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チンギス・ハーンとイスラム世界 その①

2008-04-22 21:24:23 | 読書/中東史
 映画『モンゴル』で、チンギス・ハーンに滅ぼされた国として名が出てくるのは西夏だけだが、その生涯に「国を滅ぼすこと40、朽木を抜く」が如く大帝国を倒し、人を殺すこと数百万と謳われた人物でもある。特に惨禍の酷かったのがイスラム世界であり、侵攻されたのはパレスチナの一地方に過ぎなかった十字軍など、物の数にも入らない。中央アジアと西アジアではモンゴルの侵入により、それまで繁栄を極めたオアシス都市が廃墟と化し、現代に至るまでそのままとなっている所さえある程なのだ。

 チンギスにより滅ぼされたホラズム・シャー朝の滅亡は、類を見ないほど悲惨な記録の連続である。13世紀初め、この帝国はイスラム世界最強の国家であり、文化の中心であった。イスラム帝国の中心として長く君臨していたアッバース朝はもはや権威だけの存在となっており、こちらもホラズム・シャー朝の崩壊から27年後、同じくモンゴルにより滅亡する。特に7代目スルタン、アラーウッディーン・ムハンマドは1210年、仏教国の西遼ことカラ・キタイを破ったため、不信仰な偶像崇拝者の討伐者としてイスラム世界で大いに名を上げた。これに気をよくしてアラーウッディーンは、最大の偶像崇拝帝国である中国討伐も計画するが、逆に東進してきたモンゴルにより国を滅ぼされる。

 既に帝国を拡張しつつあるチンギスとアラーウッディーンは使者を通じ交渉があり、前者は互いに通商を通じた友好関係の維持を提案していた。だが1218年、アラーウッディーンの一族でもあるオトラル総督イナルジュクがチンギスの派遣したキャラバン(隊商)隊を襲撃、殺害し、商品を奪う事件が起きる。チンギスが怒ったのは書くまでもないが、彼は直ちに報復手段は取らず、再びアラーウッディーンの元に使者を派遣し襲撃事件を責め、オトラル総督の引渡しを要求する。だが、アラーウッディーンは逆に使者を殺害、モンゴル人使者にはひげを剃り落として返す。

 かねてから中央アジア侵出を図っていたと思われるチンギスも、ついにホラズム・シャー朝への報復を開始、自ら征伐に向かうことを決意した。こうして、ホラズム帝国の破壊と破滅が始まった。ただし、オトラル攻撃には自分の息子や部下に任せ、自らは中軍を率い、ブハラを目指した。ブハラは当時サマルカンドと並ぶ大オアシス都市で、数十万の人口を擁し、2万人の守備隊でモンゴル兵に抵抗した。だが数日後、城壁が破られ落城する。守兵は虐殺され、都市は徹底的に破壊される。

 この戦の原因となったイナルジュクはオトラルの守備を強化、モンゴル軍の猛攻に抗戦するが、籠城5ヵ月後、落とされた。都市の住民は尽く付近の草原に駆り出され、モンゴル軍によりブハラに連行される。その前にオトラル城内は掠奪され、城外は破壊され尽くした。イナルジュクはモンゴル兵に捕われ、チンギスの元に護送される。チンギスが殺害された使者の報復として、溶かした銀をイナルジュクの眼と耳に注ぎ、処刑したのは有名である。モンゴルの使者を殺害するも、何とか無事だった日本は例外の部類に入る。

 モンゴル軍は向かった都市の行く先々で抵抗した住民を尽く虐殺したのは知られているが、工匠のみは許し軍に伴った。つまり、強制連行であり、逆らえば命はなかった。降伏したオアシスは略奪はしても、農具と家畜だけは残したという。
 ブハラを破った後、チンギスはサマルカンドに向かった。当時この都市は中央アジア最大のオアシス都市で、城内には花園、果樹園があり、壮麗なモスク、見事な宮殿、邸宅、活気溢れるバザールが連なり、郊外に水流を擁し、豊かな耕地が一面に広がっていたらしい。1220年、ホラズム・シャー朝の首都として繁栄を極めていたサマルカンドはモンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。およそ百年後の1333年、この町を訪れた“イスラム世界のマルコ・ポーロ”ことイブン=バットゥータは、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁などは跡形も無く消滅し大部分が廃虚になっているのを目撃している。

 ホラズム帝アラーウッディーンはモンゴル兵が接近する前、サマルカンドを去りホラーサーンに逃亡した。チンギスは「四狗」の猛将ジェペ、スブタイに追跡させるが、その際次の命令を下す。
もしアラーウッディーンが大軍を率いて向かってきたら、戦闘を避けよ。もし逃げたら、息もつかせず追撃せよ。降伏した都市は許し、抵抗するものは一切を破壊し全てを殺せ
その②に続く

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