遺伝的に劣悪とされた人達に強制的に不妊手術を行った優生保護法は強く非難され、強制的に不妊手術を受けさせられた被害者達は國を訴えている。
その優生保護法は昭和23年、GHQの占領中に制定された。本当に悪法なら三権の上に君臨していたGHQが止めさせたはずではないか。GHQの意図は何だったのか。
~~引用ここから~~
GHQ、強制不妊「根拠不明」 日本側、押し切る 1948~49年 毎日新聞 2018年6月24日 東京朝刊
障害者らに不妊手術を強制した旧優生保護法が国会で審議された1948年、日本を間接統治していた連合国軍総司令部(GHQ)が、法案に強制不妊の対象として盛り込まれていた大半の疾患の遺伝性について再三にわたり「医学的根拠が不明」だと批判し、ナチス・ドイツの断種法以上に問題視していたことが、GHQの記録から判明した。日本側は一部対象を削除するなどしつつも、根拠不明とされた遺伝性疾患の多くを復活させる改正案を押し通していた。
日本側が、法成立前から問題点を認識しながら、障害者の幅広い排除に固執した歴史が明らかになった。
旧法は48年6月、超党派で議員提案され、同月に全会一致で可決、同9月に施行、49年5月に改正された。今回明るみに出たのは、この間の日本側とGHQ側との詳細なやりとりの記録で、米国立公文書館が所蔵している約200ページの文書を国立国会図書館が撮影、88~89年にマイクロフィルム化して収蔵した。
記録によると、国会提案直前の48年5月、法案を検討したGHQ民政局が「個人の私生活と幸福への国家の最も広範な介入だ」との見解を示し、「さまざまな乱用」を招く恐れがあると懸念した。手術の根拠とされた「遺伝性精神病」「強度かつ悪質な遺伝性病的性格」などを「おおざっぱな分類だ」と批判し、「ナチスの断種法ですら、医学的に遺伝性とみなされる個々の病気を明示した」と指摘した。
さらに同局は、都道府県の優生保護審査会の決定に異議を申し立てる場合、最終決定が裁判所でなく国の中央優生保護審査会となっていた点も問題視し、「法廷に訴える権利の排除は憲法違反」と明記を求めた。
日本側は、対象疾患を記した「別表」を加え、訴訟の権利を記載するなど修正し成立させた。審議過程で今度はGHQで保健政策を担う公衆衛生福祉局(PHW)が、別表に列挙された疾患の遺伝性について「ごく少数の例外を除き」疑問があると再修正を要求。日本側は49年、削除に応じた改正案を作成後、遺伝性疾患の大半を復活させ可決した。
理由について、法制定を主導した参院議員が人口急増に伴う食料難を挙げ「望まれざる集団の出産の防止」を主張。PHWは「遺伝性と証明されていない症状を含む」と不満を示したが、「異常な放浪癖」など一部削除に応じたことで容認した。のちに強制不妊の大半の理由となる「遺伝性精神病」や「遺伝性精神薄弱」は別表に残った。【千葉紀和、上東麻子、和田浩明】(GHQ記録の詳細は25日朝刊に掲載します)
GHQ文書研究の第一人者の荒敬・元長野県短大教授(日本現代史)の話
他の法案でもGHQと日本政府とのやりとりは珍しくない。だが、国会審議中に法案を修正させるのは非常に特殊で、医療担当部門から見れば医学的に到底認められない内容だったのではないか。ただGHQは民主的手続きも重視し、議員による提案だったこともあり、改正案を容認したのだろう。
~~引用ここまで~~
この毎日新聞の記事からはGHQはあくまで反対だったが、GHQは民主的手続きを重視しやむなく容認したようにみえる。検閲や報道統制、公職追放の占領中に民主的手続きを重視することに意味はあるのか。茶番に思えるが。
しかし次の記事を読むとGHQの意図が見えてくる。
~~引用ここから~~
2016.2.20 09:00 【人口戦】 日本の少子化は「人災」だった(上)戦後ベビーブーム突如終焉 (産経新聞)
GHQ、禁断の「産児制限」
人工光に照らされた棚に、青々と育ったレタスが所狭しと並ぶ。兵庫県養父市の旧南谷小学校の体育館。かつて子供たちの元気な声で満ちあふれていた学舎は「野菜工場」へと変貌をとげた。
子供の数が減った影響で小中学校の廃校が相次いでいる。文部科学省によれば、公立小中学校は平成17(2005)年度からの10年で3200校近く減った。高齢者施設やオフィス、宿泊施設、レストランなどに転用された例もみられる。
厚生労働省が年頭に公表した推計によれば、昨年の年間出生数は前年比4千人増の100万8千人。だが、この反転は一時的なものとみられる。子供を産むことのできる若い女性が激減していくからだ。
それにしても日本の出生数の減少ペースは速い。戦後のピークである昭和24(1949)年の約270万人と比較すると、70年弱で約3分の1に減った。しかも、その推移を追いかけると、気になる変化が見つかる。24年の翌年は出生数が一挙に36万人も減り、第1次ベビーブームが突如終わっているのだ。
明らかに不自然である。当時の資料を調べてみたところ、意外な事実が明らかになってきた。
戦後、占領政策を実施した連合国軍総司令部(GHQ)が、堕胎や避妊による「産児制限」を仕向けていたのだ。日本の少子化は、GHQによって引き起こされた“人災”だったともいえる。
焼け野原からの再出発となった日本は、復員や旧植民地からの引き揚げ者が相次ぎ深刻な食糧難に直面した。一方でベビーブームが起こり、増え続ける人口への懸念が広まっていた。
GHQは当初、無関心を装っていたが、21年5月に「食糧メーデー」が起こると態度を一変させた。労働運動の広がりによる共産化への警戒だった。
