしろかったけど、「ブラック・ジャム」の方が内容が刺激的で
印象に残りました。

子供の頃に火傷して、そのあざがずっと腕と足に残ってる女性が主人公なんやけど
読んでいくうちにいろんなことが判明していくんです。
自分も決して美人というタイプではなく、明らかに世の中の少数派に属するけど
目に見える障害を持つ、人とは違う外見を持つことの辛さというか、
とにかくほんわかした内容ではなくて、どっちかというと後味悪そうな雰囲気
なんですけど、引き込まれていって、それでいて読み終わった後の不快感はなく…
おもしろかったです。
好きな作家がまた一人増えました。

寝&食&読正月

2007-01-04 | 
今年は親子水入らず(ほとんど母と二人きり状態)のお正月となり、
正しく「寝正月」となりました。

で、する事と言えば、食う、寝る、テレビ見る、位しかなく
テレビにはあまり期待していなかったので、
来年度の授業に使えそうな本と、エッセイを一冊ずつ持って行っておりました。

しかし、やっぱり難しい本を読む気分にはなれず、
結局エッセイ(夏石鈴子著『きっと、大丈夫』)を読み終わった後、
家の棚から灰谷健次郎の『砂場の少年』を引っ張り出して読みました。

夏石鈴子の本は噛噛さんのブログで紹介されてるのを見て、
本屋に行ったついでにちょこっと立ち読みしてみたら、
読みやすくて、おもしろくて、正月はこれ読もう!と思って買ったのです。
案外自分との共通点があるというか、読んでて「ほぉ~」と思うと同時に
「分かるなぁ~」とも思ったりして、すんごくためになりました。
『愛情日誌』も読みまっせ

灰谷健次郎の本は、子供の頃読まされたというか、家にたくさんあって、
この本もうん十年前に一度読んだんだろうけど、
大人になってから読んだのに加えて、
これでも一応教育に携わっている立場にもあるので
身につまされるようなとこもありました。
教えるというか、学生と接することの楽しさをちょっとは感じていたけれど、
義務教育やったら自分はきっと教師は務まらない、そんな気もします。

今年度の授業はもう数える位しか残ってないけど、
自分と学生との関係を考えるいい機会になりました。

読書記録

2006-09-26 | 
長い夏休みもついに終わってしまって、先週から授業が始まりました。
暑さにかまけてダラダラしていたけど、ようやく、というか、
追い込まれる状況になってやっと作業をするようになっております。
ほんとにお恥ずかしい…

論文の方はすすまなくとも、せめて読んだ本のまとめとか感想を
ここでアップデートしようと思いつつ、
本を手にはするものの(夏休み中に何冊か本を買ったんやけど)
一冊を読みきるということができないまま、今日にいたってしまいました。
ほんとに情けない…

最近のブログのカテゴリーも単調な感じなので、
せめて読書(予定も含む)リストでもあげておこうかと思います。

*ブックオフで買った桐島洋子の105円エッセー2冊
 読み流したという感じ。
 才能も度胸も自分よりずば抜けているので、共感するのは難しかったけど
 こういうのもあるんやなぁとちょっと勉強になりました。
 
*ネットで買ったフェミニズム関連の本2冊
 一つはエステル・フリードマン、もう一冊はジョアン・スコットです。
 これは二冊とも読みきるだけでなく、内容もきちんと理解すべきものやけど…
 いかんせん、分厚いのと理論中心なので半分もいかずに撤退。
 重いから持ち歩くのも嫌やし、いつになったら読み終わるのか分かりませんわ。

*祭りの古本市で買った本3冊
 一つはルース・ベネディクトの『菊と刀』。特に自分の研究と関係はないけど
 読んでおいても、というより持っておいても損はないかなぁと思いまして。
 後の二冊は女性史関連、これは本当にぱらぱらとめくっただけです。

*「オトメ」シリーズ2冊
 これは去年大学の集中講義に来た先生の著書で、去年買ったものの、
 読み始めたのは今月に入ってから。
 「遊びで書いた」(本人談)というだけあって読破できそうです。

とりあえず当面の目標は授業の準備と「オトメ」です。
あと指導教官の反応によって、資格取得の準備も。
というか、本当はそれをプライオリティにしたいんやけどなぁ。

トリン・T・ミンハ著『女性・ネイティブ・他者』

2006-06-17 | 
久しぶりの本カテゴリー。
それだけ自分の勉強をしてないっちゅうのがバレバレですが…
ミンハは、ベトナム生まれで子供の頃渡米した女性です。
映画も作ったりしてるらしい。

