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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

彩の国・・・コロボックル人の棲み処だったのか・・・「吉見の百穴」・・・横穴墓群

2016-10-28 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田・・・稲倉の棚田の古墳に関連して・・・
彩の国吉見町にある古墳時代末期の横穴式墓群「吉見の百穴」(ひゃくあな)です。

埼玉県東松山市と吉見町の境界を流れる荒川水系市野川、その左岸の吉見町北吉見地籍。
市野川の河岸段丘、凝灰岩質砂岩が露頭した崖地に不思議な横穴が・・・現在219穴。

幻想的な風景・・・コカコーラやソフトクリームの看板が無ければ・・・
空色のベストのかたはボランティアガイドさんかな?

中央に墓穴よりひと回り大きい洞窟があります。戦時中に掘削された軍事工場跡です・・・その話は後程。
※撮影日は10月24日、LUMIX DMC-G7。

※江戸時代の文献にも「吉見の百穴」が出てくるそうです。「ひゃくあな」か「ひゃっけつ」か・・・どうでもいいことですが地元の人は古くから「ひゃくあな」といってるそうです。
※弥生式土器の発見で有名な坪井正五郎博士が東京帝国大学の大学院生のころ地元の人の協力を得て1887年発掘調査、237の横穴を露頭させたといわれますが詳細な記録・写真が無いようです。坪井博士はこの横穴をコロボックル(アイヌ伝承に出てくる小人)の居住跡という説を発表、何とも幻想的でロマンあふれる説でしたが、この説は論議を呼び、大正時代の中ごろに横穴式墓群というのが定説になりました。1923年国指定史跡。
※大和王朝時代の600年前後から藤原京時代の700年前後までに造られたと推定されています。前方後円墳、円墳、方墳が姿を消した古墳時代の終り頃。このあたりの河岸段丘地は凝灰岩質砂岩が多く掘削が容易であるのが造られた理由であろうか。
※誰がこの方式を導入したのであろうか、大陸からの渡来人か、被葬者はどんな人たちか。謎は深まる。


※東京帝国大学の学生であった正岡子規が1891年11月、蕨、忍、熊谷、東松山、川越、所沢、田無と2泊3日の「武蔵野旅行」をした際、吉見百穴を尋ねています。

神の代は かくやありけん 冬籠       子規

彩の国・・・行田市・・・巨大円墳が剥きだされた・・・八幡山古墳・・・石舞台の風景

2016-10-27 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田・・・稲倉の棚田の古墳に関連して・・・
彩の国行田市藤原町にある八幡山古墳の石舞台です。
稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣(国宝)で有名なさきたま古墳群から北東に2㎞、工場群に囲まれた小さな公園の中に関東の石舞台といわれる八幡山古墳があります。

円墳の墳丘が剥がされ岩室が露頭した古墳です。
石室の全長16.7m、玄室の長さ5.2m、幅4.7m、高さ3.15m(参考・奈良県明日香村の石舞台の石室の長さ19.10m、玄室の長さ7.5m)。

天井や壁のところどころに平らな青い一枚岩が使われています。緑泥片岩というこの地方ではよく見かける石です。



石室の中は土曜日・日曜日・祝日のみ解放されて見学ができます。


※撮影日は10月24日、LUMIX DMC-G7。

※元は大きな円墳(推定約80m)でした。1934年この付近の小針沼埋め立て工事でこの円墳の土を使用するため削平され石室が露頭、1935年発掘調査、1944年県指定史跡に、1977年復元工事と本格的な調査、漆塗木棺片、銅椀、棺飾金具などが出土。円墳が築かれたのは7世紀の中ごろ(622年乙巳の変で蘇我一族を暗殺し646年大化の改新で豪族中心の政治から天皇中心の中央集権国家が確立していく時代)と推定。被葬者は出土品から地方の首長級のものと推定。伝承では物部系といわれるが証明するものがない。文字による記録がない時代ですからすべて推定の世界です。
石舞台・・・明治時代に考古学者が明日香の露頭石室を呼んだ俗称です。観光商品名のようですね。ちなみに地元の明日香村では石蓋と呼んでいたそうです。八幡山古墳の石室を石舞台と呼ぶのは、モドキ呼称です。
※この付近に地蔵塚古墳があります。1962年の発掘調査により石壁に人物、馬、家、鳥、舟などの絵が見つかりました、いまは密閉されて見ることができませんがレプリカが埼玉県立博物館で展示されているそうです。
若小玉古墳群・・・かつてこのあたり昭和の初めまで前方後円墳、円墳、方墳あわせて11基の古墳があったそうです。総称して若小玉古墳群、いまは八幡山古墳、地蔵塚古墳を残すのみ、残りは削平され工場団地となっています。

