比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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山陰・山陽を行く⑦・・・広島城

2009-08-10 | 古城・城址・陣屋・館跡
さて山陰・山陽の旅です。旅は続いています。
広島平和記念公園から元安橋を渡って原爆ドームをぐるりと回ってから、つい最近までプロ野球「広島カープ」の本拠地だった「旧広島市民球場」に。現在は現状のままですが跡地利用については流動的のようです。この地は平和記念公園、原爆ドームなど平和祈願地区、それにふさわしい活用をしてもらいたいですね。

市民球場の横を通り抜けて広島城へ。

表御門から二の丸に入ります。これより内堀に囲まれた場内です。横に見えるのが平櫓。

二の丸から本丸方面に、天守閣です。最上階に回廊があり転落防止の柵で囲まれているようです。
鯉城(りじょう)ともいいます。「広島カープ」のCarp(鯉)はここからとっています。

1589年築城開始の天守閣、もちろん1945年原爆で跡形もなくなります。1958年再建の天守閣です。

本丸にある礎石群。旧大本営跡地のようです。
広島市は軍都だったのです・・・大日本帝国第五師団、軍港宇品、軍需産業など。近くに海軍工廠の呉。

広島城・・・1589年吉田郡山城(現安芸高田市)にいた毛利輝元(「三本の矢」で有名な毛利元就は父)が築城開始、1591年入城、1601年福島正則入府、1619年浅野長晟(播州赤穂の浅野家は同族)が入府して明治まで。
毛利輝元・・・関が原の戦いの西軍総大将、この戦いは輝元の同族の小早川秀明の寝返りで東軍の勝ち!総大将の輝元は安芸・備後49万石から周防、長門37万石に。斬首にならなかったのは不思議 一門の裏工作が成功したのか・・・「三本の矢」だっ

福島正則(1561~1624年)・・・広島城はこの人の代で完成したらしい。愛知県美和町の生まれ。羽柴秀吉の小姓衆。1589年賎ヶ岳の戦いで5000石に・・・槍一筋で出世です そのご数々の武功で今治11万石、清洲24万石。秀吉の忠実な部下ですが主家の代が変わりそのスタッフ石田三成とあいません。よくある人間関係です。関が原の戦いでは家康に与して東軍に。その武功で1601年安芸・備後49万石広島城に入府。武人ですが民政も達者だったらしく検地、実収の見直しなど行い51万5800石に、地方行政組織も固めます。
ところが外様の悲しさか自身の性格ゆえか、幕府首脳にとことん睨まれます。1619年台風被害の広島城修復工事を無断で行ったとしてお咎めを。工事願いは提出していたらしいのですが知らんふりです。ハメられたのですね すったもんだの挙句、信濃国高井野藩(現在の長野県上高井郡高山町・・・須坂市から山に入ったところ、山田温泉あたり)4万5000石に移封させられます。ひたすら恭順の姿勢で1620年2万5000石を返上して2万石に。1624年正則は死去、幕府使者が来る前に火葬にしたのを咎められ正則の子正利は3000石の旗本に
徹底的なイジメですね。正則は瞬間湯沸し器のような思慮分別のない男であったのでしょうか。

何か現在の政党政治を見ているようですね。オヤカタと違う意見だったら選挙区に刺客を送られたりお国替えだったり、上層部の意見と違えば辞表提出という更迭劇があったり、離党届を出せば党籍除名にしたり、恭順の意を示せば血判の誓約書を書かせたり。

広島城・・・それ自体には関係ない話です。天守閣には登りませんでした。
街に出て「広島お好み焼き」を食べよう。


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