猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

父の軍服

2007年08月20日 08時51分26秒 | 雑記
         父が大東亜戦争 (日本名) の時に着ていた本物です。

 
 これ着て、わたしが20歳の頃知らないで面白がって被っていた陸軍の航空帽を被って、手製のリュックに決められたとおりのちり紙や用品を詰め、武装解除されたボルネオから背負って帰ってきました。
 ほっそいなぁ~。今86歳の父はもちろんもう着られないでしょうが、時々姉が虫干ししてあげて、父が死んだらお棺に入れてあげる予定だそうです。
 憲章などは全て取り外されています。ちょっとこの写真ではよく分かりませんが、くすんだ薄いカーキ色をしています。

 

                   


                   うーん ? 前橋で召集されたの ? 父は東京生まれだけど。


 父は陸軍だったから前橋に航空隊があったのかなぁ ? 今度聞いてみよ。

 父が中島飛行機製の「一式・隼」に乗っていた話はこちら → 零戦の前で

 夏になると前の大戦の話がTVでもたくさん出ます。戦後62年となり、NHKでは年を取って来た戦争経験者にインタビューをして記録に残そうとしています。大変良いことだと思います。学徒で出陣した父も86歳、少年兵だった方々も80歳以上の年齢です。

 私が子供の頃の少年マンガ雑誌では口絵に戦艦大和とか零戦とか、記事でも絵物語でも結構太平洋戦争ものは多かったし人気も有りました。今は少年誌ではあまり見かけませんね。描いてる人がもう若いからね。20代、せいぜい30代の人がマンガを発表しているわけだから、描いても想像の域を出ないでしょ。小松崎 茂氏 → ウィキペディア 小松崎 茂 の軍艦、戦車、飛行機の絵は子供心に凄かったですよ~。

 復員してきた若い兵隊さんたちが結婚し、生まれた子供たちがもう定年及び定年間近な年齢ですもの、太平洋戦争は遠く遠くはるか遠くになってしまったけれど、やっぱり忘れちゃいけない、父や祖父の確かに生きてた時代なんです。
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10 コメント

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本当に・・・ (ぶっく)
2007-08-20 21:37:00
今では微塵も感じられませんが、確かにあった話ですよね
ダンナさんの母方の伯父さんは、特攻隊で亡くなってるんです
もう終戦に近い頃の話と聞きました・・・
私もダンナさんもいろんな人から戦争の頃の話を
極力聞くようにしてるつもりです

こんな片田舎でもアメリカから東京に向かう空の通り道だったので
余ったバクダンとかが落とされた話とか、東海道線に近かったので
列車が狙われて、負傷した兵隊さんたちの話とか
静岡空襲のとき東の空が真っ赤だった話とか、この辺に
疎開してきた子供達がいたという話など・・・
いろいろあるんです私たちくらいの年齢が、親が戦争を
覚えてる世代の最後だと思います

ただもうなくなった伯母には「思い出したくないから」と
やんわりと話をそらされたこともあります、話を聞くのも
難しいです、そうかと思えば以前通勤電車でよく話をした
おばあちゃんに内地から引き上げるときの苦労話を
聞いたこともあるんですけどね
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父も。 (トミー。(管理人))
2007-08-21 09:07:00
 ブック様
 父も私が子供の頃は戦争行った話はしなかったな。子供には分からないと思っていたのか、20年くらいでは思い出したくもなかったのか、妻も子供もいて働くのに精一杯だったのか。
 だいぶ年取ってからぽつぽつ話を聞くようになりました。母や長姉には話していたかも分かりませんが。

 とにかく今聞いておかないと経験者の年齢がどんどん高齢になるので分からなくなる一方ですよね。機会があったら人様の話でも聞いておきましょう。
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戦後は遠くなりにけり (たれぞ~)
2007-08-21 09:26:48
と誰かが言っていましたが、ほんとそうですよね~
実体験として語れる人はどれほど居るんでしょう??

戦前生まれの父ですが、終戦当時は4歳。
祖父は耳の聞こえが悪かったので「丙種」のため、戦争に行かずに済んだそうですが。祖父の弟は南海の島で戦死しています。
その奥さんだった大叔母は再婚もせず、子供を育て、10年ほど前に他界しました。

