その①の続き
ホラムズ帝国のオアシス都市の抵抗はなかなか止まず、モンゴル軍はいくつもの部隊に分かれ、その一つ一つをしらみつぶしに攻略、破壊した。モンゴル軍は1つのオアシスを占領すると、その住民を連れ次の都市に向かい、彼らを攻城の第一線に使用した。そしてこの捕虜隊の背後にはモンゴル督戦隊が控え、躊躇ったり逃亡しようとした者を容赦なく殺害。また住民を駆り出して攻城用の対塁を築かせたり、水路を断つため使用する。
ホラーサーン地方に侵攻したモンゴル軍はバルフ、ヘラート、メルブのような繁栄で名高い都市を攻め、壊滅させる。陥落したメルブで数人が13日かかって死体を数えたところ、130万人あったと伝える史料もある。廃墟となったメルブの町は2度と復興しなかった。このような恐るべき破壊行為は、チンギス・ハーンの親族が戦死する毎に起きた。特にホラーサーンのニーシャープールの虐殺は、人類史上類のない蛮行の1つである。何しろ全住民を殺害、その首でピラミッドを築いたのだから。
モンゴルがニーシャープールを攻めた際、チンギスの末子である司令官トルイの義兄トクチャルが戦死。1221年4月、トルイは報復攻撃を開始する。脅えたニーシャープール城主は降伏を申し出るも、どのような条件を提示してもモンゴルは拒否。攻撃開始後、僅か2日間で町は占領された。
モンゴル軍の占領が完了した後、先に戦死したトクチャルの妻でありチンギスの第四女トムルン(母は正妻ボルテ)が、1万人を率い入城する。彼女はニーシャープールの人間のみならず犬、猫、鳥など全ての生き物を殺すよう命じた。虐殺は4日間続いたという。この時トムルンは先に殲滅した都市において、市街に隠れて生き残った者がいたことを知り、死体は全て首を切り離すよう指示する。兵士たちはこれに従い、4日かかって処理した。全ての建物を破壊するために、さらに2週間必要となる。
切り落とした首はそれぞれ男、女、子供の別に分けられ、首を積み重ねて3個のピラミッドを築き上げる。それを満足げに鑑賞するトムルンの姿を想像しただけで、鬼気迫るものがある。モンゴル軍は廃墟と化したこの町を引き上げる時も、密かに残留部隊を残しておき、隠れていた地下などから這い出てきた者を捕らえ、尽く殺した。
同年、チンギスはバーミヤーン(現アフガン、タリバーンにより破壊された大仏の地)でも、この地で戦死した孫のため、恐るべき復讐を果たしている。彼は「殺し尽し、破壊し尽くせ」と命じ、一人たりとも生き残ることは許さなかった。先のニーシャープール大虐殺の時は生け捕りにされた職人400人は奴隷として連行されたが、今度はたとえ役立つ職人でも例外は認められなかった。家畜などの生き物も全て、物は一品たりとも所有するなと厳命された。チンギスはこの町を砂漠に戻すことを決意、建物、道路、下水道は徹底的に破壊され、その後数百年間に亘り、人が住まなかったという。古い歴史を持つカンダハール(現アフガン)も、モンゴル侵入以前はカレーズ(地下水道)が縦横に通じ、肥沃な穀倉地帯だったが、モンゴル軍はこのカレーズも破壊したため、不毛の地と化してしまう。
どくろのピラミッドなど中世らしい野蛮さを感じるが、おぞましいのはその後もピラミッド作りが受け継がれたことだ。チンギスの子孫を自称した征服者ティムールは、血は争えないのか、征服地でどくろの塔を作るのを好んでいた。1387年、イスファハーン(イラン)を陥落させた時7万人を虐殺、その首を刈り頭蓋骨のピラミッドを作る。1400年アレッポ(シリア)、翌年バグダード(イラク)でもそれぞれ2万人の市民を殺害、首を積み重ねてはミナレット(モスクの尖塔)のような高い塔を作ったという。チンギスと異なりティムールはムスリムだったが、ムスリム市民を宗派問わず情け容赦なく虐殺している。自称チンギスとティムールの子孫のムガル朝も同じことを繰り返し、アクバル大帝さえどくろの塔を何基も構築した。
イランの歴史家ラシードゥッディーンはチンギスの興味深いエピソードを伝えている。ある時、チンギスは部下のブルクジに向かい、「人生最大の快楽は何か」と訊ねた。ブルクジや他の将軍たちは「春の日に、よい馬に跨り狩をすること」と答えたが、チンギスは違った。
