1980年3月5日、ブリストルで行われたギグで、ステージでのパフォーマンスの終了間際に、イアン・カーティスは癲癇の発作を起こしました。その場に居て発作を目撃したアニック・オノレに宛てて、後日、イアンはいくつかの書簡を送りました。"Torn Apart- The Life of Ian Curtis" にはそのうち、イアンが彼の病気についての不安を記した部分を三箇所引用しています(p.200~p.201)。
デボラ・カーティスは、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に、「イアンがアニックを内妻として選んだことで、てんかんの発作後の処置ができない、あるいはしたがらないために悲惨な結果を生んだ。アニックが戸惑いつつ拒絶したことが彼を深く傷つけた。」(p.135)と書いていますが、これに対する反論が書簡をもとに書かれています。
癲癇の発作は恐怖になりつつある。月曜日の夜なんて、ガラスの扉を壊してしまった。気が付いたらガラスまみれで、扉に体を突っ込んだまま、尖った破片を見つめていた。たまに夜出掛けることも、クラブや映画館で発作が起こりはしないかと思うと怖くてできない。もっと不安なのは演奏の最中に発作が起こることだけど、その可能性は高いと思う。もし演奏中に大発作が起こるようなことがあったら、僕は二度とステージに立てないだろう。アメリカツアー(※1)は本当に不安だ。いや、正直に言うとこれから先ずっとだ。発作はいつかもっと激しいものになる、そう思わずにはいられない。そう、そうなったら僕はもう続けられないだろう。
癲癇の発作は悪化するだろう。とても恐ろしい。「怖くない」と言ったら嘘になる。医者は薬を試すだけだ。ずいぶんいろんな薬の組み合わせを試した。医者が施す全ての検査を受けた、CTスキャンとか、脳波を調べたりとか。そして、トラブルが脳の側頭葉の前部にあることは判明した。だけど、多くの症例と同様、はっきりした原因はわからない。僕はまだ完全に把握しきれてはいない。でも、職場で癲癇患者と一緒に働いていたことがあるし、毎月仕事でデヴィッド・ルース・センター(※2)に行ってたからよく分かる。そこには、治療を受けるか、ただ世話をされるかだけの、最悪のケースの患者たちがいた。恐ろしい光景が頭の中にこびりついている。特別なヘルメットを被った男の子や女の子は、発作の時に自分を傷つけないよう、肘と膝にパッドを着けていた。何て絶望的な状況にいる、可哀想な子どもたちだっただろう。僕はこのことを君に話さなくては、と思った。もしそれが君の僕に対する感情を変えてしまうかもしれなくても。君を心から愛している、君を失いたくはない、でも、僕は最悪の場合どんな状態が有り得るのか、君に話すべきだと思った。……そうは言っていても、この発作が突然無くなって、二度と起こらなくなる、なんてことが起こり得るかも、とも思う。
(ブリストルのギグで)発作が起こって、みんながそこにいて混乱した。まずい、と思って慌てたけど、君がいてくれて嬉しかった。意識を取り戻して君の顔を見た時、とても落ち着いたし、元気づけられた。君はこんなに影響力があるんだ。ロブでさえ、ヨーロッパツアーに君が同行したことは、僕にとって良かったって言っているんだ(※3)。君は僕にこれだけの効果を及ぼし、そして苛立ちを取り除いてくれるんだ。
※1イアンが自殺した5月18日にアメリカツアーに出発する予定でした。
※2デヴィッド・ルース・センターは、チェシャー州にある癲癇患者のための療養施設です。住居や教育など、様々なサービスを提供しています。(http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lewis_Centre)
※3マネージャーのロブ・グレットンは、メンバーの妻や彼女がギグやレコーディングなどに来ることを避けたいという考えを持っていました。例えばピーター・フックは「ロブは断固として男っぽい、男だけの場にしようとした。これは作業だ、これは僕らの仕事なんだっていう雰囲気を作るために彼女や奥さんを連れてこないようにしたんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション収録のバーナード・サムナーとスティーヴン・モリスとの鼎談)と言っています。そのロブでさえ、アニックが居たことはイアンにとって良かったと言っている、ということだと思います。
この書簡からは、イアンが自分の病気について、発作がどんどん悪化していることを感じ、もっと悪い状態になることをいかに恐れていたかが分かります。イアンは何よりもステージで発作が起こることを恐れていました。そして、それは一月後に起こりました。発作の苦しみは勿論ですが、発作を他人に見られることがいかに癲癇患者にとって苦痛であるかは、日本てんかん協会の編集している『新・てんかんと私-ひびけ、とどけ!34人の声-』に収録されている手記によっても、窺い知ることができます。
