第1連
Radio, live transmission. ラジオ 生放送
Radio, live transmission. ラジオ 生放送
詩の背景が分かります。ラジオの生放送から音楽が流れている夜、それを聴いている「僕たち」が描かれていきます。
第2連
Listen to the silence, let it ring on. 沈黙に耳をすまし 響かせよう
Eyes, dark grey lenses frightened of the sun. 眼が、暗い灰色の瞳が太陽を恐れている
We would have a fine time living in the night, 僕たちは夜に楽しい時を生きた
Left to blind destruction, 盲目的破滅に身を任せ
Waiting for our sight. 見えるようになるのを待っている
1行目「Listen to the silence, let it ring on.」の 「it」を、邦訳本『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』 は「ラジオ」ととり、「沈黙に耳を傾けて ラジオを鳴らそう」としていますが、この「it」は、直前の「the silence」ととりました。映画『コントロール』の訳もそうとっています。この詩には、世間からどこか疎外された、または疎外感を感じている「僕たち」が描かれていますが、「the silence」はそんな僕たちを象徴する言葉ではないかと思います。沈黙している存在、声なき声、その存在を響かせようというのが、この詩のテーマではないでしょうか。
2行目「Eyes, dark grey lenses frightened of the sun.」の「Eyes, dark grey lenses 」を『コントロール』では「見えない瞳が」と訳しています。これは、後述するように、4行目の「blind」と重ね合わせたものと思いますが、「dark grey lenses」というフレーズが好きなので、そのまま訳してみました。
3行目「We would have a fine time living in the night,」、太陽を恐れて、夜に生きている――「僕たち」がどんな存在かをイメージさせます。「夜」は、単に夜というのではなく、ラジオに合わせて踊る夜、“沈黙を響かせる”ダンスを踊る夜のことでしょう。
4行目「Left to blind destruction, 」ですが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』は「無茶な破滅に身を任せ」、『コントロール』は「破滅に身を任せ」と訳しています。後者は2行目の「dark grey lenses」に「blind」の意味を重ね合わせて「見えない瞳」と意訳し、ここでは敢えて「blind」を訳していません。確かに、「blind」を訳そうとすると、その意味に悩まされます。訳は『サブスタンス』『ザ・ベスト・オブ・ジョイ・ディヴィジョン』などの歌詞カードが「盲目的破滅」と訳しているのに合わせてみましたが、「盲目的破滅」とは、どういうことを言っているのでしょうか。恐らく「blind」は、単に“見えない”ということではなく、「盲目的」=理性や分別が無いことを表していると思われます。日常の生活では理性を優先させているけれども、夜になるとそれが見えなくなる、ということでしょうか。理性を無くしたその行為は、破滅的ではあるのですが、その時だけ「僕たち」は楽しい時間を過ごし、その存在を響かせることができるのです。5行目の「Waiting for our sight.」の「our sight」とは、昼から夜になって別のものが見えるようになる、「覚醒」する、ということではないでしょうか。理性を捨て去ったダンス、そんな夜の世界へのいざないを、この詩は表していると思います。
第3連
And we would go on as though nothing was wrong. 僕たちは何も間違ってなかったかのように振る舞った
And hide from these days we remained all alone. 孤独だった日々を隠し
Staying in the same place, just staying out the time. 同じ場所にいる、まさに時を超えて
Touching from a distance, 遠くから触れ合う
Further all the time. より深く いつでも
1、2行目には「僕たち」がそれまで“昼”の世界でどんなふうだったかが示されています。何かが間違っていると感じながら、それに気付かないフリをして過ごしてきた、ということでしょうか。そんな日々が「孤独」だったのは、心の底から誰かと触れ合うことが出来なかったからなのです。
3~5行目は、そんな「僕たち」が触れ合うことの喜び、「fine time」の絶頂を表しています。パンクに出会った若者たちはこんな感じだったのでしょう。そして、「Staying in the same place,」の後が「just staying out the time.」“時を超えて”となっているところに注目したいと思います。「Staying in the same place,」は、物理的な距離だけではなくて、精神的な距離を言っていると思います。だからこそ時を超えられるのです。例えば日本の古典にも「同じ心を持つ人と語り合うことは慰めになるけれども、そういう人とでなければ誰かといても孤独だ。一人、灯火のもとで本を読んで、“見ぬ世の人(この世では会えない昔の人)を友とする”ことはこの上なく慰められる」(『徒然草』第12、13段)などとありますが、これと同じような意味で、同じ思いを持っている人と出会い、触れ合うことは時空を超える、というのです。このフレーズ「Staying in the same place, just staying out the time. Touching from a distance, Further all the time.」は、アートの効用を言い得ているのではないでしょうか。「Touching from a distance」は、デボラの本のタイトルになっていますが、近くにいたのにイアンと遠ざかってしまったデボラは、このタイトルにどんな思いを込めたのでしょうか。回想されている内容については、バンドの関係者から異論があるようですが、彼女がまとめた詩集によって、多くの読者がイアンの言葉に、時を超えて触れ合えるようになったのですから、その機会を作ってくれたことに感謝したいと思います。
第4連の「Dance, dance, dance, dance, dance, to the radio.」の繰り返しは、この詩の中で最も印象深く、曲の盛り上がりと合わせて感情のピークとなっています。「僕たち」はそれぞれ別の場所にいて、ラジオから流れる音楽を聴いています。そして、まるで同じ場所にいるように、時空も超えて、より深く触れ合っているのです。
第5連
Well I could call out when the going gets tough. つらくなったら叫べばいい
The things that we've learnt are no longer enough. 学んできたことは役に立たない
No language, just sound, that's all we need know, to synchronise love to the beat of the show.