-自分はそうではない。人生最大の快楽は敵を打ち破り、追いかけ、彼らの財宝を奪い、彼らの愛する者が悲しみ泣くところを見、彼らの馬に乗り、その妻や妾を奪って自分の後宮に入れることだ。
学者の中には近代の西欧と日本の台頭の要因を、モンゴルによる惨禍の少なさに求める人がいる。ただ、イスラム圏がいかに壊滅的な被害を受けたにせよ、その後オスマン朝やサファヴィー朝が興り繁栄は甦っている。21世紀の道徳観からすれば、チンギスの行いは非人道極まる。それでも、共産主義国家の生んだスターリンや毛沢東などの怪物に比べれば、まだマシに思えてくる。
■参考:「西域とイスラム」(世界の歴史5巻、岩村忍編集、中公バックス)
「残虐の民族史」(柳内伸作著、光文社カッパブックス)
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ホラムズ帝国のオアシス都市の抵抗はなかなか止まず、モンゴル軍はいくつもの部隊に分かれ、その一つ一つをしらみつぶしに攻略、破壊した。モンゴル軍は1つのオアシスを占領すると、その住民を連れ次の都市に向かい、彼らを攻城の第一線に使用した。そしてこの捕虜隊の背後にはモンゴル督戦隊が控え、躊躇ったり逃亡しようとした者を容赦なく殺害。また住民を駆り出して攻城用の対塁を築かせたり、水路を断つため使用する。
ホラーサーン地方に侵攻したモンゴル軍はバルフ、ヘラート、メルブのような繁栄で名高い都市を攻め、壊滅させる。陥落したメルブで数人が13日かかって死体を数えたところ、130万人あったと伝える史料もある。廃墟となったメルブの町は2度と復興しなかった。このような恐るべき破壊行為は、チンギス・ハーンの親族が戦死する毎に起きた。特にホラーサーンのニーシャープールの虐殺は、人類史上類のない蛮行の1つである。何しろ全住民を殺害、その首でピラミッドを築いたのだから。
モンゴルがニーシャープールを攻めた際、チンギスの末子である司令官トルイの義兄トクチャルが戦死。1221年4月、トルイは報復攻撃を開始する。脅えたニーシャープール城主は降伏を申し出るも、どのような条件を提示してもモンゴルは拒否。攻撃開始後、僅か2日間で町は占領された。
モンゴル軍の占領が完了した後、先に戦死したトクチャルの妻でありチンギスの第四女トムルン(母は正妻ボルテ)が、1万人を率い入城する。彼女はニーシャープールの人間のみならず犬、猫、鳥など全ての生き物を殺すよう命じた。虐殺は4日間続いたという。この時トムルンは先に殲滅した都市において、市街に隠れて生き残った者がいたことを知り、死体は全て首を切り離すよう指示する。兵士たちはこれに従い、4日かかって処理した。全ての建物を破壊するために、さらに2週間必要となる。
切り落とした首はそれぞれ男、女、子供の別に分けられ、首を積み重ねて3個のピラミッドを築き上げる。それを満足げに鑑賞するトムルンの姿を想像しただけで、鬼気迫るものがある。モンゴル軍は廃墟と化したこの町を引き上げる時も、密かに残留部隊を残しておき、隠れていた地下などから這い出てきた者を捕らえ、尽く殺した。
同年、チンギスはバーミヤーン(現アフガン、タリバーンにより破壊された大仏の地)でも、この地で戦死した孫のため、恐るべき復讐を果たしている。彼は「殺し尽し、破壊し尽くせ」と命じ、一人たりとも生き残ることは許さなかった。先のニーシャープール大虐殺の時は生け捕りにされた職人400人は奴隷として連行されたが、今度はたとえ役立つ職人でも例外は認められなかった。家畜などの生き物も全て、物は一品たりとも所有するなと厳命された。チンギスはこの町を砂漠に戻すことを決意、建物、道路、下水道は徹底的に破壊され、その後数百年間に亘り、人が住まなかったという。古い歴史を持つカンダハール(現アフガン)も、モンゴル侵入以前はカレーズ(地下水道)が縦横に通じ、肥沃な穀倉地帯だったが、モンゴル軍はこのカレーズも破壊したため、不毛の地と化してしまう。