信州上田・・・山の上の・・・稲倉の棚田・・・古墳のある風景

2016-10-27 | 古墳・遺跡・石塔婆
10月15日、上田市殿城(旧石清水村)稲倉の棚田
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
今回は「上田六文銭」さんの画像提供です。
稲倉の棚田の中・・・雑草に埋もれていますが、古墳があります。

稲架掛けをしていたお百姓さんに古墳のことを尋ねたら案内してくれました。

古墳の入り口の草を少し刈ってくれました。

お百姓さんの話では、いまは3基だけだそうですが、むかしは20基を越えていたそうです。

小さな円墳・・・大きな将軍塚から埋葬者の地位が少し下のランクにひろがったころの古墳でしょうか。
弥生時代から古墳時代へ、この土地を切り開いた先人たちの生きた証が見えてきます。

先人たちは静かに古代より耕したこの地を見守っているようです。
※撮影日は10月15日、Panasonic LUMIX DMC-FZ100

上田市内の埋蔵文化財包蔵地域をネットで検索しましたら459の登録がありました。この殿城地区にもかなりの古墳・遺跡が登録されていますが、ここ石清水の古墳は登録されていないようです。調査の対象から外されているのでしょうか。よくワカリマセン。

夏の信濃路・・・「上田 道と川の駅」に復元された・・・「半過」円形古墳

2016-08-21 | 古墳・遺跡・石塔婆
上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。

夏の信濃路・・・「上田 道と川の駅おとぎの里」と垂直100mの大岩壁「半過岩鼻」です。
「道と川の駅」のそばの千曲川の畔には「半過公園」、「岩鼻」の上には「千曲公園」が。
※写真をクリックすると「岩鼻」の大きな写真になります。

2005年、千曲川の左岸、半過岩鼻の岩壁の中を二つのトンネルが貫通、2010年に県道77号線に並行して国道18号線上田―坂城バイパスが開通。トンネルの南側の上田市小泉字塩田河原地籍に「上田 道と川の駅」が開設。

道の駅」の一角に、↓の写真のように小さな円形古墳があります。2006年から2007年の国道工事の際に上田市上半過地籍から出土した古墳群の中から第10号古墳を復元移動したものです。

直径7m、高さ1mに満たない円墳。

5人の人骨、フラスコ型の須恵器、鉄剣、土器、ガラス球の首飾り、銅製の耳飾り・・・などの副葬品が。
副葬品が多く出土している?・・・急傾斜、崩落しやすい脆い地質で、埋もれていたため盗掘にあわなかった?

出土したのは上半過の二つのトンネルのあいだあたり、中の沢遺跡、半過古墳群と名づけられました。出土品は弥生時代から古墳時代後期まで。
「上田道と川の駅」の芝生の中にポッコリとした小山があります。ダミーですが私たちの古い古いお先祖様のお墓です。ぜひ拝んでやってください。


比企の里の歴史街道・・・鎌倉街道上つ道・・・笛吹峠から木曽義仲ゆかりの大蔵へ

2016-07-15 | 古墳・遺跡・石塔婆
7月11日、友だち夫妻を誘って嵐山町の中世の城址、菅谷館跡公園にヤマユリの花を見に行きました。
鳩山から嵐山への道は・・・鎌倉街道上ツ道・・・途中の山道は笛吹峠・・・木曽義仲ゆかりの大蔵・・・畠山重忠ゆかりの菅谷
平治物語」「太平記」などで語られている中世の歴史街道です。

1333年、上野国新田庄で討幕の旗を挙げた新田義貞が鎌倉目指して進軍したのがこの鎌倉街道上ツ道。みごとに鎌倉幕府壊滅の立役者に。
1338年、その義貞も政争に敗れて足利尊氏に滅ぼされます。
1352年、復権を目指して新田義貞の遺児義興、義宗らが足利尊氏の軍勢と闘った場が 笛吹峠。そのときの新田軍の総大将が後醍醐天皇の皇子宗良親王。宗良親王は敗色濃厚な峠の上で笛を吹いたと伝えられ、のちの時代に笛吹峠と呼ばれるようになったとか。
古い話なので定かではありません。