発展途上国の人口急増が共産主義に結びつくという見方は戦前から強かったが、「人口が急増している日本も例外ではない」と認識したのである。
懸念はもう一つあった。米国は国土面積が狭い割に多くの人口を抱える日本を戦前から注視していた。
GHQの報告書を翻訳した『GHQ日本占領史第4巻 人口』(日本図書センター)には、日本の開戦理由を「人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主義的政策を宣伝した」とする分析結果が残されている。
GHQの人口問題の専門家らは、戦後も「日本の人口増加に歯止めがかからなければ、将来、膨張主義が復活する」と警告した。
だが、人口の多寡が「国力」を意味した戦前・戦中において、人為的に人口を減らす産児制限は“禁断の政策”であった。各国政府はこれを認めず、米国でもキリスト教団体を中心に反対論が強かった。
占領国が人口抑制を強要した場合、国際社会から強い非難を受けることは必然だった。そこで、GHQは日本人自身の手で産児制限を普及させることにしたのである。
◇
なぜ日本の少子化はかくも深刻化したのだろうか。有効な歯止め策が見つからない今、その手掛かりを求めて、出生数が激減した根本的理由を歴史にたずねることにした。
人工妊娠中絶、女性議員を推進役に 「日本人の意思で法制化」迫る
戦時中の新聞や書物には、「人口戦」という言葉がしばしば登場する。
相手国民を減らし、弱体化させるための作戦を展開するのだが、虐殺ではなく、経済封鎖などによって出産期の女性や小さな子供の健康に影響を与え、あるいは結婚や出産をためらわせる思想を普及させる間接的な形で実行される。
連合国軍総司令部(GHQ)も例外ではなかった。目に留まったのは、戦前、産児制限の普及運動に取り組んでいた加藤シヅエ氏(1897~2001年)たちだった。
産児制限を合法化し日本に定着させる推進役となることを期待し、女性の立候補が認められた昭和21(1946)年の戦後初の総選挙で、加藤氏らを後押ししたのである。
加藤氏の自叙伝『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』(日本図書センター)に、詳細なやりとりが残されている。
「九月二日にはミズリー号で、降伏文書の調印が行われて、ああこれで完全に終戦だと思ってましたら、少し経ったある日、ジープが家の前に停まりましたの。(中略)二世で、塚本太郎さんというGHQの民間情報教育局の方でした。家に上がっていらっして、こうおっしゃるの。『今日は実は、お願いに来ました』って。何事かと思いましたら、『日本に新しい民主主義の法律を作らなくてはならないので、御夫婦にいろいろな意味で相談相手になって貰いたい。非公式に顧問を引き受けて頂けませんか』とおっしゃいました」
衆院選立候補を促す場面についても、「ある日、GHQの将軍が突然訪ねていらっしゃったんです。『どうしてあなたは立候補しないんですか』って訊かれましたので、『夫(=加藤勘十氏)が立候補しているのに、私まで出るなんて考えられません』と申しましたら、『婦人参政権を与えよと言ったのは、あなたじゃないですか。戦前から運動を続けて来た張本人が、そんなことでいいんですか』って、懇々と説得なさるんです」と書かれている。
GHQがこだわったのが、産児制限を認める法案を議員提出とすることだった。「日本人自身の意思で法制化した」とする必要に迫られていたのである。
当然のことながら、占領下とはいえ日本政府は産児制限の受け入れを拒絶した。芦田均厚相は、20年12月15日の貴族院本会議で「一度出生率が減少傾向になった場合には、人口増加の傾向に回復することは困難である。人口が過剰であるからといって、すぐに政府が公然と産児制限を認めることは、慎重に考慮を要することだ」と答弁している。
人口の多寡が「国力」を意味した戦前・戦中において、産児制限は「民族の自殺」であり、将来的な国家の滅亡につながると考えられていた。第二次大戦が終わってなお、日米間で国家の存亡をかけた「静かなる戦争」が続いていたのだ。
衆院議員に当選した加藤氏や医師出身議員らは精力的に動いた。GHQ公衆衛生福祉局のクロフォード・サムス局長が記者会見で産児制限を強く促したこともあり、23年6月、日本政府の慎重姿勢をよそに人工妊娠中絶を認める優生保護法が成立した。
だが、この法律は中絶の門戸を広く開くものではなかった。「貧困」を理由とすることを認めなかったからだ。加藤氏らは「産児制限は文明人の有する当然の自由で、国民の基本的人権だ」と法改正を訴えた。
一方、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は米国の人口学者が産児制限の必要性を語ることを妨げなかった。このため学者らは「日本が産児制限政策にためらい、帝国主義への回帰を忘れられず、人口増加を目指している」との報告書をまとめた。
人口学者らの見解は、主権回復を悲願としていた日本政府には重圧だった。人口膨張を抑制できなければ、国際社会への復帰が認められないのではないか、との焦りである。
闇堕胎による女性の健康被害が社会問題化したこともあり、ついに吉田茂内閣はそれまでの政府方針を転換した。24年4月、産児制限拡大を検討するため人口問題審議会の設置を閣議決定した。これを受け、同年6月には優生保護法に改正が加えられ、日本は「経済的理由」で中絶が認められる国となった。結果として、第1次ベビーブームは突如終焉(しゅうえん)したのである。
