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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

秋葉街道・・・日本でいちばん美しい村・・・大鹿村の・・・松下家

2007-08-24 | 古民家の風景
信州の谷間の街道を散策しています。
国道152号線、中央構造線に沿った秋葉街道といわれる谷間の道です。

秋葉街道の中心部、赤石山脈の麓、大鹿村に来ました。中央構造線の大崩落地を見てから遠山郷上村に向かう青木川を少し上流に向かいます。川に沿った道から離れて高度差100mくらい海抜約850mの引野田という集落に登りますと豪農松下家の住宅があります。

松下家・・・国指定重要文化財.

松下家、戦国時代からの豪族のようです。名主格、地主、御館であると思われます。現在の住宅は1820年の建造。
本棟作り・・・信州松本平から伊那地方にかけての独特の建築様式です。
切妻大屋根の建物の妻側を正面にとって玄関があります(妻入り)。二階がありますが屋根裏です。大屋根は両側とも一階まで延びています。切妻頂部に雀踊りなどと呼ばれる派手な飾りがあるのですが、ここでは懸魚のみ。
月・火曜日が休みなので本日は閉館。母の実家がこの造りでしたので中に入らなくても大体の構造はわかります。
玄関が左側なので通し土間は左側に、厩も玄関を入った左側にあったでしょう。大戸があって潜り戸があります。右側が座敷(12部屋)、正面に縁側、その横に式台、式台は侍格の出入り口です。
閉館中ですので周りをぐるりと回っただけです。裏側はガラス戸になってましたからお勝手などは時代に合わせて改装したものと思われます。
8間×9間、72坪。重要文化財ですので現在は村が借り受けて管理しているようです。

駐車場、トイレがあります。お客さんは奈良から来たという青年と私たちだけ。本棟造りの説明?をしてあげました。

ボツボツ昼です。大河原に戻ります。

彩の国・・・鴻巣・・・花久の里・・・古民家「青木家」

2007-06-20 | 古民家の風景
埼玉県鴻巣市「花久の里」、ここは元川里町(現鴻巣市)、見沼代用水、武蔵水路が流れる関東平野のど真ん中です。二代に渡る元衆議院議員故青木正、故正久の先祖代々からの家屋敷です。正久の義妹が幸田露伴の孫、青木玉さんです。旧家です。堂々たる長屋門があります。名字帯刀を許された本百姓と勝手に思いました。

長屋門から母屋。右の写真は外堀(構え堀)から見た母屋と土蔵。

2002年(平成14年)青木家から旧川里町に寄贈されました。リニューアルされてオープンしたのは五月の末のことのようです。屋敷地は1000坪、屋敷自体は50坪以上はあるでしょうか。中はフローリングされプチコンサートなどが開かれるようになってます。休みの日は「手打ちウドン」などが出されるお休み処にもなるようです。

寄贈された当時の青木邸です。

嘉永4年(1851年)、明治維新の17年前です。明治30年の棟札も見つかったそうですが修復か建て直しかは不明のようです。箱棟瓦葺、1尺以上の大黒柱があります。

リノベーション・・・ではなく歴史的建造物の破壊です。ザンネンです。むかしの面影が消えているのです。武蔵野の農家の原点が見えません。
まっ!いいかっ!

中庭では農産物直売センターがあり新鮮な野菜が売られています。ここは米どころ野菜どころ花卉栽培どころです。草花、ハーブ、山野草などをも並べられています。
ウチョウランです。
日本に自生する東洋ラン。最近は栽培で増殖され交配による改良種も増えてるそうです。これはあきらかに改良種ですね。
値段は見忘れました。

カンアオイです。
ウマノスズクサ科。
なんだ!そりゃ!
カタクリの葉っぱのようにも見えます。こんなものまで栽培してるのですね。育てるのも難しそう。
2000円の値札が。


まだ早いので行田市のさきたま古墳群に散歩に行くことにしました。

彩の国・・・深谷・・・血洗島の風景・・渋沢家

2007-05-04 | 古民家の風景
深谷の街を歩いてます。むかしの中山道の宿場町、市場町です。今は東芝、松下、サンウェーブ、古河などの工場が並ぶ工業都市であり、利根川、荒川に挟まれた沖積平野の農業生産地でもあります。「花フェスタ」会場で煮ぼうとうを食べ後は帰るだけですが、この土地が生んだ明治の巨人渋沢栄一の生家に立ち寄りました。