どくろのピラミッドなど中世らしい野蛮さを感じるが、おぞましいのはその後もピラミッド作りが受け継がれたことだ。チンギスの子孫を自称した征服者ティムールは、血は争えないのか、征服地でどくろの塔を作るのを好んでいた。1387年、イスファハーン(イラン)を陥落させた時7万人を虐殺、その首を刈り頭蓋骨のピラミッドを作る。1400年アレッポ(シリア)、翌年バグダード(イラク)でもそれぞれ2万人の市民を殺害、首を積み重ねてはミナレット(モスクの尖塔)のような高い塔を作ったという。チンギスと異なりティムールはムスリムだったが、ムスリム市民を宗派問わず情け容赦なく虐殺している。自称チンギスとティムールの子孫のムガル朝も同じことを繰り返し、アクバル大帝さえどくろの塔を何基も構築した。
イランの歴史家ラシードゥッディーンはチンギスの興味深いエピソードを伝えている。ある時、チンギスは部下のブルクジに向かい、「人生最大の快楽は何か」と訊ねた。ブルクジや他の将軍たちは「春の日に、よい馬に跨り狩をすること」と答えたが、チンギスは違った。
-自分はそうではない。人生最大の快楽は敵を打ち破り、追いかけ、彼らの財宝を奪い、彼らの愛する者が悲しみ泣くところを見、彼らの馬に乗り、その妻や妾を奪って自分の後宮に入れることだ。
学者の中には近代の西欧と日本の台頭の要因を、モンゴルによる惨禍の少なさに求める人がいる。ただ、イスラム圏がいかに壊滅的な被害を受けたにせよ、その後オスマン朝やサファヴィー朝が興り繁栄は甦っている。21世紀の道徳観からすれば、チンギスの行いは非人道極まる。それでも、共産主義国家の生んだスターリンや毛沢東などの怪物に比べれば、まだマシに思えてくる。
■参考:「西域とイスラム」(世界の歴史5巻、岩村忍編集、中公バックス)
「残虐の民族史」(柳内伸作著、光文社カッパブックス)
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1937年、降伏しなかった南京が陥落後どうなるかは中国人には自明のことだったのでしょう。
黄河を決壊させて自国民数十万人を殺し一千万人を罹災させることも厭わなかった蒋介石にとって「南京」は温く映ったのかもしれません。
この 1938年の黄河花園口決壊事件はあまり有名ではないですけれど、一回の軍事行動での被害では史上最悪ではないかと思います。
他民族や他国民を殺すのはまだ人と思いますけれど、同胞や自国民を平気で殺すのはもはや人ではないと思います。
「黄河花園口決壊事件」、遅まきながら初めて知りました。教えて頂いて、有難うございました!
Wikiでこの事件を検索したら、スペイン紙の報道が面白いと感じましたね。
-(スペインのディアリオ・バスコ(El Diario Vasco)紙 1938年6月19日) 中国軍は黄河の堤防を破壊しノアの大洪水に勝る大水害を起こさんとしている。しかるに英、米、仏いずれからもこの世界に前例なき人類一大殺害に対し一言たりとも抗議する声を聴かない。
毛沢東も惨いですが、蒋介石も人後に落ちない人物ですね。邪魔者を始末するのは何処の国もありますが、まさに桁外れ。ヒトラーなど中国の独裁者たちに比べれば、全くの小物に過ぎません。
そして、英、米、仏の大国が黙殺したのも興味深い。蒋介石が欧米で好感を得ていたのは、妻・宋美齢の活躍も少なくなかったと思います。
その意味では語弊はあるかもしれませんが、太平洋戦争時に米国が我が国に対して行った東京大空襲や広島長崎への原爆投下の先駆けとなった行為戦略だったのかと考えてしまいます。
全くの蛮行でしかないナチスのユダヤ人虐殺や、共産主義特有の権力闘争であるスターリン大粛清、毛沢東の文化大革命とは異質なものと考えます。
堺屋氏の『世界を創った男、チンギス・ハン』は未読ですが、「屠城」が『長期的な平和維持の為の計画的な大量報復戦略』という意見は、先のmotton さんのコメント、「人口の少ない遊牧民族にとってはその後の侵攻・統治を楽にするための戦略的側面」に通じます。
ただ、チンギスの屠城が、「太平洋戦争時に米国が我が国に対して行った東京大空襲や広島長崎への原爆投下の先駆けとなった行為戦略だった」という見方は少し違和感があります。結果的には『長期的な平和維持の為の計画的な大量報復戦略』となりましたが、一神教的イデオロギーもあったのではないでしょうか?
米国は先住民に対しても「正義」の名で掃討作戦を行っていたし、これまたナチスの蛮行と何処が違うのでしょうか?インディアン掃討もまた、『長期的な平和維持の為の計画的な大量報復戦略』になりました。