この本は副題に「ポストコロニアリズムとフェミニズム」とあって
女性関連の研究を志すなら読んでおくべき一冊ではないかと思いまして。

しか~し!!
多分半分位しか理解できてないと思います。
自分のアイデンティティ、彼女の場合は第三世界の人間であり、女性であり、
それを物語を書くとき、どう利用するか、利用するというと聞こえは悪いけど
他者からの眼差しをいかに自分のアイデンティティとしてとりいれつつ
本当の自分の声を出せるかみたいな、どこから自分の声を発するか…
そんな感じの内容やと思います。

こういうのを「アイデンティティ・ポリティクス」といいますが
ミンハに限らず、アメリカにいるマイノリティの人にとっては
自分が何であるのか、ということをとても意識していると思います。

それまで人種や民族、宗教、市民権の有無等々
いろんな面で差別を受けてきた人たちが、
白人から与えられたアイデンティティを
(特に人種は自分の意思ではなく、生まれ持ったものでもあるし)
それを自分の一部として受け止め、時には抵抗して、利用してきたんですから。

でもこれは多民族社会に住んでいる人たちだけでなく
どんな社会にいる人でも意識した方がいいことなんですよね。
自分のアイデンティティが何なのか
自分の視点、位置を意識して文章を書かなければなぁと思いました。

ただ、さっきも書いたように
半分位しかわかってないんですよね。
夏休みになったらもう一度読んでみるつもりです。

駒沢喜美編『女を装う』

2006-01-21 | 
 1985年に出版された本です。論文を書き始めたとはいえ、理論に弱いので、序章でもうすでにつまづいておりますが、そういう時はとりあえず刺激になるような本を読むということで、入手したばかりのこの本を読んでみました。

 この本が出版されてから20年の間に、男女に関する考え方がだいぶ変わってきたことを実感する反面(当時のファッション界ではユニセックス・ブームで緩やかなラインの洋服が流行して、抵抗なく男性っぽいファッションも女性が楽しめたとか・・・)、今でも残っているジェンダーの違いの根源みたいなものをつきつけられたようでした。

 女性の方が男性よりもおしゃれだとか、人の視線を気にするとか言われてるけど、コルセットや纏足、ハイヒールは、女性ではなくて、男性が作ったもの、男性が女性に対して求めた習慣なんだそうな。小さな足を美とする感覚も、女性の腰は細い方がいいというのも、要は男性が女性を支配・管理するために、そして性的対象物として見ていたからやったんです。

 例えばコルセット(一時は鯨の骨やなくて鉄製やったって!!)、欧州の男性はふくよかな胸がお好みでしたが、そうすると自分よりも体格のいい女性が理想となってしまいます。それではちょっと・・・ということでウェストをぎゅ~っと縛り付ければ、肩と腕は自然と後ろに押し付けられて、乳房がこれみよがしに突き出してきます。腰は細ければ細いほど、抱きしめやすいし、コントロールもしやすくなるけど、胸は実際にはそれほど大きくなくても、男性の性欲を興奮させるには充分となります。

 女性は男性よりも肉体的に弱いから、守らなければならないと昔から言われてたけど、そりゃあ、鉄のコルセットで銅を縛り付けた状態で一日過ごせば失神もするし、ちょっと動いただけでも疲れますよ。もちろん内蔵にも支障をきたします。纏足だって、足を縛りつけた状態ではちょこちょことしか歩けないし、長時間歩くこともできません。確かに男女には身体的な違いはあるけど、出産だって育児だってかなりの肉体労働やし、スポーツによっては男女の差がほとんどないものだってあります。

 自分は割りと人の視線を気にせず、好きな服を着ている方やと思うんですけど、やっぱりつけんとまずいかなぁと思って、ブラを着けます。正直冬は厚着になるから、着けない日も多々あるんですが、外に出るとき、人前に出るときは必ず着るし、着るだけでなく「ちょっとでも・・・」と思って脇の肉を前に持ってきたりしてますよ。自分位の胸の大きさやと、ブラなしでもこれといって生活に支障はないんですよね。むしろない方が楽やし、家に帰ってまずすることといったらブラをはずすことです。その位嫌なのに、おまけに必要でもないのに、着けてる自分にちょっと腹立たしさを感じたりして・・・
やっぱり自分も男性の作った「美」に振り回されてるんやなぁと思った訳です。

