「【悲報】 さだまさしの名曲「関白宣言」、フェミニストに発掘され叩かれる」(2021年03月30日付)というネット記事は、驚きと共に懐かしさを覚えた。
そもそもこの曲が発表されたのは1979(昭和54)年7月10日、今から40年以上も昔なのだ。現代とは女性をめぐる価値観や社会は全く異なっており、歌詞について叩くのは同性から見ても愚劣極まる。件のフェミニストの言い分を紹介する。
関白宣言の歌詞
指図の内容も無理だけどまず前振りが無理
「お前」←何様だてめぇ
「嫁」←嫁じゃねえ妻だボケ
「もらう」←私はモノじゃねえ
「言っておきたいことがある」←何様だてめえその2最後まで聞けばなんたら~じゃなくて出だしから無理」
女から見ても、このキレっぷりは実に醜悪だった。大体こんな女を「嫁」どころか妻とする奇特な男性が現れるとは思えず、他人事で腹を立てることもないでしょ、と言いたい。モノとしても売れ筋が悪く、レズビアンさえこのタイプは嫌うだろう。男以上に粗暴極まる物言いは、頭と育ち、性格の悪さの表れなのだ。
尤もこの者が女や日本人とは限らない。拙ブログにもザパニーズ♂♀(男女とは書きたくない)が何年も前から張り付いているし、彼等は方々のブログ荒らしが生きがいのネット依存症。アルファブロガー鈴木傾城氏が3月22日付のツイートで興味深いことを述べている。
「日本には「反日カルト集団」がいる。その集団が、左翼になったり、右翼になったり、リベラルになったり、フェミニストになったり、アイヌになったり、ウチナーンチュになったりして、反日カルトの主張を繰り広げる。彼らは本来の集団に潜り込み、なりすまし、変質させ、反日する。」
それにしても関白宣言とは懐かしい。記事を見るまですっかり忘れていたが、まだ高校生だった1979年当時を思い出す。当時でもこの曲には様々な批判や見方があった。「男尊女卑の表れ?」「戦前への懐古主義?」と見る人や、「いや、男のホンネが出た」と解釈する向きもあった。
まだ生意気盛りの女子高生だったためか、私個人はこの曲が嫌いだった。内容よりもさだまさし自身が何故か嫌いだったのだ。クラスメートにはファンもいたし、優しいお兄さんと思っていたようだ。
しかし私は何処か陰険そうで好きになれなかった。「精霊流し」はいい曲だと思うが、さだまさしの容貌と細い声質は結局好きになれず、その歌手が「関白宣言」するのだから、ますます敬遠してしまった。
当時は『できる範囲で構わないから』のフレーズも狡猾に感じた。一応できる範囲で構わない、と断りを入れつつ、本当にできないければ、「お前のできる範囲はこの程度か」とケチをつけるタイプかも、と見ていた。
現にさだは中国訪問の後、『長江』というムック本を出し、それが近所の美容院に置かれてあった。試しに手に取って見たが、中国女には殆ど称賛一辺倒でも、同胞の女性には全般に辛口な主張が多かったのを憶えている。さだは『長江』というドキュメンタリー映画を撮っているが、映画評論家の評価は「ヒット歌手の道楽」と低く、膨大な借金を背負うことになる。
しかし、改めて関白宣言の歌詞を読み直してみると、それほど酷い内容ではなかった。「幸福は二人で育てるもので どちらかが苦労して つくろうものではないはず」は全くの正論。「つまらぬ嫉妬はするな」は苦笑したが、正しい嫉妬であればいいだろう。
「忘れてくれるな 仕事も出来ない男に 家庭を守れる はずなどないってことを」は昭和の価値観の見本。仕事ができても家庭を守るどころか、DV男もいることは知られるようになっている。暴力は振るわずとも仕事中心で子育ては妻任せ、引きこもりで家庭内暴力の息子を刺殺した農林事務次官もいたのは記憶に新しい。
