愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

持病について――1

2010-10-13 20:08:22 | 日記
 癲癇は、大脳の神経細胞の規則正しい活動が突然崩れることにより、様々な発作が起こる病気です。頭部の外傷や脳卒中など、はっきりした原因があるもの(症候性癲癇)と、検査をしても原因が分からないもの(特発性癲癇)に分かれます。
 脳卒中を起こした高齢者が発病するケースも近年増えているようですが、幼少期に発病することが最も多く、80%は18歳以前に発病すると言われています。
 意識の消失とともに全身が痙攣するのが、「大発作」と呼ばれる最も激しい発作です。このほか、瞬間的に意識がなくなるだけのもの、意識はなくならずに体の一部に痙攣やしびれが起こるもの、幻覚などの精神症状が起こるものなど、様々なパターンがあります。 治療は薬物治療が中心となります。適切な治療を受け、規則正しい生活を心がけることにより、8割の人は日常生活に支障をきたすことなく発作を抑制することができます。しかし中には、薬を飲んでも発作をコントロールすることができない、難治性癲癇と呼ばれるものもあります。

 ジョイ・ディヴィジョンは1978年12月27日、初のロンドンでのギグを行います。しかし、観客は30人程しか入らず、期待外れの結果となり、イアンはかなり苛立っていたようです。帰途、初めて大発作を起こし、癲癇と診断されます。原因は不明、投薬治療を受けますが、その後も大発作を含め、発作は頻繁に起こりました。22歳という年齢での発病は珍しいケースです。母ドリーン・カーティスは、イアンは病気らしい病気をしたのはおへそに膿がたまって、それを取ってもらったことくらいで、健康優良児だった、4歳違いの妹キャロルの方がむしろ弱かったくらいで、癲癇の発病にとても驚いたと語っています("Torn Apart- The Life of Ian Curtis")。彼女はまた、イアンは10代のある時期に頭を打ったことがあるのではないか、そして、結婚生活でのストレスとステージでフラッシュを浴びたことなどが重なって発病したのではないか、と言っています。
 デボラは、イアンと出会った15歳の頃、しばしば幻覚が起こると彼が語っていたことについて記し、実はこれが癲癇の症状だったのではないかと推察しています。
 『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』を追っていくと、小康状態を保ったり、大発作を起こしたりを繰り返しながら、病状がしだいに悪化していく様子がわかります。以下、簡単にまとめてみます。

1978年12月末~1979年1月
 診断した開業医は、専門医に診てもらうよう指示したのみ。発作はかなり頻繁に起きた。週に3~4回の時と、全く起こらない時と、波があった。運転免許は条件付きとなり、身体障害者登録をした。
 専門医の診断を受け、抗癲癇薬としてフェニトインとフェノバルビトンを処方される。フェニトインは癲癇の治療に最もよく使用される長期の治療薬。フェノバルビトンは痙攣を抑える効果がある。薬についての様々な副作用とともに、このとき、ある決定的なことを言われる。それは、インポテンツを受け入れなければならないということだった。引きこもりがちになり、必要最低限のことしか話さなくなった。英国癲癇協会に入会。デボラは知っておくべき情報の把握につとめる。発作の前兆を見逃さないよう注意を払い、発作が起こってもすぐ対処できるようにする。ステージでのイアンのダンスは発作の前兆によく似ていた。まるで「発作の悲惨なパロディー」のようになっていった。(第7章)
3月
 1月から3月の間に何回か大発作を起こし、脳波を調べるが異常なし。フェニトインとフェノバルビトンに加え、新しく発作を抑制する効果のあるカルバマゼピンとバルプロ酸塩が投与される。新しい薬を受け取るたびに、イアンは今度こそこの薬が助けてくれるのではないかという熱意を取り戻す。大量の投薬を受けるようになってから、躁鬱状態が激しくなる。「癲癇の薬が癲癇そのものよりイアンを不幸にさせていたのではないか」とバーナードは指摘している。(第7章)
4月
 『アンノウン・プレジャーズ』の録音。ナタリー誕生。しかし、発作が起こって子どもを落とすことを恐れ、イアンは子どもを抱くのを嫌がった。(第7章)
5月
 ジョイ・ディヴィジョンはギグを定期的に行う。24日、自宅で4回にわたる大発作を次々に起こし救急車で運ばれる。そのまま数日入院。頭部のスキャンを撮るが、異常なし。(第8章)
6月
 『アンノウン・プレジャーズ』リリース。発作は一度も起きず。(第8章)
8月~9月
 何度も発作を起こし、9月の末、本番前に大発作を起こす。家庭にほとんど帰らなくなったイアンの世話は、デボラに代わってバンドのメンバーがみるようになる。(第9章)
10~11月
 アニック・オノレと出会う。11月にかけて発作は2回しか起こらなかった。(第9章)
12月
 イアンのエキセントリックな性格と精神分裂的な性格を、デボラは自分の手には負えなくなったと感じる。結婚生活は完全に破綻していた。(第9章)
1980年1月~2月
 ヨーロッパツアー。アニック・オノレが同行。ツアー中の病状はデボラが記していないため不明。"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"にもこの間の発作について特に記されていないので、少なくとも大発作は起こらなかったとみられる。1月から2月にかけて、大発作が2回。このころ、不倫がデボラに知られる。(第10章)
3月
 メンバーやスタッフ、そしてアニック・オノレの前で大発作を起こす。初めて大発作を見たアニックに対し、病気についてきちんと話しておきたいと書簡で記している(この点からも、アニックがイアンの大発作を初めて見たのはヨーロッパツアー後のことと推察される)。書簡では、癲癇の発作が悪化していること、それについての恐怖、とくにステージで大発作が起こることへの恐怖が語られている。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis")
4月4日
 ロンドンで行われたステージで大発作が起きる。(第11章)(この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、のちにバーナード・サムナーは語っている。(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート))
4月7日
 フェノバルビトンを大量に飲み、自殺未遂。入院。(第11章)
4月8日
 病院からギグに直行。2曲だけ歌ってステージから下がると観客が怒り、暴動が起こる。この後、自宅には戻らずトニー・ウィルソン夫妻と同居。(第11章)
5月2日
 最後のライブとなったバーミンガム大学でのギグ。(第12章)
5月6日
 精神科医の診察を受ける。問題なし、「人と歩調を合わせ人生を全うし、未来を期待する男性」と診断される。(第12章)
5月18日未明
 自殺。(第12章)

 イアンの病気の深刻さは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』でもメンバーや関係者の証言から窺い知ることができますが、彼自身の苦悩が率直に語られているのが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"に収録されているアニック・オノレ宛の書簡です。 


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