 でも、昔に比べれば男性の求められる美の基準もだいぶ高くなってきたように思います。最近の若者で眉毛を整えてない人はいないやろうし、女性雑誌でセクシーな男性特集をしたり、男性の性的対象物として見られるようになりました。高須クリニックの社長の顔はどんどん整えられていってるし・・・そのうち男性もきゅっとしたお尻を目指してガードルとかはくようになったりするんかなぁ。後何年生きるかわからないけど、そういう点ではこれからちょっと楽しみです。


ベル・フックス著『フェミニズムはみんなのもの-情熱の政治学』

2006-01-13 | 
 女性史を志しておりながら、「フェミニズム」をいまだにきちんと理解していないし、自分なりの解釈も持っていないので、ここでもう一度と思って入手しました。理論が苦手というのもあるけど、「フェミニズム」という言葉にちょっと抵抗を感じるし、自分がフェミニストであるとも思っていなかったし、正直思われたくなかったともいえます。というのは、自分が思っていたフェミニストは、「男なんかいらない」と言っているような人たちで、男性を嫌っているようなイメージがあったから。自分は性差別には反対だし、男女平等な社会がいいと思うけど、男性が嫌いではないし、できればいて欲しいと思う人間ですから・・・
 でも彼女はフェミニズムを「性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動」と定義します。そしてそれは男性から女性へという一方通行的なものではなくて、女性自身の中にもあるものだと考えます。同性同士でも、親子間でも支配関係は存在するので、非難すべきは男性だけではないということです。
 これにはちょっと驚きでした。確かに人種や階級の違いからくる女性間の支配関係があったのは分かってたけど、たいてい悪いのは男とどっかで思ってたんですね。母親の子供に対する暴力や、子供を所有物のようにみなすことは「親の愛情」みたいなものに隠されて、あまり問題とされてなかったように思います。男性が女性を支配してもいいと思われていたように、大人と子供にも同じような関係があったことに気づかされました。あと、自分自身まだどこかで、社会的な女性らしさに束縛されていることにも。
 お互いを尊重しあい、従属させられたり虐げられたりする不安のない人間関係がフェミニズムのめざすものであって、決して男女平等だけにとどまるものではない、だからこそ「みんなのもの」ということです。

「フェミニズムを選ぶことは、愛を選ぶことなのである。」とも言っているように、やっぱし『愛』なんですなぁ。
批判的に読むことが基本的にできないので、「ほうほう、なるほど」と思ってしまったけど、とても読みやすい本です。

田口ランディ著『スカートの中の秘密の生活』

2005-12-11 | 
久しぶりに仕事とは関係のない本を買いました。
とはいっても古本屋で100円やったから買ったというのもおこがましいけど…

田口ランディは屋久島の本も書いてて本屋で立ち読みしてて止まらなくなったり、ブログも読んだりしてました。
実はこの本も実は最初の数章は立ち読み済み…

竹内久美子の本を読んだ時も、「あぁそういうことやったんかぁ」と思ったことがあったけど、ランディさんの本もそんな感じ。
ヒステリー気味の女性に「男がいないからイライラしてる」なんて言うけど、あれはほんとにそうらしいんです。
女性にとって女性ホルモンはとても大事なもので、年をとるに連れてやっぱり減っていくけど、
愛撫されたり、優しくされたりすると、ドピュッと分泌するんですな。
女性は性的に満たされていないと、更年期障害が早くきたり、生理不順になったり、お肌もカサカサになったりするのです。
エステ効果もあるっちゅうわけですなぁ。

LOVE AND PEACEです。



我妻洋監修『千絵さんのアメリカ:一日系移民の生活史』

2005-11-12 | 
これはもともと、キクムラ・アケミという日系2世の女性が書いた博論です。彼女の母親が千枝さんで、その母親がどれだけ力強くアメリカで生き抜いてきたかをオーラル・ヒストリー・インタビュー形式で語るというものでした。でもインタビューは日本語で行われていて、それを英語にして、その英語をまた日本語にする、というややこしいものではなく、監修の我妻さんの奥さんが、直接そのテープを聴いたり、キクムラ親子とも直接話をしてもいるので、もとの博論Through the Harsh Wintersとはちょっと違う内容になってます。