「俺より先に寝てはいけない」「俺より後に起きてはいけない」の箇所は、かつては女大学の焼き直しか、と思ったが、1979年当時は共稼ぎはまだまだ少なかった。夫婦フルタイムで働くことが少なくない令和の現代では、時代に合わなくなっている。以下のネットの反応には私も同感だ。
93: 名無しさん@恐縮です 2021/03/30(火) 15:37:53.88 ID:Tx8Wf2hY0
今の価値観で語るなよ
時代背景すら勉強しないのか
今の価値観で見るならば、歴史書はもちろん古典も読めないし、時代背景の勉強すら出来ない。何にでも噛みつくフェミニストはもはや社会全体の敵だろう。
http://www.tanteifile.com/tamashii/scoop_2006/12/07_02/index.html
でも、こんなことを言ってたら、女性が家事をしている描写のある映画、小説、漫画はすべてアウトでしょうし、サザエさんも放映できなくなりますし、シェイクスピアのベニスの商人はユダヤ人差別、じゃじゃ馬ならしは女性差別として上演もできなくまりす。
前にも書きましたが、古い価値観や習慣の中には確かに悪いものがありますから(例えば女性の性器切除とか)、なくしたり変えたりする必要も出てくるしょう。しかし、古い価値観=悪い価値観・間違った価値観、新しい価値観=良い価値観・正しい価値観という単純な図式も、それはそれで硬直した思考ですし、その単純思考が暴走したのが文化大革命だったと思うのです。
何が良くて何が悪いか、古い新しいを基準にではなく、頭を使って判断したいものです。
『できる範囲で構わないから』は、女の子がお弁当を作ってもらっている母親に『いつもありがとう。できる範囲で構わないからね』と言うのと同じでしょう。
毎日凝ったものは作ってもらえなくても、きちんと作ってもらえることは疑わない。それで十分に満足。母親も娘の思いを理解している。そういう安心して互いに甘えられるという信頼関係があります。そうした甘えのバッファが無いと、どちらかに一時的に余裕が無くなった時に関係が壊れますから。
この手の歌は、その後、女性視点の「私がオバさんになっても」「部屋とYシャツと私」「トリセツ」と来るわけですが、基本的に同じだと思います。
ちなみに、妻は全部嫌いです。私は嫌いじゃないんですが。(歌詞の内容ではなくて、その背景の信頼関係が好ましい。)
妻と私は近い価値観を持っているのですが、社会人になって「女性」を突き付けられた女性として歌詞の内容にカチンとくることがあるのでしょう。
(あと、私の方が甘えているんでしょうね。)
日本社会は、大学までは理念でも実質でもかなり男女平等なのですが、就職活動以後の実質的な男女格差は依然あるので、男女平等の理念に素直に育った女性ほどそのギャップに苦しむんですよね。
(ここは男性には「地雷」。一般的に、男性は解が無い問題を相談しませんが、女性は共感が欲しくてするんですよね。相談相手が女性なら「分かる」だけでいいのですが、男性だと「分かる」は共感できるだけの経験がないからNGだし、「分からない」も無口も話題逸らしも共感する意思がないとみなされNG。何が正解なのか、いまだに分かりません。)
「お婆さんは山へ柴刈りに」?バカも休み休み言え!と言いたい。もしかすると柴刈りより川で洗濯の方が楽と思ったお爺さんがそれを受け入れ、刈った柴の量が少ないと、お婆さんをぶっ叩く……といったパロディもありえるでしょう。力仕事は一切女に任せ、男は楽するようになるのは、むしろ女性にとってディストピアでしょう。
フェミニズム版「桃太郎」を提唱した山下康子なる者ですが、何故か「ネパール女性教育の会会長」も努めて居るのが気になります。ネパールはマオイストに国を乗っ取られつつあるし、背後にいるのがどの国か容易に想像がつきますよ。
山下の様なフェミニストは、とかく伝統文化への破壊が第一だと見ています。新しい価値観=良い価値観・正しい価値観という単純かつ硬直した思考もありますが、サッチャー元首相が言ったようにフェミニズムはやはり“毒”でした。