主権回復から間もない27年5月に同法は再び改正され、「経済的理由」に該当するかどうかの判断は医師に委ねられた。それは、現在に至る長い少子化の歴史の始まりでもあった。(論説委員 河合雅司)
~~引用ここまで~~
~~引用ここから~~
2016.2.20 19:00 【人口戦】 日本の少子化は「人災」だった(中) 政府主導で「産むな殖やすな」 料理・編み物とセットで「計画出産」講習 (産経新聞)
占領期、連合国軍総司令部(GHQ)の仕掛けによる「人口戦」に敗れた日本に訪れたのは、人工妊娠中絶ブームだった。その勢いはすさまじく、出生数激減に反比例するように増え続けた。
中絶の届け出件数は昭和24(1949)年の10万1601件が、翌年には32万150件と3倍増となり、28年には100万件を突破した。「民族の滅亡」という政府首脳の懸念をよそに、多くの国民は産児制限に強い関心と期待を寄せていたのである。
当時の中絶数と出生数を足し算すると興味深い数値になる。第1次ベビーブームの最終年となった24年の279万8239に対し、28年は290万を超え、むしろ増えていたのだ。
歴史に「もしも」はないが、爆発的な中絶ブームがなければベビーブームはもっと長く続き、現在の少子社会はかなり違った様子となったことであろう。
□ □
吉田茂内閣が24年に産児制限を受け入れて以降、終戦直後のように産児制限を「民族の滅亡」と懸念した声は次第に聞かれなくなり、むしろ政府は国民の要望に応えようと、普及に大きくかじを切った。
優生保護法の再改正(27年)で受胎調節実地指導員制度が発足すると、優生保護相談所を中心に各地で宣伝普及活動が進められた。
産児制限はやがて「家族計画」と言い換えられ、GHQによって始められた生活改善運動に乗って地域ぐるみの取り組みに発展していった。家族計画は、受胎調節の技術指導を行うだけでなく、生活水準の向上や母体保護の知識普及、子供の教育など幅広い意味の中で使われたのである。
「政府としてはこれまでは母体保護の見地から指導してきたが、今後は人口抑制の見地に立ってさらに強力に普及推進したい」
吉田内閣の草葉隆圓厚相は29年10月5日、厚生省の会議で日本政府が産児制限を人口抑制策として推進する方針を明確に打ち出した。それは、GHQが日本人の手で行ったことにしようと腐心した「人口抑制策としての産児制限」という目的を、日本政府が受け入れたことを意味した。
産児制限を取り上げた『昭和33年版厚生白書』は、「われわれが健康にして文化的な生活を営むためには、自らの手で家族設計すなわち適当な家族構成を考えて行くことが必要となる」と記している。「単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」との説明だ。
厚生白書がわざわざこのような記載をしたのは、当時の日本人に避妊知識が十分に浸透しておらず、産児制限とは人工妊娠中絶のことであると誤解している人が多かったためだ。
□ □
政府は、避妊知識をどう国民に普及させていけばよいか頭を悩ませていた。そこで考え出されたのが、国立公衆衛生院による「計画出産モデル村」事業だった。“子宝思想”が根強く残っていた農村部を通じて、日本人に適した避妊方法を探し、中絶をどれくらい減らせられるかを調査しようという試みだ。
専門家が頻繁に現地に出向いて、地元の保健師などと連携して計画出産と受胎調節の指導を行った。この事業は25年から7年間にわたって続けられた。
企業にも広がり、厚生省人口問題研究会の関与のもと保健師らが従業員の妻を集めて指導を行った。企業側には、計画出産によって家庭の負担が減れば夫が仕事に専念できて生産性は向上し、医療費や家族手当などの負担軽減になるとの思惑があった。
社員や妻の抵抗感を和らげるため、受胎調節の指導は「新生活運動」と呼ばれ、栄養料理の作り方や洋裁・編み物、家計簿の付け方、電気器具の取り扱い、美容体操や子供のしつけなど多彩な講習会とセットで実施された。講師派遣型のカルチャーセンターといったところだ。多面的に家庭生活を近代化する取り組みとしたのである。
これらの動きを見ると、戦前の「産めよ殖やせよ」から一転して、まさに国を挙げて「産むな殖やすな」という“少子化推進運動”を展開した印象である。
32年には10人の子供が生まれてくる間に7人の胎児は中絶されるという異常事態となった。これには、政府も動揺を隠せなかったが、「出産はコントロールできるもの」であることを知った国民の価値観を変えることはできなかった。 (論説委員 河合雅司)
~~引用ここまで~~
~~引用ここから~~
2016.2.21 09:00 【人口戦】 日本の少子化は「人災」だった(下) 戦後70年、いまだGHQの呪縛 戦前は近隣諸国との出生率競争
少子化はいくつもの要因が複雑に絡み合って起こるが、未婚・晩婚化が大きな理由だ。国立社会保障・人口問題研究所は2035年の生涯未婚率は男性29・0%、女性は19・2%に達すると予測している。
なぜ未婚・晩婚は進んだのだろうか。ここにも占領期に連合国軍総司令部(GHQ)が仕掛けた「人口戦」の影が及んでいる。
日本人の結婚や出産に対する価値観を決定的に変えたのは、昭和22(1947)年施行の日本国憲法で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」とした24条だ。
戦時中の「家制度」の下では、結婚は家と家の結びつきであり、戸主が結婚相手を決めることに疑問を持つ者は少なかった。
