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スポットライト 世紀のスクープ 15/米 トム・マッカーシー監督

2016-12-23 21:40:19 | 映画

スポットライト 世紀のスクープ』のDVDを、先日見た。仙台で上映されていた映画館のHPでは、この作品を次のように紹介していた。 
巨大権力の“大罪”を暴いた衝撃的なスクープ、そしてそれを報じた地方新聞の記者たちを描く社会派ドラマ。2002年、ボストン・グローブ紙が特集記事《スポットライト》でカトリック教のおぞましい不祥事を報じた。記者たちはいかにして教会というタブーに切り込み、暗闇に眠る真実を照らし出したのか。幾多の困難にも屈せず、記者生命を賭して正義を貫いたその姿が厳かな感動を呼ぶ。
 緻密な脚本と演出、卓越した演技のアンサンブルで驚くべき実話の内幕に迫った本作は、まさにアカデミー賞の栄誉に相応しい。ジャーナリズム映画の金字塔である。第88回アカデミー賞作品賞、脚本賞2部門受賞

 HPには「巨大権力の“大罪”」「カトリック教のおぞましい不祥事」など抽象的表現を使い、“大罪”の実態を書くことを避けている節がある。巨大権力・カトリック教会の“大罪”とは、神父による青少年への性的虐待であり、映画に登場した被害者は男性だけだったが、性的暴行を受けた少女もいたという。
 最初はゲーガン神父による性的虐待の疑惑追及から始まったが、記者たちが調べるにつれ、他の大勢の神父が同様の罪を犯していたことが浮かび上がってくる。教会内で彼らは罪を問われることもなく、他の教区やラテン・アメリカに転属させて事件を隠蔽していたのだ。

 カトリック信者にとって神父は絶対的存在であり、特に十代前半の子供では神父に目をかけられれば、自分は神に選ばれた存在、と舞い上がるのは無理もない。そうして手懐けた後、じっくり餌食にしていく。いきなり暴行したのではなく、卑猥な言葉から始まり、間もなく体を弄ぶ。肉体だけでなく精神にも深い傷を負った被害者の中には、自ら命を絶ったり、精神的後遺症で麻薬に溺れたりした者も少なくなかったそうだ。
 神父が標的にしたのは、片親や崩壊家庭の子供が大半だったという。例え我が子が神父から暴行を受けたことが分かった処で、ボストンのような敬虔な信徒が多い町では訴えることすら難しい。口封じをするのは教会だけでなく、信者も負けず隠蔽工作に全面協力するのだから。

 ボストン・グローブ紙がカトリック教会の性的虐待事件を追及したのは、2001年夏、新しい編集局長のマーティ・バロンが着任したことが大きい。バロンはユダヤ系でマイアミからやってきたため、カトリック教会の権威にひるまなかったのだ。それ以前にもガラベディアンという集団訴訟を担当した弁護士がいたが、彼もアルメニア系。
 ボストン・グローブ購読者の53%がカトリック、記者たちにも信者はいたのだ。苦悶しながらも、独自の極秘調査を続けていったカトリックの記者たちは、真のジャーナリズム精神を持つ人々だった。映画の中でのこの台詞は良かった。
これを記事にしたら誰が責任を取るんだ?」「では記事にしない場合の責任は?

 2002年、《スポットライト》は600本近い虐待記事を掲載、249人の神父が性的虐待を告白する。被害者数は全米で千人以上に上ると言われる。これを受け、ボストン大司教だったロウ枢機卿は辞任に追い込まれた。だが、彼はその後ローマのカトリック最高位教会に転属したことがクレジットに出ていた。これでは、むしろ栄転ではないか?
 映画では描かれなかったが、スキャンダル発覚後の米国ではやはり訴訟が相次ぎ、教会は被害者への賠償金の支払いなど、多額の裁判費用の捻出を迫られる。

 この問題は欧州にも飛び火、『神は妄想である』の著者リチャード・ドーキンスは、アイルランドの『マグダレンの祈り』のようなケースでは、弁護士が修道院にいたかつての少女たちをけしかけ、訴訟の動きもあることを述べていた。カトリックではその対策に数十億ドルが費やされており、「これを見れば教会に同情する人も居るだろう、殊にその金額を負担する人を思えば尚のこと」、とドーキンスは書いている。

 カトリック教会の性的虐待事件は、トップ扱いではなかったが河北新報の国際面でも取り上げられていた。この事件の背景を教会組織や聖職者に妻帯を許さぬ時代錯誤の習慣に求める見方は少なくないが、妻帯しているプロテスタント牧師にも性的不祥事を起こす者はいる。
 どの宗教にも不心得者の聖職者は存在しており、ユダヤ教やイスラム教、ヒンドゥー教、仏教にも小児愛好者の聖職者は確実にいるはず。

〈スポットライト〉チームによる『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』という単行本も出版されており、Amazonには3件のレビューが載っている。「年間読書人」氏のレビューにこんな一文があった。
「私は是非、自身をクリスチャンだと明かした上での、クリスチャンの勇気ある意見を聞きたいと思います。そのためにも、多くの日本人クリスチャンに、本書を強くお奨めしたい。カトリックだけではなく、プロテスタント系信者にも」

「年間読書人」氏の意見は、殆どの日本人クリスチャンに無視されるのは明らか。他の宗教、特に日本の宗教組織や社会に問題をすり替え、非クリスチャンもやっている、と言うのが信者の常套句なのだ。少し前、アグネス・チャンが「児童ポルノ法」を熱心に推進していたことを憶えておられるだろうか?この支那女がカトリックなのは、意外に知られていないのではないか?

 アグネスはウイグル・チベットの人権蹂躙を一切触れないことで知られるし、まして中国本土で広く女児間引きが行われていることも。「児童ポルノ法」如きは、日本が児童虐待国という反日キャンペーンの一環としか見えず、カトリックの隠蔽工作にも一役買っていた可能性も考えられる。
 つまり、非キリスト教国・日本はさらに酷いという欧米世界に向けた喧伝なのだ。そんな支那女を先月の河北新報では、「マルチタレント」と称える記事を載せている。



◆関連記事:「マグダレンの祈り
 「ある神父の私生活
 「オレンジと太陽
 「子供、売ります

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2 コメント

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常識というか (motton)
2016-12-26 17:01:19
大人と子供、聖職者と信者、共同生活、妻帯禁止、これだけ揃えば、どんな組織でも意図的に防ぐ仕組みがなければ問題が起きるのは当然でしょう。
防ぐ仕組みが無いことは皆が"知っていた"わけで、意図的に見なかっただけです。

だから、この問題のニュースを聞いたときは、中世から連綿と続いていたものが表に出てくる、そういう時代になったのだなという感想でした。
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Re:常識というか (mugi)
2016-12-27 21:45:35
>motton さん、

 このニュースを聞いた時、日本も大丈夫?と思いました。近代以前は仏教僧も妻帯禁止だったし、見習いの小僧が稚児にされていたのは確かでしょう。これまた皆が"知っていた"ことだし、問題にされませんでした。現代日本でも、この種への訴訟は容易ではありません。

 カトリックは中世から連綿と続いていたものが、ようやく表に出てきましたが、妻帯を認める宗教も問題と無縁ではありません。宗教組織というのは、意図的に防ぐ仕組みをつくるのが難しい傾向がありますからね。
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