前置きだけでかなり長くなってしまったけど、この千枝さん、ほんとに苦労人というか、エライというか…育ちはいいほうで、アメリカに来ず、日本で暮してればそれなりに裕福な生活ができただろうに、冒険心が強かったばっかりに、家族の反対を押し切って夫と一緒にアメリカに出稼ぎに行きます。

一生懸命働いても働いても、子供が次から次へと生まれるし(13人も!!2人亡くしてるけど)、夫は博打好きで、せっかく稼いだ金をもっていくしで、ほんとは2、3年働いてお金を貯めて帰国するつもりが、いつまでたってもお金は貯まらないし、そんな状態では帰国するのも恥ずかしく、結局一度も日本の地を踏むことはありませんでした。彼女は女学校まで出ていて、良妻賢母教育をみっちり叩き込まれたのか、妻を夫を支えるものという考えが強くて離婚もしなかったし、夫が死んだ後は息子を家長にして、家庭内の権限を彼に与えてしまいます。これには老後は一緒に暮してくれるだろうという期待もあったんやろうけど、最終的には下宿屋みたいなとこで一人で暮すことになります。

日本なら息子につくのは普通のことなんやろうけど、アメリカで生まれた子供たちにしてみれば、おかしいし、またその息子もなんやかんやでお金を使ってしまったりで。その他の姉妹も、ある程度母親のジェンダー観みたいなものを受け継ぎつつも、それぞれ自立した道を選択して、家から出て行きます。そしてことごとく離婚するんですよね。そこがとてもおもしろいと思うのだけど、やっぱりアメリカという国なのか、それともフェミニズムが広がり始めた時代なのか、母親とは違う生き方を選んでるんです。

でも千枝さん自身は、それを決して非難してません。自分が親のいうことを聞かなかったからとか、夫が生きてればとか口では言っているけど、どこかで夫に依存することに違和感を感じて、自分の力で何とかしていかなければならないと認識しているからではないかと思います。

それにしても明治の女はスゴイ。自分には絶対まねできません。

鹿野政直『現代日本女性史:フェミニズムを軸として』

2005-10-11 | 
本来ならば、一番充実しているはずの「本カテゴリー」ですが、久しぶりの投稿となってしまいました。あかんねぇ。

でもこれ、とてもいい本です。鹿野先生(とあえて呼ばせて頂きますが)もともと早稲田大学の政治思想の先生なんですよね。それがいつ頃からか、女性史も研究するようになって、岩波新書の『婦人・女性・おんな』には大変お世話になりました。その頃から鹿野先生の大ファンではあったけど、この本を読んでやっぱりええ人や~!!と思わずにはいられません。

あとがきにもあるけど、男性の女性史研究者というのはどこか複雑なものがあるようです。でも、私は鹿野先生がとても謙虚で、自分が抑圧する側にいることも充分認識した上で、女性に接しているような気がします。それは決して償いとかそういうのではなくて、反省すべきところは反省して、相手を応援してる「女性の味方」のように感じました。しかも内容もとても分かりやすい!!(こんな文章書けるようになりたいなぁと思います…)

21世紀になって、社会も男女のあり方もだいぶ変わってきてはいるけれど、ついこの間まで自分自身が結婚を逃げ道のように考えていたように、まだまだ改善されるべき点はたくさんあるんですね。認めたくはないけど、自分自身がそれを内面化していたことを改めて知らされました。でも女性だけでなく、男性も自分なりの生き方を選べるよう、変な社会規範とか帰属意識とかにとらわれずにみんながいろんな生き方を選択できるような社会になるよう、自分もちょっとがんばろうと思いました。



林真理子 『花』

2005-08-30 | 
よくおじゃましているNONONさんのブログを読んで、いつか読みたいと思っていた本です。面白くて一気に読んでしまいました。

主人公は30代後半のバリバリのキャリア・ウーマンです。彼女の祖母は元芸妓、母は私生児です。その母も芸妓となり、主人公も私生児として生まれるのだけど、祖母が老人ホームで知り合った元女性編集者と一緒に残した聞き書きから、祖母・母の生い立ち、自分が生まれるまでのことを知るのです。
その時、おばあちゃんはもう亡くなっているのだけど、亡くなって始めて、自分が望まれて生まれた子供なんだと思えるようになるんです。