ところが、憲法24条によって誰と結婚するかが個人の判断となると、「結婚しない自由」が当然のように語られるようになり、行き過ぎた個人主義ともつながった。家族を「個人」の集合体と考える人たちの登場は、現在の未婚・晩婚と無関係ではなく、少子化にもつながっている。
こうした価値観の変化は戦時中の「産めよ殖やせよ」政策への批判にもつながった。国民の反発を恐れた国会議員や官僚は、出生数減の危機を知りながら結婚や出産の奨励政策に及び腰となり、少子化対策は後手に回ったのである。
□ □
「産めよ殖やせよ」政策といえば、一般的に国防国家体制を確立するための兵力や労働力の確保策と説明される。16年1月に近衛文麿内閣によって閣議決定された「人口政策確立要綱」には、「今後ノ十年間ニ婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ三年早ムルト共ニ一夫婦ノ出生数平均五児ニ達スルコトヲ目標トシテ計画ス」など、実に細かな“指示”が記されている。
だが、この「産めよ殖やせよ」政策は、GHQによる「人口戦」とは別の、戦前にあった「もう一つの人口戦」の影響を強く受けていたことはあまり知られていない。近隣諸国との出生率をめぐる戦いである。
実は、戦前の日本も少子化に悩んでいた。人口1千人あたりの出生率は大正9(1920)年の36・2をピークに、昭和14(1939)年は26・6に落ち込むなど長期下落傾向を示していたのだ。
人口が基礎国力であり、人口差がそのまま国防上の危機に直結した時代である。「産めよ殖やせよ」には兵士確保策としての目的はもちろんのこと、日本人口の減少に伴い近隣諸国に国力で負けることへの政府の危機感があったのだ。
17年4月に厚生省人口局が編集したパンフレット『健民運動』は、当時の政府の考えを伝えている。
「我が国の出生率が大正九年を界にして一路下降の傾向を辿り始めたと言ふ事は大いに警戒を要する事柄であつて今にして之が対策を講ずるのでなければ将来臍を噛んで後悔しても亦如何とも為す能はざるは火を見るよりも明らかである」との指摘だ。
日本の出生数が減る一方で近隣諸国の出生数が増え続ける状況を、将来の国力差につながる“脅威”として受け止めていたのである。
厚生省予防局が昭和16年に出した『国民優生図解』(国民優生聯盟)は、「我々がこれから世界の檜舞台に於いて覇を争つて行くために注目を要するのはフランスやイギリスやドイツではなく、実に同じ亜細亜にあつて日本を取り巻いて居る支那であり、ソ聯であり、印度である」と指摘している。
その上で、「出生率に於いて我が国より遥かに高いソ聯や支那、印度は更に全人口が我が国の二倍乃至四倍もある。従つて年々に生れる赤坊の数を比較すると、我が国で一人生れる間に支那では七人生れ、印度では五人、ソ聯では三人生れてゐる。我が国が之等多産の国々に伍して大いに国運を伸ばして行く為には余程国民の自覚を必要とする」とも記している。
□ □
日本は戦後70年を経てもなお、GHQの仕掛けた「人口戦」の呪縛にある。時代背景は大きく異なるが、人口大国の中国の隣にあって人口が減っていく。それは戦時中の政府が“脅威”として受け止めていた状況を想起させる。
「少子高齢化に歯止めをかけ、50年後も人口1億人を維持する」。昨年9月、自民党総裁選に再選された安倍晋三首相は記者会見で、歴代政権が避け続けてきた人口の数字目標を明確に掲げた。
戦時中の人口学者は当時の少子化を指して「日本民族の老衰と衰亡」と訴えたが、一刻も早く現在の少子化の流れを断ちきらなければ、日本人は“絶滅”の危機を脱することはできない。(論説委員 河合雅司)
~~引用ここまで~~
GHQの真の意図それは、日本に日本人の手で「産児制限」をさせることだった。そのための代表格が加藤シズエなどのGHQに擁立された政治家だった。
産児制限から見れば強制不妊など些細なことであったのだろう。そもそも世界初の堕胎・断種法が成立したのは1907年の米国インディアナ州だ。そののち1923年までに32州で制定されたのだ。GHQが本気で反対していたかは疑わしい。
それに当時は中絶と優生学はセットだった。加藤シズエも優生学に基づいたことを主張していた。
優生保護法はドイツや人権に五月蝿い北欧諸国でも制定された。強制不妊が免罪されるわけではないが、優生保護法は当時の世界的な「ブーム」だった。
民主主義も米国が世界一の大国だから世界を席巻しているのであって、支那が米国を越えて覇権國になったら途上国は民主主義を見倣うのを止めるかもしれない。
だが優生保護法を制定したのは占領中だが、その法律を維持し、強制不妊を行ってきたのは大部分独立後の日本だ。責任の転嫁はできない。
日本は日本で被害者に謝罪し、強制不妊を行ってきた各国政府もそれぞれ被害者に謝罪しなければならない。
だがGHQが優生保護法に反対だったというのは毎日新聞の虚偽だ。日本が人口を増やし膨張主義に転じぬよう、産児制限をさせるために代理人の日本人に中絶を合法化する法を制定させたというのが歴史の事実だ。
GHQの呪縛は人口にまで及んでいるのである。
参考文献
占領下日本における人口・優生政策 山本 起世子
その優生保護法は昭和23年、GHQの占領中に制定された。本当に悪法なら三権の上に君臨していたGHQが止めさせたはずではないか。GHQの意図は何だったのか。
~~引用ここから~~
GHQ、強制不妊「根拠不明」 日本側、押し切る 1948~49年 毎日新聞 2018年6月24日 東京朝刊
