神話の時代から続く国・・・諏訪・・・
古事記に記された「国譲り」・・・争いに敗れこの地に入った建御名方神が創設したという諏訪の国。
諏訪大社の御神体「守屋山」を尋ねます。
わたし的の推論ですが・・・落人説にうなづけます。古屋敷という地籍名もそれを裏付けるような気がします。もうひとつの推論は、信州は古代より馬の育成地。官営牧経営以前から大和王朝の権力者たちの私営牧があったとも推測されます。物部氏の私営牧がこのあたりにあった? 物部氏滅亡後、牧経営に従事していた者たちが物部氏を祀ったか?
守屋氏を討った蘇我一族も645年乙巳の変で中大兄皇子、中臣鎌足らにより暗殺。大和王朝の歴史は血の歴史です。
☆謎多き諏訪の国シリーズはひとまず終わり・・・
古事記に記された「国譲り」・・・争いに敗れこの地に入った建御名方神が創設したという諏訪の国。
諏訪大社の御神体「守屋山」を尋ねます。
信州上田の・・・六文銭の写真帳
守屋山(1631m)の東峰頂上・・・ここから少し回りこむと小さな祠が見えてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/0b/ad5d42f3ed335ddf664924fb9e969b4a.jpg)
小さな石碑・・・「守屋神社奥宮」・・・鉄柵に囲まれた石祠・・・物部守屋大連大神という文字が見えます。
諏訪盆地の方角ではなく国道152号高遠方面を向いています。里宮は谷の底の古屋敷集落に鎮座しています。
「物部守屋」・・・
・・・6世紀大和王朝時代の大連(王朝の最高執政官)です・・・いよいよワカラナクなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/cf/10ffd0cad92e9e6e3f24fa443086be3a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/0b/ad5d42f3ed335ddf664924fb9e969b4a.jpg)
小さな石碑・・・「守屋神社奥宮」・・・鉄柵に囲まれた石祠・・・物部守屋大連大神という文字が見えます。
諏訪盆地の方角ではなく国道152号高遠方面を向いています。里宮は谷の底の古屋敷集落に鎮座しています。
「物部守屋」・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/eq_1.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/cf/10ffd0cad92e9e6e3f24fa443086be3a.jpg)
※撮影は5月19日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。
※物部守屋・・・6世紀大和王朝、蘇我一族と並ぶ朝廷の一大勢力、仏教伝来の時代、これを受け入れるかどうかで導入派の聖徳太子、蘇我馬子に対して廃仏派のリーダー、やがて流血の争いに(丁未の乱587年)、戦いに敗れた物部守屋は殺され、逃げ延びた一族がこの地に?・・・それを実証する史書も文書もなく伝説であり推論です。神長官守矢氏、守屋山との関連も推論です・・・謎は深まります。わたし的の推論ですが・・・落人説にうなづけます。古屋敷という地籍名もそれを裏付けるような気がします。もうひとつの推論は、信州は古代より馬の育成地。官営牧経営以前から大和王朝の権力者たちの私営牧があったとも推測されます。物部氏の私営牧がこのあたりにあった? 物部氏滅亡後、牧経営に従事していた者たちが物部氏を祀ったか?
守屋氏を討った蘇我一族も645年乙巳の変で中大兄皇子、中臣鎌足らにより暗殺。大和王朝の歴史は血の歴史です。
☆謎多き諏訪の国シリーズはひとまず終わり・・・
今回の一連の諏訪大社の御神体「守屋山」のお話は、大変参考になりました。
諏訪大社のご神体が山とは知りませんでした。
しかも、物部守屋の一族が諏訪地方まで、逃げてきたとは・・。古代史はいろいろな説があり、興味深いです。
諏訪大社の御柱祭も謎が多いお祭りです。
謎多き・・・諏訪大社の御神体・・・守屋山は・・
諏訪大社の御神体・とは全く知りませんでした。
夢中で登りし、とにかく眺望がすばらしかったことは記憶しています。
2005年6月のことでした。
ヒキノさんの腕の良い画像、改めて10数年前を振り返り、行く途中に山小屋があり、皆さんの寄せ書きがあった記憶が蘇りました。
杖突峠から高遠、大鹿、遠山郷への道は一度は辿って見たい道です。
コメントありがとうございました。
日本人は山を信仰の対象にするのですね。
むかし子どものころ村にあった神社で御柱がありました。長野県では諏訪大社系の神社が多いです。
コメントありがとうございました。