比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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初冬の信濃路・・・旧中山道・・・和田宿・・・皇女和宮・・・江戸下向への道

2018-03-03 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2017年初冬、ふたたびの諏訪・・・諏訪大社下社周辺を尋ねました。
帰り道、国道142号線(旧中山道)の和田峠を越えると旧中山道69次28番の和田宿の集落です。
下諏訪宿から20㎞(5里)、最高標高1531m、中山道一の難所でした。
国道から旧道に入ります。

和田宿本陣冠木門です。奥に見えるのは大名の泊まる御本陣座敷棟ではなく本陣居室棟です。
本陣全体は1861年3月の大火で消失、和宮降嫁の御行列が10月ということでその再建を近郷・近在、他県の大工、職人を集めて昼夜を問わずの工事でようやく10月の行列に間に合わせたといいます。
皇女和宮が泊まられたという座敷棟は維新後に丸子町龍願寺に移築。
居室棟は明治以後、役場として1984年まで使用、その後、役場の新庁舎建築に際して解体・修復・屋根は当時のままの石置き・板葺に復元。
間口12件、奥行き9間、出桁造り、二階建て(二階に窓が無い?)・・・堂々たる建屋です。


御入門です・・・維新後に丸子町向陽院に移築、平成元年に現存する向陽院の門から設計図を起こして完全復元。
座敷棟は道路改修などで土地がぜばめられ、復元できなかったようです。

中山道和田宿のおもかげを残す町並みです・・・左手前は歴史的建造物「羽田野家」そのままに、お蕎麦屋「徳田」・・・

旅籠「大黒屋」・・・一般公開されています。

石合・・・むかしの旅籠の雰囲気が・・・

戦国時代の和田城城主大井信定の菩提寺・・・1553年武田信玄の信濃侵攻(第一次川中島の戦い)で討死、
1554年菩提を弔うために開山。信定の生を冠して「信定寺」。
※撮影は2017年11月28日
和田宿・・・江戸時代の宿の雰囲気を残した静かな街です。
蛇足》1861年孝明天皇の異母妹「和宮」(15歳)が徳川14代将軍家茂(15歳)に嫁ぎます。徳川も末期、長期政権で疲弊・弱体化していますから公武合体策とやらで梃子入れを画策、そのための政略結婚です。これを「降嫁」、江戸に嫁に行くわけですから「下向」といいました。ずいぶん馬鹿にしていますね。いまは天皇家の娘が庶民の嫁になってもそういいません。
この「和宮」下向の行列がすごい。ここの本陣のパネルによると・・・幕府方のお侍15000人。京都がた10000人、通し人足4000人、雇い人足7000人、各藩からの警固役10000人、馬2000匹、馬士2000人、助郷人足13000人。合計すると61000人ですがパネル合計は延べ80000人なんて書いてあります。「和宮」お泊りの宿の前後の計3宿が満室状態・・・実際はそんな収容キャパがありませんから、かわいそうに助郷人足たちは晩秋の信濃路で野宿だったそうです。
10月20日に京都を発った行列は11月15日、26日間で江戸に入ります。1日平均20km(5里)。
これだけの大事業での政略結婚、5年後の1866年7月家茂が京都で謎の死、12月兄孝明天皇が謎の死で終わりのときを迎え、1868年明治維新。1877年病を得た和宮は療養先の箱根塔の沢温泉で生涯を終えます(享年31歳)。


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