雅藍(がお)っぽさまるだし2。

芝居やゲームやWWEや映画やライブを糧に人生を何とか過ごしてる、そんな雅藍(がお)さんの日々をまるだし。

「マンダレイ」:「傲慢」と「おせっかい」の悲劇性について。

2006年04月10日 | 大スクリーンに無限の夢(映画)
シェーキーズのピッツァは相変わらず素晴らしい。

凄く久しぶりに、ランチにピッツァとポテトを思うがままに食べた。
食べたかったトッピングが出てこなかったのは残念だったか、
まぁ、満足。
つくづく銀座に復活してくれないかと嘆願書を作りたくなる。


子供の頃の私にとって、シェーキーズのアツアツのピッツァと、
そこで流れていたカントリーミュージックこそがアメリカの象徴であった。
そこは英語と陽気と自由に満ち溢れていた場所であった。

アメリカがそんなステキな国なんかじゃなないと認識するようになったのは、
「JFK」を観たころからだろうか?
「ボウリング・フォー・コロンバイン」もそうだ。

もはや、アメリカ以外の国々の方が、
アメリカは「自由の国」なんかじゃないことを知っている。
まやかしの「自由」に民衆を酔わせた、
「最強」を妄想してる国だと言うことを。


「マンダレイ」
2年前に衝撃を与えた問題作「ドックヴィル」の続編、
そしてラーズ・フォン・トリアー監督の「アメリカ」3部作の2作目。


「正しい街」だったはずのドッグヴィルを「捨て」て、
グレースがたどり着いたのは「マンダレイ」と言う名の小さな村。
そこは奴隷解放から70年も経過してるのに、
未だに奴隷制度に支配された共同体だったのだ。
グレースは非人間的な現状を打ち破るために、この共同体に介入していく。
自らの正義感と楽観さを武器に。

「ドッグヴィル」が非常に多面的で難解な作品であった反動からか、
それとも世界が2年の間にシフトしたからか、
「マンダレイ」は一転、明確で判りやすい物語となっていった。
しかしその中で流れているテーマは、簡単なようで、実は複雑。
それはまさに現代の世界と「アメリカの介入」の縮図。

前作ではある意味「ドッグヴィル」の被害者だったグレースが、
今度は一転、「マンダレイ」を追い詰める加害者になっていく。
それはまさに「あの大統領」そのもの。

この世界で生きていくにつれて、世界は私の想像以上に複雑な構図で
構成されていることをみんな学んでいく。
だからこそ、みんな自分の「いるべきポジション」を探そうとする。
「適材適所」と言う言葉を取り上げるまでもなく。

一人として同じ人間がいない以上、
ともに生きる人の数が増えれば増えるほど、
そしてともに生きる人の歴史が積み重なるほど、
共同体の質は複雑化する。
それは一朝一夕で掌握できるはずなどないほど。

だけど、グレースはそのことに気づかなかった。
いや、見なかったのだ。
自分の信念が人々を変えられるなんて言う、
ばかげた楽観論に支配されていたから。

方法論は間違っていない。
だけど、結局は偏見と差別に支配されてしまうのだ、人間は。

「マンダレイ」は淡々と、
だけど現実を皮肉交じりに見せ付ける。
「世界はそう簡単に変わらないし、人はそう簡単に心を曲げない」
ってことを。
それは悲劇でも慟哭でもなくて、
人が生きていくために築き上げた、まごう事なき「本能」なのだ。

それを一義的な「自由」と「正義」なんて妄想で簡単に変えようとすると、
たどり着くのは悲劇しかない。
実に簡単。

だからこそ、難しい。

そしてこの問題は、翻って我々「アメリカの下僕」となりつつある
「日本と言う国家」にも突きつけられている。
「無思慮なおせっかい」が生み出す感情の齟齬は、
確実にゆがみを生じさせている気がしてならない。


被害者と加害者の痛みを両方とも味わったグレースは、
最後にたどり着く(であろう)場所、「WASINGTON」にて何を見て、
何をするのだろう。
「ヤング・アメリカン」はそこで何かの答えを見出すことが出来るのか、
今から次の3部作完結編が待ち遠しい限り。


それにしても、何もこんな重い作品ばかり3連荘で見なくてもいいのに。
しかも「マンダレイ」は昨日の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」以上に
生々しいSEX描写があって、衝撃強すぎ。
っつーか、見えてたよな、あれ。


流石にしばらくは重いのは見たくないわぁ。
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