笛吹峠を北に下ると嵐山町大蔵。新平家物語でお馴染みの朝日将軍木曽義仲の生誕地。
源義仲の父義賢(よしかた)はここ大蔵に居を構え北武蔵、西上州を抑えた源氏の侍大将。義賢の兄は源義朝、その長子が義平、次子が頼朝
1155年、義賢は義朝の長子悪源太義平の軍勢に襲われて(大蔵合戦)討死。義仲は斉藤別当実盛、畠山重盛らに助けられ信州木曽に逃れます。

笛吹峠を下り大蔵交差点のあたり、源義賢の廟所。
帯刀先生・・・天皇の親王・東宮の護衛官の長のこと。義賢の旧官職名。

農道から30mばかり入った畑の中に。鉄柵で守られた覆堂。

五輪塔・・・上から・・・空・風・火・水・地・・・なんですが2番目のが見えません・・・欠損?

様式から見て埼玉県で最古といわれていますが、いつのものか不明です。
義賢ゆかりの人が供養塔として建立したものと思われます。

どうでもいい薀蓄》源義賢は兄の義朝の差し向けた甥の悪源太葦平に殺されますが、その義朝、義平は平清盛に滅ぼされ、その平清盛は源義賢の子義仲に都を追われ、義仲は義朝の子の範頼、義経に滅ぼされ、その範頼、義経は兄の頼朝に滅ぼされ、頼朝の子たちは頼朝の正室の政子の実父であり後ろ盾であった北条一族に抹殺されます。その北条一族も源氏の新田、足利に滅ぼされ、新田は足利に滅ぼされ・・・。親子、兄弟、縁戚、姻戚、同族の殺し合いが中世の歴史です。

※関連・・・→クリック旭将軍木曽義仲の里・・・班渓寺」(2008年2月12日ブログ)

明日香は飛鳥・・・古代墳丘・・・石舞台は何を語るか

2016-01-16 | 古墳・遺跡・石塔婆
正月は、喰っちゃ寝、食っちゃ寝、時どきテレビ、時どき読書。
正月に読んだ本から印象に残ったものを。

網干善教高松塚への道」(草思社 2007年刊)

2004年に訪れた明日香村の「石舞台」古墳です。

京都に泊り近鉄奈良線で「飛鳥駅」に、駅前のレンタサイクルで明日香村をブラリブラリ・・・
懐かしい思い出です。
なだらかな坂を上って「石舞台」が目の前に広がったとき・・・感動しました。
網干先生の「高松塚への道」は・・・飛鳥と書いて、なぜ「アスカ」と読むのか・・・からはじまります。駅名は「飛鳥」、自治体名は「明日香村」、日本書紀では「飛鳥浄御原」という記述が。万葉集では「明日香川」という記述が、「明日香」はヤマト言葉に漢字を当てたもの、「飛鳥」は飛ぶ鳥はめでたい(瑞祥)から。というのが先生の解釈のようです。でもなんで「アスカ」なんだという定説はないようです・・・葦の繁った処・・・かな?
※石舞台のイラストは2004年に訪れたときのスケッチ・・・「倭は 国のまほろば 畳づく青垣 山隠れる 倭し 麗し」の歌は古事記では倭建命、日本書紀では景行天皇が歌った望郷歌とされます。どっちが正しいのでしょうね。「倭」とはどういう意味なんでしょう。何処にあったのでしょう。ワカリマセン。


網干善教・・・1927~2006年、奈良県高市郡高市村(現明日香村)、石舞台のそばの唯称寺の長男として生まれる。小学校に上がる前ごろの1933年石舞台の発掘がはじまります。京都大学考古学教室による発掘、日本で初めての本格的な学術的調査です。石舞台の発掘現場で遊んだ少年はやがて僧籍を得ますが、考古学に目覚め、その道に進みます。1954~1958年まで石舞台の復元工事に、1970年ころ明日香村の方が「中尾山古墳のそばの高松塚というところで生姜の貯蔵穴を掘っていたら凝灰岩の切石が見えた」という情報をもたらします。それが高松塚の発掘の始まりです。1972年発掘が始まり、極彩色の壁画が姿を現しました。

※網干先生は本の中でこんなことを語っています。
新聞でもテレビでもマスコミでも「掘った、出てきた、珍しい。日本ではじめて」と。
学問はそんなものではないのです。千年も二千年も前の遺跡を掘ったら、珍しいに決まっています。
基本的なことは、どこに意味があるか、出土品から何が考えられるか、ということです。