1行目は、裏を返せば、「つらくなるまで叫ぶことができない」ということでもあります。普段は物静かで大人しいけれども、突然感情を爆発させる、とくにステージでは別人のようだったイアンの姿が重なります。
2~3行目で、知識や言葉は役に立たない、と明言されます。理性によって押し殺されていた心の声、「silence」の底にある声を爆発させ、解放させてくれるのが、ダンスとサウンドなのです。「No language, just sound, that's all we need know,」は、歌詞を書いていたイアン自身を否定するようにも思えます。音楽の方が言葉(詩)よりも、沈黙の底にある感情と共鳴する、ということですから。もしかしたら、イアン自身が、言葉にならない思い、詩に表現し尽くせない感情を、音楽とダンスによって爆発させていたのではないか、とも思います。
ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で、バーナード・サムナーはこう発言しています。
イアンのかなり特徴的なダンスについては、様々に証言されています。次に、その発言をまとめてみたいと思います。
Radio, live transmission. ラジオ 生放送
Radio, live transmission. ラジオ 生放送
詩の背景が分かります。ラジオの生放送から音楽が流れている夜、それを聴いている「僕たち」が描かれていきます。
第2連
Listen to the silence, let it ring on. 沈黙に耳をすまし 響かせよう
Eyes, dark grey lenses frightened of the sun. 眼が、暗い灰色の瞳が太陽を恐れている
We would have a fine time living in the night, 僕たちは夜に楽しい時を生きた
Left to blind destruction, 盲目的破滅に身を任せ
Waiting for our sight. 見えるようになるのを待っている
1行目「Listen to the silence, let it ring on.」の 「it」を、邦訳本『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』 は「ラジオ」ととり、「沈黙に耳を傾けて ラジオを鳴らそう」としていますが、この「it」は、直前の「the silence」ととりました。映画『コントロール』の訳もそうとっています。この詩には、世間からどこか疎外された、または疎外感を感じている「僕たち」が描かれていますが、「the silence」はそんな僕たちを象徴する言葉ではないかと思います。沈黙している存在、声なき声、その存在を響かせようというのが、この詩のテーマではないでしょうか。
2行目「Eyes, dark grey lenses frightened of the sun.」の「Eyes, dark grey lenses 」を『コントロール』では「見えない瞳が」と訳しています。これは、後述するように、4行目の「blind」と重ね合わせたものと思いますが、「dark grey lenses」というフレーズが好きなので、そのまま訳してみました。
3行目「We would have a fine time living in the night,」、太陽を恐れて、夜に生きている――「僕たち」がどんな存在かをイメージさせます。「夜」は、単に夜というのではなく、ラジオに合わせて踊る夜、“沈黙を響かせる”ダンスを踊る夜のことでしょう。
4行目「Left to blind destruction, 」ですが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』は「無茶な破滅に身を任せ」、『コントロール』は「破滅に身を任せ」と訳しています。後者は2行目の「dark grey lenses」に「blind」の意味を重ね合わせて「見えない瞳」と意訳し、ここでは敢えて「blind」を訳していません。確かに、「blind」を訳そうとすると、その意味に悩まされます。訳は『サブスタンス』『ザ・ベスト・オブ・ジョイ・ディヴィジョン』などの歌詞カードが「盲目的破滅」と訳しているのに合わせてみましたが、「盲目的破滅」とは、どういうことを言っているのでしょうか。恐らく「blind」は、単に“見えない”ということではなく、「盲目的」=理性や分別が無いことを表していると思われます。日常の生活では理性を優先させているけれども、夜になるとそれが見えなくなる、ということでしょうか。理性を無くしたその行為は、破滅的ではあるのですが、その時だけ「僕たち」は楽しい時間を過ごし、その存在を響かせることができるのです。5行目の「Waiting for our sight.」の「our sight」とは、昼から夜になって別のものが見えるようになる、「覚醒」する、ということではないでしょうか。理性を捨て去ったダンス、そんな夜の世界へのいざないを、この詩は表していると思います。
