比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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長崎の旅・島原の乱・・天草四郎

2006-09-18 | 古城・城址・陣屋・館跡
島原・天草の乱原城の丘からです。
この近くに日野江城址があります。切支丹大名有馬晴信の城です。最近この城址は町長がお花見公園にするため大改造をして問題になりました。話はもどります。

すべては晴信からこの悲劇が始まります。晴信はいろいろなことがあり改易、切腹、その息子直純は徳川家康の孫娘の婿だったためうまいこと姻戚人事で延岡に配置転換になります。ゴタゴタを避けたのです。代わって奈良から赴任してきた松倉重政というのがスゴイ奴です。島原城というハコを作るため大増税計画を推進します。オマケに中央の覚えめでたくしようと切支丹の大弾圧をします。もはやサドです。苛斂誅求という言葉を辞書で調べてください。息子の勝家も輪をかけたバカワルです。収支計算など考えません。
天草諸島は切支丹大名の小西行長の領地でした。この人は首をチョン切られます。後の管理を任されたのが唐津の殿様です(飛び地)。42000石といいますが実高は半分も無かったのです。この人も同じように苛斂誅求をやります。

1637年(徳川家光の時代)起こるべくして一揆は起こります。失うものは何もありません。切支丹ですから死はハライソ(パラダイス)です。若きイケメンリーダーは天草大矢野島の益田四郎時貞、年齢はアイマイで14から16歳、今の中高生ぐらい。判断力、統率力などあるはずがありません。有馬、小西の残党で帰農したものが中心に四郎を核になるカリスマ的指導者として担ぎ出したのでしょう。みんなマインドコントロールされてしまいます。

一揆衆37000人、幕府方126000人、オランダに艦砲攻撃をやらせます。オランダは政教分離の国で貿易の独占契約という利権があるからドンスカやります。ただし砲弾は届かなかったようです。大体この城はただの丘だったのです。でもオームと同じで多勢いれば大工も左官も石工もいますから砦などすぐ作ったでしょう。火器もかなりあったようです。戦いが終わるまで6ヶ月かかりました。37000人すべて虐殺。これはたいへんな作業です。

幕府方はたてまえは「切支丹の乱」で決着をしますが実態は「百姓一揆」です。普通は係長とか課長が責任を取らされのですが島原の2代目バカ社長松倉勝家は切腹(斬首)です。近隣の諸大名に対する姿勢、お百姓衆にたいするアピールだったのでしょう。この処刑で虐殺された37000の魂はハライソに行けたことでしょう。そうでないと救いの無い顛末になります。

海を見ているとそんなストーリーが浮かびました。

読んだ本
 司馬遼太郎「街道をゆく 島原・天草の諸道」(朝日新聞社1987)
 石牟礼道子「アニマの鳥」(筑摩書房1999)
 立松和平「奇跡 風聞・天草四郎」(東京書籍2005

アニマの鳥」のラストシーンで鈴木重成が出てきます。天草の石高半減を上申して腹を切った天領天草の代官です。体制にたてついた公務員です。握りつぶされていた上申が通るのは6年後です。天草では神社に祀られているそうです。

旅は続きます。


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2 コメント

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長崎の旅・島原の乱・・天草四郎 (比企の丘から)
2006-09-18 21:33:58
Fukuharaさま

コメントありがとうございました。Wordお手のものですね。絵も写真も文章も楽しんでやってます。またいつかコメントください。



埼玉の暑さも一段落です。

奥様によろしく。
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こころ癒される… (Fukuhara)
2006-09-18 20:40:01
日記を拝見しました。あまりの絵のすばらしさに感動いたしております。

わたくしは九州にきまして35年になります。長崎には出張で再三行きましたが、ゆっくり景色をみることは少なく…あなたの絵で改めて長崎の美しさを感じました。ありがとう。



お手紙も家族みんなで感動しました。

今年の夏は格別の暑さで、会社にもまれ・社会にもまれ、身体にはこたえました。

最近になってやっと涼しくなりましたが、昨日の台風13号福岡直撃!久しぶりに台風の怖さを知りました。元気にしておりますので機会があったらまたゆっくりお出かけください!おまちしております。ご家族にもよろしくお伝えください。
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