長野市郊外・・・松代の山中に眠る・・・古代渡来人の墓?・・・大室古墳群

2015-12-19 | 古墳・遺跡・石塔婆
秋の1日、長野市松代町大室にある「大室古墳群」(おおむろ)を尋ねた義兄夫妻の写真の公開です。
千曲川右岸、松代町大室から南に少し入った大室谷にある約500基の古墳群です。
・・・・・上田六文銭の写真帳・・・・・
   ※ブログ「比企の丘」のギャラリー公開。
1997年国指定史跡「大室古墳群」。16㌶の中に500基の集合墓、古墳館、駐車場。
千曲川を隔てて北の方角に長野市街が見えます。

盛土をした盛土墳土石混合墳もありますが、8割近くが小石を積み上げた積石塚(渡来人墓制?)です。
建造は5世紀~8世紀、積石塚400基、前方後円墳1基ほか。土師器、須恵器、土馬など出土。

巨石が乗っている・・・石舞台?
※撮影日は2015年10月20日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100
近くに行ったとき寄ってみよう。

積石塚・・・高句麗の古墳で見られ百済を経て日本に渡ってきたと考えられています。内部は横穴式、大きな石を合掌型に組み上げたものもあり朝鮮半島の古墳に似ているため渡来人の墓というのが定説。ただ出土品が人物埴輪、円筒埴輪、馬具など朝鮮半島の古墳には存在せず国内の古墳に共通するものが多いため、渡来人の墓とする説も揺らいでいる。・・・ワカラなくなった   
※長野市を中心とする善光寺平には将軍塚と呼ばれる大型の前方後円墳が11基あります。集合墓ではなく単独墓です。中でも千曲市森にある森将軍塚は墳丘の長さ100m、1992年自然石を野面積にしたものが復元。将軍とは後世の人がいった言葉で兵隊の位ではなく、たぶん偉い人があの中で眠っているだろうという想像です。4世紀中ごろと推定、被葬者は不明、たぶんこの地方の首長。○○将軍塚とはその土地の地名です。偉い人の苗字ではありません。

八ヶ岳南西麓は・・・縄文人の王国だった・・・尖石史跡公園で

2015-12-18 | 古墳・遺跡・石塔婆
秋の1日、八ヶ岳山麓の茅野市豊平南大塩にある国指定特別史跡「尖石史跡」(とがりいし)を尋ねた義兄夫妻の写真の公開です。八ヶ岳山麓に広がる台地、中央に沢が走り南側が尖石遺跡、北側が与助尾根遺跡、併せて尖石遺跡ともいい、尖石縄文考古館、尖石史跡公園が併設されています。
・・・・・上田六文銭の写真帳・・・・・
   ※ブログ「比企の丘」のギャラリー公開。
史跡公園内に復元された縄文中期(4000~6000年前)の竪穴式住居です。


※撮影日は2015年10月27日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100


尖石遺跡・・・1893年、明治時代に学会に発表されていた。1929年石囲炉跡発掘、1940年本格的な発掘開始、戦争の中断があったが1954年まで発掘。1952年国指定特別史跡に。竪穴式住居33ヶ所、石囲炉53、石斧46ほか出土。
与助尾根遺跡・・・1938年農地の開墾中に発見。1946~1947年発掘。竪穴式住居28、石斧14ほか。国指定史跡。
尖石(とがりいし)の名前は・・・遺跡の中で約1mの三角錐状の石が発掘されたことから。


尖石縄文考古館に展示されいる二つの土偶。

右が「縄文のヴィーナス」・・・1986年出土、27㎝、縄文中期(4000~5000年前?)。1997年国宝指定。茅野市米沢棚畑で工業団地開発中に。棚畑遺跡として発掘調査、住居150基、土器600点。

左が「仮面の女神」・・・2000年出土、34㎝、縄文後期はじめ(4000年前ごろ?)。2014年国宝指定。茅野市湖東、中ツ原遺跡で。

古代人の造形美にウットリです。

信州を訪れたらぜひ寄ってみたい場所です。

※茅野の冬の風物詩といえば海藻を自然の中で凍結と乾燥を繰りかえして寒天にする地場産業で有名です。乾燥と零点下のキビシイ自然の地です。
そんな厳しい自然の中に縄文人は何千年も生活していました。なぜ?
諏訪湖の標高750m、茅野駅800m、尖石遺跡1000m、富士見町の井戸尻遺跡900m。海辺の気温より約6℃低い。冬は偏西風が高い山で水分を抜かれて乾いた風が吹き抜ける。
そんな八ヶ岳南西部は縄文人が生きた時代、いまより平均気温が高く九州地方と同じ位で落葉広葉樹の森が拡がり、栗や胡桃など木の実の恵みをもたらし、林床や草原には山菜類が生え、猪、兎、鹿などをとることができる自然豊かな環境であったと考えられています。その豊かさが造形美溢れる土器や土偶を創りあげたのでしょうか。