障害者らに不妊手術を強制した旧優生保護法が国会で審議された1948年、日本を間接統治していた連合国軍総司令部(GHQ)が、法案に強制不妊の対象として盛り込まれていた大半の疾患の遺伝性について再三にわたり「医学的根拠が不明」だと批判し、ナチス・ドイツの断種法以上に問題視していたことが、GHQの記録から判明した。日本側は一部対象を削除するなどしつつも、根拠不明とされた遺伝性疾患の多くを復活させる改正案を押し通していた。
日本側が、法成立前から問題点を認識しながら、障害者の幅広い排除に固執した歴史が明らかになった。
旧法は48年6月、超党派で議員提案され、同月に全会一致で可決、同9月に施行、49年5月に改正された。今回明るみに出たのは、この間の日本側とGHQ側との詳細なやりとりの記録で、米国立公文書館が所蔵している約200ページの文書を国立国会図書館が撮影、88~89年にマイクロフィルム化して収蔵した。
記録によると、国会提案直前の48年5月、法案を検討したGHQ民政局が「個人の私生活と幸福への国家の最も広範な介入だ」との見解を示し、「さまざまな乱用」を招く恐れがあると懸念した。手術の根拠とされた「遺伝性精神病」「強度かつ悪質な遺伝性病的性格」などを「おおざっぱな分類だ」と批判し、「ナチスの断種法ですら、医学的に遺伝性とみなされる個々の病気を明示した」と指摘した。
さらに同局は、都道府県の優生保護審査会の決定に異議を申し立てる場合、最終決定が裁判所でなく国の中央優生保護審査会となっていた点も問題視し、「法廷に訴える権利の排除は憲法違反」と明記を求めた。
日本側は、対象疾患を記した「別表」を加え、訴訟の権利を記載するなど修正し成立させた。審議過程で今度はGHQで保健政策を担う公衆衛生福祉局(PHW)が、別表に列挙された疾患の遺伝性について「ごく少数の例外を除き」疑問があると再修正を要求。日本側は49年、削除に応じた改正案を作成後、遺伝性疾患の大半を復活させ可決した。
理由について、法制定を主導した参院議員が人口急増に伴う食料難を挙げ「望まれざる集団の出産の防止」を主張。PHWは「遺伝性と証明されていない症状を含む」と不満を示したが、「異常な放浪癖」など一部削除に応じたことで容認した。のちに強制不妊の大半の理由となる「遺伝性精神病」や「遺伝性精神薄弱」は別表に残った。【千葉紀和、上東麻子、和田浩明】(GHQ記録の詳細は25日朝刊に掲載します)
GHQ文書研究の第一人者の荒敬・元長野県短大教授(日本現代史)の話
他の法案でもGHQと日本政府とのやりとりは珍しくない。だが、国会審議中に法案を修正させるのは非常に特殊で、医療担当部門から見れば医学的に到底認められない内容だったのではないか。ただGHQは民主的手続きも重視し、議員による提案だったこともあり、改正案を容認したのだろう。
~~引用ここまで~~
この毎日新聞の記事からはGHQはあくまで反対だったが、GHQは民主的手続きを重視しやむなく容認したようにみえる。検閲や報道統制、公職追放の占領中に民主的手続きを重視することに意味はあるのか。茶番に思えるが。
しかし次の記事を読むとGHQの意図が見えてくる。
~~引用ここから~~
2016.2.20 09:00 【人口戦】 日本の少子化は「人災」だった(上)戦後ベビーブーム突如終焉 (産経新聞)
GHQ、禁断の「産児制限」
人工光に照らされた棚に、青々と育ったレタスが所狭しと並ぶ。兵庫県養父市の旧南谷小学校の体育館。かつて子供たちの元気な声で満ちあふれていた学舎は「野菜工場」へと変貌をとげた。
子供の数が減った影響で小中学校の廃校が相次いでいる。文部科学省によれば、公立小中学校は平成17(2005)年度からの10年で3200校近く減った。高齢者施設やオフィス、宿泊施設、レストランなどに転用された例もみられる。
厚生労働省が年頭に公表した推計によれば、昨年の年間出生数は前年比4千人増の100万8千人。だが、この反転は一時的なものとみられる。子供を産むことのできる若い女性が激減していくからだ。
それにしても日本の出生数の減少ペースは速い。戦後のピークである昭和24(1949)年の約270万人と比較すると、70年弱で約3分の1に減った。しかも、その推移を追いかけると、気になる変化が見つかる。24年の翌年は出生数が一挙に36万人も減り、第1次ベビーブームが突如終わっているのだ。
明らかに不自然である。当時の資料を調べてみたところ、意外な事実が明らかになってきた。
戦後、占領政策を実施した連合国軍総司令部(GHQ)が、堕胎や避妊による「産児制限」を仕向けていたのだ。日本の少子化は、GHQによって引き起こされた“人災”だったともいえる。
焼け野原からの再出発となった日本は、復員や旧植民地からの引き揚げ者が相次ぎ深刻な食糧難に直面した。一方でベビーブームが起こり、増え続ける人口への懸念が広まっていた。
GHQは当初、無関心を装っていたが、21年5月に「食糧メーデー」が起こると態度を一変させた。労働運動の広がりによる共産化への警戒だった。
発展途上国の人口急増が共産主義に結びつくという見方は戦前から強かったが、「人口が急増している日本も例外ではない」と認識したのである。
懸念はもう一つあった。米国は国土面積が狭い割に多くの人口を抱える日本を戦前から注視していた。
GHQの報告書を翻訳した『GHQ日本占領史第4巻 人口』(日本図書センター)には、日本の開戦理由を「人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主義的政策を宣伝した」とする分析結果が残されている。
