比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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冬の松本平・・・明治の夜明け・・・教育ことはじめ・・・開智学校

2018-01-11 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

冬の松本平・・・12月15日、松本城、城下町、城山、冠雪の大滝山、蝶ヶ岳、常念岳、大天井岳(おてんしょだけ)・・・
※フォトポイントは松本市役所6Fの展望室。

松本城巡りのあとの北へ500m、国指定重要文化財「旧開智学校校舎」へ。

明治6年(1873年)開校、明治9(1876年)年竣工の
・・・「開智学校」・・・
明治維新、新政府は明治5年(1872年)、「学制」を公布、6歳以上の義務教育を決め、学校の建設など教育の推進を計ります。これをうけ当時の筑摩県では1973年松本城下の廃仏毀釈で廃寺になった寺の跡地の仮校舎で小学校を開校、筑摩県権令永山盛輝の主導で校舎を1875年起工、21876年完工させた。建設費11000円、70%を松本町民の寄付で、30%は特殊寄付金で。
設計、施工は地元の大工の棟梁立石清重。東京、横浜の洋館をつぶさに見て研究したという。

擬洋風建築、素晴らしい匠の技です。




※撮影日は12月15日。
永山盛輝(1826~1902年)・・・薩摩藩士、勘定奉行、江戸留守居役、明治政府官僚、政治家、貴族院議員、男爵。永山が筑摩県の権令の間に設立された学校は100数10校。薩長閥の官吏であったが教育理念に燃える能吏であったのだろう。短期間ではあったが明治初期の長野県の教育を推進し「教育権令」ともいわれた。1875年新潟県令に。
明治維新前後の長野県の教育事情・・・1883年の調べによれば江戸末期の寺子屋数は全国で15560、信濃国で1341(全国比8.6%)。1875年の小学校就学率は全国平均で35%、筑摩県(中信、南信)で72%、長野県(北信、東信)で59%。これがのちに長野県は教育県といわれた理由。山岳県で耕地率少なく(現在で8.6%)長男以外は外に出ていかざるを得ず読み書き算盤が必要だった。
立石清重(1829~1894年)・・・松本城下の大工の棟梁。この設計に際し上京、東京、横浜で洋風建築をつぶさに研究、開成学校、東京医学校(ともに東京帝大の前身)を模したといわれる。東京医学校はいまも小石川植物園内に保存されている。主な建築‥・長野県会議事堂、松本裁判所、大町裁判所、長野師範学校松本支校、旧制東筑摩中学校(現松本深志高校)など。



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