比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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上信国境・・・ぶどう峠を行く

2011-09-25 | 旧街道・峠道・旧宿場
9月18日、秩父から上野村へ、国道299号線から分かれて県道124号線をぶどう峠に。
聞きなれない名前ですが、全線舗装、カーブが多いのですが狭いという感じはありません。乗用車がじゅうぶんすれ違える広さがあります。
時たまバイクのツーリング、MTBでゆっくり登っているサイクラーにあいましたがほとんど車にはあいません。

峠の頂上です。これより南佐久郡北相木村、長野県道124号線です。
お地蔵様の横の石碑の裏に、竣工1965年、峯越林道武道峠、標高1560m、総延長6866mと記されています。

峠には「祈道中安全」という地蔵堂と道路開通記念の石碑とアバウトな地図、木製のベンチ、車数台が停まれる駐車スペースがあるだけです。


峠から西の信州側の風景です。北八つ岳の山々は雲に隠れていました。


「ぶどう峠」という名前が気になります。「武道峠」という表記もありますがこれは当て字のようです。すぐ近くの「ぶどう岳(1622m)」からきた名前であると思いますから武州街道とは関係ないでしょう。奥秩父に「ぶどう沢」という川があります。
山の頂上付近の斜面が1本の沢になった姿は逆三角形・・・ぶどうの房にも似てます。
砂鉄を集めて沢に流し・・・そんな姿もぶどうの房に似て・・・
いずれもわたしの勝手なあてずっぽうです。

まことに信州佐久と西上州の境は峠が多いです。ざっと数えて10数峠あります。高い山が柵のように立ちはだかっている。それで佐久(柵)という説もあります。深い谷が無数にあります。谷のことを古日本語ではサコ(迫)といい佐久に変化したという説もあります。

《蛇足》北相木村のことを少し。中世戦国時代の1565年からずっと北相木村。ぶどう峠から小海町のまでの標高差600m、東西12km、村役場の標高982m、人口850人、谷間の村です。水田はほとんど見られません。谷間の段々畑に高原野菜が栽培されています。
いまから130年以上前、明治時代の1884年の秩父事件の困民党の参謀長菊池寛平、軍用金係井出為吉はこの村の人です。
途中、諏訪神社に満蒙千曲郷開拓団戦争殉難者の慰霊碑があると聞いていましたが今回はパスしました。北相木村の満蒙開拓参加世帯149戸、敗戦後300有余名が日本の土を踏むことなく満蒙の地に眠ったと聞きます。

相木村の谷を下りて小海町方面に進んでいきます。


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