GHQの人口問題の専門家らは、戦後も「日本の人口増加に歯止めがかからなければ、将来、膨張主義が復活する」と警告した。
だが、人口の多寡が「国力」を意味した戦前・戦中において、人為的に人口を減らす産児制限は“禁断の政策”であった。各国政府はこれを認めず、米国でもキリスト教団体を中心に反対論が強かった。
占領国が人口抑制を強要した場合、国際社会から強い非難を受けることは必然だった。そこで、GHQは日本人自身の手で産児制限を普及させることにしたのである。
◇
なぜ日本の少子化はかくも深刻化したのだろうか。有効な歯止め策が見つからない今、その手掛かりを求めて、出生数が激減した根本的理由を歴史にたずねることにした。
人工妊娠中絶、女性議員を推進役に 「日本人の意思で法制化」迫る
戦時中の新聞や書物には、「人口戦」という言葉がしばしば登場する。
相手国民を減らし、弱体化させるための作戦を展開するのだが、虐殺ではなく、経済封鎖などによって出産期の女性や小さな子供の健康に影響を与え、あるいは結婚や出産をためらわせる思想を普及させる間接的な形で実行される。
連合国軍総司令部(GHQ)も例外ではなかった。目に留まったのは、戦前、産児制限の普及運動に取り組んでいた加藤シヅエ氏(1897~2001年)たちだった。
産児制限を合法化し日本に定着させる推進役となることを期待し、女性の立候補が認められた昭和21(1946)年の戦後初の総選挙で、加藤氏らを後押ししたのである。
加藤氏の自叙伝『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』(日本図書センター)に、詳細なやりとりが残されている。
「九月二日にはミズリー号で、降伏文書の調印が行われて、ああこれで完全に終戦だと思ってましたら、少し経ったある日、ジープが家の前に停まりましたの。(中略)二世で、塚本太郎さんというGHQの民間情報教育局の方でした。家に上がっていらっして、こうおっしゃるの。『今日は実は、お願いに来ました』って。何事かと思いましたら、『日本に新しい民主主義の法律を作らなくてはならないので、御夫婦にいろいろな意味で相談相手になって貰いたい。非公式に顧問を引き受けて頂けませんか』とおっしゃいました」
衆院選立候補を促す場面についても、「ある日、GHQの将軍が突然訪ねていらっしゃったんです。『どうしてあなたは立候補しないんですか』って訊かれましたので、『夫(=加藤勘十氏)が立候補しているのに、私まで出るなんて考えられません』と申しましたら、『婦人参政権を与えよと言ったのは、あなたじゃないですか。戦前から運動を続けて来た張本人が、そんなことでいいんですか』って、懇々と説得なさるんです」と書かれている。
GHQがこだわったのが、産児制限を認める法案を議員提出とすることだった。「日本人自身の意思で法制化した」とする必要に迫られていたのである。
当然のことながら、占領下とはいえ日本政府は産児制限の受け入れを拒絶した。芦田均厚相は、20年12月15日の貴族院本会議で「一度出生率が減少傾向になった場合には、人口増加の傾向に回復することは困難である。人口が過剰であるからといって、すぐに政府が公然と産児制限を認めることは、慎重に考慮を要することだ」と答弁している。
人口の多寡が「国力」を意味した戦前・戦中において、産児制限は「民族の自殺」であり、将来的な国家の滅亡につながると考えられていた。第二次大戦が終わってなお、日米間で国家の存亡をかけた「静かなる戦争」が続いていたのだ。
衆院議員に当選した加藤氏や医師出身議員らは精力的に動いた。GHQ公衆衛生福祉局のクロフォード・サムス局長が記者会見で産児制限を強く促したこともあり、23年6月、日本政府の慎重姿勢をよそに人工妊娠中絶を認める優生保護法が成立した。
だが、この法律は中絶の門戸を広く開くものではなかった。「貧困」を理由とすることを認めなかったからだ。加藤氏らは「産児制限は文明人の有する当然の自由で、国民の基本的人権だ」と法改正を訴えた。
一方、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は米国の人口学者が産児制限の必要性を語ることを妨げなかった。このため学者らは「日本が産児制限政策にためらい、帝国主義への回帰を忘れられず、人口増加を目指している」との報告書をまとめた。
人口学者らの見解は、主権回復を悲願としていた日本政府には重圧だった。人口膨張を抑制できなければ、国際社会への復帰が認められないのではないか、との焦りである。
闇堕胎による女性の健康被害が社会問題化したこともあり、ついに吉田茂内閣はそれまでの政府方針を転換した。24年4月、産児制限拡大を検討するため人口問題審議会の設置を閣議決定した。これを受け、同年6月には優生保護法に改正が加えられ、日本は「経済的理由」で中絶が認められる国となった。結果として、第1次ベビーブームは突如終焉(しゅうえん)したのである。
主権回復から間もない27年5月に同法は再び改正され、「経済的理由」に該当するかどうかの判断は医師に委ねられた。それは、現在に至る長い少子化の歴史の始まりでもあった。(論説委員 河合雅司)
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2016.2.20 19:00 【人口戦】 日本の少子化は「人災」だった(中) 政府主導で「産むな殖やすな」 料理・編み物とセットで「計画出産」講習 (産経新聞)