まだ子供を産んだことのない自分には、子供はいつか欲しいなぁ位の漠然とした思いがあるだけで、親の子を思う気持ちは分かりません。それでも、祖母、タエさんの言葉には、共感ではないけど、そういう時代に生まれた女性たちの必死な姿を思い描かせる充分な力があったように思います。聞き書きというスタイルで、主人公に語りかけるような感じだったからかもしれないけど。

今まで明治大正時代に生まれた女性たちの歴史を勉強してきました。従順とか受動的とか、そういう言葉で片付けられていた彼女たちの歴史に、そうではなくて、もっと自主的に人生の選択をしてきたという一面を捉えようとしてきました。でもタエさんの言葉の中に「自分を犠牲にしても親の言う通りにしなければならないと思った。いいも悪いもない、そういう時代だったのだ。」というのがあるんです。

これは小説やけど、きっと彼女と同じように自分の人生を捉えていた女性がどれほどたくさんいたのだろうかと思うと、今まで自分が書いてきた文章を全て取り消したくなります。自分ではどうしようもできない大きな力に動かされてきた人たちの歴史を、もっと違う言葉で伝えていくことも大事なんやと、思いました。

NONONさんに感謝です。ありがとうございました。

ジェンダー化される身体

2005-07-28 | 
荻野美穂著『ジェンダー化される身体』(剄草書房)

なかなか刺激的な本でした。ジェンダーの本というと、女性の性ばかりが強調されて、本当は相対する男性の性がおきざりにされている場合が多いけど、この本は、男性の性についてもふれてます。

その中で印象に残った言葉が「強制妊娠」と「合意妊娠」。これは荻野さんの言葉ではないけれど、男性=孕ませる性ととらえて、性暴力対策のために考えられた概念です。性交渉はOKしても妊娠は嫌なのに、避妊してくれなかった場合に「強制妊娠罪」で訴える、つまり法制化すればいいんでないの、というものです。

自分は女なので、愛情表現である性交渉の結果が妊娠につながることは当たり前のこととして認識しているけど、男性はやっぱり「つけない方が気持ちいい」程度にしか考えてないんでしょうかねぇ。
確かに産むのは女性やけど、一人では妊娠できんのに(人工授精という手もあるけど)、世の中には子供の養育費を払わなかったり、認知さえしない男性がいるんですなぁ。まあ、事情はいろいろあるんだろうけど。

実際、強制妊娠罪が本当に施行されるような管理社会になることはちょっと恐ろしいといえば、恐ろしいけど、まだまだ「妊娠して損するのは女性」みたいな現状を考えると、そういうのもありなんかな、と思ってしまいます。罪ではなくて、責任として認知を義務付けるのはあってもいいかも。

昨日の朝ドラ「ファイト」では優ちゃんがお父さんとお母さんに「妊娠したから結婚したの?」なんて率直な質問を投げかけてちょっとびっくりしたけど、性交渉と妊娠(生殖)をもっと近づけて考えるようにしないといかんよなぁ、と思います。



テッサ・モーリス=スズキ

2005-07-06 | 
本カテゴリーを更新するのはほんとに久しぶりのような気がします。読みたいなぁと思う本は幾つかあるけど、ついつい読まなければならない本ばかりになってしまって、それに加えて行事が重なったりすると、趣味の読書はどうしても後回しになってしまいます。テッサ・モーリス=スズキの本も読まなければならない本の部類に入るけど、「おぉ、これは読みたい」という気持ちのが大きいかな。
半年程前友達に薦められて『批判的想像力のために』を読んで、かっこいいと感銘。すっかりファンになり、先日『過去は死なない:メディア・記憶・歴史』を入手いたしました。まだ第一章しか読んでないけど、もうすでに感動してます。

彼女はオーストラリア在住のイギリス人で(旦那さんが日本人なのでスズキさんです)、日本の政治思想の専門家だと思います。最近は歴史とかカルスタっぽいのが多い気もするけど、私は彼女の歴史に対する姿勢というか、考え方にいつも学ばされるのです。

今読んでいる『過去は死なない』は、いろんなメディア(小説・写真・映像・漫画等)で取り扱われている歴史を人がどう形成し、又受け止めてきたのかみたいな話ですが、彼女は歴史責任を歴史のプロセスに「連累(インプリケーション)」しているという意識と考えます。例えば日本は中国人や韓国人を日本に連れてきて強制労働させてたけど、今の自分に直接責任はないし、同世代の中国人や韓国人も被害にあった訳ではない。でも、日本の戦後経済を担っていたその一部は強制労働させられた中国人や韓国人なのだと。「企業の成功を受けた人も間接的に歴史的暴力から得た富の受益者になる…事後従犯なのである。」と。

