比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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長崎の旅・・島原の乱の・・原城・骨噛地蔵

2006-09-17 | 古城・城址・陣屋・館跡
長崎の旅です。
島原半島を回ります。サッカーで有名な国見の町を過ぎ島原市に入ります。島原城に駐車して武家屋敷を歩きました。江戸時代の地方公務員住宅です。宅地の大きさはほとんど同じ100坪弱か、間取りは少しずつ違うようですが3LDKぐらい。現在2軒しかありませんが町並みは当時と同じです。島原城は巨大なハコ物です。このための巨大な出費や放漫財政が島原の乱の原因にもなっているようです。ここを抜けて島原・天草の乱原城址に行きました。


原城址は何もありません。ただの海岸段丘です。石垣もありません。
岡の上から早埼瀬戸、天草方面が望めます。半島の先は口之津か。菜の花と桜が咲いていました。





原城址の骨噛み地蔵・・・
岡の上の広場は公園のようでもあり、お花見の提灯が飾ってあります。お百姓さんの歴史の場所ですからいいでしょう。夜には盛大な宴会が開かれているに違いありません。記念碑的なものがあり天草四郎の像(北村西望作)がありますがそれだけです。岡から一段下がった広場に「骨噛み地蔵」があります。数十年、数百年たってもこの辺の畑では土を耕すとときどき骨にあたるそうです。37000人の一揆衆(キリシタンの乱ではないのです)の骨です。花が手向けられています。

この海を眺めているといろいろな思いがよぎります。「サンダカン八番娼館」で語られた「おさきばあさん」のこと、宮崎康平が「島原の子守唄」に歌った口之津のこと、大矢野の島からカリスマとして来た弱冠16歳の天草四郎こと増田時貞のこと、石高半減を願い出て腹を切った天領天草の代官鈴木重成のこと。

この話の続きは明日に。



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