占領期、連合国軍総司令部(GHQ)の仕掛けによる「人口戦」に敗れた日本に訪れたのは、人工妊娠中絶ブームだった。その勢いはすさまじく、出生数激減に反比例するように増え続けた。
中絶の届け出件数は昭和24(1949)年の10万1601件が、翌年には32万150件と3倍増となり、28年には100万件を突破した。「民族の滅亡」という政府首脳の懸念をよそに、多くの国民は産児制限に強い関心と期待を寄せていたのである。
当時の中絶数と出生数を足し算すると興味深い数値になる。第1次ベビーブームの最終年となった24年の279万8239に対し、28年は290万を超え、むしろ増えていたのだ。
歴史に「もしも」はないが、爆発的な中絶ブームがなければベビーブームはもっと長く続き、現在の少子社会はかなり違った様子となったことであろう。
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吉田茂内閣が24年に産児制限を受け入れて以降、終戦直後のように産児制限を「民族の滅亡」と懸念した声は次第に聞かれなくなり、むしろ政府は国民の要望に応えようと、普及に大きくかじを切った。
優生保護法の再改正(27年)で受胎調節実地指導員制度が発足すると、優生保護相談所を中心に各地で宣伝普及活動が進められた。
産児制限はやがて「家族計画」と言い換えられ、GHQによって始められた生活改善運動に乗って地域ぐるみの取り組みに発展していった。家族計画は、受胎調節の技術指導を行うだけでなく、生活水準の向上や母体保護の知識普及、子供の教育など幅広い意味の中で使われたのである。
「政府としてはこれまでは母体保護の見地から指導してきたが、今後は人口抑制の見地に立ってさらに強力に普及推進したい」
吉田内閣の草葉隆圓厚相は29年10月5日、厚生省の会議で日本政府が産児制限を人口抑制策として推進する方針を明確に打ち出した。それは、GHQが日本人の手で行ったことにしようと腐心した「人口抑制策としての産児制限」という目的を、日本政府が受け入れたことを意味した。
産児制限を取り上げた『昭和33年版厚生白書』は、「われわれが健康にして文化的な生活を営むためには、自らの手で家族設計すなわち適当な家族構成を考えて行くことが必要となる」と記している。「単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」との説明だ。
厚生白書がわざわざこのような記載をしたのは、当時の日本人に避妊知識が十分に浸透しておらず、産児制限とは人工妊娠中絶のことであると誤解している人が多かったためだ。
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政府は、避妊知識をどう国民に普及させていけばよいか頭を悩ませていた。そこで考え出されたのが、国立公衆衛生院による「計画出産モデル村」事業だった。“子宝思想”が根強く残っていた農村部を通じて、日本人に適した避妊方法を探し、中絶をどれくらい減らせられるかを調査しようという試みだ。
専門家が頻繁に現地に出向いて、地元の保健師などと連携して計画出産と受胎調節の指導を行った。この事業は25年から7年間にわたって続けられた。
企業にも広がり、厚生省人口問題研究会の関与のもと保健師らが従業員の妻を集めて指導を行った。企業側には、計画出産によって家庭の負担が減れば夫が仕事に専念できて生産性は向上し、医療費や家族手当などの負担軽減になるとの思惑があった。
社員や妻の抵抗感を和らげるため、受胎調節の指導は「新生活運動」と呼ばれ、栄養料理の作り方や洋裁・編み物、家計簿の付け方、電気器具の取り扱い、美容体操や子供のしつけなど多彩な講習会とセットで実施された。講師派遣型のカルチャーセンターといったところだ。多面的に家庭生活を近代化する取り組みとしたのである。
これらの動きを見ると、戦前の「産めよ殖やせよ」から一転して、まさに国を挙げて「産むな殖やすな」という“少子化推進運動”を展開した印象である。
32年には10人の子供が生まれてくる間に7人の胎児は中絶されるという異常事態となった。これには、政府も動揺を隠せなかったが、「出産はコントロールできるもの」であることを知った国民の価値観を変えることはできなかった。 (論説委員 河合雅司)
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2016.2.21 09:00 【人口戦】 日本の少子化は「人災」だった(下) 戦後70年、いまだGHQの呪縛 戦前は近隣諸国との出生率競争
少子化はいくつもの要因が複雑に絡み合って起こるが、未婚・晩婚化が大きな理由だ。国立社会保障・人口問題研究所は2035年の生涯未婚率は男性29・0%、女性は19・2%に達すると予測している。
なぜ未婚・晩婚は進んだのだろうか。ここにも占領期に連合国軍総司令部(GHQ)が仕掛けた「人口戦」の影が及んでいる。
日本人の結婚や出産に対する価値観を決定的に変えたのは、昭和22(1947)年施行の日本国憲法で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」とした24条だ。
戦時中の「家制度」の下では、結婚は家と家の結びつきであり、戸主が結婚相手を決めることに疑問を持つ者は少なかった。