秋の一日・・・武蔵野の名刹・・・平林寺の歴史を尋ねる

2015-10-29 | 古墳・遺跡・石塔婆
10月19日、ふるい友だち夫妻と秋の武蔵野散歩・・・新座市野火止の平林寺を尋ねました。
臨済宗妙心寺派「金鳳山平林禅寺」の総門の脇から入山。山門、中門をくぐり本堂を参詣して左側から散策路に。
ここからは国の天然記念物、クヌギ、コナラの繁る13㌶の武蔵野の雑木林です。

見性院の供養塔・・・宝篋印塔(武田信玄の娘、穴山梅雪の正室)。

野火止用水の支流平林寺堀が平林寺境内のほぼ真ん中を東西に。

初代川越藩主松平伊豆守信綱の墓・・・五輪塔(埼玉県指定史跡)、脇に正室の墓。大河内松平家代々の墓。

見性院(?~1622年)・・・甲斐の武将武田信玄の二女、武田親族の筆頭穴山梅雪の正室。梅雪は信玄死後、家康方につき本能寺の変のとき大阪にいた家康と伊賀越えを計ったが途中で横死(自決とも一揆軍に襲撃されたともいわれる)。武田家滅亡のあと家康に庇護されて江戸城内北の丸で余生を過ごした。二代将軍徳川秀忠の庶子(後の会津若松藩主、四代将軍家綱の補佐役保科正之)を養育したことで知られる。墓所は武州安達郡大牧村(現さいたま市東浦和)の清泰寺。
なぜ見性院の供養塔が平林寺にあるか。もとは岩槻にあった供養塔です。1590年秀吉の小田原攻めの際、支城である岩槻城も落城。平林寺は戦火で荒廃、家康は1592年駿河臨済時から鉄山禅師を招き平林寺の再興を計りました。家康と穴山梅雪との関係、鉄山禅師の出自が甲斐国武田家の家臣であったことから見性院の供養塔を建立されたといわれています。
野火止用水・・・1653年江戸幕府は江戸市中の生活用水のために武州多摩郡羽村から取水して四谷大木戸まで43km、そこから木樋によって江戸市中に配水した江戸時代最大のライフラインの玉川上水の開削を行った。この水普請の総奉行が松平信綱。信綱はこの功績により、玉川上水の水を分水して現在の立川、小平、東村山、東大和、東久留米、清瀬、新座、志木、朝霞の地を潤すための用水開削を願出て許可され、1655年立川市小平(現幸町)から志木市新河岸川まで25㎞の野火止用水堀を開削。関東ローム土の堆積地、保水力なく不毛の地であった野火止台地は用水完成後、武士、農民の入植により農地が開発されていった。
人々はこの用水を「伊豆殿堀」と呼んだという。
野火止用水は1950年代までは人々の生活用水としても使われ、子どもたちの水遊び場でもあったという。やがて都市化の波にうずもれて、いまは昔年の面影を見ることはできない、清流復活が待たれる。
松平信綱(1596~1661年)・・・三河以来の譜代武士、関東郡代伊奈忠次の配下の代官大河内家の長男として武州小室(現伊奈町)で生まれた? 下級武士の家柄であったため叔父の長沢松平家(相模国玉縄藩主)の養子になり、三代将軍家光の幼少時代の小姓として仕え、大河内松平家を興した。米三人扶持からはじまり出世を重ね、75000石の大名、幕府老中首座、四代将軍家綱の補佐役にまで出世した異例の有能官僚。幕府体制の職制の整備、島原の乱の総大将、慶安の乱、明暦の大火などの対応で知られる。川越藩の経営では城下町、新河岸川、川越街道の整備、野火止台地の農業振興に努めた。川越郊外の川島町に出丸(でまる)という集落がある。松平伊豆守にあやかってイズマルという村名をつけてイデマル、デマルと転化していったと伝えられているようだが定かでない。
民政の人であり、大岡越前守、遠山金四郎のように時代劇の主役になるキャラではない。五代将軍綱吉の側用人で献上妻で出世したといわれる牧野成貞、綱吉から拝領妻を下げ渡され出世したと巷でいわれた柳沢吉安のような存在でもない。田沼意次のように賄賂で有名ではない。酒を飲まず、ゴルフやギャンブルやクラブ通いもせずに人付き合いも悪かったらしい。ただ真面目に政務を行っていたという。