第3連
And we would go on as though nothing was wrong. 僕たちは何も間違ってなかったかのように振る舞った
And hide from these days we remained all alone. 孤独だった日々を隠し
Staying in the same place, just staying out the time. 同じ場所にいる、まさに時を超えて
Touching from a distance, 遠くから触れ合う
Further all the time. より深く いつでも
1、2行目には「僕たち」がそれまで“昼”の世界でどんなふうだったかが示されています。何かが間違っていると感じながら、それに気付かないフリをして過ごしてきた、ということでしょうか。そんな日々が「孤独」だったのは、心の底から誰かと触れ合うことが出来なかったからなのです。
3~5行目は、そんな「僕たち」が触れ合うことの喜び、「fine time」の絶頂を表しています。パンクに出会った若者たちはこんな感じだったのでしょう。そして、「Staying in the same place,」の後が「just staying out the time.」“時を超えて”となっているところに注目したいと思います。「Staying in the same place,」は、物理的な距離だけではなくて、精神的な距離を言っていると思います。だからこそ時を超えられるのです。例えば日本の古典にも「同じ心を持つ人と語り合うことは慰めになるけれども、そういう人とでなければ誰かといても孤独だ。一人、灯火のもとで本を読んで、“見ぬ世の人(この世では会えない昔の人)を友とする”ことはこの上なく慰められる」(『徒然草』第12、13段)などとありますが、これと同じような意味で、同じ思いを持っている人と出会い、触れ合うことは時空を超える、というのです。このフレーズ「Staying in the same place, just staying out the time. Touching from a distance, Further all the time.」は、アートの効用を言い得ているのではないでしょうか。「Touching from a distance」は、デボラの本のタイトルになっていますが、近くにいたのにイアンと遠ざかってしまったデボラは、このタイトルにどんな思いを込めたのでしょうか。回想されている内容については、バンドの関係者から異論があるようですが、彼女がまとめた詩集によって、多くの読者がイアンの言葉に、時を超えて触れ合えるようになったのですから、その機会を作ってくれたことに感謝したいと思います。
第4連の「Dance, dance, dance, dance, dance, to the radio.」の繰り返しは、この詩の中で最も印象深く、曲の盛り上がりと合わせて感情のピークとなっています。「僕たち」はそれぞれ別の場所にいて、ラジオから流れる音楽を聴いています。そして、まるで同じ場所にいるように、時空も超えて、より深く触れ合っているのです。
第5連
Well I could call out when the going gets tough. つらくなったら叫べばいい
The things that we've learnt are no longer enough. 学んできたことは役に立たない
No language, just sound, that's all we need know, to synchronise love to the beat of the show.
言葉はいらない、サウンドだけ、ショーのビートに愛をシンクロさせよう
1行目は、裏を返せば、「つらくなるまで叫ぶことができない」ということでもあります。普段は物静かで大人しいけれども、突然感情を爆発させる、とくにステージでは別人のようだったイアンの姿が重なります。
2~3行目で、知識や言葉は役に立たない、と明言されます。理性によって押し殺されていた心の声、「silence」の底にある声を爆発させ、解放させてくれるのが、ダンスとサウンドなのです。「No language, just sound, that's all we need know,」は、歌詞を書いていたイアン自身を否定するようにも思えます。音楽の方が言葉(詩)よりも、沈黙の底にある感情と共鳴する、ということですから。もしかしたら、イアン自身が、言葉にならない思い、詩に表現し尽くせない感情を、音楽とダンスによって爆発させていたのではないか、とも思います。
ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で、バーナード・サムナーはこう発言しています。
彼はクスリでラリってたと思われてるが違う。ただ、そう見えただけだ。本当は単に音楽でトランス状態になり、踊りまくってた、別世界に入って。
イアンのかなり特徴的なダンスについては、様々に証言されています。次に、その発言をまとめてみたいと思います。