ところが、憲法24条によって誰と結婚するかが個人の判断となると、「結婚しない自由」が当然のように語られるようになり、行き過ぎた個人主義ともつながった。家族を「個人」の集合体と考える人たちの登場は、現在の未婚・晩婚と無関係ではなく、少子化にもつながっている。
こうした価値観の変化は戦時中の「産めよ殖やせよ」政策への批判にもつながった。国民の反発を恐れた国会議員や官僚は、出生数減の危機を知りながら結婚や出産の奨励政策に及び腰となり、少子化対策は後手に回ったのである。
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「産めよ殖やせよ」政策といえば、一般的に国防国家体制を確立するための兵力や労働力の確保策と説明される。16年1月に近衛文麿内閣によって閣議決定された「人口政策確立要綱」には、「今後ノ十年間ニ婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ三年早ムルト共ニ一夫婦ノ出生数平均五児ニ達スルコトヲ目標トシテ計画ス」など、実に細かな“指示”が記されている。
だが、この「産めよ殖やせよ」政策は、GHQによる「人口戦」とは別の、戦前にあった「もう一つの人口戦」の影響を強く受けていたことはあまり知られていない。近隣諸国との出生率をめぐる戦いである。
実は、戦前の日本も少子化に悩んでいた。人口1千人あたりの出生率は大正9(1920)年の36・2をピークに、昭和14(1939)年は26・6に落ち込むなど長期下落傾向を示していたのだ。
人口が基礎国力であり、人口差がそのまま国防上の危機に直結した時代である。「産めよ殖やせよ」には兵士確保策としての目的はもちろんのこと、日本人口の減少に伴い近隣諸国に国力で負けることへの政府の危機感があったのだ。
17年4月に厚生省人口局が編集したパンフレット『健民運動』は、当時の政府の考えを伝えている。
「我が国の出生率が大正九年を界にして一路下降の傾向を辿り始めたと言ふ事は大いに警戒を要する事柄であつて今にして之が対策を講ずるのでなければ将来臍を噛んで後悔しても亦如何とも為す能はざるは火を見るよりも明らかである」との指摘だ。
日本の出生数が減る一方で近隣諸国の出生数が増え続ける状況を、将来の国力差につながる“脅威”として受け止めていたのである。
厚生省予防局が昭和16年に出した『国民優生図解』(国民優生聯盟)は、「我々がこれから世界の檜舞台に於いて覇を争つて行くために注目を要するのはフランスやイギリスやドイツではなく、実に同じ亜細亜にあつて日本を取り巻いて居る支那であり、ソ聯であり、印度である」と指摘している。
その上で、「出生率に於いて我が国より遥かに高いソ聯や支那、印度は更に全人口が我が国の二倍乃至四倍もある。従つて年々に生れる赤坊の数を比較すると、我が国で一人生れる間に支那では七人生れ、印度では五人、ソ聯では三人生れてゐる。我が国が之等多産の国々に伍して大いに国運を伸ばして行く為には余程国民の自覚を必要とする」とも記している。
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日本は戦後70年を経てもなお、GHQの仕掛けた「人口戦」の呪縛にある。時代背景は大きく異なるが、人口大国の中国の隣にあって人口が減っていく。それは戦時中の政府が“脅威”として受け止めていた状況を想起させる。
「少子高齢化に歯止めをかけ、50年後も人口1億人を維持する」。昨年9月、自民党総裁選に再選された安倍晋三首相は記者会見で、歴代政権が避け続けてきた人口の数字目標を明確に掲げた。
戦時中の人口学者は当時の少子化を指して「日本民族の老衰と衰亡」と訴えたが、一刻も早く現在の少子化の流れを断ちきらなければ、日本人は“絶滅”の危機を脱することはできない。(論説委員 河合雅司)
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GHQの真の意図それは、日本に日本人の手で「産児制限」をさせることだった。そのための代表格が加藤シズエなどのGHQに擁立された政治家だった。
産児制限から見れば強制不妊など些細なことであったのだろう。そもそも世界初の堕胎・断種法が成立したのは1907年の米国インディアナ州だ。そののち1923年までに32州で制定されたのだ。GHQが本気で反対していたかは疑わしい。
それに当時は中絶と優生学はセットだった。加藤シズエも優生学に基づいたことを主張していた。
優生保護法はドイツや人権に五月蝿い北欧諸国でも制定された。強制不妊が免罪されるわけではないが、優生保護法は当時の世界的な「ブーム」だった。
民主主義も米国が世界一の大国だから世界を席巻しているのであって、支那が米国を越えて覇権國になったら途上国は民主主義を見倣うのを止めるかもしれない。
だが優生保護法を制定したのは占領中だが、その法律を維持し、強制不妊を行ってきたのは大部分独立後の日本だ。責任の転嫁はできない。
日本は日本で被害者に謝罪し、強制不妊を行ってきた各国政府もそれぞれ被害者に謝罪しなければならない。
だがGHQが優生保護法に反対だったというのは毎日新聞の虚偽だ。日本が人口を増やし膨張主義に転じぬよう、産児制限をさせるために代理人の日本人に中絶を合法化する法を制定させたというのが歴史の事実だ。
GHQの呪縛は人口にまで及んでいるのである。
参考文献
占領下日本における人口・優生政策 山本 起世子
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