深谷市血洗島というブッソウな地籍です。地名の由来には恐ろしい話がありますが利根川の氾濫でたびたび地(血)が流された(洗われた)というのが正解のようです。

四本柱、切妻屋根の堂々たる正門です。建築様式では医薬門といいます。

1895年建造の主屋。典型的な養蚕農家の家です。奥行き5間、間口9間。切妻二階建て。屋根には養蚕用の煙出があります。屋号は「中の家(ナカンチ)」。名字帯刀を許された本百姓、村三役クラスの家です。明治の時代には養蚕、藍玉生産販売、雑貨商、質屋業を営んでました。


近代資本主義の父「渋沢栄一」と言っても知ってる人はほとんどいないでしょう。明治の時代、第一銀行の創設で知られ数々の会社設立にかかわった人です。東京証券取引所、日本レンガ、秩父セメント、帝国ホテル、日本郵船、東洋紡、王子製紙、東京ガス、東京火災海上、京阪電鉄、キリン、サッポロ、数え上げたらキリがありませんが今はキレイに渋沢の名前が消えてます。

私は渋沢栄一には興味は全くなかったのですが閑に任せて柳田國男、網野善彦、宮本常一の本を読んでいて、この人の孫の渋沢敬三という人に突き当たりました。終戦直後の日銀総裁、大蔵大臣を勤め、自分の会社「渋沢財閥」を含め三井、三菱などの財閥を解体した人です。
財閥解体と財産税でスッテンテンになった人ですが民俗学に造詣が深く私財を投じても研究者達に援助を惜しみませんでした。民俗学の父とも言うべき人です。

「渋沢家三代」(佐野真一・文春新書1998)
渋沢栄一の本についていろいろ読みました。どれもが業績を讃えた偉人伝です。ようやく「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」を読み、この本にたどり着きました。栄一の長男篤二の挫折、栄一の孫、敬三には叔父、叔母が20数人いたということなど、ありのままに記しています。

秋山郷に行ってきました・・・信濃の国は

2006-08-22 | 古民家の風景
信州塩田平でお盆を過ごしているうちに、ふと思いつきで信越国境の秘境秋山郷に行ってきました。飯山の街から木島平へ、カヤノ平(標高1200㍍くらい)で一休み。草原にはニッコウキスゲは見られませんでしたがシモツケが群落となって咲いていました。カヤノ平を過ぎて、志賀高原からの道と合流、雑魚川に沿って切明温泉まで下ります。沢を横切る道には数100㌧の雪渓がせり出しています。切明で魚野川と合流し中津川となった川は津南町大割野で信濃川に合流します。切明からは群馬県六合村野反湖、長野原につながる古道があり往時は人が行き交ったとの事です。国道405号線は津南から秋山郷に、切明から人道になり再び野反湖から再び405号線として長野原、とちゅう大笹街道と合流して高崎へと続きます。
鳥甲山を左に見ながら深いV字谷の中腹を、切明から小赤沢へ、道端のシシウドの花がきれいです。
小赤沢の総合センターで一休み、ここの資料館でここがマタギの南限であることを知りました。ここは苗場山の登山口(標高800メートルくらいか)です。すぐ近くの茅葺中門造りの保存民家を見学。26坪(4間×6間)くらいか。2坪の中門から8坪の土間(キッチン、作業場、収納所を兼ねているよう)、8坪の板敷きの囲炉裏の間、奥に10畳の座敷。座敷の横は3坪の納戸のようなもの、座敷には天井がありましたから上は隠し収納所かな。江戸中期の建造、築200年、1DK,豪雪にも耐え丈夫です。壁は土壁に外から板をはってます。傷んだところから土と木舞が見えました。
知らない街に行ったらその土地のものを食べたいのですが、まだ10時。ザンネン!

秋山郷小赤沢、中門造りの古民家
 

小赤沢をあとに屋敷、五宝木トンネル(この辺で標高1000㍍を超える)を抜けて森宮野原(117号線)辺りを目指します。途中、北野天満宮辺りで地蔵堂らしきものを見る。

地蔵堂らしきもの(北信濃栄村北野あたり)

森宮野原(標高400㍍くらい)に着いたのは11時ころ。
今回は秋山郷のことを何も知らずに来たので、つまらなかった。何のために来たのだろう。越後秋山郷と信濃秋山郷がどうして分れているのだろう。こういうことは土地の人に聞いては失礼だ。街を訪ねるときは実行のときより下調べのときの方が数倍面白いのだ。反省!
時間があるので飯山から新井に抜けるむかしの「塩の道 富倉街道」の富倉蕎麦を食べに行こうかと思ったが道を間違えてしまった。長野まで行って昼飯を食べよう。

長野で「東山魁夷館」を見てきました。私はこういううますぎる絵はただただ圧倒されてしまう。