やはり男性と女性では、この曲について見解に違いがあるようですね。mottonさんの奥様も嫌いでしたか。昔は強がりを言っている印象がありましたが、妻となる女性への信頼と愛情があってこその歌詞と今では分かるようになりました。「嫁」という言葉だけでアレルギーを起こすおひとり様には、男性の自虐が分からないでしょう。負け犬の遠吠え。
『できる範囲で構わないから』を狡猾と感じたのは、私の悪意交じりの曲解もありますが、母と娘とはいささか異なるのではないでしょうか?いくら信頼関係があるといえ、母子とは異なります。尤も同じことを歌われても、福島雅治あたりなら気になりませんが(笑)。
学生時代と実社会では否応なしに男女格差を目の当たりにします。そのギャップに戸惑わない女性はいないでしょう。この問題では女性は男性に相談しづらいし、しても共感を得られないのです。この辺りは夫婦でも難しいですよね。
「てめぇ」は「てまえ」の崩し。つまり「手前」、自分自身のことをさして言っているのか?
>「嫁」←嫁じゃねえ妻だボケ
嫁は「女」と「家」が並立、対して「妻」は「女」を下に置いている。妻の方が嫁より大事ということはそんなに女を蔑んでほしいのか?
>「もらう」←私はモノじゃねえ
世界中には、たったひとりの支配者以外は全て「支配者のモノ」という国、地域はたくさんある。お主、日本だがらそんな悠長なことを言ったり書いたりできるんで、それを他国でやればすぐに「軍」か「警察」(を装ったヤクザ、マフィアということもあろうが)に拉致され、人知れず暗殺されるぞ。
のらくろ如きにこれだけツッコまれる文を平気で書けてしまうところに、「投稿者」の無知、無教養ぶりが曝け出されている。こんな輩に誰が同調しようと思うものか。これと同じになるだけだ↓
https://www.youtube.com/watch?v=zS5i2wE3VUs
ちなみに「お前」も近世前期まで男女ともに目上の人に用いた敬称でした。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BE%A1%E5%89%8D_%28%E3%81%8A%E3%81%BE%E3%81%88%29/
あのような悪文を書く「投稿者」に教養を求めるのは酷でしょう。もし日本人とすれば先天性言語障碍者の可能性もあり、小学校から国語を学習し直してほしいものです。
たったひとりの支配者以外は全て「支配者のモノ」という国なら、少なくとも日本の隣の3カ国はそれに含まれます。「支配者のモノ」という国ではなくとも、第三世界でこのようなことを言ったりすれば、身体生命の保障はありません。
ТVニュースでは大きな顔をしてコメントしている辻本ですが、街頭ではガン無視されていましたか。しかも動画の日付は2021/03/22。いくらマスゴミが持ち上げても、どれだけ庶民に不人気なのか知れますね。しかも名前入りののぼりを使っての公職選挙法違反行為。これも報道しない自由扱いでしょう。
「矢張りかーちゃんにはかなわん!」という
関白失脚という曲とセットの自虐ソング
なのになんだかなあと思います。
時代を無視した批判というのは滑稽です。極論ですが、源氏物語なんか私から見たらマザコンあんど
拉致も辞さないロリコンで熟女も不倫も女のやり捨て等々なんでもありの光源氏などキングオブ変態
の女の敵の物語ではと思ってしまうのですがw
勿論歴史的価値がないという話はないですけどね。
もしかすると源氏物語はケシカランというフェミニストはいるかもしれません。桃太郎を男女差別という法学者の女もいますから。しかしそれを言えば聖書も問題。日本のフェミが聖書や魔女狩りを非難した話は、未だに聞いたことがない。