4月4日、ロンドンのムーンライト・クラブで行われたギグで、オープニングから25分ほど過ぎた時、イアンのダンスはおかしくなりはじめ、「グロテスクなもの」になります。3000人の観客のうち何人かは、パフォーマンスの一部だと思ったようですが、多くの人は、恐ろしい発作がイアンに起こったことを目撃しました("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.220~p.221)。この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、バーナード・サムナーは語り(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート)、バーナードとピーター・フックの同級生で、ローディーをしていたテリー・メイソンは、「彼は潰された……彼はあの晩、完全に壊れたんだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)と語っています。そして、その三日後、イアンは自殺未遂を起こしました。
もう一つ、注目したことは、アニック・オノレに対して率直に、発作が収まって目が覚めた時に「君がいてくれて嬉しかった」と語っていることです。初めに記したように、デボラは、アニックがイアンの発作後の処置を拒否したことがイアンを深く傷つけたと書いているのですが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"はこれに対し、「アニックはそういう人間ではない」と反論し、この記述を引用しています。アニックは、「どんなに親しい関係でも限界がある」と語り、イアンが発作を起こしている時、自分はそれをただ覗き見しているだけの「voyeur」(フランス語で「覗き見している人」の意)であるように感じていたといいます。イアンを背負うためには強くあらねばならなかったけれども、彼女は無力さを感じていました。慎重さと内気さは、ときに無関心であると誤解されるものかもしれない、ともアニックは語っています。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.201)
デボラの主張は、彼女がイアンの病気を理解しようと努め、一生懸命尽くしていた、ということです。そして、自分はいつでもイアンの力になれたのに、疎外されてしまったという思いから、アニックが許せなかったのだと思います。物事はそれぞれの立場で語られるとき、時に全く違ったものになってしまいます。デボラの主張が一方的になものになってしまうのは仕方のないことでしょう。また、全く間違っているとも言い切れないと思います。イアンの気持ちはどうだったのでしょうか。イアンはアニックに対して「いてくれるだけで嬉しい」と言っています。ふと感じるのは、アニックの言うように、どんなに親しい間柄でも、結局皆発作を傍観するだけの第三者でしかない、ということです。彼はそこに孤独を感じたことはなかったのでしょうか。
残されたメンバーたちの発言のいくつかから滲み出るのは、イアンが持病を抱えながらバンドを続けることは無理だと分かっていたけれど、誰も止められなかった、そして、何もできなかったという思いです。さらに、当時の状況下では、癲癇という病への偏見があったことも垣間見られます。
デボラ・カーティスは、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に、「イアンがアニックを内妻として選んだことで、てんかんの発作後の処置ができない、あるいはしたがらないために悲惨な結果を生んだ。アニックが戸惑いつつ拒絶したことが彼を深く傷つけた。」(p.135)と書いていますが、これに対する反論が書簡をもとに書かれています。
癲癇の発作は恐怖になりつつある。月曜日の夜なんて、ガラスの扉を壊してしまった。気が付いたらガラスまみれで、扉に体を突っ込んだまま、尖った破片を見つめていた。たまに夜出掛けることも、クラブや映画館で発作が起こりはしないかと思うと怖くてできない。もっと不安なのは演奏の最中に発作が起こることだけど、その可能性は高いと思う。もし演奏中に大発作が起こるようなことがあったら、僕は二度とステージに立てないだろう。アメリカツアー(※1)は本当に不安だ。いや、正直に言うとこれから先ずっとだ。発作はいつかもっと激しいものになる、そう思わずにはいられない。そう、そうなったら僕はもう続けられないだろう。
癲癇の発作は悪化するだろう。とても恐ろしい。「怖くない」と言ったら嘘になる。医者は薬を試すだけだ。ずいぶんいろんな薬の組み合わせを試した。医者が施す全ての検査を受けた、CTスキャンとか、脳波を調べたりとか。そして、トラブルが脳の側頭葉の前部にあることは判明した。だけど、多くの症例と同様、はっきりした原因はわからない。僕はまだ完全に把握しきれてはいない。でも、職場で癲癇患者と一緒に働いていたことがあるし、毎月仕事でデヴィッド・ルース・センター(※2)に行ってたからよく分かる。そこには、治療を受けるか、ただ世話をされるかだけの、最悪のケースの患者たちがいた。恐ろしい光景が頭の中にこびりついている。特別なヘルメットを被った男の子や女の子は、発作の時に自分を傷つけないよう、肘と膝にパッドを着けていた。何て絶望的な状況にいる、可哀想な子どもたちだっただろう。僕はこのことを君に話さなくては、と思った。もしそれが君の僕に対する感情を変えてしまうかもしれなくても。君を心から愛している、君を失いたくはない、でも、僕は最悪の場合どんな状態が有り得るのか、君に話すべきだと思った。……そうは言っていても、この発作が突然無くなって、二度と起こらなくなる、なんてことが起こり得るかも、とも思う。