彩の国・・・さいたま県名発祥の地あたり・・・さきたま古墳公園を散歩した

2015-03-05 | 古墳・遺跡・石塔婆
埼玉県」・・・どうしてそう呼ばれるか?・・・1971年(明治4年)、廃藩置県、いま埼玉というあたりは入間県、埼玉県と呼べと政府のお達しが出た。それから1976年埼玉県に統一。
江戸時代から続く埼玉村(さきたま村)という小さな村の名前が県の前になった?・・・不思議だ。ホントウの埼玉村は1954年(昭和29年)行田市と合併。
さきたま」は多摩の先、いまの東京の郊外あたりを呼ぶ「多摩」「」の先。古くは万葉集に「さきたま」、律令時代の正倉院の文書にも前玉、延喜式に「前玉神社」の記述があるそうだ。このあたりが埼玉の国司のいた場所かな。
ということで近畿地区にしか見られない大きな古墳(この地区の支配者の墳墓)が集中・・・さきたま古墳群だ。
古墳の発掘は昭和の初めごろから、ここらあたりの沼地の干拓と並行して行われたという。戦時中断してふたたび発掘開始、1976年整備した場所を公園化、26.5㌶。
9基の大型古墳、さらに半径数㎞の範囲に7つの小規模古墳があるそうです。
今日はこの公園の散歩です。
(←の写真は史跡博物館パンフレットより)

丸墓山古墳・・・円墳、軸長105m、高さ18.9m、6世紀前半、円墳としては日本一の規模。
和田竜著「のぼうの城」(小学館 2007年刊)、2009年コミック化、2012年映画公開、・・・の舞台となって一躍有名に。
1590年、豊臣秀吉の小田原城攻め、これに並行しての行田の忍城攻め、その攻城総司令官の石田三成丸墓山に登って作戦を練った。考え出されたのは泥濘の地に囲まれた忍城の周囲を堤で囲って水攻め・・・後に石田堤といわれる。10万の人夫を使い5日で完成、しかし大雨により決壊、多くの石田方の兵が水に押し流された。そうこうするうちに小田原城が開城され、こちらも戦を交えることなく開城。石田三成は戦功を上げることなく無策の将といわれることに。


稲荷山古墳・・・前方後円墳、軸長120m、高さ11.7m、5世紀後半。1968年金錯(金の象嵌)銘鉄剣、帯金具、まが玉、鏡など出土、1978年X線により115文字を解読。1983年国宝指定。窒素ガス封入の下で管理。


←の写真(史跡博物館パンフレットより)はその鉄剣。

5世紀中期の第21代天皇といわれる「雄略?」の部下であるこの地の管理者の系譜が記してあります。

将軍山古墳・・・前方後円墳、軸長90m、高さ9.4、6世紀後半。明治の初期1894年民間で発掘調査が行われ馬冑、旗差し金具、銅碗、環頭大刀、馬具などを発掘。墳丘、堀を復元して将軍山古墳展示館を設置。

(↑の写真は史跡博物館パンフレットより)

二子山古墳・・・前方後円墳、軸長138m、高さ14.9、6世紀前半。武蔵国最大の古墳。周囲は発掘調査されていますが、内部は未調査。

愛宕山古墳・・・前方後円墳、軸長53m、高さ3.4、6世紀前半。最も小さい古墳。駐車場のそば、お寺、民家に接していて目立たない。

瓦塚古墳・・・前方後円墳、軸長73m、高さ5.1m、6世紀中期。埋葬内部は未調査。

奥の山古墳・・・前方後円墳、軸長66m、高さ5.6m。

鉄砲山古墳・・・前方後円墳、軸長109m、高さ10.1m。2010年から発掘調査がはじめられ進行中のようです(ブルーシートの部分)。
※撮影日2月27日、カメラは Panasoni LUMIX DMC TZ-40。
この奥に中の山古墳がありますが割愛。
今は梅の蕾が膨らんで、もう少したてば桜が、夏の緑陰、蓮池、水連池、花菖蒲の畑、古墳の法面の草地には菜の花、ヒガンバナ、釣鐘人参、キツネノカミソリ、ノカンゾウが。先祖の眠る墳墓の丘の公園です。
静かに見て歩きましょう。
参考リンク
埼玉県立さきたま史跡の博物館」サイト