愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

「She's Lost Control」について――(1)

2010-04-14 21:12:08 | 日記
 イアン・カーティスは、1977年の春から1979年の夏まで、公務員として障害者のための雇用センターで働いていました。障害を持った人たちのために就職先を世話する仕事です。「She's Lost Control」は、そこで出会った癲癇の少女のことを歌っています。イアンはその少女のことを「いい子だ」と気に入っていましたが、病気の悪化で死んでしまいます。イアン自身も1978年の12月に、少女と同じ癲癇患者となっていて、少女の死にたいへんなショックを受けました。「She's Lost Control」は1979年の7月にリリースされています。少女の死がいつ頃なのか、またこの詩がいつ頃書かれたのか、はっきりわかりませんが、少なくとも最終的に詩がまとめられたのは、イアンの発病後だと考えられます。

 高校卒業後結婚し、公務員として働き出したのは1975年で、マックルズフィールドの自宅近くの仕事場への異動を申し込み、障害者のための雇用センターに移ったのはその2年後、ちょうどバンド活動を始めた頃でした。

 「イアンは急激に個人的な興味を彼らに持ち、彼らの職探しに全力を注いだ。この仕事をすることによってイアンは元々備わっていた彼の中の優しさが滲み出てくるようになった」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)

とデボラは書いています。昼は公務員、夜はギグという二重生活が続く中で発病し、翌1979年の初頭まで、ギグは控えられていました。そんな中、1979年6月にファースト・アルバム「アンノウン・プレジャーズ」がリリースされます。初回プレス限定5000枚はあっという間に売り切れました。限定生産ですから、チャートに載るヒットとはなりませんでしたが、『NME』などの音楽誌から絶賛され、ジョイ・ディヴィジョンはポスト・パンクの流れの中心を担うバンドとして一躍注目を浴びることになります。そして8月、バズコックスのツアーにサポートバンドとして同行することが決定すると、「仕事は辞めてバンドに専念しよう」ということになりました。
しかし、仕事を辞めた後も、この少女に限らず、この職場での体験は、彼の心の中に強く残っていたようです。

 1980年1月29日付アニック・オノレ宛書簡に、イアンはこんなことを書いています。(“Torn Apart -The Life of Ian Curtis”)

 マックルズフィールドは本当に不思議な街だ。ある人たちは、現状をよくわかっているけれど、それ以外の人たち(ほとんどがそうだけど)は、過去の存在みたいに生きていて、たださまよっているように見える。街に出るといつも誰か知っている人に出会う――一緒に学校へ行っていた誰かや、その仲間を知っている人たちとか、障害者の雇用センターで一緒だった人たちに。この人たちのことは、いつも本当に気の毒だと思っている。どうしたらいいか、いつも、全く途方に暮れている。君と会って話すことは、いつもとても嬉しいけど。今日は一人の男の子に会って、彼をお茶に誘ったんだ。彼はずっと仕事を探しているけど、誰も雇ってくれない。僕はずっと努力してたけど、彼の希望をかなえられなかった。誰かが彼にチャンスを与えてくれたらって、いつも思っていたけど、彼の助けになれなかった。彼にも、彼のような人たちにも、今ではもう何もできない。

 この頃は、ヨーロッパツアーを成功させ、セカンドアルバムのレコーディングに入る頃で、手紙の前半には、「一日詩を書いていたけどまだ十分じゃない」、などと書いています。日中図書館で詩を書いて、夜は家の創作部屋(家の中で唯一安らげる場所だとか)に籠もって書いている、とあって、少年に会ったのは図書館からの帰りのようです。この手紙からは、ポストパンクを代表するバンドのフロントマンというイメージは感じられません。田舎の地味な若者の日常の一コマが綴られているという印象を受けます。
 アニックも、デボラと同じように「彼は本当に優しくて、とくに弱い者に思いやりのある人だった」と言っています。が、デボラは、それとは別に、イアンが彼らに「急激に個人的な興味を持った」理由について、もう一つ別の視点を持っていました。

「施錠されて隔離され、世間から忘れ去られた人々がいる精神病院に対して、イアンは特に興味を持っていた。私の妹のジルは精神病院にいる人々の歯を世話する仕事をしている友人を持っていて、イアンは二つの乳首の間にもう一つ乳首のある患者の話を聞くのが好きだった。まったく悪意はないのだが、障害を持っていることが彼のイマジネーションに火をつけるのだろう」(デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)

 バーナードは、イアンが職場で出会った障害者たちから精神的に大きな影響を受けていたと指摘しています。バーナードも、デボラが挙げているエピソードをふまえ、「イアンは彼らを通して生命の窮境に関心を抱いていた」と捉えています(ジョン・サヴェージ「アンノウン・プレジャーズ」コレクターズエディション・ライナーノートなど)。
 バーナードによれば、「エターナル」は、イアンの少年時代に、隣に住んでいた引きこもりのモンゴル人の少年について歌ったものだそうです。成人してからその少年に再会したとき、相変わらず少年にとっては自分の家と庭だけが彼の世界で、イアンは年をとったのに、少年は全く変わっていなかった、その経験が元になっている詩だというのです。

 イアン・カーティスが、デボラの指摘するような詩的想像力を持ち、また、バーナードの言うように「生命の窮境に関心を抱いていた」ということは、彼の詩を見ていると何となく納得させられます。そして、初期の作品と後期の作品とを比べると、明らかに変化が感じられます。生命や存在に対する不安といった感覚は、初期の作品から一貫したテーマとしてあるように思うのですが、それが漠然としたものではなく、はっきりとした、リアルな危機感に変化していくように思います。「コントロール」を監督したアントン・コービンは、癲癇の発病から映画のトーンががらっと変わると言っていますが、やはり発病は詩の変化に大きく関わっているでしょう。「She's Lost Control」は、そういった意味で重要な詩だと考えられますが、この詩には、心情を表す言葉がほとんど出てきません。エピソードを知らなければ、実体験に基づいているとは私には想像できませんでした。


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