比企の丘

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金子兜太・・・非業の死を遂げた戦友を思い・・・アベ政治を許さない

2015-07-16 | 語り継ぐ責任 あの戦争
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埼玉県の生んだ偉大な俳人「金子兜太」(かねことうた)の本を読んでいます。
金子さんにとって俳人とは「ニンベンに非・・・人に非ず」と母に止められていたそうですが、知らず知らずのうちに入った道のようです。
旧制東京帝国大学卒、海軍主計中尉、日本銀行員・・・俳人は裏の顔です(俳人では食っていけませんから)。
さて三冊の本です。
右から●金子兜太・半藤一利対談「今、日本人に知ってもらいたいこと」(㏍ベストセラーズ 2011年刊)
    ●わが俳句人生 金子兜太「語る兜太」(岩波書店 2014年刊)

    ●金子兜太「私の骨格 自由人」(NHK出版 2012年刊)の中の文と写真です。
           緑陰に秩父の人の話し声・・・・・・という俳句と釜伏峠あたりの写真が写されています。


金子兜太(1919年~)・・・94歳、母の実家の埼玉県比企郡小川町で生まれる。幼少期を中国上海、少年期を父の故郷の埼玉県秩父郡皆野町で過ごす。父は開業医で伊昔紅と名乗る俳人、秩父音頭再興の人(美の山公園にブロンズ像が建てられています)。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
山なみの一と隅明し蚕の眠り
旧制熊谷中学、旧制水戸高校、東京帝国大学繰り上げ卒業、1943年日本銀行入行、3日間で退職、海軍経理学校へ、海軍主計中尉に任官、1944年南太平洋ミクロネシアのトラック島第四海軍施設部に赴任。施設建設のために応募した工員を管理。トラック島は米軍の飛び石作戦の埒外にされたため上陸されることもなかったのですが補給ルートを断たれたため孤島となって終戦を迎えます(米軍にほっとかれた)。そのため食料は自給自足、2年で5回収穫できる薯を栽培、食べられる野草、小動物、昆虫はすべて食べて飢えを凌ぎます。多くの人が餓死と栄養失調、ときどきある機銃掃射で死んで行きます。トラック島にいた兵士50000人のうち30000人以上が戦闘ではなく餓死したといわれます。生き残ったのは「運」だけのようです。やがて敗戦、捕虜として労働、1946年11月最後の引揚げ船に乗って日本に向かいます。島に眠る戦没者の墓碑が船の上の自分を見ているような思いがしたといいます。
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
日本銀行復職、旧帝大卒ですからエリートコースに乗れたのでしょうが、当時の日銀の中の組織の閉鎖性に抵抗して、身分給廃止、学閥人事廃止、生活給確保を訴え日本銀行従業員組合初代専従事務局長に。労働協約も作ったそうです。それが影響してか福島、神戸、長崎の支店を回り、最後は日銀本店の巨大金庫の鍵を預かる文字通り金庫番で勤めを終えます。
組合運動に身を投じたのは南の島で非業の死を遂げた戦友、工員たちへの思いだったからでしょうか。
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り

死の戦場知らぬ政治家得意顔

作家の澤地久枝さんがこんな呼びかけをしていますクリック
その呼びかけに賛同して金子兜太さんが書いたポスターです。

澤地久枝さんの呼びかけに賛同して呼びかけを協力している人、現在123人・・・瀬戸内寂聴、日野原重明、湯川れい子、永六輔、山崎朋子・・・みなさんはさきの戦争を体験している人、垣間見た人。戦後の混乱期を知っている人です。
60年安保闘争のとき若ものを中心に国民運動のように広がった抗議活動で安保は成立したが岸内閣は退陣しました。

でも・・・・・・今、現在を、生きている人たちにとって、70年、80年前の戦争のこと、60年前の戦後の復興のこと、50年前の安保闘争のこと、むかしの人が話しても、ワカラナイでしょうね。
次世代を生きていく若ものは、今、現在のことをどう思っているのでしょう。

どうか次世代を生きていくみなさん・・・先人たちが経験した愚かな(砲撃で肉が飛び原爆で焼けただれ南の島で餓死した)戦争を反面教師として正しい歴史認識をして参政権を行使してください。




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4 コメント

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皆野町の偉人 (縄文人)
2015-07-15 05:45:52
気骨の有る方、という表現が正しいか、語るも豪放であったような気がします。
30分番組や、俳句選者でお目にかかっていますが、秩父弁丸出しのような、けして≪です≫≪ます≫は付けなかったような・・・・・。
したがって作句も、人柄を表すような句を
秩父の現地、観光地で見かけました。

作品一覧から抜粋
・夏の山国母老いてわれを与太(よた)と言う   金子兜太

親が医者であった為、貧しい農民でお金がない人には、畑の農作物が治療代に変わった。
したがって台所に何時も野菜がごろごろしていたという逸話を披露していた。

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Unknown (こきおばさん)
2015-07-15 11:09:23
取り上げて頂き有難うございます。ツイーもさせていただきました。
私のブログに書かせていただきます。
写真をお借りします。
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兜太 (縄文人さんへ・・・ヒキノ)
2015-07-16 16:56:47
現代俳句でよくわかりませんが、季語にとらわれなくてイイです。
母は生涯、兜太のことを与太といってたそうですね。俳人は人に非ず・・・俳句だけはやるなといってたそうです。

自然厳しき秩父の谷に育った骨のある秩父人という思いがします。
蚕を詠んだ句がイイです。
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リンクありがとうございます (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2015-07-16 23:44:46
何とか若い人に読んでもらいたくて。
こういうことに関心が無い人に読んでもらいたくて。
金子兜太さんは山梨県の有名な俳人の飯田龍太とも親交があったようです。

安倍首相の民意とは日本国民との公約ではなくアメリカとの公約であり、美しい日本とは属国になること・・・のようです。
貧しくともいい。戦争の無い時代が100年続きますように。
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