(ブリストルのギグで)発作が起こって、みんながそこにいて混乱した。まずい、と思って慌てたけど、君がいてくれて嬉しかった。意識を取り戻して君の顔を見た時、とても落ち着いたし、元気づけられた。君はこんなに影響力があるんだ。ロブでさえ、ヨーロッパツアーに君が同行したことは、僕にとって良かったって言っているんだ(※3)。君は僕にこれだけの効果を及ぼし、そして苛立ちを取り除いてくれるんだ。
※1イアンが自殺した5月18日にアメリカツアーに出発する予定でした。
※2デヴィッド・ルース・センターは、チェシャー州にある癲癇患者のための療養施設です。住居や教育など、様々なサービスを提供しています。(http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lewis_Centre)
※3マネージャーのロブ・グレットンは、メンバーの妻や彼女がギグやレコーディングなどに来ることを避けたいという考えを持っていました。例えばピーター・フックは「ロブは断固として男っぽい、男だけの場にしようとした。これは作業だ、これは僕らの仕事なんだっていう雰囲気を作るために彼女や奥さんを連れてこないようにしたんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション収録のバーナード・サムナーとスティーヴン・モリスとの鼎談)と言っています。そのロブでさえ、アニックが居たことはイアンにとって良かったと言っている、ということだと思います。
この書簡からは、イアンが自分の病気について、発作がどんどん悪化していることを感じ、もっと悪い状態になることをいかに恐れていたかが分かります。イアンは何よりもステージで発作が起こることを恐れていました。そして、それは一月後に起こりました。発作の苦しみは勿論ですが、発作を他人に見られることがいかに癲癇患者にとって苦痛であるかは、日本てんかん協会の編集している『新・てんかんと私-ひびけ、とどけ!34人の声-』に収録されている手記によっても、窺い知ることができます。
4月4日、ロンドンのムーンライト・クラブで行われたギグで、オープニングから25分ほど過ぎた時、イアンのダンスはおかしくなりはじめ、「グロテスクなもの」になります。3000人の観客のうち何人かは、パフォーマンスの一部だと思ったようですが、多くの人は、恐ろしい発作がイアンに起こったことを目撃しました("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.220~p.221)。この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、バーナード・サムナーは語り(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート)、バーナードとピーター・フックの同級生で、ローディーをしていたテリー・メイソンは、「彼は潰された……彼はあの晩、完全に壊れたんだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)と語っています。そして、その三日後、イアンは自殺未遂を起こしました。
もう一つ、注目したことは、アニック・オノレに対して率直に、発作が収まって目が覚めた時に「君がいてくれて嬉しかった」と語っていることです。初めに記したように、デボラは、アニックがイアンの発作後の処置を拒否したことがイアンを深く傷つけたと書いているのですが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"はこれに対し、「アニックはそういう人間ではない」と反論し、この記述を引用しています。アニックは、「どんなに親しい関係でも限界がある」と語り、イアンが発作を起こしている時、自分はそれをただ覗き見しているだけの「voyeur」(フランス語で「覗き見している人」の意)であるように感じていたといいます。イアンを背負うためには強くあらねばならなかったけれども、彼女は無力さを感じていました。慎重さと内気さは、ときに無関心であると誤解されるものかもしれない、ともアニックは語っています。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.201)
デボラの主張は、彼女がイアンの病気を理解しようと努め、一生懸命尽くしていた、ということです。そして、自分はいつでもイアンの力になれたのに、疎外されてしまったという思いから、アニックが許せなかったのだと思います。物事はそれぞれの立場で語られるとき、時に全く違ったものになってしまいます。デボラの主張が一方的になものになってしまうのは仕方のないことでしょう。また、全く間違っているとも言い切れないと思います。イアンの気持ちはどうだったのでしょうか。イアンはアニックに対して「いてくれるだけで嬉しい」と言っています。ふと感じるのは、アニックの言うように、どんなに親しい間柄でも、結局皆発作を傍観するだけの第三者でしかない、ということです。彼はそこに孤独を感じたことはなかったのでしょうか。
残されたメンバーたちの発言のいくつかから滲み出るのは、イアンが持病を抱えながらバンドを続けることは無理だと分かっていたけれど、誰も止められなかった、そして、何もできなかったという思いです。さらに、当時の状況下では、癲癇という病への偏見があったことも垣間見られます。