「わたしたちの生は過去の暴力行為の上に築かれた抑圧的な制度によって今もかたちづくられ、それを変えるためにわたしたちが行動を起こさないかぎり、将来もかたちづくられつづける。…侵略行為をひきおこしたという意味では責任はないかもしれないが、そのおかげで今のわたしたちがこうしてあるという意味では”連累”している。」

もうかっこいい素敵すぎる
歴史を学ぶというと、過去にどういうことがあったかとか、なぜある出来事が起こったのかを知ること、という風にとられがちだけど、それだけではないんですよね。やっぱり社会的意味っちゅうか、意義っちゅうか、そういうものがあるんやと改めて実感させてくれます。

『忘れられた日本人』を読む

2005-03-17 | 
 網野喜彦と宮本常一の組み合わせ、ということで、先日行った大島の宮本常一記念館で思わず買ってしまった。網野喜彦の本はそれほど読んでないし、正直に言うと難しくてよく分からないとこもあったけど、網野喜彦が日本民衆史に及ぼした影響を考えると、すごい人なんやろうなぁと思って。もう一つ買った理由は女の「世間」という章があったこと。でも今日一気に読んで、買ってよかったと痛感しております。

 宮本常一の本を読んで「目からウロコ」みたいな感じはあったけど、この本ももう一枚更にウロコを落としてくれた。最近「歴史の捏造」とかいう言葉を時々見かけるけど、これまでの歴史がいかに一方的なもので、上からの視線で描かれていたかということに宮本常一は早くから反発していたんだね。
 明治の女性たちは束縛されていたとか、農村地域の人びとは貧しい暮らしを送っていたとか、移民は棄民という言葉があるように、貧しさゆえに村を出て行ったとか・・・確かに明治時代になると法的に女性は弱い立場にいたけれど、農村では女性が財布の紐を握っていたし、養蚕の盛んな村では妻は自分で稼いだお金は自分で管理し、夫に貸し付けることもあったという。移民も経済的理由だけでなく、今以上のお金を稼ぐという野心やアメリカへの憧れから海を渡った人も多い。移民を多く出している地域では出稼ぎする人が多く、村を離れることに対してあまり躊躇しなかった。
 宮本常一の「ご本人の立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと思う」という言葉通り、見方を変えるだけでいろんな事が見えてくる。一応分かってたつもりだけど、きっと今の自分の見方もこれまで当然と思われてたことを当然として受け入れていたような気がする。

 一方からだけではなく全体像を捉えること、歴史を見直し新たな疑問を抱き続けることの大切さを改めて実感した。宮本常一も網野喜彦もサイコ-

宮本常一

2005-01-26 | 
本はわりと読む方だと思うけど、乱読なせいかなかなか頭に残らない。
でもこれからはちゃんと残るような読み方をしたいなぁと思います。
この本は、私の尊敬する先生が大好きで「いい!」「素晴らしい!」という言葉を聞いて読みました。
もちろん自分にとってもとても大事な本になるけれど。

宮本常一は民俗学者で日本全国を歩きまわって民衆の歴史を明らかにした人。
これは特に女性に関するお話をまとめたものだけど、今もそう思うけど、やっぱり女はたくましいね。
明治になって良妻賢母が理想みたいなことが広まったけど、農村地域では女も男も一緒になって働くし、お母さんの存在はかなり重要になってきます。
おもしろいのは「テボをふる」っていう言葉があって(テボは籠みたいなもの)、結婚しても相手が気に入らなかったらテボを持ってさっさと実家に帰るんだって。「二夫にまみえず」なんてとんでもない、確かに他所の家に嫁ぐことは女性の地位と深く関係はあるけど、離婚はもっと簡単で世間的にも左程問題ではなかったみたい。
最近もバツ1は決して恥ずかしいことではなくなってるしね。
むしろ、一度そういう経験をした人の方が結婚生活もよく分かってるような気もするし。

とにかく「苦労したんやなぁ」的な話だけでなく、「わりとのんびりしてて、そういう生活もええね」と思わせてくれるところが素晴らしいのです。