5月12日、北信濃路・・・中野市永江・・・唱歌「故郷」のふるさと・・・高野辰之の生家を尋ねました。
「うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川」で始まる文部唱歌「故郷」を知らない人はいないでしょう。
2006年に文化庁と日本PTA全国協議会が選んだ「日本の歌100選」に選ばれた唱歌「故郷」は・・・だれでも口ずさめる素晴らしい歌、1914年に発表されてから100年余になりました。もう音楽のすべてのジャンルを超えてスタンダードナンバーです。
その「故郷」を作詞した高野辰之の「ふるさと」長野県下水内郡永江村(永田村、豊田村、現中野市)を尋ねました。
千曲川の左岸、斑尾山麓の東南、斑川に沿った山間部の緩斜面、高野辰之の生れた永江村は農村そのものです。
※高野辰之(1876~1947年)・・・文部省唱歌「故郷」「朧月夜」「春が来た」「春の小川」「紅葉」「日の丸の唄」・・・などの作詞で有名。長野県下水内郡永江村(現中野市)に生まれる。尋常高等小学校卒業、代用教員、長野尋常師範学校、小学校教師、志を立てて上京し東京帝大用務員になり傍ら帝大教授国文学者の上田萬年の講義を秘かに聴講、後に上田教授に認められ書生として学問の道に。上田萬年の推薦で東京音楽学校の吏員に、やがて教授、東京帝大から文学博士号授与、東京帝大講師。素晴らしい叙情歌の作詞者としての顔しか知りませんが、近世の演劇、歌謡、文学など数々の著作を残した国文学者です。
※明治時代につくられた文部省唱歌、高野辰之をはじめ作詞者も作曲家も永らく公表されませんでした。理由として文部省小学校唱歌教科書編集委員(作詞6人、作曲6人)という形で業務命令で共同制作されたものだからといわれます。共同制作でつなぎ合わせるということは無理がありますから誰かがオリジナルを作って添削を重ねていくという形ではなかったと思います。特に詞においては文語体を口語体にというのが文部教育の悲願の時代でもあったのです。曲についても西洋音階を取り入れる時代でした。作詞、作曲のオリジナル提供者にはかなり高額のそれなりの提供料が支払われたともいわれますが真偽は確かめようがありません。そして関係者も固く口を閉ざして数十年が過ぎました。国家事業としての音楽教育であり著作権は文部省に帰するというのが理由であったのでしょう。
昭和40年代(1965年~)になって、数々の検証がされて文部省唱歌の作詞家、作曲家の名前が明らかにされるようになりましたが、資料不足により確証を得られないものも(作曲者の岡野貞一は自筆の譜面も残していないそうです)。記念館前の歌碑の文部大臣の揮毫は1974年(昭和49年)のものです。
教科書の「故郷」に作詞高野辰之、作曲岡野貞一と名前が載るようになったのは1992年以後のことのようです。
「故郷」の著作権、高野辰之は没年の1947年+50年、1997年に消滅。岡野貞一は1991年に消滅。
※「志を立てて いつの日か帰らん」・・・立身出世の歌という人もいます。山の斜面にへばりついたような信州から道を志し上京、盗聴までした辰之、しかも金にならない学問の道。ふるさとを思い抱きながら己のの思う道に・・・日本人の神髄。
今回は「上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
高野辰之といっても知ってる人は?・・・でも・・・信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
「うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川」で始まる文部唱歌「故郷」を知らない人はいないでしょう。
2006年に文化庁と日本PTA全国協議会が選んだ「日本の歌100選」に選ばれた唱歌「故郷」は・・・だれでも口ずさめる素晴らしい歌、1914年に発表されてから100年余になりました。もう音楽のすべてのジャンルを超えてスタンダードナンバーです。
その「故郷」を作詞した高野辰之の「ふるさと」長野県下水内郡永江村(永田村、豊田村、現中野市)を尋ねました。
千曲川の左岸、斑尾山麓の東南、斑川に沿った山間部の緩斜面、高野辰之の生れた永江村は農村そのものです。
高野辰之記念館(1991年開館)・・・辰之が学び教鞭をとった旧永田尋常小学校跡地。
高野辰之記念館にある「故郷」の歌碑。昭和49年に建立。当時の文部大臣の揮毫によるもの。
真宝寺・・・「朧月夜」の一節にある「蛙のなくねも かねの音も」・・・の鐘の音はここ真宝寺の梵鐘と伝えられています。
真宝寺の梵鐘の傍らに・・・「朧月夜」の歌碑。
高野辰之の生家・・・敷地内に入ることはできません。
高野辰之の生家の土蔵・・・辰之は子供時代、この土蔵の中で勉強したそうです?