ほんという言う部分では教えてくれる人って居なくなりました。

でも語り継いでいかなければならない大切なことですよね。
トミーさんのお話を読んで、そう感じました
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色が (満天)
2007-08-21 12:04:43
やっぱり色が陸軍と空軍では違うのかな~?
なんか色が薄いような気がします
東京出身の兵隊さんで空軍に所属といえば
海軍の潜水艦勤務に続きエリートですもんね
この細身の軍服に身を包み立つ姿は
当時の乙女達の心を揺さぶったんじゃ~ないかの?
悲惨な話も多いけれど
恋愛なんてありえなかったっと言うけれども
そいでも色々と深く聞くと爽やかな淡い恋が
沢山あったみたいです(笑)
人間って素敵だな~明日死ぬかもしれない世界に
身を置いても…幸せを探そうとしたり求めたり
父と子ではそういう話は聞き出せないのですが…
祖父はチロっと孫に話してくれていました~(笑)
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だんなの父は。 (トミー。(管理人))
2007-08-21 14:47:10
 たれぞ~様
 うちのだんなの父親は明治生まれ(!)で、予備兵で実際戦場へは行かなかったそうです。だんなの母方の祖父は、姉妹4人の子供しか持たずお国に男子を出せないことを恥じて、結構な財産を寄付したそうです。チョコチョコ周りの人に聞いていると庶民の戦争が見えて勉強になります。
 ちょっと昔はよく叔父が南海の孤島で、とか特攻で、シベリアでという話を聞きましたが最近はそんな話をする人もいなくなりました。機会があれば聞いておかなければ。
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抜けちゃったのかもね。 (トミー。(管理人))
2007-08-21 14:55:35
 満天様
 軍服の色は長いあいだに抜けてきたのかも知れません。結構記事は厚くて良いものだし、縫い方も丁寧でよく出来ていますよ。冬に毎年姉が虫干ししてます。
 当時は海軍と陸軍で両方航空隊というものが有り、空軍だけというのは有りません。
 海軍は零戦、陸軍は隼が今でも有名ですね。もっといろいろ 紫電改 とかあるけれど。この改っていうのは改良の改ね。「紫電改のタカ」 って懐かしいな、ちばてつや。(笑)

 父の若い頃は剣道の達人でもあったし結構かっこいいです。40歳前後の時は王監督に似てたし・・・。私結構ファザーコンプレックスかも。ぷぷ
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南方戦線だったの~! ()
2007-08-21 17:30:25
軍服がまだ残っているんですか!?
すごいですね~~

南方から戻ってきた人は少ないと聞きます
お父様は運が強かったんですね~

ウチの父はシベリア抑留者です
そのせいか、今でもロシアは“ロスケ!”です
(天皇も○ちゃんですが。。。
かなり厳しい体験だったのでしょう
お酒を呑むと“ロスケ”はバカだって言う話を延々とし始めます
さすがにあんまりひどい話はしませんが。。。
もしかしたら、思い出したくないのかもしれません

今度、シベリヤ抑留者への最後の恩給として、
政府から100000円の旅行券を貰えるそうです
今から、どこへ行こうか皮算用してますよ~

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不思議な気持ち (カツゴンの母)
2007-08-21 22:41:07
戦争について正直な感想です。昭和20年8月に17歳だった母と14歳になろうとしていた父。

昭和27年に英国の国営企業に勤め職場結婚した晩婚の二人の間に一人っ子で生まれ、晩婚の後に2歳男子の母である私には空襲をうける子供の気持ちと我が子を戦地に送り出す母の気持ちが一度に湧いてきます。

父母がなぜ外国人の中で戦後働く事を選んだかは聞いた事が無いけど、多分、家族を養う為、家族の負担にならないため高給の職場を選んだのかな?

父は戦中の話はしません。母は話します。未だにみかんの木箱に赤いチャンチャンコ来た炭になった赤ちゃんの姿が忘れられないと言ってます。

家の近くで火事があり火が窓から見えた時に東京大空襲を思い出し震えてました。

「記録として残し語り継ぎ戦争を戒める事は必要だけど、記録映像は見たくない。」これが両親の本音でCMでも戦争がらみのものは目を逸らします。きっと二人には心の中に空襲の忘れ物があるようです。

母は忘れられない事だと、こんな事も言いました。英国企業に勤める前に母が日本駐留米軍の所で日本政府からベビーシッターとして派遣されていたユダヤ人米軍のご主人が朝鮮戦争で亡くなった時、奥さんが「貴女には悪いけど貴女の国の人は自国の為に死ねた。私の夫は何の為に死んだのか?私達はどう受け止めればいいのか!」と静かに言い、残された娘さんがオムツの取れていない弟に夜窓から星を見せ「昨日ない新しい星見つけた?お父さんはあの星になって私達を見ているのよ。」と教えいたそうです。作り話でしょーと、茶化したくなる現実ですね。(|||_|||)

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物持ちいい一家なんで。 (トミー。(管理人))
2007-08-22 14:46:50
 夜様
 何でも残してあるんだよね。特に父の戦争関係ものは、思い入れあるらしくてほとんど残ってますよ。父が死んだら靖国神社に寄贈かな。

>ウチの父はシベリア抑留者です

 えっそっちの方が大変だったんじゃ。何万人も亡くなったのじゃないですか ? 夜さんのお父様こそ頑丈で運の強い方なのですね。父親が戦争で死んでたら自分はいなかったわけで、不思議ですよね~。

 うちの父はボルネオの港で足止めはされたが、船で無事に帰ってきたそうです。武装解除したのはイギリス軍だったそうで日本軍より装備がお粗末だったとか言ってました。

 父も、A級戦犯が靖国にいるのは嫌みたいですよ。軍上部が下のものばかり危険な目に合わせたくせに、一緒に祭られるのは納得いかないらしいです。実際戦場に行った人にしてみればそうでしょうね~。
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すぐには。 (トミー。(管理人))
2007-08-22 14:54:10
 カツゴンの母様
 親から戦争関連について聞くことの出来るのはカツゴン母さんで最期くらいかしらね~。それももう戦後のこと中心ですものね。今のうちにいっぱい聞いといた方が良いですよ。

 ハワイにいる姉の娘のボーイフレンドはイラクに2年も行って帰ってきたそうです。再会した時に姉は思わず抱きしめたとか。日本じゃ考えられないですよね。世界のどこかでいつも戦争はやってるんです。
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