高野辰之記念館にある「故郷」の歌碑。昭和49年に建立。当時の文部大臣の揮毫によるもの。
真宝寺・・・「朧月夜」の一節にある「蛙のなくねも かねの音も」・・・の鐘の音はここ真宝寺の梵鐘と伝えられています。
真宝寺の梵鐘の傍らに・・・「朧月夜」の歌碑。
高野辰之の生家・・・敷地内に入ることはできません。
高野辰之の生家の土蔵・・・辰之は子供時代、この土蔵の中で勉強したそうです?
※高野辰之(1876~1947年)・・・文部省唱歌「故郷」「朧月夜」「春が来た」「春の小川」「紅葉」「日の丸の唄」・・・などの作詞で有名。長野県下水内郡永江村(現中野市)に生まれる。尋常高等小学校卒業、代用教員、長野尋常師範学校、小学校教師、志を立てて上京し東京帝大用務員になり傍ら帝大教授国文学者の上田萬年の講義を秘かに聴講、後に上田教授に認められ書生として学問の道に。上田萬年の推薦で東京音楽学校の吏員に、やがて教授、東京帝大から文学博士号授与、東京帝大講師。素晴らしい叙情歌の作詞者としての顔しか知りませんが、近世の演劇、歌謡、文学など数々の著作を残した国文学者です。
※明治時代につくられた文部省唱歌、高野辰之をはじめ作詞者も作曲家も永らく公表されませんでした。理由として文部省小学校唱歌教科書編集委員(作詞6人、作曲6人)という形で業務命令で共同制作されたものだからといわれます。共同制作でつなぎ合わせるということは無理がありますから誰かがオリジナルを作って添削を重ねていくという形ではなかったと思います。特に詞においては文語体を口語体にというのが文部教育の悲願の時代でもあったのです。曲についても西洋音階を取り入れる時代でした。作詞、作曲のオリジナル提供者にはかなり高額のそれなりの提供料が支払われたともいわれますが真偽は確かめようがありません。そして関係者も固く口を閉ざして数十年が過ぎました。国家事業としての音楽教育であり著作権は文部省に帰するというのが理由であったのでしょう。
昭和40年代(1965年~)になって、数々の検証がされて文部省唱歌の作詞家、作曲家の名前が明らかにされるようになりましたが、資料不足により確証を得られないものも(作曲者の岡野貞一は自筆の譜面も残していないそうです)。記念館前の歌碑の文部大臣の揮毫は1974年(昭和49年)のものです。
教科書の「故郷」に作詞高野辰之、作曲岡野貞一と名前が載るようになったのは1992年以後のことのようです。
「故郷」の著作権、高野辰之は没年の1947年+50年、1997年に消滅。岡野貞一は1991年に消滅。
※「志を立てて いつの日か帰らん」・・・立身出世の歌という人もいます。山の斜面にへばりついたような信州から道を志し上京、盗聴までした辰之、しかも金にならない学問の道。ふるさとを思い抱きながら己のの思う道に・・・日本人の神髄。
(信越高速道豊田・飯山ICから数分・・・お近くにいらっしゃったときぜひ寄ってもらいたい場所です)
高野辰之は心優しい人であったのでしょう。
有り難うございます、作詞者の原点に立ったような気がして、
一気に読み終えました。
碓氷峠に旅したとき《紅葉》の碑に出会いました。
「いかにいます父母 恙なしや友がき」・・・
おフクロのことは今も目に浮かびます。
日本中、どこにも高野辰之の描いた「故郷」があります。
高野辰之について長くなりました。
コメントで高野辰之の作詞ではなく文部省の委員たちの共同制作だという人がいましたから。